一六三七年の遠雷

松井江式ショック療法


 この本丸に包丁藤四郎が来てはや数日。和泉守が率いる第一部隊に入れて出陣することになった。包丁にとってこれが初めての初陣となる。

「よぉーし、俺が入ったからには大船に乗ったつもりで勝ちに行くぞ!」

 どうやら包丁は柿をくれた小夜に懐柔よろしく仲良くなったらしい。同じ部隊の仲間となった小夜の手を握りながら意気揚々と出陣に向かおうとするが、あまりにも大きな態度に「言っておくが部隊長は俺だからな!?」と早くも不安を覚えた和泉守の背中を見送ることになった。他にも五虎退、南泉と篭手切江がいるが、上背のある和泉守と短刀の中でも一際背が低めな小夜と包丁の二振が並ぶと引率の先生と子どもに見えなくもない。

「あれは……闇鍋の再来じゃないかな」

 一抹の不安を感じた松井江がこっそりと耳打ちする。が、芙蓉は平然としていた。

「大丈夫よ」
「根拠は?」
「なし。だけど和泉守には必要よ」
「どうして?」
「包丁っていう一番クセが強いのを最初に見せておくとね、大抵の隊員は大人しく見えるのよ」

 芙蓉の遠い目を見た松井江は「ああ、すごい説得力だ……」と言ってその話題を終わらせる。出陣の準備が整ったのだ。「じゃあ行ってくる」と第一部隊は過去に時間跳躍して行った。
 松井江は第一部隊の面々を見送ると執務室に戻ろうと上着を翻したが、芙蓉はそのまま今さっきまで六人が立っていた場所を見つめていた。「さっきの必要と言ったことだけど」と芙蓉。

「……あの手の性格は常に誰かを引っ張って行く方がいいと思うから。特に堀川国広がいない今は。堀川より先に顕現したのに、いざ再会して和泉守が腑抜けだったら堀川が困っちゃうでしょう? 和泉守にとっても歌仙から第一部隊を引き継いだんだからいいきっかけよ」
「なるほどね。先を見据えてなわけだ」
「そういうこと。さぁ、仕事に戻りましょうか」

 面々を見て不安を覚えたのも確かだが、これから先を見据えてと思うとこれから起こるトラブルは必要な勉強代と思える。執務室に戻る松井江の顔からは不安は消えていた。


   * * *


 宵の口・手入れ部屋。
 いつもは閑散とすることが喜ばれるこの部屋に、今日は明かりがついていた。

「くっそぉ〜、戦場に迷い込んだ人妻の声援さえあれば……!」
「懲りないわねえ、戦場にいる人妻なんて十中八九罠か毒婦だから絶対近づいちゃダメよ」
「いち兄、主が辛辣だよ!」

 手入れを終えて傷もすっかり塞がったた包丁は、念のためそのまま手入れ部屋で休むこととなった。芙蓉は修復中に松井江から渡された報告書を包丁の布団の横に座って読んでいる。
 第一部隊の帰還は早かった。任務自体は果たしたものの、ご立腹の和泉守は脇に抱えた包丁の抗議を物ともせず文字通りそのまま包丁を手入れ部屋に放り込んだ。報告書には「誉は五虎退、敵の本陣との戦闘にて包丁が軽傷」と書かれているが、包丁の名前が書かれる部分の手前が墨で黒く塗りつぶされている。紙の裏側から見ると達筆な文字で「クソガキ」と書かれていた。

「和泉守は詰めが甘いわね……」

 墨で証拠隠滅を図るのであれば、乾かないうちに裏側からも塗りつぶさないと意味がない。二度書きの基本だ。和泉守は書類弄りが不得手と見た。逆に長文になろうが構わず思ったことを全部書かずにいられない歌仙を含め、兼定の刀はことごとく書類仕事に弱い。思ったことを正直に言ってくれるところは助かるが、こういう正直はよろしくない。そもそも報告書に怒りをぶつけられても困るのだが、そこには目を瞑る。
 芙蓉がいる反対の下座には、包丁の兄である一期一振が座っている。申し訳なさそうな顔をしながら一期は言う。

