「鳳くん」呼ばれた声に顔を上げると、そこには能嶋さんが立っていた。

「練習、一緒にしない?」
「あ、はい」
「隣、失礼するね」

 胸元まである漆黒の髪を後ろで一つにまとめ、隣の席に着いた。佐倉さんがいつ来てもいいように用意した椅子。そこに腰かけた能嶋さんは「準備はいい?」と聞いてきた。「はい」と返し、自分の弾く位置に手を置き、ふっと息を吸って鍵盤に指を走らせた。出だしは順調。息もピッタリ合っている。けれど、【弾いている】に過ぎなかった。譜面を指で辿っているだけ。少しも楽しいという感情が沸き上がって来ない。

 隣で演奏している能嶋さんは完全に自分の音に酔いしれている。呼吸のタイミングは合っているから、奏でている音にズレはない。けれど、これじゃ連弾ではなくワンマンライブ状態だ。歌い手の人がいる曲なら成り立つけど、クラシックの場合、高音も主役であり、同時に低音も主役。分かりやすく言うなら、男女の恋愛ドラマ。二人の主人公がいて初めて恋愛ドラマとして成り立つ。

 段々とリズムがズレ始めた。後半に差し掛かり、曲の出だしへと演奏が戻った時には完全にお互いの音はズレていた。

「もっと練習しないとダメだね……。ごめんね、途中から走っちゃった」
「いいえ……」

 ハッキリ言ったほうがいいか躊躇(とまど)っていると、「ねぇ、連弾の意味知ってる?」怒った口調で佐倉さんが室内に入ってきた。そのまま、真っ直ぐ能嶋さんのもとへ彼女は向かった。


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