一六三七年の遠雷

黒髪のヒース


 薬研藤四郎の目は怒りに燃えていた。
 夜の幕末の都市を駆け抜ける。闇に紛れる遡行軍の喉元を片っ端から抉り、腹を掻っ捌く。遡行軍が膝をつく前に、次の獲物へと喰らいつく。邪魔者が来ようものならすかさず前田が一掃していき、薬研の通り道を確保する。
 そしてようやく現れた。兄弟の血で濡れた槍を持つ化け物。そこらの遡行軍以上の外道であるこの槍へ、一直線に薬研が地面を踏み込み向かっていく。槍も薬研目掛けて自慢の槍と機動力をひけらかすように急速に距離を縮めた。
 闇夜の殴り込みが十八番の短刀の中で薬研は親玉だった。その親玉が、下の兄弟をいじめられて怒髪天を衝いている。包丁と同じ制服を着ているのを見た槍が、ニヤリと笑った気がした。

「包丁を可愛がってくれたんだ。たっぷり礼をしてやらねえとな」

 言い終わる前に、槍の突きがやってくる。だが突きは薬研から見当違いの空虚に外れた。
 槍の背後には骨喰がいた。横に薙いだ一閃は、槍の両足の腱を断ち切る。自慢の機動力を失った槍は唸り声を上げて激しく威嚇する。姿勢を崩した身体の両腕を両断したのは五虎退。前髪で隠れた片目は、普段の気弱さの面影はない。ぞっとするほど無感情な眼光は兄弟を重傷に至らしめた槍を捉えて離さなかった。
 その一瞬で、槍の頭は宙を舞う。薬研のたった一度の一太刀はやすやすと槍の首を撥ねた。同時に辺りを見回っていた前田が戻って来る。

「薬研兄さん、こちらは片付きました。五体です」
「……倒した遡行軍の数はこれで十八か」
「ああ、そうだな」

 骨喰が答える。薬研達は会談会場を見張っている小夜と篭手切江に替わり、残った遡行軍を掃討する役目を担っていた。

「包丁のやつ、身体が良くなったらしごいてやらねえとな。どんな屈強な奴にやられたんだと思えば、大したことないじゃねえか」

 それを聞いた前田は苦笑する。顕現したてなのだから、という言い分は遡行軍には通用しない。薬研なりの優しさだった。包丁が目を覚ましたら、本丸にいる藤四郎兄弟全員で包丁を鍛え上げる光景が目に浮かぶ。

「さて、小夜すけのところに戻るぞ。残りはもういないとは思うが、一応二手に分かれて行く」

 号令を聞いた三振は頷いた。慌ただしい夜更けは、一応の収束を迎えたのだった。



「──……報告は以上だ」

 ところどころ裂かれた戦闘服のまま、和泉守兼定は包丁の手入れをする芙蓉の背に報告を終えていた。
 薬研達が向かった幕末とは別に、備前の本丸でも夜の落ち着きを取り戻しつつある。重傷と聞き、手の空いている刀剣男士が駆けつけた本丸内は慌てはしないものの皆心配をするものだ。同田貫は負傷した包丁を担ぎ込み手入れ部屋へ運んでくれた。弟がそのまま再度出陣に向かうのを見送った宗三と非番だった燭台切は本丸内に滴り落ちた包丁の血を拭き取ってくれている。粟田口の長兄である一期一振は遠征中だった。

「わかったわ。ありがとう……あなたも怪我をしているでしょう。あともう少しで包丁の手入れが終わるからそこで待ってなさい」

 和泉守が視線を上げる。後ろから見るとよく分かる。芙蓉の肩が上下していた。刀剣男士の修復作業は、審神者への負担が掛かるものだ。特に芙蓉は自身をよく「平凡な霊力であって潤沢ではない」と言うのを、謙遜していると和泉守は思っていたが、そうではなく事実なのだと理解した。

