PoL

今夜、305号室


 宝食堂の入り口の脇でスマホで連絡事項のチェックをしていたが、気づけば待ち合わせの時間が少し過ぎていた。
「まあ仕事終わりはこんなもんだろ」と特に気にしてはいない。さっきまで一緒にいたアオキさんはそのまま直帰、ハッサクさんは列柱洞に寄って帰ると言ってオンバーンに乗って行くのを見送ったばかりだった。

 ポケモンセンターに常駐している職員やら各ジムスタッフやらリーグ内職員やらの連絡事項も一通り見終えてポケットにスマホを突っ込んだ。今日アオキさんを打ち負かしたアオイという子がなかなかのペースでジムを踏破していっているものの、それを除けば特にこれといった緊急性は今のところない。

 連絡の返信も終わったし、手持ち無沙汰になってしまった。
 ドオーはさっきご飯をたらふく食べたから今は一足先に夢の中にいる。一人で待ち惚けてるといろんなものが目に付いた。軒先に留まる青いイキリンコと目が合ったのもきっとそのせいだ。隣にオスカかメスかもわからないのを連れて、名は体を表す通り舐め腐った目線を寄越している。
「何見てんねん」と口走りそうになった瞬間、それを遮るかのように店の扉から勢いよく人が飛び出した。

 一目散に飛び去ったイキリンコに舌先を見せつつ、こちらを振り返った姿を見る。明かりで浮かぶシルエットが恐る恐るといった足取りで近づいた。

「お待たせー、遅くなってごめんねチリちゃん」

 ヨシノだった。いつもより顔が近く感じると思ったらヒールを履いていた。
 普段見るヨシノは宝食堂の料理長の女将と同じ格好をして髪を結ってるから、髪を下ろしてスカートを履いた私服は全く違う印象を受けて「へぇ!」と感嘆が出る。

「雰囲気全然違うから誰かと思ったわ、可愛いやん」
「本当? ありがとう」
「遅れたんは張り切ってくれたからやろなぁ」
「美人さんが誘ってくれたのに適当な格好できないでしょ?」
「そらそうや。おおきにな」

 いつもディスプレイの中の文字と顔写真と睨めっこをすることが多いせいで、四天王の面子やリーグ内の同僚と喋る時とは違う充実感に満たされた。仕事と無縁の会話で返ってくる反応が些細なものでもいちいち新鮮で、もうすでに楽しい。
 さっきのジムチャレンジの最中にチリちゃんに向かってあんな顔をしてたくせに、今は忘れたふりして友達のように普通に楽しんでるのがまたおかしくて可愛いと思ってしまった。

 違うとわかっているけどキャバとかガールズバーに通うおっさんの気持ちが少しだけわかった。気になる女の子に近づいた時の高揚感で仕事の疲れなんて容易に吹っ飛ばされて忘れる。これは甘えたくなる。
 知らないうちに自分の思考がおっさんに寄り始めている事実に少しショックを受けたけど、思い返してみればここしばらくはこうして同年代の誰かと遊ぶのすら久しぶりだった。

 ヨシノを誘った時にハッサクさんからちょっとした小言を言われたが、いつもの説教のように長ったらしく言われなかったのはきっとそれをわかっていたのだろう。



 チャンプルタウンには何度か仕事で来たことがあったから、ヨシノの案内がなくともお互い勝手を知ってる。自然と足はニャースのネオンが目印のアーチ看板を目指していた。
 流石に人が集中する街なだけあって人通りも多く、グルメ街の昼と打って変わって騒がしい夜の酒場となっている。すでに出来上がって地べたを抱いてマンホールにドアノックをする人の姿も散見できた。

「ヨシノなんか食べた?」
「食べてないよ。チリちゃんはさっきビール飲んでたからあまりお腹空いてないんじゃない?」
「軽くは食べるで。酒強い?」
「ううん。あんまり」
「ほぉ〜、まあ確かに強そうではないな」
「チリちゃんはまあまあ飲むよね」
「酔っても別に悪酔いはせんからな。さすが詳しいやん」
「だって前に大ジョッキとロックグラス2つずつ並べて「行けイッカネズミ」ってテーブルの上でアオキさんに謎のバトル仕掛けてたのは覚えてるからね」
「よ〜し、今日はチリちゃんの奢りで手を打ったるから一旦この話やめよか!」

