再掲 /



美術教師

女生徒
で、藤鬼
シリーズもの
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 新任の藤崎佑助は口の端に煙草を咥えたまま、ネクタイの結び目を弛めた。慣れない感触が首を締め付けていたが、ようやく解放され、小さく吐息を漏らす。
 "生徒立ち入り禁止"の屋上には、春のゆったりした空気が流れている。薄く膜が張ったように霞がかった空はぼんやりとした青色で、紫煙に包まれているみたいだった。
 眼下に広がる校庭は、前日の雨で湿っていた。しかし幸いなことに、咲いたばかりの桜は殆ど散らず枝先に花を残している。たまに吹く突風に揺れて、花弁がふわりと舞った。
「――ん?」
 その桜吹雪の中に薄らと紛れるような人影を見つけた藤崎は、目を細めた。早々に体育館から脱け出したらしい(彼も人のことを言えないが)その人物は、真新しい制服に身を包んだ女生徒、だった。ポニーテイルにされた金髪が、緩やかな陽光を浴びてゆらりと明滅する。まるで、蜃気楼のようだ。
 校舎に背を向けるように立っていた彼女は暫くして、何かに引き付けられたかのごとく振り向き、藤崎がいる屋上を仰いだ。距離は充分にある。しかし藤崎は何だか視線が絡んだ気がして思わず、ぐ、と息を詰まらせた。煙草の先から立ち上る紫煙が、風に煽られて揺らぐ。
 それは、永遠にも似た一瞬の出来事で――媚びるようにあまい春が薫る、入学式の日の、出来事だった。







 切れた口元を思い切り手の甲で拭うと、真っ赤な血で皮膚が濡れた。ああ赤かった、と奇妙な安堵感に埋もれるように、わたしは薄く目を閉じる。心臓が耳のすぐ近くで鳴っているみたいだ、冷たい鼓動が感触として伝わってくる。
 ひゅん、と得物を一振りして足下を見下ろす。倒れた数人の男は呻きにもならない声を漏らして、薄目でこちらを睨んでいた。ふん。わたしは鼻で嘲り、緩まない口元に無理やり笑みらしきものを浮かべる。鬼姫――男の口がそう動いた気がした。背中に走った悲しみは、知らない振りをする。
 虚しさと痛みを込めた息を吐いて振り向くと、そこには、自転車のサドルに跨がったまま、ぽかんと口を開けて立ち尽くす男がいた。癖のついた黒髪に、黄色がかった猫目、職業にそぐわないパーカ――見覚えのある顔に思わず、あ、と声が漏れる。
「鬼塚……?」
 あまり好きではないその苗字を、呟くように「副担任」が呼ぶ。わたしは再度息を吐き出し、春の霞んだ空を無言で仰いだ。


 ん、と差し出された缶のココアを無視していると、副担任――名前は確か、そう、藤崎や――は諦めたように地面にそれを置いた。彼のもう片方の手の中にあった缶コーヒーのプルタブが、ぷしゅっという音とともに開かれる。
 春とは言え、夕暮れの風は少し冷たい。座り込んだブランコも冷えていて、わたしは仕様がなく足下のココアを拾い上げた。熱すぎない、幸せな温もりが掌に広がる(幸せなんて言葉、わたしには似合わないけれど)。
「……えーと、」
 隣のブランコに腰かけた藤崎は、先程見たものをどのように話として切り出そうか、頭の中の語彙をひたすら手繰り寄せているようだった。ついてこなければ良かったと既に後悔し始めていたけれど、「無視とかそういうの、マジで傷つくからやめて!!」と半泣きの状態で言われてしまえば、断るのもまた面倒くさい。
 藤崎は目を閉じたり開いたり、眉間に皺を寄せたりして暫く考え込んでいたけれど、やがて、掌の中で缶を転がすわたしに向かって意外な言葉を投げかけた。
「……高橋に、友達なんかいらない、っつったんだってな」
「っ、」
 学級委員の顔が頭を過る。柔和な顔立ちで、けれど意志の強そうな眉をした女子だ。放っておいてほしいのに、やたらと話しかけてくる。クールぶったってダメですからね。彼女の声がほんのり耳元を掠めて、心臓の奥の奥の奥の、隠された柔い箇所が痛い。不意にそんな部分を突かれたせいだろうか、目蓋の裏が、熱かった。
 ――いらんよ。声に出さず、言葉を舌の上で転がす。友達なんかいらん、友達は、裏切るんや。
 俯いたわたしの頬に、ふと触れるものがあった。す、と頬に落ちた髪を払いのけたのは藤崎の指で、整った形をした爪先が目の端に映る。キレイな指に見惚れるようにぼんやりしていると、そのキレイな指先で彼が触れたのは、唇の端、だった。慄いて思わず身を仰け反らすと、ち、と彼は言った。「血」と変換するのに数秒かかって、わたしは抜けた間で、触んな、と彼の手を払った。
「……こんなん、何もあらへん!!」
「や、でも……顔、じゃん。おまえだって女だろ」
「そっ、そんな心配もいらんねん!! アタシは、一人で――独りがええねん!! 触んなや!!」
 大きな震動となって、心臓が重く鳴る。先程の鼓動とは異質の音のようで、どこまでも熱かった。
 きぃ、とブランコの結合部が音を立てる。夕焼けに染まった公園は茫洋として見えて、こんな空間にこいつと二人でいることが不思議に思えてきた。血の着いた指先を見つめながら、おまえがさ、と藤崎がふと口を開く。
「おまえが、おまえ自身を一番、裏切ってんだろ。いつまでも、独りが好きな振り、してんじゃねーよ」
「―――!!」
 その言葉に、わたしは勢い良く立ち上がった。手の中からココアの缶が滑り落ち、重力によって地面に叩きつけられた。空いた手でケースからホッケーのスティックを取り出し、藤崎の眉間の辺りに突きつける。先程、男たちに振るった――幾人も傷つけてきた、わたしの得物、だ。
 藤崎はその切っ先を一瞥した後、真っ直ぐわたしの目を見た。真摯な視線は睨まれるよりも痛くて、スティックを握る右手が微かに震える。悟られないように一つ息を吐き出して、今日、と言葉を発した。
「今日見たこと、誰かに言うたら、殺す」
 風が吹く。園内の砂が舞い上がって、視界が霞む。しかし、彼が真っ直ぐな視線の温度を変えることはなかった。

「俺は、裏切らねーよ。」

 彼の口が静かに動く。声のトーンまで真摯で、信念のように抱いてきた他人への疑念が、崩れ落ちそうになった。――厭やな、信用してしまいそうや。
「……ふん、」
 わたしはゆっくりと右手を下ろし、ブランコに背を向けた。歩き出したその後ろから、ぶっふー、と盛大に息を漏らす音が聞こえる。締まらへん教師やな。わたしは僅かに、口元を緩めた。
 信用というには、いかにも欠ける。けれど胸にじわりと広がるこの奇妙な感覚は先程のココアの温もりに似ている気がして、ぎゅうと口を結んだ。もしかして、を、そんなまさか、に切り替えて見上げた空は、紺色に染まりつつあった。視界の隅に、一番星を見つけた。





幸福の蜃気楼








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