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運命を駆け上がる


「シゲル、この一週間付き合ってくれてありがとう」


 カロスからシンオウに戻ってからの一週間、それはそれは充実していた。
 シゲルとシゲルのポケモン達に付き合ってもらいながら勝負処やサバイバルエリアで調整をして、途中にナギサでデンジ達に激励をもらい、とうとうこの日がやってきた。


「行ってくる」


 通路の境界線に立って私とシゲルは向き合っていた。この廊下を曲がれば、もうシゲルなどの選手以外の人はは立ち入り禁止エリアとなる。
 軽く握った拳をシゲルの前に出すと、それに応えてシゲルも拳を少しだけ小突いた。

「ああ。頑張ってハンナ!応援してる」
「とびきりでかい声援よろしく。いいぞ!いいぞ!ハンナ〜!って」
 わざとらしく両手にポンポンを持ったように振り上げながらシゲルの記憶の奥底に眠る応援団を真似る。
「サトシまた余計なことを教えたな…!?それはもう昔に卒業したから…!」
「なぁんだ復活はないか〜」
「安売りはしない主義なんでね。じゃあ僕は応援席に行ってるよ。健闘を祈ってる」
「うん。ありがとう」


 いつもより口数が少ない背中を見送った。ちょっと素っ気なさを感じつつも控え室に向かう。
 きっと見守るシゲルも緊張をしているんだろうなと思った。

 勝負処での調整を始めた時「本当に僕が相手でいいのか」と聞いてきた。私は「シゲルがいい」と即答した。それは紛れもない本心だ。私の希望を聞いたシゲルは、そこからの行動は徹底していた。
 私以上に私のことをよく見ていると実感したのだ。純粋な力押しのバトルでは私の方が勝るが、観察眼と対処という点に置いてはシゲルは圧倒的に優れている。
 その昔セキエイリーグ敗退とシロガネリーグでサトシに敗れたシゲルは大きな挫折を味わってトレーナーを引退した身だ。「同じ思いをさせるわけにはいかない」と責任を感じて当然かもしれない。一週間もシゲルのプライベートと研究の時間を私が占領することにシゲルもナナカマド博士も嫌な顔一つせずに快諾してくれたのだ。シゲルのスパルタっぷりに途中休憩を挟んでナギサに行ったが、シゲルはそれすら想定済みだったらしい。抜け目のなさがつくづく年下とは思えない。トレーナーを引退したことが、私にとっては少しもったいないように思えた。

 だが私のためにそこまで面倒を見てもらったのだ。
 シゲルには勝利を持ち帰って改めてお礼を言わなきゃならない。そこで決めなきゃ女が廃る。


 控え室の扉を開けて深呼吸をする。
 これから戦うのは、シンオウリーグのチャンピオンマスターという重責の立場をを10年近くも守り続けてきたシロナさんだ。
 やっとここまで来た。楽しみでもあるけど、やっぱり緊張する。フラベベ連れてきた方がよかったかな───と思った矢先に、ポケギアの着信音が控え室に響き渡る。

 私にとっては完全に嫌がらせのタイミングでしかない着信相手の名前を見て、更に眉の端を吊り上げる。


「もしもし!?」
『やぁ、ハンナ。これからシロナさんと戦うんだろう?緊張してるかと思って心配してたんだけど案外平気そうじゃないか』
 相変わらず物腰柔らかな声だった。

「普通チャンピオン戦の直前に電話かけて来ますか〜?ダイゴさん」
『いいじゃないか。案外チャンピオン戦の前って暇だろう?」
 緊張と沈黙で満たされた選手の控え室で突然鳴り出したポケギアの着信音で、心臓が口から飛び出るほど驚いたというのに、このホウエンのチャンピオンのマイウェイっぷりは相変わらずだった。
「暇とかそういうのじゃないですよ。気持ちの整理してた!」
『まあまあ、怒らない怒らない。僕がハンナと電話をしたかったんだよ』

 本当か嘘かは今はどうでもいいが、私と電話をしたかったと言われると、無下にできない。なんだか急に脱力して、溜め息混じりで私は言った。

「前々から思ってたんですけど、なんでダイゴさんってそんなに回りくどいんですか?」
『え?何、君そんなことを気にしてたのかい?』
 心外だと言わんばかりに声が高くなるダイゴさんに、昔から今までを振り返って言った。
「だって毎回毎回さらっと適当なこと言って問題だけを残して颯爽と去っていくじゃないですか」

 口を尖らせて言ったことが伝わったのか、電話先でダイゴさんは口元を押さえたように控えめに笑い出す。

『そんなの、簡単にスクスクと真っ直ぐに成長したら面白くないからに決まってるじゃないか』
 やっぱりロクでもない答えだったと項垂れるが、妙にダイゴさんらしいと思った自分に多少なりとも腹が立った。

