PoL

試着室のイーハトーヴォ


 ──アオイさんが六個目のジムバッジを手にしましたですよ。

 今日はベイクジムに視察に行ったというハッサクさんからの知らせに返信はせず、ただ「やっぱりな」と既読だけつけてベッドに背を預けた。

 ロトムが「返事しないの?」と言いたげに頭上をうろうろするもんだから、手に取って布団の中に差し入れると大人しくスリープモードになる。どうせ課外授業期間はほぼ毎日顔合わせるんだから、今前のめりに返事なんかしなくてもいい。

 それはそうとと部屋の時計を見る。「遅いな」と、ふと声に出た。

 いつもならヨシノの方が早く家にいて、自分の方が帰りが遅いはずが今日は見事に逆転していた。カーテンを捲れば当たり前に外は暗く、見下ろす路には誰もいない。暗い窓には眉を寄せて明らかに心配している自分の顔が映っていた。
 自分のことを過保護だと思ったことは一度もないけれど、ドオー達がいるのが当たり前になっているからポケモンを一匹も連れずに丸腰で夜を出歩くヨシノを考えると妙に胸がソワつく。本人は慣れてるから大丈夫と言っているが若干の危なっかしさを覚えていた。

 迎えに行くかと腰を上げると玄関から「ただいまー」とこっちの心配を知らない少し間延びしたヨシノの声がした。一息ついて「おかえり」と玄関に向かい両手を塞いでいたリンゴを入れた紙袋と小さいビニール袋を受け取ると、もの珍しげに見上げてきた。

「どしたん」
「チリちゃんにおかえりって言われるの珍しいね」
「今日は視察せんかったからはよ終わってん。リンゴ買うたん?」
「もらったの。後で一緒に食べよ? 寄り道したら遅くなっちゃった」

 ヨシノが小さなカレンダーを買ってきた。
 今月のページを抜き出してスマホロトムと交互に見比べながら、せっせとピンクの蛍光ペンで休みの日に丸を付けている。隣に座ってリンゴを咀嚼しながら眺めていた。

「マメやなぁ」
「シフトだから休みを書いといた方がいいかなと思って」

 ──そういや前にどっか遊びに出掛けたいとか言っとったな。

 この長い課外授業の繁忙期に、疲労が与えてくる息抜きという味覚の渇望。自分は視察と面接と実技試験、ヨシノは食堂の通常業務に付随して間接的にジムバトルのスタッフになっている。どこかで息抜きしたくなるのは全くもって同感でしかない。

「ほんならチリちゃんも書くわ」と、どこかで休みが被ればなあという淡い期待を持って黄緑の蛍光ペンで同じように丸をつけていく。

「リーグって基本土日休みじゃないの?」
「最近忙してそうでもないで。課外授業の期間とか代休やるからって駆り出されんねん。変則的になりがちやから……」
「チリちゃん?」

 自分が丸をつけようとした日に、丸がついている。
 直近に休みが重なってる日を発見して自分のスマホとカレンダーを見比べる真剣度合いが変わった。

「チリちゃーん、一人で固まらないで〜、バチバチにメイクしちゃうよ〜? 顔で遊んじゃうよ〜?」

 しかも二連休。
 代休を適当に入れた日がたまたまヨシノの休みにヒットしていた。文武両道品行方正公正公平な日頃の勤労の行いの結果が出た。天が自分に味方してる。

「チリちゃんもしかして普段眼鏡かけてる?」
「ビバ代休!」

 突然の腹の底から出た声量に濡れたコットンを片手に持ったヨシノの肩が跳ねた。体の向きを変えてずいっと迫ると、丸が増えたカレンダーを見て察したらしい。
「休みが被ったの?」と驚いた顔のまま、そっとテーブルの上に手に持っていたコットンと化粧水を置いた。自分の顔がしっとりと湿っている。

「ヨシノこの二日間予定入っとる?」
「ううんないよ」
「ハッコウシティ行きたがってたやろ? 行こ」
「いいの?」
「エスコートなら任しとき。ついでにテーブルシティにも寄ってみいひん? タクシー代とかは気にせんでええから」
「テーブルシティ? いいけど行きたいところあるの? 催し物とか?」

