一六三七年の遠雷

宵越しの暗躍


 その時代のその日、湿った夜だった。
 おおよそ人の寝るところではない物影には、出歩くには危なっかしさを覚える背丈の子どもが身を隠している。青い袈裟を纏う短刀の小夜左文字は、この静かな暗がりでじっと息を潜めてこの夜に出現すると予測される遡行軍を気配を探っていた。
 じめった砂利の臭いに混じり、細い線のように微かな血の匂いがする。刀を手に物影から飛び出した。血の臭いが濃くなると、何かが崩れる物音がする。音を辿って角を曲がるとそいつはいた。
 人が斬り伏せられている。幕末の江戸は騒擾の絶えない都市だ。斬られたのは浪士だろうとわかった。反撃しようとしたのか抜き身の刀が浪士の手から離れて血と砂利にまみれて転がっている。
 黒い巨躯が振り返ると、目が合った。どう見ても人間ではない異形の人型。時間遡行軍だった。血で染められた刀身が怪しく光ると、振り被る前に小夜が先に踏み込みそいつの脇腹を一直線に抉る。地鳴りのような唸り声を上げ、一層爛々と目を光らせるとすかさず斬撃を加えてくる小夜を振り払うように斬りかかる。

「……今の声で和泉守さん達がこっちに来てくれるといいんだけど」

 小夜は遡行軍の猛攻など意に介さずに、部隊長である和泉守兼定の動向を気にかけている。
 芙蓉が初めて鍛刀で顕現させたのが小夜左文字だった。最初から現在までずっと部隊に編成されている小夜は部隊長になったばかりの和泉守を補佐する役割だったのだが、遡行軍が散開しているせいで部隊は市中に散らばってしまっていた。
 その場から飛び退くと、小夜が立っていた地面が抉られる。すると視界の端で淡月に反射する小さく鋭い光を目にした。弓兵が潜んでいる。

「小夜、お前こんなところにいたのかよ!」

 突如夜に似合わない声と共に、潜んでいた弓兵は矢を放つことも叶わず道に血を撒き散らして転がり出てきた。同時に、小夜が相手をしていた遡行軍も横倒しになり黒炭と化して消え去る。

「包丁……他の皆は?」
「知らな〜い。気づいたら一人だったんだもん」
「そっか……、困ったな」
「もう、せっかく市中にいるのに全然人妻一人見当たらないし最悪だよー、早く帰ってお菓子食べたいのに」
「なら早く和泉守さん達と合流しないと」

 和泉守という名前を出すと、包丁はあからさまに頬を膨らませた。

「ちぇ、和泉守のやつ、いつも俺を怒るくせにこういう時にいないんだもんなあ。仕方ない、探してやるかあ」
「……包丁はもう少し他の人に協力した方がいいよ」
「え? 何か言った?」
「別に」

 そう淡白に答えると、包丁の横髪が風もないのに揺れる。包丁の背後に音もなく迫っていた苦無に、小夜が反応して串刺しにしていた。

「まだいたの!? しつこいなあ」
「気をつけて。多分和泉守さん達がこっちに向かってきてるんだ」

 包丁はそれを聞いて丸い目つきを鋭くさせる。今来たのは先回りしようとしていた連中を指していた。
 さっそく次々と物影から沸いて出てくる。小夜が率先して苦無の小隊を葬ってる傍らで、包丁は一体の打刀を相手にしていた。路地に入って地の利を活かそうとしていた。一撃入れた隙に入り込む。大丈夫、うまくいく。包丁藤四郎の切っ先を打刀に突き刺すその瞬間、突然血の気を失った真っ白な人間の顔が包丁の目の前に現れヒュッと息を飲んだ。
 口酸っぱく兄の薬研から言われていたことを思い出す。「やつらは馬鹿じゃない」という言葉が、目の前に示されていた。打刀は、小夜の助けが間に合わなかった浪士の死体の髷を掴んで盾にしたのだ。
 条件反射で後ずさってしまい「しまった、」と完全に隙を生んだ瞬間だった。切羽詰った小夜の包丁を呼ぶ声がする。気づいた時には、包丁は家屋の壁に叩きつけられていた。息ができない。腹部の突き刺すような痛みは全身の痛覚神経を刺激し、痛み一色に塗り替え支配する。なにが起こったのか包丁は理解が追いつかずにいた。
 包丁の背後にいるのは、先ほどの打刀ではなく、槍を持った遡行軍だった。手から抜け落ちた包丁藤四郎の刀身には、真新しいヒビが音を立てて広がりを見せている。
 苦無を一掃した小夜が親の敵のように力の限りで打刀へ刃を差し込み、横に薙ぐ。打刀の胴体を上下に断った。しかし辺りにはもう遡行軍の姿はない。あの忌々しい速さで刀剣男士を貫いてくる槍の遡行軍は、逃げたのだ。おびただしい血を流して倒れる包丁を抱きかかえた小夜はその傷の深さに奥歯を噛み締める。まずい状況になった。
 歴史が改変される転換となる会談は、これからなのだ。
 今にも死にそうな傷を負った包丁を抱えて、討伐と要人の護衛は無謀に等しい。一刻も早く帰還しないと、包丁が死んでしまう。