「いや、いい。この程度なら唾をつけときゃすぐ治る」
「和泉守」

 立ち上がって手入れ部屋を去ろうとする和泉守を、芙蓉は振り向かずに引き止める。呼び止める声には疲れではなく力があった。

「貴方は腑に落ちないかもしれないけど、撤退の判断は見事だったわ」

 和泉守の表情の陰りが色濃いものになった。表情を見ずとも、何を考えているのか芙蓉には見透かされていた。

「でも遡行軍を取り逃した。包丁も傷ついた。失敗もいいところだろ」
「はっきり言うけどそれは違う。今回、貴方は何一つ失敗を犯してなどいないわ。貴方の判断は主である私が全て責を負うものよ。それに和泉守は一人で戦ってるわけじゃない。だからあまり気に病まないで」
「……ああ」
「今はとにかく休みなさい」
「報告書を書いてくる。包丁の次の手入れは俺じゃなくて南泉を先にしてくれ」

 それだけ言うと、手入れ部屋の戸が閉まった。はあ、と芙蓉の溜息が漏れる。

「……全く、責任感があり過ぎるのが玉に瑕ね」

 包丁の手入れは終わった。もう傷は塞がったから、あとは包丁次第だ。汗で張り付いた前髪を払うと、背後からカタりと音がした。なんだろうと振り向くと、手入れ部屋の障子の横に備え付けてある小さい戸からこんのすけが元気よく顔を覗かせた。

「審神者さま、第一部隊から会談が無事終わり遡行軍の殲滅も完了したと入電がありました! もうすぐ本丸に帰りますー!」
「本当? ありがとうこんのすけ。こっちに入ってらっしゃいな」

 芙蓉は身体ごと向けて両手を広げる。両膝をぽんぽんと叩いて促すが、こんのすけがしおらしい顔で涙を見せた。入ろうとするものの、まるい身体が戸に引っかかってしまう。

「とおれません……」
「あら……」

 芙蓉も眉を下げた。つまるところ、また太ってしまったのだ。

「せっかく桑名に戸をつけてもらったのにねぇ……広げてもらおうかしら」
「うぅ……」

 目を潤ませたこんのすけはまたダイエットをしろと言われるのかとうなだれた。実際のところそうなのだが、あまり言い過ぎてもかわいそうだと思い目を瞑ることにする。

「まあいいわ。みんなが帰還したら、しばらくは非番だと伝えてもらえる?」
「! わかりましたぁ!」

 新しい役目をもらったことで顔を明るくしたこんのすけが去り、再び手入れ部屋に静寂が訪れる。こんのすけを撫でる気満々でいた両手が寂しい。こういう疲れた時こそ、あの憎めない顔とふかふかした感触が癒しとなるのだ。後で堪能するとして、再び居住まいを正す。
 包丁の頭の上にある刀掛けには、包丁藤四郎自身が置かれていた。手に取って鞘から引き抜く。ずっしりとした重みがあり、反射する光は鋭い。さっきまであったヒビはもう跡形もなく手入れによって消えている。短刀ですら両手で持ってこれだけ重いのに、刀剣男士達は悠々とこれより長い獲物を持って戦うのだから信じられない。蛍丸なんて、自分の身長よりもはるかにでかい大太刀を意図したところに振り回し滅多斬りにするのだから、見ていて頭がおかしくなってくる。

 芙蓉は刀剣男士達の出陣に混ざって過去に飛ぶことはない。一緒に遡るだけの霊力がないから、遡ったとしてもそもそも歩くこともままならないだろう。だがそれ以前に遡行軍を目の前にして動ける自信がないのだ。あんな恐ろしいものを目の前にして、怖くて、足が竦んで殺されるのがオチだ。
 もう一度眠っている包丁を見る。こんな小さい子どものような神様が、この短い刀を振るい戦うことをまだ心の隅では信じられずにいた。お菓子だ人妻だと喚く姿から全く想像ができない。だけどこうして人間だったら即死するほどの怪我をして一命を取り留めるあたり、紛れもなく刀剣男士だった。