「今の時期って何があったっけ」とスマホを取り出そうと伸ばした手を押さえる。

「テーブルシティに何があるか忘れてへん?」
「アカデミー?」
「ハズレ。チリちゃんの家」
「行く!」
「はい決まり」


 なんてやりとりをしながら、行きたい場所をお互いメッセージをメモがわりに上げていくうちにすぐ当日がやってきた。

 ハッコウシティは行こうと思えばいつでも行けるからそんながっつくほどでもないが、ちゃんとした遠出は久々だったヨシノの積極性がすごかった。
 自分よりはるかにSNSを使いこなしているせいで無限に上がる候補に「搾らんとゆっくり回れへんで!」と釘を刺され、ようやく落ち着きを取り戻したのが今朝のこと。

「大穴の中見えるかな?」
「見えへんやろ」
「そっか……」

 空飛ぶタクシーにひとっ飛びしてもらい、ハッコウシティに足を踏み入れる。街全体のライトアップと大型モニターをよそに、ヨシノがそわそわしながら自分の方を見上げていた。

「いや見過ぎやろ」
「だってタクシーから出た瞬間にいきなり黒いマスクつけてるんだもん。びっくりするよ」

 言われてスマホの暗い画面で自身を見た。黒いマスクは似合ってはいる自負はあるけど、確かにイカつい。

「堪忍な……今日はほんまに水を差されたないねん」
「すんごい有名人みたいなこと言ってる」
「冗談って思うやろ? でも冗談ちゃうねん」
「チリちゃんパッと見話しかけづらいけど口を開くと話しかけやすいもんね」
「それはそうやけど、それもちょっとちゃうわ。たまにおるんよ、バッジも揃わんとなんべんも面接と書いて告白と読んでリーグに特攻しにくるけったいなトレーナーが。顔覚えられてんねん」

 パルデアのチャンピオンリーグへの挑戦は力でゴリ押す腕試しというより、気質や資格的な側面を試す特色がある。
 ネモのように一発でパスできるような鬼才もいるが、四天王の連戦で敗れてまた面接からやり直しになるせいで顔は覚えられやすい。

 それだけならよかったのだが、それを利用してただただ会いに来てるだけじゃないかと疑ってしまうような挑戦者も散見される。奴らは試験に落とされることがこの世の至福だと思ってるに違いなかった。

「それちょっとわかるかも」とヨシノ。

「チリちゃんほどではなかったけど道で写真とか動画撮られることが多かったから」
「舞妓でもあるんかそういうの……いや舞妓だからこそか。でもマスクとか着けられへんし格好も目立つやろ? チリちゃんすぐ顔に出るからそういうのあかんわ。どうやって切り抜けるん」
「別に邪険にしてるわけじゃないよ。エンジュは観光客も多いし舞妓はあの格好だから目立つのは仕方がないもん。そういうお客さんも支えてくれてるしね。ただありがたいとはいえお稽古とかお座敷の時間もあるし、基本帰りも遅いからなるべく早く最高の一枚を撮れるようにって笑ってたかな」
「最高の一枚を撮れるように笑ってた……?」

 宝食堂で働く姿を目で追うと、どこから見られているのかをわかっているかのように不思議と目が合い笑いかけてくれたこと数知れず。思い当たるものがありすぎて直ぐ様脳裏にフラッシュバックした。

「それか! やたら目が合うて笑いかけてくるんは!」
「え?」
「なんてこったチリちゃん視線泥棒のプロの術中に嵌められとったんか」
「チリちゃん私のこと心の中で視線泥棒って呼んでたの?」
「やべ」

「ドモドモ〜お姉さ〜ん! 今ちょっとだけいいかな?」

 どう言い訳しようかと思った途端、街の雰囲気に違わない軽快な声を背中にかけられた。

「おん?」
「いやガラ悪ッ……でもいい感じ?」

 何を一人で納得してんねん。
 しかし振り向きざまに視界に揺れた既視感のある2つのコイルらしきものに、顔面の筋肉が引き攣るのを感じた。

「お姉さん達なんか雰囲気あるから企画にスカウトしてみよって思って声かけたんだけど、ご機嫌ナナメだったりする?」

 言った側からこれかと思ったが、思わぬ珍客だった。

 ナンジャモ。有名人も有名人であり、ハッコウシティの顔。
 愛嬌と数字の執念が服を着たような彼女がスマホ片手にハッコウシティを練り歩き、完全にノーアポで話しかけてきた。仕込みでもなくこういうことが発生するあたり、やっぱり目立つ仕事をしてる人として何かを持っている。