「申し訳ありません主、弟の冗談にまで付き合わせてしまって」
「気にしないわ。それにしてもこの報告書、所々墨が染み込み過ぎて紙をブチ破ってる箇所があるんだけど……包丁は和泉守に何を言ったのよ」

 別に呆れなどはしないが、純粋に気になった。元々血の気が多い新撰組の刀ではあることを差し置いても、ここまで感情で荒らされた報告書は珍しい。

「知らないあんなやつ! もうおやつ食べて寝る!」
「こら包丁! 面目ない、あとで言って聞かせますので」
「明日でいいわよ。それとこれ、その時に一期から包丁に渡しておいてね」

 芙蓉は袖から白い封を一期一振に差し出した。中身をわかっている一期は中身に関しては問わず、お礼を言って上着にしまい込んだ。

「かしこまりました。ありがとうございます」
「え、それなに? お菓子?」

 自分に関わることだからか、雰囲気から見てご褒美なのを察した包丁は寝たまま目を輝かせた。

「元気になってからのお楽しみ」
「しかたないな〜、頭撫でてくれたらすぐ寝るよ」
「私の手の平は安くないわよ」
「人妻じゃない上にお金まで要求するとか最悪なんだけ、ど……」

 言葉が途切れる。額に感じたのは刀を握って皮が厚く固くなった兄の手の平ではない。やわらかい温度を感じる女性の手だった。騒いで乱れた淡い栗毛の前髪を指で掬い、整えるようにひと撫でした。

「暴れると傷に響くから今日はもう休みなさいな」
「ふ……ふん。言われなくてもわかってるよ」

 そう言うと、包丁は布団を頭の上まで被ってしまった。声はふてぶてしいが、隠しきれない感情を覆うように布団を握る手の力は強い。

「初めての出陣お疲れ様。また次の出陣頑張って」
「もう寝るから主も寝なよ」
「はいはい。じゃあ一期、お説教もほどほどにあとはよろしくね」
「はい、おやすみなさいませ」

 芙蓉は戸を閉めるとその場に立ち止まった。これだけ大人しくなるとは思わず、面白おかしくて声を堪えて笑ってしまった。
 ──包丁藤四郎、存外可愛いかもしれない。人妻じゃない呼ばわりは解せないけど。
 まだまだ今日の仕事は終わらない。だが執務室に戻る足取りは軽かった。
 

 そして次の日。
 執務室には小さい嵐が来ていた。

「万屋に行きたい、ねえ……。行って来たらいいじゃない。ほら、外出届」
「そうじゃないの! 俺は主と一緒に行きたい!」
「そう言ってくれるのは素直に嬉しいんだけど、仕事があるのよねぇ」

 包丁藤四郎は絵に描いたような幼さを持っていた。だが行けないのは本当だった。午後から他本丸を交えた政府との会議があるからそれまでに仕事を終わらせないといけない。

「私は行けないけど、この優しいお兄さんが一緒に行くのはどう? 人妻にモテる秘訣を教えてくれるわよ。……多分」
「!?」

 突然の指命に松井江が目をかっ開いて芙蓉を見る。語末の「多分」が聞こえているのは松井江だけだった。なんて無茶振りをしてくれるんだと縹色の瞳は声なく抗議する。

「本当!? いち兄に聞いても全然教えてくれなかったのに!」

 期待値の上がる包丁をよそに、松井江はあくまで余裕の顔を崩さない。すっと立ち上がると芙蓉に耳打ちする。

「主、ややこしくしないでくれるかな?」
「大丈夫よ。嘘はつかず真摯であれ的なことを言えばいいと思うから。貴方案外ぴったりじゃない?」
「それでも……」
「やっぱやだ!」
「えぇ……?」