「……怖くないのかしら」
「──主? 何をしてるんだい」

 いつの間にか手入れ部屋の戸を開けていたのは歌仙だった。両膝をついている横には御膳が置かれている。

「今日の手入れ部屋は人がよく来るのね」
「こんな夜だからね。それより、抜き身の包丁を持って何をしていたんだ?」

 歌仙は芙蓉の隣に座った。まじまじと刀身を眺める芙蓉を不思議そうに見つめている。

「……短刀のみんなはすさまじい間合いで戦ってるなあって思って」

 率直な感想だった。刃渡りが二十センチ程しかない短刀を見て、歌仙は「そうだね」と笑った。

「僕も一緒に戦っていてそう思うよ。僕がその短刀を持って同じように戦えと言われても多分無理だろうね。本当に勇気がある子達だ」
「歌仙達に比べると武装も薄いし、小柄でしょう? だからどうしても短刀の負傷は身近に感じるのよね」

 短刀というものは守り刀として懐に入れられることもあったためか、他の刀種より近い距離感を審神者に求める者が多い。業務内容を見て近侍を立候補する者は皆無だが、度々手伝いにきたり構って欲しそうに執務室を覗きに来る姿はよく見る。決して子ども扱いをしたい訳ではないが、見た目が見た目なだけに傷ついて帰ってくるとなかなか心苦しいものがある。

「こうして寝てるとただの子どもなのにね。……でも実は和泉守より何百歳も歳上なのよね」
「……どうして和泉守がそこに?」
「さっき和泉守が来たの。……ふふ、包丁が負傷したのも、任務失敗したのも自分のせいだと思ってる。まあ薬研達がやってくれたから何も失敗なんてしてないんだけど」
「へぇ、部隊長としての登竜門を潜ろうとしてるわけだね」
「そう。ちょっと責任感がありすぎで心配ね。新人審神者を見てるようでハラハラしちゃう。口を開けば「自分は働きまへ〜ん」とか抜かす明石と足して二で割ったら丁度いいのに……ねえ、私明石の物真似が上手いかもしれない」

 歌仙に「どう?」と聞くが、遠い目をして「雅じゃない……」とだけぼそりと呟いた。評価に値せずらしい。

「彼の言動は本当に万死に値するところだが、この僕でもどうにもできない……まあただ、部隊長を任されたならみんな最初はそういうものだろう。でも和泉守の問題はそこじゃないと?」
「そうなのよ。包丁の負傷も重傷撤退もなにも問題ないのに、和泉守が全くそう思ってないのよ。あまり気にし過ぎても心が潰れるわ。もしかして演練で見かけた亀甲なんたらみたいに自分を追い込むのが生き甲斐なの?」
「兼定の名誉にかけて言うけど違うと思うよ」

 即答する。和泉守の尊厳は守られた。

「まあ、冗談はここまでにして……だから歌仙から少しだけ彼を助けてあげて欲しいんだけど」
「僕が簡単に手を出したら部隊の意味がないだろう。部隊長を渡した身だよ?」
「でも今の第一部隊で和泉守に物申せるのはいないわ。同田貫は包丁と入れ替わりで抜けちゃったし」
「お小夜」
「小夜がすると思う?」

 小夜が和泉守を諭す姿を想像するが、まず話しかけるタイミングを見計らうために物陰で右往左往する様子が目に浮かぶ。出陣中ならできたかもしれないが、プライベートの場となると途端に小夜は自分から話しかけるのが難しくなる。どちらかというと、本丸の中では放っておけない雰囲気から話しかけられる側になることが多いのだ。

「……僕が悪かった」
「後は……松井?」
「ああ、適任かもね。後で伝えておくよ。それより、せっかく作った食事が冷めてしまう」

 御前の上には、ほのかに湯気が上がる一人分の小さないろり鍋に、器、杓子と蓮華があった。時間も時間なのと匂いから雑炊かなと想像する。

「ありがとう歌仙。実はお腹減ってたの」
「そうだと思った。夜通しの手入れだったから昨晩は風呂にも入れてなかっただろう? 食べたら僕が彼を見ててあげるから、主はゆっくり湯に浸かって休むとといい」
「でも南泉の手入れも……」
「彼ならもう布団にくるまって寝ていたよ。松井にも休ませると伝えてあるから」
「流石の手回しね。じゃあ、歌仙の言葉に甘えさせてもらうわ」