「……ナンジャモやん。誰かと思ったわ。これからジムチャレンジなん?」
「そうそう話早い! もしかして二人ともボクのリスナーだったり?」

 ──待て待て待て。これは気づいていない?
 マスクの効果は絶大だった。このまま何事もなくスルーができればそれでいい。

「せやねん。ただ今から用が……」
「せやねん? なんか声も聞いたことあるなぁ。キミどこかで会ったことある?」

 面接仕様でいくんだったと空を仰ぐと、巨大モニターの切り替わった広告の中で笑うナンジャモに囲まれた。逃げるな、向き合えと街全体から通せんぼをされた気持ちになる。本人に顔を覗き込まれて必要以上に騒がれるのも今日はごめんだ。

「……知らんわけないやろ。自分、人の顔忘れんのは配信者として致命的なんとちゃうん?」

 そう言ってマスクをずり下げると元から大きい目をさらに見開いて、わかりやすく驚いていた。

「チリちゃん氏!? あれ、今日視察あったっけ!? この前来たばっかだよね?」

 声を上げると襟元からスマホが飛び出しスケジュールを呼び出しては時間と日にちを交互に見比べて首を傾げ、慌ただしそうにする姿に「落ち着きや」と待てをした。

「視察やないで。今日オフやからジムに用はあらへんよ」
「だから私服なんだー! いいなぁオフ……ところでボクを超キラキラした目で見てる隣の女の人は? チリちゃん氏のマブ?」

 キラキラした目とは言うが、ドギマギしていると言った方が正しい。いきなり有名人の登場に完全にビビり散らしている。

「デート中」

 デート中という言葉の響きに一瞬だけ電源が抜かれたように静かになったが、ナンジャモが驚くより前に頭のコイルが飛び上がった。

「マジ!? 詳しく!」
「また今度な」

「……そういうのは隠さないんだ?」

 密やかに隣で静観してたヨシノがひそりと囁いた。

「ナンジャモ相手なら最初にサクッと言う方が後で変な誤解されんし」

 ネタに関しては誰よりも怖いものなしでハングリー精神を剥き出しに食らいついてくるから、いっそ最初に答えを出した方が変な解釈に向かない。
 それに、と続いた。

「友達って言葉でカモフラージュすんのも嫌やし。寂しいやん」

 先ほどまでのそわついた雰囲気はない。いつも通りのヨシノに戻ったけれど、肩の力が抜けて度胸のレベルが上がった。そんな顔をしている。

「ダメダメチリちゃん氏、そんな美味しい話をまた今度で終わらせちゃ。普段の親しみやすさと鉄仮面の温度差で挑戦者に風邪を引かせる顔面600族の面接官にバズと燃えとスキャンダラスな響きじゃん! 一緒に写真撮ってもいーい?」
「ん」
「うん?」

 何もない手のひらをナンジャモに突き出す。
 顔と手のひらを交互に眺めると、よくわかってない風に袖を垂らした手をぽすんと乗せてきた。

「自分何してんねん、お手ちゃうわ」
「え? じゃあこの手何!?」
「写真の前金4桁万円。LP払いでもええよ」
「チリちゃん氏コガネが出てるって! 真顔だよ真顔! 冗談言ってる顔じゃなかった! 鏡貸したげようか?」
「いらんわ。自分、人の私生活を世界に切り売りするような真似したら拳ガッて出るで」
「うそうそうそ! チリちゃん氏のそういう絵面はビジュアル的には美味しいけどガチの暴力は反対! お姉さん助けて〜っ」

 わざとらしい芝居がかった助けをヨシノに求めながらも、ヨシノの背中に隠れて盾にするという最適解を得たらしい。強気に歯を見せて、いかにも虎の意を借りた鼠を体現して不敵にニヤリと笑う。
 必然的にナンジャモだけでなくヨシノのことも見下ろすことになったが。「大丈夫」とヨシノの口だけが動いた。