『君はたくさん紆余曲折していくべきだと思ってる。僕はハンナに期待しているんだよ』
「なーにが『僕はハンナに期待しているんだよ』ですか?面白がってるの間違いでしょう」
『あ、あとチャンピオンとしてっていうのを付け足す』
「うわ〜職権乱用とかサイテ〜!」
『わからないかなあ、この未来の後輩思いを』
「とってもありがたいですが回りくどすぎてほぼ裏目に出てますね」
『ふぅーーー…』
「えぇ、なんですかその溜息…私の方がつきたい」
『いや、実はこれから結構でかい仕事が控えていてね。お互いそろそろ時間だろう?ありがとうハンナ、いい息抜きになったよ』
「そりゃどーも」
『君とシロナさんのバトルを見られないのは残念だけど、シロナさんとの対戦はきっと楽しいものになるからね。期待していいよ』
「期待をしていい…?含みのある言い方が気になるんですけど…」
『ふふ、気のせいだよ。…そうだハンナ、最後にひとついい?』
「ん?なんです?」
『憧れを越える覚悟はできたかい?』


 ダイゴさんの言葉に、ドクリと心臓が大きく跳ねた。

 一瞬、全ての時間が止まった気がした。脳裏には、あの不動のチャンピオンのシルエットが私を見下ろしている。
 ダイゴさんは普段掴み所がないのに、気が抜けかけた時に限ってこういう質問がたまに飛んでくるから、これからチャンピオン戦だという緊張が蘇る。


「───はい」
『うん、いい返事だ。心配はしてなかったけど、僕が個人的に聞いてみたかったんだ』
「まさかの私情ですか」
『そう言わないでくれよ。憧れを越えることを口にする子は多くても、君みたいに実現する子は滅多にいないんだ。ああ、あとチャンピオン戦が終わったら、カロスに帰る前にホウエンまで来てくれるかな?君の用事が終わった後でいいから』
「いいですけど、いろいろ寄る場所があるんで終わってからでいいですか?」
『勿論。ホウエンには何日か滞在するつもりだからね。それとバトルが終わったら、勝っても負けてもハンナのご両親にはすぐ連絡しておくんだよ。それじゃあ、健闘を祈るよ。頑張れハンナ』
「当然。ぶち当たって来ます」

 プツリとポケギアの電話が切れると同時に、控え室の扉がノックされてスタッフが入ってくる。


「ハンナさん、そろそろスタンバイお願いします。チャンピオン戦、頑張ってくださいね!」
「はい!」



  * * *



 スタッフに連れられて、フィールド用のエレベーターの前に来る。
 四天王戦の会場とは一新されていて、何もかもが真新しかった。シロナさんが四天王戦の直後にチャンピオン戦をしなかったのは、この会場一新も理由に含まれていたのかもしれないと思った。


「では上がります。上がればもう戻ることはできません。よろしいですか?」
「はい」


 エレベーターが上がったのは、真横の緑のランプが点灯したのと同時だった。
 シロナさんも同じようにもう後戻りはできませんと宣告されたのだと思うと、なんとなく、何故だか少しホッとした。

 景色は上から下へと流れていく。
 光が刺せば、もうあっという間にフィールドに私が晒される。

 向かい側にはシロナさんが悠然と佇んでいた。
 スッとした立ち姿は目を見張るほど姿勢が良い。私と同じくフィールドを吹き抜ける風を受けているのに、房のような髪飾りを僅かに揺らしている姿は、何年も前に見た優雅さと何ら変わらず健在している。太陽光を優しく反射する金髪と喪服のように黒い装いのコントラストはよく映えて、見るものの背筋に冷たい一筋の糸を当てがったような緊張感を与えた。

 観客はあんなに熱気に包まれて、摘めそうなほど小さく見える観客の声が、輪唱のように幾重にも重なって音の波のように聞こえる。
 シロナさんと目が合った瞬間、一瞬にして私の世界は観客の声援も狂騒も、シャットアウトされた。




「ハンナ」


 シロナさんに呼ばれる。
 聞こえているが、私からの返事はない。返事をしたらダメだと思った。目と目が合って、続きを促すとシロナさんは続ける。

「カントーで初めて会った時、私はチャンピオンとしての在り方に迷っていた。そしてあなたはまだ小さかったわね。…あれから数年が経ったわ。あなたは成長して、とても強くなった。でも、私は今も変わらずチャンピオンに座してる。誰に一度だって譲ることなく。どういう意味かわからないあなたではないと思う」

 シンオウリーグの歴史の中で、シロナさんは歴代チャンピオンでは最長の保持記録を持っている。私が旅を続けていた最中に最長記録を塗り替えた瞬間の興奮とどうしようもない焦りは今でも忘れない。


「私はこのチャンピオンという玉座で、ハンナをずっと待っていたわ」


 私の目を真っ直ぐに射抜いてシロナさんは言い放った。

 正直、涙が出そうだった。
 ずっとずっと憧れていた人にこんな言葉を言ってもらえるだなんて、光栄なことがあるだろうか。
 リザードンのモンスターボールを両手に取って感動を握り締めると、微かに震える。きっとリザードンも祝福してくれていた。

「同時にあなたもずっと私を見てきた。誰よりも私を見て、自己研鑽してきた。だから言えるわ。あなたになら負けても後悔しない。この贅沢な勝負を楽しみたい。だけど私もそう簡単に負けるつもりはないの」


 シロナさんが最初のボールを手に取った。



「───さぁハンナ、準備はいい?お互い全力で戦いましょう」
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