 いただきます、と手を合わせると歌仙から熱い器を手渡される。やっぱり雑炊だった。


   * * *


 ──今、僕は目が覚めたのだと自覚した。
 身体が酷く痛み、骨が軋む。派手に遡行軍にしてやられたのだと思い出して、痛みの他に敗北感と、情けなさが横たわる身体の上にずしりと重くのしかかったような気分だった。
 気分が悪い。そう思った最中、ぼうっとぼやける視界に誰かが覗き込む。

『──よかった、目が覚めて。貴方丸一日寝てたのよ』

 声から主だとわかった。まだ視界がぼやけるから表情はわからないが、心なしか、疲れているように感じる。

『もしかしてずっと付きっ切りで……?』

 自分でも驚くほど声が掠れていた。丸一日と言っていたが、実は三日ほど寝込んでいたんじゃないかと思えるほどに。

『元から白い肌だとは思ってたけど、いよいよ本当に死んでるのかと思って。怖くて目が離せなかったのよ』

 主はくつくつと笑いながら言った。散々人のことを実務でも出陣でも酷使しておいて笑い事ではないのだが。勝手に死体呼ばわりされたことについて怒鳴ってやろうかと思った。でも、そんな気持ちはすぐに失せる。

『それ、綺麗なネックレスね』

 聞きなれない言葉だった。

『ねっくれす……?』
『首飾りのこと。大事にしてるのね。手入れの妨げになるからそれを外そうとしたんだけど、腕を掴んでなかなか離してくれなかったのよ』

 全然覚えてない。無意識でやってしまったのだろう。

『それはすまなかったね。これは……うん、大事なものだよ』
『飾りは何がついてるの?』

 思わぬ質問に少し目を見開いた。徐々に鮮明になる視界の中で、主は僕を見つめていた。手首には、うっすらと帯状の赤い跡があった。申し訳なくて、さらに情けなくなった。

『見なかったのかい……?』
『見ないふりもできたんだけど、貴方そういうの嫌がりそうでしょう? 相当根に持ちそうだし。後でうるさく言われても敵わないから着替えは豊前に頼んだの』
『……ありがとう。でも、内緒だよ』
『そう、残念』
『いつか、貴方にも話せる時が来たら……』
『──ええ、待ってるわ』


 ──目が覚める。明かりを全て消した執務室には、淡い月明かりが差し込んでいた。 

「……懐かしい夢だな」

 この前行った和菓子屋であんなことがあったせいだろうか。結局あの後は主が一向に起きる気配がなくて、一晩世話になった。朝帰りなんてしたものだから、本丸に帰って早々に歌仙からの説教を食らったものだ。豊前達からはからかわれるし、散々だった。
 そしてあの時買った物は、まだ僕の執務机の鍵のついた引き出しの中に入ったまま。

「そうだ、給料から天引きしておかなきゃ……」

 だが、今やる気分ではない。締め日までにやればいい。
 執務室の中は静謐だった。いつも二人の部屋から一人になっただけで、がらんどうのようだ。少し動いただけのソファーの革同士の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
 主が長く手入れ部屋に入るからと、仮眠する前まで豊前と桑名がいろいろと手伝ってくれていたので余計にそう感じる。それにこうして一人で時間を持て余して考えること自体が久々だった。

 シャツの襟から銀色の首飾りを取り出す。人目にも触れず、陽の光を浴びることもない。服の下に秘匿された首飾りをこうして見るのもいつぶりだろう。この首飾りは、自分の中で想起されるものが多い。
 松井興長、細川家、関ヶ原、そして島原。
 ただの刀だった頃、僕はその光景を特に色濃く覚えている。