 酒に強くない。となると酒じゃなくて食べ物メインの店でよさそうと目星をつけると、ちょうど目の前にそれっぽい2つの店が並んでいる。ここは一番腹ペコであろうヨシノに決めてもらうことにした。

「ほなら鮮度一番かキバル入る?」
「えっと、どっちもはだめ……?」
「お?」
「アヒージョとかピンチョスとか、あといつも劇場の裏の広場から串焼きのいい匂いがしてたから、そっちも行きたい」
「はしご? ええよ。もしやこの辺の店のラインナップを完全把握しとる?」
「昼間なら一人でも入れるけど夜は入りづらいから夜の繁華街ちょっと憧れてたの」
「そんな一人とか誰も気にせえへ……」

 誰も気にしないだろと言いかけた時、どこからともなく元カノらしき名前を絶叫する男の声が鳴った。颯爽と立ち去るカップルだった片割れらしき女の後ろ姿がどこかヨシノに似ている。そのせいか男がヨシノを目にした瞬間言葉になってない声を上げて嵐のように去って行った。
 リーグの仕事は課外授業の時期になると曜日感覚が狂いがちだが、さっきのマンホールの男といい、世間は週末でどこかタガが外れがちなように見える。知らないうちにチャンプルタウンの繁華街がこんな物語性のある場所になってたなんて知らなかった。アオキさんが宝食堂を止まり木や安息の地のように通う理由の一端が見えた気がする。

「……この辺一人歩きは危ないからな。自分ポケモンも連れてへんし、今日は後悔ないほど食べとき」
「え? 本当に奢りなの?」
「そんなケチくさい嘘つかへんわ! キバル混んでるから鮮度一番から行くで!」
「やったー!」


 30分後。


「こんな酒弱いとか聞いてへん!」
「ごめんなひゃい……」

 首にはアルコールでへろへろになったヨシノの腕が絡まっていた。

「ほんまやで! 何がピンチョスにアヒージョに串焼きやねん、部屋ここでええんか?」

 繁華街から程近い場所にヨシノが住むアパートがあったためそのまま支えながら歩き、1階の店舗横の階段から上がって一旦息を吐く。促されるままにヨシノがとろんとした顔を上げて部屋番号を読み上げた。

「うぅ……さん、33まる055、5号室?」
「世界が残像に溢れとるやないか、頑張れヨシノ! 305やサンマルゴ。ここやんな?」
「そうかも……」
「せやんな、鍵刺して勝手に入るで」

 あらかじめヨシノから聞いていた鞄のポケットから鍵を取り出して扉を開けると、プライベートのヨシノの匂いがして一瞬だけ指先が硬直した。靴を脱がせて部屋に上がるときちんと整頓がされている部屋で、自分と違って自炊をしてるであろう定位置が固定された器具や調味料が並ぶ台所を尻目に短い廊下を通る。
 床に敷かれた白いカーペットの上にゆっくり下ろしてベッドに背を預けるように座らせた。

 返事を期待せずに「ケトル使うで」とだけ言い、お湯を沸かして白湯を飲ませる自分の甲斐甲斐しさに自惚れそうになった。隣でヨシノがちびちび飲んでる傍らで座ったまま部屋をゆっくり眺めることにした。

 白っぽい家具で揃えた普通の部屋だ。服を投げっぱなしにされてない几帳面さに素直にすげえと心の中で感嘆してしまう。表に出ているものが少なくて隙があまりない。だけど棚の上に桜の模様が描かれた随分立派な扇子が飾られて、それだけやけに浮いている。
 旅行のお土産を大事に飾るタイプなのかとも思ったけど、写真やぬいぐるみなどもなく、ディフューザーと小さい植物の入ったポットがポツンと置かれているだけだ。
 居心地はいいけど、体裁が整いすぎていてどんな人かわからない感じが部屋と本人に通ずるものがある。

 ただその理屈で言うと、テーブルシティにある自分の部屋は机の半分とドオー達の餌をやる場所はしっかり片付けてあっても、それ以外は洗濯された服が畳まれずでソファーに掛かってインテリアの一部と化している。
 飲食店が充実してるから冷蔵庫には飲み過ぎ注意な飲み物ばかりが綺麗に敷き詰められてて、日当たりと部屋の広さを無駄遣いしたほぼ寝て洗濯して着替えるための場所となっていた。ハッサクさんから「ふざけた女性」と言われても反論してたけど、ぐうの音も出なくなってしまう。これはまずい。
 ただ上司であるトップのオモダカから「意外と人は見ているものですよ」と言われた革製品の手入れだけは日課のように行ってはいるから、プラスの加点対象になると願いたい。