「同じリーグ界隈の者同士、アポ無し凸のコラボくらい協力してくれたってええやないかい!」
「ごりごりのコガネ弁に対して猛虎弁とはええ度胸しとるわ」
「そっち!? もう話逸らさないでよ〜ボクは積極的に登録者数とバズりを狙いたいだけなのに〜!」
「コラボとかせえへんわ。オフやで今日」

 コラボの攻防そっちのけで、ナンジャモの頭のコイルに生きてるのかそうでないのか興味津々なヨシノを手招きをしてナンジャモから解放すると、呆れと言わんばかりにこっちがつきたい溜息を横取りされた。

「だからいいんじゃん。チリちゃん氏のオフの姿ってことで」
「ニッチすぎるやろ。面接官やで? そない必死にならなあかんほど登録者数でも落ちたんか?」
「落ちてないし! ボクは変わり種が欲しいだけ。ジムチャレンジが連続して企画内容のマンネリ化は避けたいじゃん?」

 珍しく意見としてはまともな理由だ。
 それだけならわかってしまった。

「それに普段お堅い箱の床に挑戦者の涙の染みを作らせてる四天王の面接官とのコラボなんて美味しすぎるし? チリちゃん氏の奇特ファンや面接に苦戦してる挑戦者が釣れ……じゃない。まあ、チリちゃん氏の怖いってイメージ払拭のチャンスだよ」

 前言撤回。最悪だこいつ。
 ナンジャモの口から怒涛の勢いで出てくる自身へのイメージがネットの伝言ゲームのようにどんどん極悪の一途を辿っている。

 この場で一番信じて欲しくないヨシノを見ると完全に眉が八の字を描いている。ドン引きだった。

「それって圧迫面せ……」
「こらヨシノそっち側につくな」
「ニシシ、ボクの味方が増えたっぽいよチリちゃん氏〜?」

 油断も隙もない。本人は全く悪びれずに「お姉さん、名前ヨシノっていうんだ」と新しいオモチャを見つけたように笑っている。

「泣くんは大抵面接練習もしてないド緊張したアカデミー生やさかい、泣いたかてちゃんとフォローくらいしとるわ」
「あ、なんだよかった……」
「大体普通に答えられる質問しかせえへんのに何を言えっちゅうねん」
「え〜? でも隣の意味深なヨシノ氏は見たそうにしてるよ?」
「え?」

 こいつなんでも巻き込むやん。
 ヨシノは突然話を振られたものの「うん、見る」と予想外に裏切った。

「見るんかい」
「だって仕事中のチリちゃん見たことないし」

 それを今出してくるのか。

「ほぉん……今の時間をそっちのけにしてもええんや?」
「そういう意味じゃないけど」
「なんか二人の間の空気湿ってない? 気のせい? でも仕事中のチリちゃん氏の写真ならボク持ってるよ」

 スマホロトムの画像フォルダから素早く一枚の写真をピックアップするとヨシノの目の前に差し出した。おそらくリーグ内の廊下で一休みしているところをナンジャモが隠し撮りをしたであろう一枚が画面に収められていた。
 自販機横のベンチに足を組んで座り、横顔ではあるけれどいつもの親しみやすさのある雰囲気と違う。嫌なことでもあったのか。思い当たるものがありすぎていつ、どれのことだったのかも思い出せない。自分で見てもかなり仏頂面である。

「チリちゃん氏の面接モードはワルビアルみたいな眼鏡つけてるんだよ〜これたまたま貰ったやつなんだけどね。ヨシノ氏、写真送ろっか?」
「調子に乗んな」

 ヨシノの目が釘付けになっている横で「痛っ」と潰れた声が上げた。頭を押さえて唇を尖らせたナンジャモを代弁するように、頭のコイルの目がうるうる滲みながら「ひどい」と訴えかけている。

「盗撮やんけ」
「これ撮ったのボクじゃないのに!」
「こんな狡いことするんはお前しかおーへん」
「ボクの信用なさすぎ!? ……でもチリちゃん氏、真面目な話ジムチャレンジ手伝ってくれない? 僕のアーカイブに中途半端なもの残したくないし、お願い!」
「……まあジムチャレンジならしゃーないな」
「いい返事! そうこなくちゃ」
「勝負に勝ったらチリちゃんのこと使ってもええけど、今日チリちゃん手持ちフルで揃えとるから。手加減なしやで」