 刀とはなんのためにあるのか。力を示すためのものであり、敵を斬るためのもの。僕は紛れもなく物だった。
 戦なんて起きなくなったあの時代に、大地を紅く染め上げるほどに数多の人間を撫で切りにしてみせた。どの刀より刀らしい、刀としての本分を十分全うできたことだろう。全うできていたはずなのに、人の身を手に入れた今は何故かそれをなかなか受け入れられずにいる。
 血で血を洗う戦いの昂りだって確かにあるのに。頭で理解できていても、心が追いついていない。
 僕はなんのためにこの身を得たのだろう。顕現したての頃、誰かは忘れたが、彼は「歴史改変をさせないために、遡行軍を倒すため」と言っていた。だけど当たり前のように言ったその答えのせいで余計わからなくなる。
 それだけでいいならどうしてこんなに自分自身の過去に戸惑って、罪の意識に近いものを抱えて思い悩まなければならないのか。命を奪うものにどうして心を与えたのか。
 物が語るからこそ物語とはいうけれど、だったらこの形のない苦しみに終着点はあるのか。自分自身を取り巻く業であるのなら、許しが欲しい。でもそのために何をしたらいいのかがわからない。

 何度目かもわからない湿った溜息が出る。だがこの時間はそう長くは続かなかった。執務室の外から足音がして、急いで首飾りを服の下にしまい込んだ。


   * * *


 慣れないノックが執務室に響いた。「どうぞ」と松井江が言うと、訪ねてきたのはだんだら模様の羽織を脱いだ和泉守だった。

「この扉を叩くマナーっつうのか? ようやく慣れてきたぜ」

 小言を吐きつつ、執務室を見回す。ソファーから起き上がった松井江と目が合った和泉守がギョッとして後ずさりした。

「お前明かりくらいつけろよ! ただでさえ色白なのにこんな暗いところにいられちゃこっちがびっくりするじゃねえか!」
「そうかい……それは悪かったね」

 室内に明かりが灯ると、松井江のささくれた声と冷ややかな目がが和泉守を歓迎した。

「いや……なんかすまなかった。主はいるか」
「夜通し手入れして寝てないから今は自室で休んでるよ。今は僕が全ての実務をやることになってる。報告書だろう?」
「ああ」
「もらうよ。少し待っていてもらえるかな?」
「わかった」

 松井江に手渡すと、芙蓉と同じく上から下まで要点を押さえて見ているのだと瞳の動きを見てわかる。誰よりも実務に慣れているこの刀剣男士は、和泉守が顕現するより前に第二部隊の部隊長を任されていたのだと小夜から聞いていた。

「……なあ、松井。お前元々部隊長だったんだよな?」
「そうだよ」
「……」
「……」

 会話が終わった。たった五秒のやりとりである。
 松井江も会話が特別得意というわけではないが、松井江から見た和泉守兼定はまあまあ真面目で、短気ではあるが仕事以外では明朗快活な刀だと思っていたから急に黙ったことが気になって、報告書から顔を上げて和泉守の方を見やった。

「……〜っ」

 和泉守は黙ってこそはいるが雰囲気に落ち着きがなく、どっかりとソファーに腰掛けて松井江を凝視していた。傍から見ればガン飛ばしているようにも見える。別に煩わしく思うこともなく、松井江は言う。

「貴方が今考えていることを当ててみようか」
「……」

 いかにもな問いかけに少し視線の圧が和らいで、和泉守が半信半疑の目になる。

「部隊長になって、隊員が傷ついて、自分の判断で歴史が取り返しのつかない結果になってしまったら……って思ってるんだよね」
 すんなりと言い当てられて自然と舌打ちが出た。

「んでわかんだよ……」
「わかるよ。僕だってそうだった」

 言い切ると再び報告書の確認へと戻るが、和泉守にとっては予想外だった同情の言葉に呆気にとられた。

「お前……言っちゃなんだが、あんまヘマとかしなさそうだと思ってた」
「慣れたら滅多な限りしないさ。でも慣れるまでは大変だったよ。……僕は誰かに頼るのが苦手だから」

 思い当たる部分があって、和泉守は押し黙る。

「新人の分際で近侍をしたいなら、誰よりも戦果を上げろって主に言われてね。遮二無二出陣と攻撃を繰り返して、それが良かった時も、裏目に出た時もあったなぁ。もう懐かしいよ」
「裏目に出た時……」

