同調(消化作業07) /



国語教師

女生徒
で、椿丹
シリーズもの









Love me tender, love me long,
take me to your heart.
For it's there that I belong,
and we'll never part.

珍しいな、と椿は今しがたまで動かしていた手を止めた。エルヴィスだ、と次いで口にすると正面で弁当を食べていた藤崎があん? と顔を上げる。椿は、いやだから、と言いかけたが、この男にエルヴィス・プレスリーの教養を求めるのも酷かと思い、いや別に、と言い直した。
「……おまえ、今、俺のことちょっとバカにしたろ?」
「断じて、していない。憐れんだだけだ」
「おまえな!」
それにしても、昼の校内放送で、love me tenderが流れるとは思わなかった。放送部の八木の趣向だろうか。今は陽気なクリスマスソングの方が似合いの季節だが、それではありきたり過ぎるから、とばっさりと斬る知的な女子生徒の姿をふと思い浮かべた。
しっとりと甘い、けれどどうしようもなく切ない歌声が、冬の薄い光の差す美術準備室を満たしていく。目を閉じれば思い出すのは黒髪と濡れたように黒い瞳、そしてふっくらとした笑顔で。椿先生、と甘やかに呼ぶ声が耳のすぐ裏で聞こえた。
目を開けてふと気付くと、藤崎も箸を止めて歌を聴いていた。椿とよく似た猫目を細め、天井近くに取り付けられたスピーカーを見つめるように、もしくは、目に見えない歌声の奇跡を辿るように、ただ静かに甘く切なく、眉根を寄せて耳を澄ませている。
やさしく愛して、か。
和訳題を知っているわけではなさそうなので、歌詞を聞いて自分で訳したのだろう、藤崎は呟いてまた弁当をつついた。椿もようやく、食べかけの玉子焼きを口の中に放り込んでゆっくりゆっくり、歌詞と一緒に、咀嚼した。



昔は生徒総会に教師が立ち入り禁止っていう時代もあったんだよ、何てったって生徒会だから。教師の不可侵領域なんだよ、あるべき生徒会ってのは。わかる? ――わからないのか? じゃあ勉強として、今年度はおまえが生徒会の顧問だ。
というわけで(どういう理屈で「じゃあ」となるのか、椿は未だに納得していない。そもそもその理論なら、生徒会顧問を撤廃しなければならなくなってしまう)、胡散臭い笑みを湛えて引き継ぎをしてきた理科の中馬に代わり、今年度から椿が生徒会を主に見ている。とはいえ、まだ若い椿はあくまで肩書きとしては副顧問であり、正顧問は中馬のままだ。
カリスマ的会長だった安形惣司郎の代を終え、生徒会は文字通り「過渡期」だ。さぞやてんやわんやしているだろうと放課後、椿が生徒会室を覗いてみると、案に反して新副会長である丹生美森しかいなかった。薄ら暖房のついた室内は廊下との気温が異なり、空気の密度さえも違って感じる。息苦しい気がしてちょっとだけ深めに呼吸をし、吸って吸って吐いて、潰されそうな気管をどうにかおし開く。
彼女は何かノートに真摯な視線を向けていたが、扉の開く音に顔を上げ、そしてそこに椿が立っているのを見つけてゆっくりと微笑を広げた。それを見るとまたぎゅ、と呼吸の通りが狭くなって空気を上手に吸えなくて、緩やかにゆっくりと、椿の脳の酸素が薄くなっていく。
「椿先生」
「あ、ああ、一人か?」
「えぇ、もう生徒総会の準備も出来ましたので」
「さすが、早いな」
「綴じるのはほとんど、キリ君が」
「……それはさぞや迅かっただろうな」
視線をずらせば、庶務の席に生徒総会議案書が積み重なっている。ああやはり便利だなと、少々癖のある一年生、加藤希里のことを思った。
「キリ君が椿先生を慕ってくれて、良かったですわね」
「う、うーん、」
顔を渋くする椿を、ふふっと丹生が軽く笑う。ふんわりと柔らかく耳に落ちてきて、何だか鼓膜の辺りがこそばゆい。顔が熱くなった気がしたけれどそれは多分、この室内の暖房のせいだと深く深く、失いそうな自分に言い聞かせた。
「――……丹生は今、何をしていたんだ?」
「英語の予習をしていました」
「ほぉ、」
机の上を覗き込んでみると、なるほど、彼女が先刻見ていたノートは英語のものだった。端正な字で英文と和訳が書き込まれているのをざっと見て椿は手を伸ばし、とん、と一文を指差した。
「ここ、適当な和訳じゃないな」
「えっ、えぇ。そこはよく文法がわからなくて……、」
「関係詞じゃなくて間接疑問文なんだ、だから、」
言いかけてから彼女の方を向くと、予想以上に近くに黒い黒い大きな瞳があって、あ、と思わず息を呑む。たとえばこのまま腕を引いて抱き締めて髪に指を絡めて額に唇を寄せて――そういったこともできる距離だと意識して、しかしそんなことを考えている自分に絶望もして、混乱した意識でまた呼吸がままならなくなった。
つばきせんせい。彼女の唇がそう動く。多分声は出ていなかった、と思う。逸らされることのない視線をこちらから外すこともできずに黒い瞳を受け止めて、すると不意にふと、喉元まで何かが迫り上がってきた。それを発しそうになって口を開いてその瞬間、丹生の方が先に声を発していた。
「椿先生、すきです」
零れ落ちるような、しかし、一音一音丁寧に発された言葉だった。すきです。椿は朱色の差した豊頬を見ながらその言葉の意味ををしばらく考えて、ようやく迫り上がっていた言葉を飲み込んだ。柔らかいと思っていたその一言は想像よりもずっと固くて重く、上手く腑の中に落ちていかない。
丹生、と代わりに彼女の名前を呼んで、椿は少し距離を取った。目を閉じて思い浮かべる彼女はふっくらと微笑って椿先生、といつものように自分を呼ぶけれど、そしてこれがどんな感情なのか自分でももうわかってはいたけれど、密度の違う空気に浸された空間でおぼつかなくなる意識をどうにか保ちながら、椿は言葉を選んだ。
「それでも君は、ずっと、僕の生徒だ」
丹生が一瞬、ほんの一瞬だけ泣きそうに表情を歪めたが、すぐにまた微笑って知っています、と僅かに震える声で言った。
「予習は、家でやろうと思います。教えていただき、ありがとうございました」
「……ああ、」
丹生が帰る支度をする間、椿は部屋の隅から窓の外を見ていた。冬の空はすぐに色を変え、今にも夜が訪れそうだ。枯れた木の枝を目の端で捉え、陽気なクリスマスソングが似合う季節なんかじゃなかったと、知る。
さようなら。
そう告げた丹生が丁寧に頭を下げて、生徒会室から出ていった。開けた扉の隙間から、密度の違う空気が流れ込んできて、室内の空気を薄めていく。さようなら。気を付けて。丹生が退室してからしばしあってようやくそう口にした椿は、目を閉じて窓に額を預けた。外気を吸ってひんやりと冷たい硝子が、彼の体温を奪っていく。椿先生。すぐそこで呼ばれた気がして、けれど目を開ければ閉じていた時よりもその存在は遠くて。
喉元に引っ掛かったままの言葉は今もまだつかえて、上手く飲み込めない。代わりに吐き出した言葉がどうか僕の本心でありますようにと、無理だと知りつつ、椿は願った。




目蓋の裏の恋
(僕を君の心に連れていって、二人が決して離れないように――とは君と同じように願いたいけれど。)














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