 言葉を切るごとに「え?」の三段活用が止まらない。どんどんナンジャモの顔色が悪くなっていく。
 
「ほな始めよか」
「うっわダメダメ! ボクとチリちゃん氏は相性最悪すぎるしフルでバトる時間ないよ! ……もしかしてだけど、デート中ってフリじゃなくてガチ?」
「だからそう言うてるやろ」

 全然引かないと思ったら冗談だと思われていた。
 納得はできただろうかというところで、ナンジャモは再びこちらを見た。といっても、先ほどのように自分の方ではなく、ヨシノの方を。品定めと言うと少し違う。真剣と好奇が入り混じった目で見つめる。ジリジリと距離を詰めて、見られることに慣れていたヨシノからしても徐々に照れが出てくるくらいには穴が開くほど見てしばらくして、ようやくナンジャモが口を開いた。

「ヨシノ氏ってなんか謎に雰囲気あるし結構ボクの好みの女のタイプかも」
「は……?」
「うっそー! 気になってカマかけてみたけど普段クールなチリちゃん氏がその反応だとマジっぽいね。あ、でも雰囲気あるってのはホント。チリちゃん氏が気にかけるの、なんかわかるもん。一瞬だけもしかして同業者かなって思っただけ」

 ま、でも違うよね。
 そう言い、スマホを覗いた。時間を確認したのだろう。ようやく諦めがついたようだった。

「あいわかった! エンタメに仲間内を売ったら後が怖いしね。ボクは退散するのが一番! というわけでじゃあねチリちゃん氏とヨシノ氏、お邪魔してごめんね〜!」

 さっきのしつこさとは打って変わり、早々に撤退するつもりのナンジャモは場を締めくくるいつもの口上を声高らかに、くるりとターンを決めて長ったらしい袖を翻す。

「あなたの目玉をエレキネット! 何者なんじゃ? ナンジャモでした〜! ヨシノ氏〜、チリちゃん氏について面白いネタあったら教えてくださいませませ! あ、SNSのフォローもしてくれたら嬉しいな! またね〜!」


   * * *


 人の形をした嵐が去った。

 たった数分が数時間にも思えた。現実にシークバーが恋しくなるなんて思わなかった。別に特別好きでも嫌いでもないけど、話すこと自体がハイカロリーな存在だと話すたびに実感しているような気がする。普段直接話すこと自体が稀なだけに、忘れた頃にやってくる。

 ハッサクとは別のベクトルで「長かった」とぼそりと吐いた一言に、隣で行く末を見守っていたヨシノは隣で「大変だったね」とコロコロ笑っている。

「ナンジャモちゃんかあ、前に少しだけ動画を見たことあるけど他にもSNSやってたんだね。今度見てみよ」
「あかん」
「えー?」
「あかんで」

 人の気も知らないで、と思った。シンプルにムカつく。
 だけど充実感に満ちた顔で言うのだ。「チリちゃんと言い合う時ってああいう感じになるのかな」と。

「この先いくらでも言い合う機会あんねんから。そういうのはその時の楽しみにしとき」

 そうだねと答えるけれど、聞いているのか聞いていないのか。顔は見えなかった。チャンプルタウンとは全然違う目まぐるしいほどの情報量に溢れる街の景色に目に見えてはしゃいでいる。世話が焼けるなあ、と体が足りなくてそのうち散らばりそうなヨシノの指先を捉えて目的地のビルへと向かい、ボードアートに釣られてカフェに入った。あれだけ喋り倒して、喉が渇いていた。

「ドオーのラテあるよ」という引力のある名詞に引っ張られてラテアートを頼んだら、カップの縁から顔を出してる立体的なドオーのラテが出てきた。再現度の高い相棒の気の抜ける御尊顔と目が合う。スプーンで横から突けばどこからともなくゆったりした声が聞こえてきそうにブルブルと体を揺らしている。飲むというよりほぼ食べるに近いけれど、混ぜて溶かすのも一口ずつ崩すのも何か気が引ける。ドオーをスプーンで掬って一思いに一口で食べたら動画に撮られていた。

