永遠に刻む場所
「あらあら、そんなに目を腫らして」
拍手喝采が鳴り止まない中、柔らかな声がした。
振り返るとシロナさんは最後まで奮闘したガブリアスをボールに戻し、フィールドに散乱する岩を避けながら私の元へ来ていた。
シロナさんは取り出したハンカチで私の目元を優しく拭うと改めてフィールドを見渡した。新設されたばかりのフィールドはたった一戦交えただけで、あれだけ真っ新だったのに所々すすけて傷んでいる。
「それにしても派手に戦ったわね。フィールドの修復作業も大変よ、これ」
「シロナさん…」
自分でもびっくりするほど疲弊しきっていて、弱々しい声を出してしまった。そんな私を笑うこともせず、ただただいつものように憧れの人は優しく微笑んだ。
(シロナさんに勝ったとしても、私の中で憧れの人っていうことだけは傾かないんだな……)
私の目の前にいる優しい人へ抱く憧憬は尽きることがなかった。
「大勝負だったわハンナ。あの緊張感の中でよく頑張ったわね」
勝負の終わりは必ず握手で締めくくるのが暗黙のルールであり礼儀。
私は着けていたグローブを外して差し出されたシロナさんの手を握る。黒いネイルで施されているから白さが際立つ細い指だけど、握って両者とも笑う。どちらの手の平もじっとり汗ばんでいた。緊張状態にあったのはお互い様だった。でもこうして笑いあえているのがとても嬉しく思えた。
お互いの手を離すとシロナさんは目線をリザードンへと移した。「リザードンも素晴らしい戦いだった」と、隣のリザードンの頬を撫でると、リザードンの顔が少し緩んでることに私は目ざとく気づいてしまった。
「あー!!リザードンがシロナさんにデレてる!なんで!?私が同じことやっても顔色ひとつ変えないのに!」
リザードンは「はいはい」と言いたげに、スっと真顔になる。
「違うそうじゃないの!」と駄々をこねると、ガバっと縦に大きく開いた口で頭を噛まれて落ち着けと私を制した。一瞬シロナさんの顔が凍りついたのがリザードンの歯の隙間から垣間見えたが、噛まれたままめげずに言い返す私の様子に甘噛みだと分かると顔を背けて肩を震わせて笑っていた。
「仲が良いわねあなた達は」
そう落ち着いて言われると、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。今この瞬間、会場のモニターに映っているのだ。
「さあ、リザードンをボールに戻してあげなさい」
シロナさんに促され、私はボールを取り出した。
「はい…リザードンお疲れ様。後でいっぱい話そう。今はゆっくり休んで」
本当はまだまだ一緒に喜びを噛みしめたかった。
名残惜しいがリザードンをボールに戻すと、シロナさんと共に会場の観客へ手を振り、応援の感謝を込めて深く礼をしてフィールドを後にする。焦げ臭いフィールドの端で待機していたリーグスタッフの誘導で出入り口まで行くと、ナナカマド博士が待っていた。私は思わず駆け寄って抱きつくと「本当によくやった」と労るように博士は私の背中を優しく叩いた。
博士の目元は少し赤くなっている。
「ハンナ、素晴らしい戦いだった。シロナくんも見事だ。久々にあんな戦いができて楽しかっただろう」
「ええ、こうして小さい頃から知っていた子の成長を見届けられるとなんとも言えない嬉しさがあります。ナナカマド博士が子供をお好きになる気持ちがわかりました」
「そうだろうとも。…さて、ハンナ。この後表彰式があるのだけど、その前にやらなければいけないことがある」
「やらなきゃいけないこと?」
改まった博士の言葉に首を傾げた。博士のかわりにシロナさんが答えてくれた。
「殿堂入りの間に行き、このシンオウリーグの歴史にあなたと、あなたのポケモン達の名を刻むこと。聞いたことくらいはあるんじゃないかしら」
「うむ、わしもそれに同席するためにここに来たのだ。ハンナはまだ未成年だから、後見人としてな」
「殿堂入り…あ、」
そういえば、リーグから渡された対戦後のスケジュールに、やけに時間がかかる予定が組み込まれていたことを思い出す。
「さあ、殿堂入りの間まで少し時間がかかるわ。さっそく行きましょうか」
* * *
殿堂入りの間までの移動中、私はシロナさんになんて話しかけたらいいかわからなかった。
現行チャンピオンの勝利より、世間は現行チャンピオンの敗北と新しいチャンピオンの誕生の方に大きな反応を残す。今までいろんなチャンピオンリーグの生放送を見てきたが、私は敗北したチャンピオンをちゃんと目にするのは、今まさに初めてだった。勝った直後で今のシロナさんの気持ちを知ろうだなんて傲慢だと思うけれど、やっぱり知りたいという思いがあった。
「ハンナ、喉乾いてない?大丈夫?」
「あ、えっと…」
私の前を堂々と歩くシロナさんがいつもの微笑みで振り向いた。
私に気遣う姿を見て、うまく言葉が出なかった。敗北したチャンピオンの気持ちは、自分にはまだわからないものなのだとこの一瞬で悟ったような気がした。