 先の出陣が脳裏を過ぎる。始まろうとする会談の邪魔をさせまいと遡行軍を深追いした結果、部隊がばらけて挙げ句の果てに包丁が深い傷を負った。

「裏目に出た時、松井はどうしたんだ」
「特に何も」

 松井江は平坦な声で答えた。ためになる答えが出てくることを期待した和泉守は真顔になる。

「……は?」
「部隊長といっても、一介の部下にすぎないからね。どういう展開に転んだとしても最終的な責任は主にある。組織ってそういうものさ」
「お前……、そりゃねえだろ!?」

 淡々と答える松井江に対して、和泉守は激昂してソファーから立ち上がり、足音を立てて執務机に迫る。だが松井江は和泉守の反応をわかりきっていたように笑みを見せた。

「フ、実は主から和泉守さんことを聞いていたんだ。手入れ部屋で同じことを主に言われたと思うけど?」

 歌仙から聞いたことは伏せる。自分からではなく、芙蓉からだと言うようにと言伝されたのだ。

「おい、試すようなことすんなよ。納得できるわけねえだろそんな理屈……」
「納得というより、そういう落とし所もあるってことさ。僕達に対して主はまずそう言わなくちゃならない立場だから。……でもまあ、無理だよねぇ。もちろん僕も今の和泉守さんみたいに何度も落ち込んだよ。部隊長あるあるだ。人間てつくづく大変だよね」
「おい、俺は真面目に……」
「でも失敗したからこそ、もう味方の血は絶対に流させないと心に固く誓ったんだけどね」

 松井江の目に鋭い光が灯る。茶化してるでもない言葉に、和泉守が一瞬強張った。

「和泉守さん、そこの時計を見てごらん」
「時計……?」

 松井江が指を指した先にあるのは、歌仙が好みそうな骨董の振り子時計だった。

「針はずっと右回りに動いているだろう?」
「当たり前だ」
「その針だけを左に動かしても結局それだけだ。和泉守さんだけが足掻いても時間は進むし、やってしまったことはもうどうしようもないよね。現実をなかったことにしようものなら、遡行軍と同類になる」
「……ああ」

 眼を細める和泉守を見て「だからね、」と松井江は続ける。

「反省は必要だけど、落ち込んでも仕方がないんだ。上手くいっても失敗しても同じように時が進むのであれば、飲み込むしかない。もし耐えられないなら、歌仙や……君の場合なら第一部隊のみんなに頼るといいんじゃないかな」

 時計から松井江に向き直る。和泉守が見下ろしても相変わらず報告書の確認をしている。松井江もかつて自分と同じだったのだ。言葉がスッと染み入るのを感じた。

「貴方は包丁を守るために撤退という判断を下した。貴方は仲間を見捨てない。それは僕達も同じ気持ちだよ」

 和泉守は誰もが同じだという言葉に「撤退」の判断を下した時の第一部隊の面々を思い出す。報告書の確認を終えた松井江は顔を上げる。和泉守は腑に落ちた、すっきりとした顔をしていた。

「はい。報告書は問題ないから、あとは任せておいて」
「ああ、ありがとな」

 執務室に入ってきた時とは見違えるほど堂々とした面持ちで感謝を示す。長い黒髪とだんだらの羽織を翻して和泉守は執務室を後にすると、松井江は深く溜息を吐いた。

「同じように時は進むのであれば、飲み込むしかないか……」

 和泉守に言った言葉を反芻する。人に言っておきながら、自分ができていないのだと自嘲して止まなかった。

「そんなのはわかっているんだけれどね」
『──声に出す勇気もなければ受け入れる静穏もない……自分のことなのにね』
「……芙蓉」

 再びソファーに身を落とす。目を閉じて、意識を深く沈み込ませて眠りにつきたかった。
 夜が明けるまで、あの和菓子屋の中で言った芙蓉の言葉が松井江の頭の中にこびりついて離れなかった。



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