「これ4桁万円する?」
「大特価チリちゃんの部屋掃除の手伝いで勘弁したる」
「やった!」

 満足げに笑うヨシノと連動しているように、スマホロトムはそのままシームレスにヨシノの注文したものを写真に収めた。こっちはオオタチの顔があり、耳が生えている。

「オオタチのなんそれ」
「ほうじ茶ラテだって。オオタチ懐かしくてこれにしちゃった」
「パルデアにはおらんからなあ」
「あ、いないんだ」
「せやで。オクタンもおらんし」
「オクタン好きなの?」
「ソウルフード」

 端的に言うと「あ〜」と納得したように声を上げた。

「オクタン焼きかあ、もう何年も食べてないや」
「ヨシノってコガネにいたことあるん?」
「あるけど、すごく短かい期間だったよ」
「へぇ、そらまたなんで」

 つい過去に対して前のめりになってしまう。隠されているわけでもないのは知ってるけど、知らないことが嫌だったが「チリちゃんラジオ塔が占拠された事件知ってる?」と思いがけない名前を引っ張り出された。

「話だけ聞いたわ。ロケット団やんな」
「そうそう。初めてコガネシティに一歩踏み入ったらロケット団がその辺普通に闊歩してて怖かった」

 解散したはずの黒服のやつらが地下通路からコガネ百貨店まで蔓延っていたというのは、コガネシティに住む人間なら誰しもが知る事件だ。当時はもうジョウトを出ていたから話で聞いたことしか知らないが、ヨシノが言う話と知人の話が完全に一致しているあたり、本当に治安が凄まじいことになっていたのだろう。その中で初めてのコガネシティになったのはとことん運がない。

「占拠される直前にコガネ百貨店に採ってもらったんだけど、すっごくタイミング悪い時に入っちゃったせいで関係者かもしれないって疑われて。当たり前だけど自浄したかったんだろうね。白紙にされちゃった」
「うっわぁ」
「うわぁだよね。本当にあの時散々だった」
「そんなオオタチのラテ飲みながらする話ちゃうやろ」
「チリちゃんから聞いたんやん」
「せやった」

 椅子の背にもたれてドオーのいなくなったコーヒーを啜ると、目を細めるヨシノと目が合った。

「そこからなるべく遠くに行こうってなってパルデアに来たけど、結果的によかったみたい」
「今が一番落ち着いとるって前に言うてたけど、今は大丈夫なん?」
「なにが?」
「向こうで逃げ出さんとあかんくらい嫌なことでもあったんやろ」

 ヨシノは「そうだね」と一呼吸置いた。

「今はそういうのないやんな」
「別段ないけど……」

 オオタチの耳の形をしたクッキーを片方摘んで端を食んだ。咀嚼しながら、思い当たるものを探すように視線が上を向いて喉が小さく上下した。なかったみたいだ。

「心配しなくてもやだって思ったら言うし、食べ過ぎた後のお腹を見せられるのチリちゃんだけだし。気にしなくていいよ」
「なんやねんそれ」
「何か不安に思って聞いたんじゃないの?」

 一瞬だけ心臓が小さく跳ねた。
 家からから大胆に逃げ出した手前、核心にお手つきするとある日ふっと消えてそうと思っている。その部分がどうしても気になるのは事実だった。

「チリちゃんは、私が逃げ出しそうなことをした?」
「いや……」

「してへん」と言葉少なに言うと頷いた。「私も覚えがないよ」と。「でも」と続いた。

「家を出てからずっと一人だったから感覚が麻痺してたけど、舞妓の時は日付け超えて帰って来てもそれが当たり前で誰かがいても誰もいない感じがあったし。好きな人と一緒に住むのは漠然と憧れはあったから。ちょっと帰りが遅くなったりして心配されるの、実はちょっと嬉しい」
「うーわチリちゃん本気で心配しとったのにタチ悪いわ」
「だってチリちゃんわかりやすいもん。何にでもよく気づくから気になっちゃうよね」
「ヨシノは秘密ばっかりやさかい」
「知らないことがある程度多い方が楽しいよ。お話も人間関係も」
「そら経験則か?」
「そうかも」