「かなり乾いてますけど、まだ大丈夫です」
「そう、ならよかった。さっきすごく泣いていたから心配になっちゃって。この先には当然自販機なんてないし、記録は終わるまでちょっと時間かかるから」
しばらく歩いた先には大きなリフトがあった。二人に促されて一番に乗る。シロナさんや博士も乗ると、リフトは上に動き出した。上を見ると薄暗くて、天井なんて全く見えない。まだまだずっと上にあるらしい。これは時間がかかるのも納得して、私はシロナさんを再び見た。髪をかき上げるシロナさんの手元を見て、思い出したように口を開いた。
「シロナさん、あのキーストーンやメガストーンはダイゴさんからもらったものですか?」
シロナさんは質問に一瞬目を見開いた。キーストーンがはめ込まれた指輪をつけている方の手に少し視線を送りながら笑っている。
「そう、ダイゴ君からよ。よく気がついたわね」
「気づいたというより…バトルが始まる直前に電話で“きっと楽しいことになるよ”って言ってたから、これ絶対なんかやったな?って思って」
「彼らしいわ…本当にハンナに対しての扱いに抜かりがないというか」
「他にも“君はもっと紆余曲折するべきだ”とかなんとか言ってました」
「歪んでるわねえ。でもハンナは大事にされてるわよ」
「ええ〜嘘だあ」
「大事にされている」という言葉にはどうも同意しかねる。
思い切り顔を歪ませるハンナにシロナは続けて言った。
「ほんとよ。ダイゴ君からのハンナへの期待値、結構高いんだから」
「それは…まあわかりますけど…」
「ハンナは彼から色んな道筋を与えられてるでしょう?カロスに行ったのだって、そのキーストーンがあったからなんだし」
「え?キーストーン?これはナナカマド博士からもらったんですよ?ねえ博士」
「…うむ」
私の問いに博士は同意しているが、どうも返答の歯切れが悪かった。
私が自分のメガバングルのキーストーンを見ている隙を見て、博士の返答に怪しんだシロナさんは少しずつ博士に近づいていき、耳打ちして訪ねた。
「…博士、あれダイゴ君からって言ってないんですか?」
「“博士からあげたことにしてほしい”と言われていてな」
「また回りくどいことをしたわね。こういうことをするからややこしいことになるのよ」
「“あんまりこっちから気を使わせてハンナが遠慮がちになるとつまらないですから”ということらしい」
「いいんだか悪いんだか…」
「2人ともなにヒソヒソ話してるんですか?」
「あら、大人の都合の話よ」
「え〜やだ〜!不穏!」
「そんなことないわよ、いつかあなたにもわかるから。…それより、もう着くわ」
リフトが上りきると、そこはだだっ広く、何重にも連なるポケモンの像が置かれた厳格な空間があった。その奥にはさらに扉があり、そこから先は一般にもメディアにも一切公開される事がない。
まさに秘匿されたポケモンリーグのパンドラの箱が、この殿堂入りの間だった。
足を踏み入れたものの、あまりにも音がなくて思わず足が止まる。騒がしいより、この無音の方が耳が落ち着かない。
シロナさんも博士も同様に足を止めてあたりを見回した。だけど驚きの色を帯びた私とは違って、故郷とは違う懐かしむような目をしている。
「…ここにきたのはいつぶりだろうな」
「私がチャンピオンになった時ですから、かなり前ですね…リーグのスタジアムは一新されても、ここの荘厳さだけはずっと変わらない」
シロナさんがチャンピオンになったのは、もうずっと前のこと。そこから変わっていないとなると、どれだけこの殿堂入りの間という存在がチャンピオンにとって重要なのかがぼんやりと理解する。
歩くたびに3人分の足音が響いて反響する。本当に今ここにいる3人以外の人もポケモンの気配が全くなく、リーグスタッフすらいない。チャンピオンと、後見人以外の立ち入りを固く禁じられている空間なのだと思い知らされた。
奥にはモンスターボールを6個配置できる装置と、巨大な記録装置があった。リザードン達のモンスターボールを設置しながら、博士は静かにこの装置について語る。
博士が言うには“ポケモンとトレーナーの名前だけでなく、旅の思い出も永遠に刻む場所”とされるらしい。この記録装置に書き込まれると、今度はこの空間に立っている銅像にトレーナーの名前が刻まれるのだと。
通り過ぎた時にチラリと見たが、見たことのない名前から今でも話題に上がる歴代チャンピオンの名前まで、銅像のプレートに連なって刻まれていた。わかってはいたが、シンオウのリーグの歴史はかなり長いものだと知る。
そして一番下にシロナさんの名前も刻まれていたが、その下は空白だった。
そこには、私の名が刻まれる。
「さて、ハンナ。私は現チャンピオンとしてあなたに確認しなくてはならないことがあるの」
殿堂入りの記録が始まった。シロナさんは装置から私へ向き直る。
改まった喋りに、私の背筋が自然と伸びる。