 有無を言わさない包丁の声で執務室は静まり返った。完全にとばっちりを受けた上に拒否された松井江は、そのまま白目を向くんじゃないかというくらい天井を睨んでいる。

「包丁、どうして嫌なの?」
「人妻な刀剣ならいいけど、男だし、それにお菓子も買ってくれなさそう!」

 そんな刀剣いてたまるかと芙蓉と松井江はここぞとばかりに声なく叫んだ。だが気になる言葉を聞き逃さなかった松井江は言う。

「買ってくれなさそう……? 包丁は昨日主から褒美をもらっただろう」

 芙蓉は初陣を終えた刀剣男士には金一封を渡していた。これから命がけで戦うのだから、せめてもの褒美の意味を込めてのことだったのだが、それをもらったにも関わらず買ってもらうことを期待していると包丁は言ったのだ。

「自分でも買うよ! でもどうせ買うならいーっぱいお菓子が欲しい! 人妻とお菓子の天国を目指すには全然足りないよ」
「へぇ、人妻とお菓子の天国か……」
「松井……?」

 これはまずい。思った以上に問題児だった。
 この調子だと多分、他の人の財布に集る未来が見える。見えたのは芙蓉だけではない。その証に無駄な浪費を嫌う我が本丸の経理担当松井江の目が据わっている。全ての刀剣男士に支払う金銭も全て把握している松井江を目の前にして堂々と「浪費するぜ」発言をしてしまったのだ。
 一期一振はどうしてこの場にいないのかと思ったが、窓の外を見てすでに包丁とは一悶着終えた後なのだとわかった。執務室から見える門の前に、先回りしたであろう仁王立ちする一期一振の姿が見えた。

「いいよ。主命だからね。僕が行く」
「え?」

 思わず急いで振り向く。松井江が自ら包丁の付き添いをすると言ったのだ。この物わかりの良さにひくりと頬がひきつった。

「……話が早くて助かるけど、落ち込ませちゃだめだからね? お願いよ?」
「フ、わかってるよ」

 本当にわかっているのだろうか。どうしてこんなにやる気を出したかって、どう考えても包丁の浪費癖の片鱗が見えたからに他ならない。

「僕が出てる間の近侍は薬研に頼んでおくから」
「え、ええ…ありがとう。いってらっしゃい」
「いってくるよ」

 松井江の顔に濃くはっきりと書いてある。「任せろ」と。かつてないほどの自信を感じる。
 そういえば、歌仙の元主がいた熊本藩は借金が多かったという。松井江の元主である細川家に長く仕えた筆頭家老松井興長は、浪費癖の酷かった当時四代目の熊本藩主に約五メートルにも及ぶ浪費を諌める手紙を出したと言われている。主君のお家事情を知っているからこその行動だが、浪費に対するその稀有な執念は立派に松井江に影響を与えていると言っても過言ではない。

「これは……人選を間違えたかもしれない」

 ──せめて万屋で問題は起こさないことを祈ろう。
 包丁はかわいそうな目に合うかもしれない。時間に責め立てられながら、不安を胸に芙蓉は実務を再開した。


   * * *


 松井江が二人分の外出届を提出してからの行動は早かった。万屋のある一帯は帯刀が禁止される区域だから持って行くのは財布だけ。一期一振は包丁の無駄使いを予見していたらしい。実際渡した金額より少ない金額だけを包丁に渡されたことが兄弟喧嘩の原因だった。

 だがそんなことを忘れて、短い道中で包丁は初めての万屋に期待感を膨らませていた。松井江より数歩先を我先にとスキップ交じりで進んで行く。そしてお望みの万屋に着くと左右と床から天井までまず見回して、自然と足はお菓子売り場まで向かう。
 陳列棚に並ぶお菓子を見ては、気になるものを片っ端からカゴに放り込んで行くのを松井江はただニコニコと笑いながら見守っていた。どう見ても一人で食べる量ではない。恐らく計算もしていない。そもそも値表示を見ていないとすら思える。すでに持っているカゴからはお菓子がこぼれ落ちそうになっているけれど、それでもまだ手に取ろうとする。

「お菓子がい〜っぱいあったら毎日幸せなのになあ! 本丸にもっとお菓子を常備してくれたらいいのに。松井もそう思……」

 言葉を遮る形で包丁の手を松井江が掴んだ。

「果たして本当にそうかな……?」
「え……?」

 今まで普通だった松井江の声のトーンがいきなり下がった。形容し難い圧をかける目は一切の瞬きすらない。

「本丸の経費でお菓子を買った場合、包丁一人のためだけに買えないから全員分のお菓子を計上する必要があるけれど、知ってるかい? 君が持っているその袋菓子は、本丸の食事一食分より高いことを」