 ヨシノの部屋の体裁が整っていることは事実として、自分の部屋があの有り様なのは仕事の皺寄せが自分の生活に寄っていることに気づいてなかっただけだったと置き換えることにした。──でも見習おう。まずは服を仕舞おう。そう決意した瞬間、尻ポケットに入れたスマホが不穏に震えた。決意した瞬間に業務連絡を寄越すの本当にやめてほしいと思う。固めた決意を頓挫させないでくれ。絶対に召集なんて行かないと思いながら画面を薄目で覗くと、ただのリマインダーの通知だった。よかったと息を吐くと不意に声が掛かった。

「──ごめんねチリちゃん」

 溜息に聞こえたらしい。ヨシノの手にあるカップの白湯はほぼ飲み切っていた。時計を見るとしばらくの時間が経っていて、酔って虚ろだった赤い目は少しだけ酔いが覚めて意識がちゃんと見える。

「ええよこんくらい。いきなり誘ったから緊張したんやろ。コンビニで二日酔いのやつ買おって来ようか?」
「ううん。大丈夫……」
「ゆっくり休みたいやろし、チリちゃんここらで帰る……」

 腕の裾を掴まれた。割としっかり握ったまま、ふるふると首を振った。当然のように居座ってしまったなと思っていたがいてほしいならならいいか、と一緒にベッドに寄っ掛かるとヨシノの体が少し揺れて肩がついた。触れたままで、内緒話をするように話しかけた。

「なぁ、あの扇子なに?」

 聞くと、ぼんやりと遠くを眺めるような目が数度瞬いて少し潤みが生じた。

「……私が地元を離れる時に大好きな子から貰ったの」
「大事なやつやん」
「うん。綺麗でしょ」
「近くで見てもええ?」
「手に持ってみてもいいよ」
「え? ほんまに?」
「うん。扇子持ったチリちゃん見たいから」

 そういうもんなんか、と思ったけど首を傾げて少し挑発的に言うもんだからそうと言われたらお言葉に甘えた。なんか扇状に広がった骨の隙間がやけに広くてサイズが大きくて普通の知ってるものではない。なんだこれと思いつつ「どう?」と見せつけるように広げた扇子を構えた。

「似合うてる?」
「扇子がキメ顔の存在感に負けてるかも」
「なんでやねん。ヨシノ持ってみてよ」
「貸して?」
「自信ありげやな」

 扇子を差し出すと慣れた手つきで受け取る。自分の魅せ方をわかってるように扇子越しに目が合ってふんわり瞬いた。

「おぉう……」
「どうしたの?」

 すごく様になって似合っていた。似合っていたけど、今着てるのが洋服なのが少しもったいない気がした。ベッドの脇に置かれたブランケットを手に取って広げて、なんとなしにヨシノの肩に被せて前で合わせてみる。
 目を見開いてされるがままになってるヨシノの手を取って、扇子を持った手を互いの顔の間に上げた。

「正直部屋には合わんけど、手で持ってる方が綺麗でよう似合うてるわ」

 思ったことをそのまま言ったはずが、何かがヨシノの琴線に触れた。泣きそうなのと恥ずかしさがない混ぜになって、でも嬉しさだけは明確にわかるようなたちぐはぐな顔をしていた。
 いつもは褒められたらすぐに「ありがとう」と言うのに、お礼を言いたくても口がうまく働かないヨシノらしからぬ表情に悦を覚えて口角が上がる。もっと困らせたくなった。

「その顔可愛いなぁ」
「なにが……?」
「なにが、じゃないやろ。ジムチャレンジでもあない熱烈に人の横っ面チラチラ見て同じ顔しとったくせに」

「友達に向ける目ぇちゃうなぁって思っててんけど」

「自分、チリちゃんのこと好きやんな?」


 ゆっくりひとつずつ告げると、目の前で膝を抱えてすっかり下を向いてしまったヨシノを見下ろした。顔は隠れていても晒されたうなじが赤い。それだけで「ああ本当に好きなんだ」と心の中でひとりごちた。