「私に勝利したチャレンジャーにはチャンピオンになる権利が与えられる。それを受け私と代替わりし、新しいシンオウチャンピオンとしてこれから多くのトレーナーの指針となり、四天王から地位を守りながらリーグで強者を待ち受ける存在となるか、殿堂入りチャンピオンという称号だけをもらって元の生活に戻るかの、2択」
シロナさんはゆっくり喋っていた。
私も、疲れた頭で理解するために集中して聞いている。
「ただ例外もあってね、私がこれから先チャンピオンを引退する時には次期チャンピオンを指名しなければならないの。その時私はあなたを指名するつもりよ。私が他のチャレンジャーや四天王達に負けない限りね」
思いもよらない言葉にハンナは動揺した。そんな様子を見て、シロナはさらに落ち着いた声で語りかける。
「よく考えて。遅かれ早かれチャンピオンとなるあなたにとって大事なものがなんなのか、それは本当に今なのか」
博士はやりとりの様子を静観していた。何も語らず、口出す素振りもない。
「…もし今、チャンピオンになったら、カロスにはいられなくなりますか」
「しばらくは無理ね。私は今でこそいろんな地方の遺跡調査に行ったりしてるけれど、最初のうちは忙しくてそんな余裕ないわ」
「私、その…」
「いいのよ。ここには私と博士しかいないもの」
「───私…正直シロナさんを倒した後のことを、あまりよく考えられてなくて。四天王やチャレンジャーが挑んできても、私は喜んで戦います。だけど戦ってる最中にシロナさんが言っていた強いだけじゃこの場に立っていられないって言葉を何度もさっき戦ってる最中に実感した。いっぱい指示ミスしたし、とてつもない緊張感の中で戦った。私は長い間シロナさんを見て研究して、ようやく勝てた。私はシロナさんに憧れてここまできて、チャンピオンになりたいと思っていたけど、その根底にあるのはシロナさんに勝ちたいって気持ちで、編成も技構成も持ち物も、シロナさんを倒す事だけを考えたものです」
言葉にすればするほど、自分の力不足を実感させられて声が上擦る。
シロナさんはあんな緊張感の勝負を何十年と続けているのだから、自分はまだまだ到底及ばない。今のままあのフィールドに立ち続けたら、きっと私は精神的に壊れる。簡単に敗北なんかしようものなら先代となるシロナさんの顔に泥を塗ることになるのだ。そんなのは耐えられない。
勝ってもまだ立ちはだかるシロナさんの壁に、ひしひしと自分の未熟さに打ちのめされていく。
「だからまだシロナさんに代わってチャンピオンにはなれない……ううん、できません。チャンピオンとしてあの場に立つには私は中途半端です。…でも」
黒い鏡面のような大理石の床に、パタパタと水滴が弾いた。
半ば自分に言い聞かせるように喋ったもんだから、もう散々泣いたと思っていたのに、耐えきれず性懲りも無く涙が込み上げてきた。シロナさんが驚きに満ちた顔で歩み寄る。近くで静観していた博士はいつの間にか私の肩を支えていた。
「我が儘でも私はシロナさんからチャンピオンを引き継ぎたい。誰にも負けないほど強くなるから、絶対シロナさんに追いついてみせるから、私以外のチャレンジャーにも四天王にも誰にも負けないで…!」
本心だった。途中からガサガサの声を振り絞って精一杯叫んでいた。
頬を伝う温かい感触を拭い取ろうとするが、適わなかった。視界が黒で覆われ、柔らかいファーが躊躇なく顔に押し当たっていてくすぐったい。だけど涙に濡れてせっかくの柔らかいファーの繊維は束になってしまっている。そして背中に手を回されるとわかった。
シロナさんは私を抱きしめていた。
「もう、すぐに泣くんだから」
「……シロナさん?」
シロナさんの声が僅かに湿り気を含んでいる気がして、顔を上げようとすると抱き締める腕にグッと力が込められる。
「ハンナ、負けるのが怖い?」
「怖いです」
「そうね、私もよ。当たり前よね。だけどその感情は誰にとっても平等なの。強くなることにもチャンピオンである私たちにとって大事なものだから、大切にしてね」
「…はい」
「わかってくれて嬉しい。本当に…初めて会ったときと比べると見違えるほど強くなったわね、ハンナ。それに背が大きくなった」
「今も成長が止まらないです」
「フィールドに映えていいじゃない。きっと素敵なチャンピオンになる」
シロナさんにとって気休めかもしれない言葉はいつの間にか私の涙を止めてくれた。
私からそっと離れるけど、シロナさんの目は私に向いたままだった。私を介してなにかを見ているような気もした。ずっと昔、シロナさんがチャンピオンになると決断した時も、こんな感じだったんだろうか。
今は何も教えてくれないのは、自分自身で決めてほしいからだろう。
「先を行く人はとても大きく見えるものだけど、でもあなたならきっと追いつく。世界をいっぱい見て旅をして、もっと強くなってきなさいハンナ。私もまだまだ負けられないわ」
「───はい!」
そして殿堂入りの記録が終わる。
晴れて殿堂入りを果たしたことを告げる鐘が、シンオウ地方に響き渡った。