「小夜!」

 和泉守の声だ。小夜のただならぬ様子に、和泉守達はさらに足を早めた。

「包丁!? おい、どうした!」
「すみません、僕がついてたんですけど槍に隙を突かれて……それに、逃げられました」
「槍だと……!?」

 小夜の報告を受けた和泉守はやられたと顔を歪ませた。自分が取り逃がした敵だったのだ。一緒に対処していた篭手切江も同じだった。

「それ、もしかしてさっきの足の速いやつか……!」
「ど、どうしましょう……会談はこれからですよ?」

 包丁と決断を迫られる和泉守を襲撃から守るために、今この場の護衛をする五虎退が狼狽する。その逆側には、苦無から傷を負わされた南泉も襲撃に備えて抜き身を構えて目を光らせていた。
 意識がない包丁を抱えたままの小夜は何も言わない。この状況で和泉守がどう考えるのか、静かに耳を傾けている。袈裟には包丁の鮮血がじわじわと染み広がっていた。包丁以外の全員の意識と視線は、和泉守に集中する。
 会談の開始時刻はまもなく。散らばった敵の残党もまだ残っている。会談に遡行軍が邪魔をすれば、歴史が大きく変わってしまうかもしれない。だがこのまま包丁を抱えて戦えば防戦となり攻撃が集中して最悪、刀剣破壊に繋がる。
 硬く目を閉じた和泉守は絞り出すように言う。

「──……撤退だ!」
「……わかった」

 部隊長の指示に了承する小夜の顔つきは変わらない。が、少しだけ声に安心感が垣間見えていた。皆出陣回数を重ねているから意義を唱える者などその場にはいない。皆和泉守の判断に、任務が達成できない悔しさはあれど安堵していた。
 ただ一人。判断を下した和泉守だけは煮え切らない思いを抱えて第一部隊は備前の本丸へ帰還したのだった。


   * * *


「あー、もうだめ。本日の集中力は品切れよ。閉店閉店」

 夜半。時計の秒針の音と紙を捲る音のみだった執務室だったが、根を上げた芙蓉の声に釣られて松井江も眉根を押しながら顔を上げる。外はもう真っ暗で、窓を開けるとしっとりとした夜風が執務室に入り込む。

「もうこんな時間だったのか……。そろそろ切り上げて続きは明日にしないかい?」

 窓の戸を締めながら松井江が問うと、芙蓉は「賛成」と言いつつ、不機嫌そうに一枚の紙を松井江に差し出した。

「見てよこの申請書。作成者の顔が浮かぶわ。漢字の二に見えるように三って書いてある。私の本丸からたらふく資源をブン取る気よ」

 指差す先にある文字を注意深く見る。確かに、ぱっと見は二と書かれているが、よく見ると真ん中の開いた部分のかなり上にうっすらと細く「一」が書かれていた。

「君もよく使う手じゃないか。前にやられたのが相当悔しかったんだろうに……よく学習しているけど相手が悪かったようだねぇ」

 松井江は呆れたように言って書類を芙蓉に返すが、芙蓉はそれを拒否した。
 パソコンやタイプライターのようなすでに形成された文字ならいいが、手書きの文字というのは一番注意が必要なものだった。一桁だけのものなら可愛い間違いで済むが、これが資源のように一度の取引が十万単位のものになると目も当てられないことになる。しかしこういった見落とすことを期待した偽装は芙蓉が発端だったことを松井江は知っている。

「私にズルが通用するなんて思わないことね。不可よ不可。全く、この人達はもう少し気持ちよく申請を許可できるような書類を作れないの? 何を考えてるのかしら」
 松井江は信じられないという目で芙蓉を見た。

