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静寂の朝



「だから張り切りすぎだってソフィーさんも言っただろ?これでも飲んでな」
「面目ないです…ありがとうございます」

 掠れた声音で返事をするハンナに研究員からは苦い笑いが溢れる。
 調査を終えてプラターヌ研究所に戻り、結果報告を済ませたハンナにコーヒーを渡していたのは研究所に所属する研究員だった。朝焼けの眩しい早朝、無事準備を済ませてポケモンサマーキャンプの開催地へ向かったプラターヌ博士達を見送って研究員は睡眠を取ろうと研究所のドアへ引き返そうとした時だった。転がり込む勢いの影が研究員を襲った。勢い余って玄関マットに足を引っ掛けたのかつんのめって転ぶ影に研究員は「ポケモンが飛び出してきた」やら「今俺手持ち持ってないよ」と慌て出すと、聴き慣れた声が心外だと言わんばかりに玄関ホールに響いた。



「誰がポケモンですか!」


 研究員は隠れたドアから頭を出して確認すると、影の正体は野外調査を終えてボロボロになって帰ってきたハンナだった。
 遅れて玄関からやって来た寝ぼけたリザードンを見るやいなや、背中で眠りこけていたハンナが勢い余って振り落とされて玄関にシュートされたところまで理解した。

 (想像だけど、ほぼ間違いないだろうなあ…)
 目の前でリザードンにごねるハンナの姿を見た研究員はそう確信した。



     * * *



 ひとまず両者が落ち着いてきたところで給湯室に移動し、コーヒーを渡した後に打ち付けて赤くなった部分に湿布を貼った。お礼を言ったあと、ハンナがまず切り出してきたことはプラターヌ博士はまだ研究所にいるかどうかということだった。
「調査を終えたらご褒美もらえる約束してたんで!」
 普段整えられている髪が所々が跳ねていて、ヒポポタスの群れに遭遇した後みたいに砂まみれでボロボロだが目はこれでもかという程爛々と輝いている。ポケモンセンターで一泊せずに直帰してきたのが見てわかった。余程楽しみにしていたんだろうが、研究員は寝不足と疲れのせいで至って冷静だった。

「残念だけど博士はもう行っちゃったよ…ついさっき」
 あくびを噛み殺しながら答える。ハンナはというと、研究員の一言でソファーに寝そべって全てのやる気を失ったように拗ねていた。

「シャラジムリーダーもいない、博士もいない、私呪われてるのかな?」
「お〜拗ねるな拗ねるな。多忙な博士とすれ違うことくらいよくあるし、博士もそれくらいのことは想定済みだよ」
「…想定済み?」
 ハンナが寝っ転がったまま振り返る。期待を孕んだジト目。
 じっと見ていると、さっきから研究員が後ろ手になにかを持っているような気がして視線をずらす。
 「なにそれ」と問いかけると、研究員は両手に持った箱をハンナに手渡す。箱は重く、ずっしりしている。少し揺らすと中からは音はせず、入っている中の物は固定されているらしい。「なんか怪しそー」といいつつ、珍しげに箱を眺めてテーブルの上に置くと研究員は笑って言った。


「博士がここを出る時に渡されたぞ?」
「…今なんて?」
「博士がここを出る時に渡されたぞ〜」

 そのあとの話は、ハンナはもう聞いてはいなかった。
 さっきまで拗ねていたのが嘘のように箱に飛びついて、恐る恐る蓋を開けて中身を確認すると、人の腕より太い銀色の幅のある輪だけど、リザードンらしき翼竜の装飾が掘られていて尻尾に巻きつけるように使うらしい。特徴的な丸い石がはめられている。それを見たハンナの顔がみるみる明るくなる。水を得た魚のように、食い入るようにプラターヌ博士からのプレゼントを眺めている。
 ナナカマド博士にキーストーンをもらってから数ヶ月。カロスに来て、カルネさんやアランやズミさんといったメガシンカの使い手を見ては圧倒されてきた。リザードンに早くメガシンカしてみたいねと話しては頷かれる日々。やっと念願のメガストーンを手に入れた。
 今にも踊りだしそうになって、さっそくリザードンにはめさせようとモンスターボールを手に取ると、脳天に痛みが襲った。


「話聞いてるか?」
 どうやら浮かれすぎたみたいだ。目の下のクマが凄みを増していて、その目で見られると背中に物差しが入ったように背筋が真っ直ぐに伸びる。
「も…もう一度お聞かせください」
 畏まって床に正座をする。だが思いがけない言葉に立ち上がるまでの時間はそうかからなかった。

「博士からの伝言。シャラシティにあるマスタータワーに着くまでメガシンカするのは禁止」
「なんで!?」
「初めてのメガシンカでポケモンが暴れだす例が報告されてる。もしそうなった場合ハンナは自分でリザードンを止められるのか?」
「うそ…、そんなことあるんですか…?」
「あるから言ってるんだ。それからマスタータワーにいるコンコンブルさんには話通してあるからとさ」
「わかりました…」
「風呂空いてるから今のうちに入るといいよ。じゃあおやすみ」


 話は終わり、給湯室にはハンナだけとなった。飲みかけのコーヒーのカップに手をつけるといつの間にか冷めていて、さっさと風呂に入れとコーヒーカップにまで言われているようで反射的にソファーに座る。しばらく座ったまま窓の外を眺めているうちに、自然と横になりたくなる衝動に駆られて体を倒した。壁越しの、もっと遠くから聞こえてくるヤヤコマの囀りが妙に心地いい。
 これだけ静かな朝はいつぶりだろう。もしかしたら研究所内の研究者はみんな徹夜で明け方に就寝に入ったんだろうか。なかなか準備も大変そうだったし、ありえない話じゃない。そういうハンナも調査が済んでからリザードンに乗ってひとっ飛びで帰ってきたから昨夜は一睡もしていない。今頃リザードンも夢の中のはずだ。「起きたら貰ったメガストーンを見せて驚かせてあげよう」と大事に両腕に抱いて目を閉じる。さっさと風呂に入れと言われたが、ソファーに沈み込んだ体はもうすでに寝る準備に入ってるような、意識だけが起きている感覚で起き上がることはおろか、腕一本すら動く気がしない。寝かせろと体が訴えている。


「ちょっとだけ…」



 言い切る前に、給湯室にはハンナの寝息の声が微かに響き始める。
 慌ただしかった研究所全体が、静寂に包まれた朝だった。
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