ご機嫌斜めのシゲルくん
「シ・ゲ・ル・くん!」
背後から聞こえたわざとらしい「くん」付け呼びに、ズシッと突然重くなった肩。
この研究所でこんな馴れ馴れしいことを僕にするのは一人しかいない。ハンナかと後ろを振り向けば、「気分転換に街に行ってどっか美味しいものを食べに行こうよ」というものだった。
はぁ、と我ながら大きな溜息をついた。いつもならそんな態度は取らないのに。とくに女性に対しては。でも今は違う。それもそのはず。僕は機嫌が悪かったのだ。
「よくそんな呑気なことが言えるんだね。実験に失敗した直後で、君もその場にいたくせに」
衝動に任せて発した言葉の鋭利さに気づいたのは言い終わった直後だった。
なんてことを口にしてしまったんだ、と思った時にはもう遅い。度重なる失敗の連続で溜まりに溜まった焦りやストレスが決壊したダムのように次々と口から出てくるのは、愚痴に変換されたひどい言葉の数々。
ハンナはこの実験のパートナーなのに。ハンナだけのせいじゃないのに。中には当然自分の失敗もあった。
それ以上に、何年もの間を空けて再会した幼馴染なのに。
だけど、こうして何事もなかったかのように平然と笑って接してくるハンナに苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「なんでそう笑ってられるんだ。さっきまでやってた実験なんて、完全に僕のミスだったじゃないか。
僕のせいで滞ってるのに、どうしてそんなに笑ってるんだよ」
馬鹿にしてるのか
ついに僕は、言ってはいけないことを言ってしまった。
* * *
「馬鹿にしてるのか」
絞り出した細い声は、自分の心を保つために吐いた言葉に他ならないと思った。
「ん〜、別に馬鹿にしてるつもりはないんだけどなぁ」
この一言で、目の前にいるシゲルの目が見開いた。
すごく驚いていて、ちょっと面白い。
かという私は落ち込むなんてわけもなく、その逆でホッとしていた。安堵している。普通目に見ても明らかに傷つくことを言われたはずなのに。
「私はちょっと前にやっと研究員としてこの白衣の袖に腕を通せてもらえたような新米だよ?私に関しては失敗しない方がおかしい!」
「それ…偉そうに言うことじゃないだろ」
「それにシゲルはシゲルで、私より先輩だとしてもまだまだ他の大人の研究員に教わることも多いでしょ?それにもし、何事もなく淡々と実験が進んで結論が出ちゃったら面白くないじゃん?」
"シゲルなんて特に後輩の私を教育中の身で、先輩として後輩が優秀過ぎてもつまらないでしょ?"
振り払おうとした私の手首に添えた手が、そのまま力が抜けていく。ポカンとした目線が私の目と合った。シンオウで再会してから初めてシゲルを真正面からこんなにじっくりと見たかもしれない。深い青緑色の瞳は色んな感情が混ざって揺らいでいる。頑張り過ぎている証拠に、眉間のシワが寄った痕が残ってる。
そういえば、前に研究所に来たお偉いさんが言った言葉を思い出した。
『オーキド博士のお孫さん』
あのオーキド博士の孫という重圧があるのだろうか。
いや、ないわけがないか。
オーキドという名を知らない研究者はいないくらいだ。若くして研究の道に進んで、プテラの復活に成功させたシゲルに好奇の目線を送る大人や、その大きな結果を出した逆恨みに嫌味をいう大人もいることは研究所のみんなから聞いた。
私が旅をしている間に、とんでもない成果を上げるために日々努力を積んでいたのだ。この子は。
見えないオーキドという名札のせいで、周囲からは期待の目で常に見られるというわけなんだから。年頃の子が一人もいない、周りは全員大人という環境で、この子は研究所に来たばかりの私にいろいろなことを教えてきた。今まで嫌な顔ひとつせずに。まだ10歳だというのに。
「私さー、正直今嬉しいんだ。
私のほうが年上なのに、シゲルは隙がないし頼られることが全然ないんだもん。でも今やっと、初めて本音を聞けたというかなんというか、シゲルってばわたしよりすっごい大人びてるから何年越しに見たシゲルという人物像見てだいぶ焦ってたんだからね〜?」
"ソリャッ"と、肩にあった腕でそのままおもいきり抱きしめてやった。私とシゲルの身長差がかなりあるせいで、ずっと立ちながら実験した後だから少し屈んだ腰がちょっとだけ痛い。
でも、それを我慢するだけの価値が目の前にある。
「近いよハンナ!」と抵抗するシゲルに、あえて聞こえないふりして「えー?なにー?聞こえなーい!もっとだってー?」と髪が立っている頭をこれでもかと撫でまくると「違う!」と強く言われたけど、真横にある顔はオクタン並みに真っ赤になっていた。
「焦らなくても大丈夫だよシゲル!今私の目に映ってるのはオーキド博士のお孫さんってレッテルで貼り固められたオーキドシゲルじゃない。しっかり者で、バトルになると熱血漢で、超超超生意気で、実はちょっと照れ屋で、実はものすごく甘えん坊な歳相応な頼もしいオーキドシゲルだから」
「僕は甘えん坊じゃないってば!」
「聞こえない聞こえない。失敗したってよくない?焦らなくても全然いいの。教えてくれたじゃん、いっぱい失敗すればするほど結果はより確実なものになるんでしょ?シゲルの失敗を皮肉る馬鹿で勝手な汚い大人共に一泡吹かせるような、誰も反論できないようなでかい研究結果と成果を叩き出してやろう?
私とシゲルなら、必ずできるよ」
それまで撫でていた手を離すと、さっきまでの眉間に皺のよっていた険しい横顔とは一変して、ちょっと穏やかになっていた。うん、いつものシゲルだ。
「よし!今日は私が奢るからいっぱい好きなもの食べてまた頑張ろうよ。私ガッツリしたカツ丼食べたいから町の食堂行こ?」
「…ハンナ」
「なにー?」
「さっきひどいこと言ってごめん」
「…うん、実はすっごいグサッときた」
「えっ…」
(ほんと、真面目だなあ)
なんて、冗談のつもりで言ったはずだが、間に受けたシゲルが驚いてこっちを向く寸前。
唇をシゲルの頬に軽く押し付けた。ちょっと音がなってしまったけど。まあいいや。
「うそだよ、嬉しかったってさっき言ったでしょー?ほらほらさっさと出かける準備しないと休憩終わっちゃうよ〜、1分遅れるごとに料金1割ずつシゲル払いになっちゃうぞ〜?」
* * *
呆然と頬を手で押さえる僕を置いて、ハンナはさっさと自室に行ってしまった。
一番余裕がなかった自覚はある。自覚があった分、これほどよく効く不意打ちは他にない。
落ち着けと自分の心臓に言い聞かせてないと、僕は自室にすら戻れない。
「ハンナが僕を見て焦ってた…?そんな馬鹿な」
ハンナという人物像を肌で感じて、寧ろ僕の方が違う意味で焦り始めた。
「ハンナ!なぜこの短時間に特盛のカツ丼を何十杯も食べる必要があるの!?君の1ヶ月分の食費どうなってるの!?」
「このくらい食べないとこの後頑張れない!バトルでいっぱい稼いでるから考えたことない!」
「そうかわかった!じゃあこの桁がおかしい領収君が払って!」
「シゲル10分以上遅刻したじゃん!」
「元はと言えば君が奢るって言ったんじゃないか!?」
「どっちでもいいから早く支払ってくれない!?」
そして、結局今日のご飯は領収書を見て顔面蒼白の僕持ちになったのだった。