 さすがに何かの気配を察した包丁は狼狽し、何が始まるのかと硬直する。

「お菓子を買うにも作るにもお金が必要だ。基本的にお金の貸し借りは禁止だから、その給料の中で各自がやりくりしていかなきゃならない。もちろん私情で給料を増やすことはしない」

 包丁は思い出す。執務室で松井江に「お菓子を買ってくれなさそう」と言ったことを。あれが松井江の琴線に触れたのだと悟った。

「もし増やす場合、公平性を鑑みて全員分の給料を増やすことになるね。そうなると本丸自体の経費が減る。減ったらまずは僕達の食事の量が削られていくよね? 戦うことが本分の僕達が、戦の準備を疎かにするわけにはいかないから……ここまではわかるかい?」
「う……うん」

 いきなりお金の話を饒舌に語るものだから包丁は頷く他なかった。松井江は道中ずっと穏やかに包丁の話に相槌を打ち、自身はゆっくりはっきり喋っていた。芙蓉が言っていた「優しいお兄さん」は、包丁の中でだんだんと「怖いお兄さん」の認識で塗り替えられていく。

「それ踏まえて聞くけれど、その量のお菓子をどうやって買って、どのくらいのペースで食べきるのかな……?」

 包丁が唾を飲み込んだ。松井は怒ってはいない。怒ってはいないのだが、目が笑っていないのだ。
 これは一期一振のように頭ごなしに「ダメ」と言うのではなく、本丸の財政状況や包丁の懐事情の説明から入り、根本的に包丁にわからせようとしている。松井江は自分で気づいているのだろうか。話している間、右手の人差し指と親指が見えないそろばんの珠を弾いている。計算の速さは演練で出会った博多藤四郎といい勝負だろう。博多との決定的な違いは、あちらは「お金をいかに増やすか」という思考だが、この松井江はその真逆を行く。「地道にコツコツと徹底的な節制」を包丁藤四郎に求めている。話しながら本気で必要以上のお菓子を買わせないぞという松井江の強い意志を感じた。
 この男にしてみれば財布の紐を固く結ぶなんて生易しい。本能に任せてお菓子を買おうものなら、がま口財布の金属部分を溶接し始めるに違いない。

「いっぱいお菓子があれば毎日幸せと言っていたね」

 どうしてそう言質を取って掘り返すのか。包丁はもう勘弁してくれと発言権を自ら松井江に返上する気持ちで話を聞いていた。

「さっき本丸の一食分の食費が袋菓子より安いと言ったけれど、食材のうち野菜の部類は畑で自家栽培しているとはいえ当然口にするものは野菜だけじゃない。肉、魚、調味料もある……それを三食で三倍、本丸の人数分更に倍になり、そしてそれを一年分倍にするんだ。しかも仲間は増える。ああ、必要経費とはいえ金額を考えただけで鼻血が出そうだよ……」

 ──どうしよう。ただお菓子を買いに来ただけなのに不必要な血が流れそうになってる。
 先ほどまで「もっと買っちゃえ」と景気よく促す脳内の人妻達が、お金について饒舌に述べるこの男の話を聞いて一目散にどこかへ散って行った。人妻にモテる秘訣を教えてくれるどころか蹴散らす天才かもしれない。「主の嘘つき」と包丁は心の中で叫んだ。
 もしかしたらこの松井江という刀剣男士は、時間遡行軍以上に無駄な浪費というものをこの世から真っ先に滅ぼすべき悪と思っているんじゃないか。そういう活動家か何かなのか。あるいは元主がそういう活動家だったのか。きっとそうに違いないと包丁は心の中で断言したが、概ね正解であった。