「自分に気ぃ向けられてるのがわからへんほどチリちゃん鈍くないで」
「ごめん……」

 ひしひしと伝えわる後ろめたさにそんなこと思わなくていいのにと思う。あんまこういう経験ないのかなとか、寧ろ自分が逆の立場やったらしめしめとか思っちゃうけどなと考えた。
 しかし謝られると自分から言っておきながらも次にかける言葉はなかなか見つからない。動悸がこっちまで聞こえてきそうな子を相手になんて言えばいい。自分も緊張しているのか、こういう時に限って言葉巧みにはなれない。

 ヨシノのことは好きだけど、ヨシノが求める好きというにはあまりにもヨシノを知らない。
 我儘を言うと上っ面の好意じゃなくて芯を知りたい。あと一押しが欲しかった。だからヨシノを今日誘ったまであるのだ。普段ポケットに収まっている手がどうしたもんかとぎこちなく宙を彷徨った。

 自分を好いているのをわかっていながらモヤついたまま弄ぶのはなんか違う。その行動一つで関係性に棒を振って、今後ヨシノと合わせる顔をなくすのは嫌だった。
 でもヨシノが自分を好いていることだけ知っている。

 ふと、もし自分以外にヨシノを目で追ってる下心ある男によってヨシノが誰かのお手つきになるのを一瞬だけ想像してみたけど、後ろから背中を脚でド突き回したくなっただけで気分の良いものではない。

 この先ヨシノの隣に立つ男共が無視できないほど、ヨシノに自分の影を色濃く落としてやろうか。
 そう心裡の自分が囁いた。
 誰もが知るヨシノじゃないヨシノを見てみたいと思うと、手がヨシノの顔を掬い上げる。
 いとも簡単にほんの出来心のような好奇心が勝って、知らない部分を見せてくれそうな期待を込めて恋人にしてあげるようにキスを落とした。

 驚いた顔をしているけど拒まれなかったのが嬉しかった。上がった勢いで調子に乗りたくなる。一瞬離した隙に「鼻で息し」とだけ告げて、かすかに開いた唇から舌先を挿れると緊張で硬い舌に触れて、唾液からさっきヨシノが飲んでたうすい酒の味がする。髪ごと耳を両手で掴むように覆ったら声が漏れた。

 もっと追い込みたくて舌先で唾液を掻き回すように舌を弄るとだんだんやわくなっていく。苦しそうにヨシノの喉が上下したのが首元に下りた手に伝わった。
 力のない指先で背中を引っ掻かれてる。されるがままなところが慣れてない感じがしてようやく離してやると荒い息が熱かった。どっちのものかわからない唾液で唇が濡れそぼってたからキスするついでに舐め取った。

 また下を向いてしまう前にコツンと額同士を合わせる。
 困惑で乱された瞳が涙の中を泳いでいるのをじっと見つめると、額から熱が伝わるほど白い肌は如実に赤らんでいた。

 この湿った沈黙が怖くてどうしようもないけど正直ちょっと興奮してますみたいな顔をすることとか、息継ぎ下手すぎるキスとか、唾液がうっすい酒の味がしたこととか、独り占めにしてやりたいとか浅ましくも思ってしまった。

「なんで何も言わないの……?」

 笑ってしまいそうになるほどヨシノの声が震えてる。

「怖いから、何か言って……」

 そもそもの話、自分のことを好きなのか知ってどうしたかった?
 誰かのお手つきになるのが胸糞?
 ヨシノに自分の影を落としたいとか。
 自分で自分を俯瞰した。

 ──いや、それもう好きやん。

 酒の入った頭で散々あーだこーだ考えあぐねた結果、至極シンプルな結論がすとんと腑に落ちた。
 自分はそんな事しないと思っていたけれど、口より先に手が出ることってあるんだなあと他人事のように思う。

 元来、出だしが軽い性格だ。忙しさを言い訳に骨の髄まで面接官の悪い職業病が染み込んでしまったらしい。知らない部分なんてこれから知ればいい。
 ただせめて、これだけは口に出そう。


「好きやねん。抱かせて」


 しばらくの長い長い沈黙の末に無言でコクリと頷いた。
 もう酔いは覚めたであろうヨシノなりのささやかな意思表示を受け取って、「こっからはやっぱなしとか聞かへんよ」なんて言いながら唇を重ねなおした。

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