 柔らかな笑みで強固な線引きをしてくる。
 自分でも自覚しない無意識の顔を見たヨシノは両手に持ったグラスで顔を隠して笑っている。次第に肩まで震え出して声を押し殺した。

「笑いすぎやろ」
「だって拗ねすぎなんだもん」

 眉間を指差している。

「チリちゃんのこと好きだけど、反則技みたいな落とされ方しちゃったから。これくらい許されてもいいんじゃないって思って」
「送り狼はレギュレーション違反か〜失格免除の救済措置なら従うしかないなぁ」
「素直だね?」
「あんましつこく言うても嫌やろ。そろそろ出よか」
「え?」
「店。行きたい場所あるんやろ?」

 面接を受ける挑戦者から怖がられる理由の一つは自分でも理解している。せっかちすぎるのだ。
 まごつかれたらさっさとしろと足の爪先に苛立ちが出てしまうし、小説なんて一行ずつ読まないといけないところが心底まどろっこしくて読めないような性格をしている。
 そんな感じだから今まで関係を持ったり遊んだ人間ほぼ全員はちょっと迫ればころりと容易く教えてほしいことを教えてくれて多くを知った気でいたけど、大抵なんらかの工程を一気に飛び越えて生まれた関係性に飽きて急につまらなくなって手放すのも早い。「知らないことがある程度多い方が楽しいよ」は、ある種正しい。

 ただその結論に辿り着くまでどれだけの客を相手にしてきたんだろう。自分がジョウトからパルデアに行き着くまでに倒してきたトレーナーの数とほぼ変わらんかったりして。そう思った時。

「お母さんが元々芸妓だったの」

 なんの前振りもなくヨシノが言った。静かに心に浮かび上がった言葉がそのまま口に出たように。聞かれたことに対して伝える言葉を選別するのにえらく時間が掛かったものだが、多分、肝心なところは言わないだろうなと思いながら前を見据えたまま話す言葉にそのまま耳を傾けた。

「私も置屋の家娘だから結構しがらみが多くて。怪我とか何か一つでもしようものなら小さなことでもどんどん禁止にされていったから同い年の子やポケモンとなんて遊んだことなんてほとんどない」
「嘘やん。やば」
「ね。やばいよね」

 本人自覚ありのびっくり仰天家庭だった。服屋で服を見ながらする話じゃないだろう。イシツブテでドッジボールをしていたジョウトのクソガキだった自分からしたら考えられない。早計だけど、だからポケモンに対しての知識もなければボールにすら触ったことがないのかと納得した。

「お母さん厳しかったし、他の舞妓からしてもどうしたって気を使ったと思う。お母さんが私にいろんなダメを科す横で自分達が好き勝手するわけにはいかないから、そういう意味では優しいけど。精神的にギリギリな感じの家。家を出たのはいい理由じゃないけど、今は食堂で働けてるし、自分がどうしたら嬉しくてどうしたいのかを考えられるのが嬉しいからチリちゃんが心配するようなことはないよ」

 ああ、周りを気にして育ったんだ。
 ヨシノ自身を削って自分へ与えられようとする安心感に罪悪感が芽生えた。

「女将さんの気兼ねなさは心地いいし、アオキさんの不器用だけど居心地のいい距離感とか。人に恵まれると思うし──」

 そういうことを言わせたいわけじゃないと強く振り向こうとするのを「チリちゃんは」の一言で静止がかかった。

「ご飯美味しそうに食べてくれるし、家の中に誰かがいる安心感とか、ポケモンと一緒にいるのいいなって別の憧れを増やしてくれたり。こういう一人で着れなさそうなワンピースに手を出せたり、わがまま言わせてくれるでしょ?」
「……どんなふうに?」

 顔は見れない。見えない部分を覗き見ようとするとどんどん引きずり込まれていくのを感じる。手を掴まれて、引っ張られた。

「ねえ、これ着るの手伝って?」

 舞妓だったという、知り合う前の知らない姿の根幹になる過去にすら嫉妬を覚えるようなみっともない感情を知られたくない。
 ただ、高揚する顔を見て、今はこれでいいか、と脱ぎ捨てたブーツをそのままに後ろ手で試着室のカーテンを閉めた。

 ヨシノなりに独占されるのは気分がいいから。

- ナノ -