「さぁ、もう一度聞くけど、その君の所持金で買えないであろうカゴに入っている菓子を、包丁はどんなペースで消費するんだい……?」


 しばらくして万屋の店員の挨拶を背に受け店から出た。
 あれだけカゴいっぱいに詰め込まれていたお菓子はどこへ行ったのか、包丁が手に持っている袋はこじんまりとした普通のサイズに収まっている。

「もう松井とは一緒に買い物しない!」
「フ、今回は主の命だからねぇ。またそうならないようにお金の使い方には気をつけるんだよ」
「むぅ……予防線まで張ってくるのか」

 気づけば時刻は昼前に差し掛かっていた。あの地獄の講義を一時間も聞いたご褒美があってもいいんじゃないかと思った包丁は「何か食べて帰ろうよー」と松井江に持ちかける。手持ちの懐中時計を見た松井江は「そうだねぇ」と少し考えた。

「じゃあ食べて帰ろうか。お代は僕が出すよ。初陣祝いだ」
「やった!」
「何が食べたい?」
「え……? 俺が選んでいいの?」
「祝いだし、僕は味より栄養の方が大事だからどれでもいいよ。ただし食べきれる量でね」

 ぱっと花開いたように明るくなった包丁は周辺に並ぶ「そば」や「定食」の暖簾がかかった店の品書きとガラス張りのディスプレイに駆け出した。案外すぐに決まり、「ここがいい!」と言って松井江に早く来るように促すと、待ちきれずに先に暖簾の中に潜って入って行く。
 松井江は特になんの店かと思ったが、これもまた案外普通の定食屋だった。包丁は先に案内された席に座って品書きを楽しそうに捲っている。食べ物の名前より、見た目の写真に注目しているようだった。「決まったかい?」と聞いて松井江も着席すると、包丁は「これ!」と指を差す。

「……ころっけ定食」
「そう! これ本丸でもまだ見たことも食べたことない!」
「わかった。じゃあ僕もこれにしよう」

 松井江は二人分のころっけ定食を注文すると、包丁が興味深げに聞く。

「松井も食べたことないの?」
「ないねぇ」

 そして再び時計を見る。あの量の書類を一人で捌ききれるとは思えない。なるべく早めに帰るべきと踏んでいたが、包丁がすぐに店を決めてくれたから、そこまで急いで食べなくてもよさそうだった。そうわかると珍しく、今度は松井江から包丁に話を切り出した。

「ずっと聞きたかったんだけれど……包丁はどうして人妻が好きなんだい?」

 ご飯を待つ間も品書きをずっと眺めていた包丁が顔を上げる。なんでそんな当たり前なことを聞くんだといった面持ちだった。

「なんだよ〜聞きたいことってそんなこと?」
「そんなこと……まあ、そうだね」
「人妻はさ〜、こう優しくて、頭撫でてくれて、お菓子をくれるからに決まってるじゃん!」

 すごく自慢げに短く語り、「どうだ、わかったか」と胸を張っている。正直に言えば、もっと悪い方の意味で捉えていると思っていた松井江は呆気にとられて口を閉じるのを忘れた。

「……それだけ?」
「なんだよ、他に何があるんだよ?」
「いや、それは寧ろ……」

 ──母性を求めているだけなのではないか?
 だから昨日執務室にきた薬研が遠回しに包丁を擁護することを言っていたのかと納得した。包丁を説教する際に同じことを聞いたのだろう。芙蓉本人に直接言わなかったのは、短刀との距離感を気にする芙蓉のためだった。これは他人が言うべきじゃない。
 昨日、夜に手入れ部屋から戻った芙蓉がひどく楽しそうだったから話を聞いていたが、あの距離感を包丁は求めているに違いない。
 ──なんだ、そう考えるとあんまり悪い意味ではない。まあ、言葉の聞こえは悪いけれど。

「ねえ、寧ろなんだよ! 変なところで止めないでよ、気になるだろ!?」
「ああ、すまないね……忘れた」
「えー!? なんだよそれ」
「ほら、ころっけが来たよ」

 気を逸らすように、お膳を持った店員がこっちに向かってくるのを伝えると「早く言ってよ!」と台の上の品書きを急いで片付ける。それを眺めながら、松井江はお茶の入った湯のみを啜った。



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