「元はといえば貴方がそういうことをするから『遡行軍は我々の敵だがお前は審神者の敵だ』だなんて手紙が来たのを忘れたのかな?」

 芙蓉は「そんなこともあったわね」と至極どうでもよさげに吐き捨てるように笑う。

「私に折衝の講釈垂れようなんて嘆かわしいわ。そんなことを言っておきながらある時は資源を分けてくださいってふざけた内容で泣き落としにくるのよ? だから私は快く資源を分けてあげてその内容に相応しいお返しをもらってるだけ」
「……貴方が数ある本丸の上に立ってる理由がよくわかったよ。口喧嘩が強すぎるんだ」
「私を審神者の敵なんて抜かすやつは大抵、上の御偉方の口には歯が立たないわ。お口が慎ましくて歴史が守れると思ったら大きな間違いなの」
「フ、覚えておくよ」

 松井江が立ち上がる。疲れたとしていても涼しい顔をしていた。

「はい終わり。あーお風呂入りたい……」

 最後の書類を既決箱に放り込むと、肩を鳴らしながら身体を伸ばした。肩や関節から鳴るパキパキとした音に松井江は「うわぁ」と声を漏らした。

「さすがにずっと書類仕事だったからねぇ……血流が滞っても無理はないよ。肩を揉んであげようか?」
「松井の肩揉みは効くけど痛いから結構よ。今日のお風呂の見張り番は……小夜、じゃなくて前田ね」

 当番表の札を見る。内番から厨当番、芙蓉が入浴する際の見張り番など日毎の当番が一通り並んでいる。

「小夜は今出陣中だから……予定通りならきっと今頃は阻止しようとする遡行軍を止めているか、見回りをしているだろうね」
「そうねえ。気が抜けない夜になるから帰って来たら全員非番にして休んでもら……」

 芙蓉が言葉を止めた。それまでお腹いっぱいで寝ていたこんのすけが、何かを察知したように起きた。しばらくじっとした後、鈴を鳴らして足元まで来たのだ。いつもは愛嬌たっぷりの顔をしているこんのすけがキリッとした顔で芙蓉を見上ている。こういう時は、大抵ろくでもない知らせだ。

「入電です。審神者さま、ただいま出陣している和泉守さんが率いる第一部隊から帰還要請が出ました」
「帰還……? 早いわね。会談はまだのはずじゃ……」

 帰還の知らせを聞いて芙蓉も松井江も眉をひそめる。いくらなんでも早すぎる。

「それが会談前に遡行軍と交戦。その戦いにて包丁藤四郎が重傷になったようです」
 重傷という言葉を聞いて、一気に執務室の中の空気は張り詰めたものになる。芙蓉は煙管を手に取り政府からの観測報告を引っ張り出した。

「……敵の数は?」

 芙蓉に変わって松井江が聞く。仲間の血が流れたと聞いて声に余裕はあれど顔からは笑みの一切が消えている。

「十八です。小夜さんによると苦無と高機動の槍が多いそうです。和泉守さんと南泉さんが苦無の攻撃を受けて刀装を全損、軽傷です」
「嫌な取り揃えね。刀装だってタダじゃないのに、物の価値をわかってない輩はこれだから嫌いよ」

 そう言って芙蓉は煙を薄く吐いた。

「倒した数の報告と照らし合わせると政府からの観測数と同じね……暴れられても困るから夜のうちに決着をつけるわ。部隊の再編がいるわね」
 松井江は即座に机の引き出しから白い紙を三枚取り出した。

「小夜と五虎退と篭手切はそのまま編成を継続して、包丁と打刀の二振を抜くわ。薬研、前田、骨喰に今すぐ出陣するように伝えて。部隊長は和泉守から小夜へ移行するように」
「わかった」

 三枚分の紙にそれぞれの名前を書くと式神は命を吹き込まれたように鳥の形になって飛んでいく。内番中だろうがなんだろうが、呼ばれたものを引きずってでも連れてくるように使役されている。三振はまもなくすっ飛んで来るだろう。
 小夜を筆頭に、薬研と前田、骨喰はこの備前本丸では古参の刀剣男士にあたる随一の練度を誇る刀剣達だった。事態は急を要するとはいえ、編成から芙蓉の怒りが滲み出ていた。可愛い包丁を甚振ってくれた罪は非常に重い。
 藤四郎兄弟達は自分たちの兄弟が傷つけられようものなら、どこまでも殺しにかかる。兄弟をコケにしてくれたことを死んでも後悔させてやると。藤四郎兄弟としての矜持が大いに発揮される時だった。

「遡行軍は一生通行止めよ。どうしても会談の邪魔をしたいなら、通行料は命と引き替えだということを知らしめてやりましょう」



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