一六三七年の遠雷

人妻恋し小満


 審神者には『鍛刀』という日課が課せられる。
 鍛刀とはいうものの、実際鍛刀をするのは式神の仕事で、審神者である芙蓉がやっていることは、鍛えられ擦り上がった刀の魂を審神者の力によって揺り起こすこと。
 そして今、芙蓉の目の前には一振の刀が鎮座している。短刀だが、形に少し特徴が見られる。隣にいる薬研藤四郎が「もしかしたら俺達の兄弟かもな」と前のめりになることもなく見慣れた日課の光景を眺めていた。
 短刀に手をかざすと、一等強い光が鍛刀場を照らした。芙蓉の手の平の向こうに励起された小さな存在を感じる。光が視界を埋め尽くすほどの桜の花弁となり、弾けた。

「──やったぁ〜! 待ちに待った人妻だ〜!!」

 開口一番に聞こえたのは、まだあどけなさが抜けない子どもの声。だが少し様子がおかしい。
 本丸ではまず聞くことのない単語に聞き間違いかと思い、その場にいる二人はが耳を疑った。芙蓉は急いで薬研に顔を向ける。理解が追いついていないのは、薬研も一緒だった。馬当番を除いていつも精悍な顔つきを崩さない薬研の瞳孔が限界まで開いている。しかも冷や汗まで流している。
 目の前に現れたのはれっきとした人の形をする付喪神。淡い栗毛に、紺色を基調とした見慣れた洋装。薬研より頭一つ分背丈が小さい、この人懐っこい刀剣男士は芙蓉達の動揺など露知らず、畳み掛けるように自己紹介を続ける。

「俺は包丁藤四郎! 好きなものはお菓子と人妻! よろしく! 主が優しそうな人妻で安心したよ〜!」


   * * *


「……フフッ」
「不敬よ松井、笑わないで!」

 所変わって執務室。泣きそうな顔で抗議する芙蓉の目の前には、松井江が顔を背け肩を揺らしていた。抑えきれない笑いを精一杯堪えている。

「いやすまないね……あまりにも斜め上の言動で……」

 鍛刀を済ませて執務室帰って来た時。芙蓉の様子がおかしいと、松井江は実務の手を止めた。
 鍛刀をしに行っていただけのはずだが、妙に疲れきっていて溜息が多く顔色も心なしか悪い。「どうした……?」と探るように声をかけると「私って人妻に見えるの……?」と死んだ目で聞いた。松井江は一瞬「何を言ってるんだ」と困惑したが。誰かが不義を働いたのかと悪い方向に想像を働かせて問いただすと、芙蓉はそれをやはり死んだ目でやんわりと否定した。


 あの後、硬直する芙蓉は無理やり開けた口で現実を確かめるように不本意ながら「人妻……?」と復唱した。顕現したての包丁藤四郎は何がよほど嬉しかったのか、その場で飛び跳ねて芙蓉の腰に抱きついてくる始末。その奇妙な空気感の中、外にまで伝わる騒がしさにつられて骨喰藤四郎が鍛刀場に足を踏み入れた。

「あ! 誰か来た!」
「……新しい仲間か?」

 薬研は助かったと言わんばかりに骨喰へ包丁を紹介した。

「骨喰兄、包丁藤四郎だ。今さっき顕現した」

 そう言われて「そうか……」と骨喰は視線を包丁の方へ下げた。骨喰と名前を聞いた包丁は懐かしむように高揚している。

「すまない。俺は記憶がないが、前に兄弟から同じ徳川にいた中に包丁もいたと聞いた」
「え、うそ! 記憶ないの!? 後藤兄は? 宗三は? 物吉は? みんないるの?」
「全員ではないが、いる」
「そっかぁ、みんなで人妻について語り明かしたかったなあ。でもでも、骨喰兄にもこうして会えたし、何より主が人妻なことが今の俺にはこの上ない幸せだよ!」
「……?」

 骨喰が聞き逃せない単語を見つけて僅かに反応を見せる。芙蓉と薬研はもう勘弁しろと肩を落とした。

「包丁」
「なに?」
「主は人妻じゃない」
「え……?」

 包丁はこの世の終わりを告げられた顔で芙蓉を見上げた。骨喰は包丁に伝わったのかがよくわからないのか、念を押すでもなく淡々と、もう一度告げる。

「主は……」
「骨喰……何度も言わなくていいわよ」

 顔を真っ赤にさせた芙蓉が骨喰の口に手を添えて続きの言葉を塞いだ。芙蓉に恨めしげな目で見られて、骨喰は素直にやめた。

「そうか。すまない」
「ええ〜!? 嘘だよ、詐欺だ! 絶対人妻だと思ったのに!」

 居た堪れなさここに極まる。目の淵に涙を溜めて断言することだろうか。人妻ではないのに声を大にして人妻だと指を指されると心が謎に辱められた気分だった。穴があったら入りたいと芙蓉は袖で顔を隠すと、これまでに聞いたことのない薬研の怒鳴り声が鍛刀部屋に炸裂した。これから刑を執行される大罪人のように最悪な往生際の悪さを晒しながら「嘘だ!!」と魂と血の雄叫びを上げる包丁の首根っこを掴み、薬研によって隣の資材置き場へ強制的にその場から引きずられていく。
 こうして芙蓉と骨喰は鍛刀部屋に取り残されたが、骨喰は「兄弟に包丁のことを伝えてくる」とだけ言い残し、うんともすんとも言わず真顔な芙蓉は無言で執務室に帰った。

「もう本っ当に恥ずかしかった……」

 松井江のあらぬ誤解を解くためことのあらましを伝えた芙蓉は、机には戻らず革張りのソファーの上で身体を横にしていた。
「仕事は?」と松井江が聞くと「具合悪いわ。気分の」とだけ返す。松井江自身も内番サボりの常習犯だったから、それ以上何かを言うことはない。気兼ねない関係が執務室にあった。

「お茶でも飲むかい? 気分転換になるんじゃないかな」
「……飲む」

 そっけない返事だが、松井江は穏やかに笑う。執務室の棚の中には何種類かのお茶がある。こういったものには歌仙が特にこだわりが強い。松井江がその中から一つ茶葉を出すと、執務室の扉を誰かが叩いた。「入るぞ大将」と告げて入室したのは薬研。ソファーに寝そべる芙蓉を見つけては、申し訳なさそうに頭を掻いた。

「すまなかったな大将。俺もびっくりしちまった。兄弟のやったことは同じ兄弟である俺の責任でもある」

 松井江は薬研の分のお茶も淹れた。差し出すと、すまんと一言だけ言って続ける。

「包丁には俺からキツく言い聞かせたが、今はいち兄からも説教を食らってるところだ。だがまあ、悪いやつじゃない。ちっとばかし自分の欲に素直すぎるだけだから、よろしくしてやってくれ」

 芙蓉がおずおずと身体を起こして薬研を見た。いつの間にか、松井江は自分のお茶を飲みながら実務を再開している。

「本当……?」
「その猜疑心を落ち着かせられるだけの説得力を持てないのが心苦しいぜ大将」

 内容にそぐわない声量で堂々と言い放つ。暗にあんなことはもう起きないのは絶対ではない、と言っていた。
「薬研の発言はいつも力があると思っていたけど、弱気な発言も力強いのね」
「俺のいいところとして受け取っておく。……これは同じ短刀として言うことだが、包丁は一等短刀らしい性格をしてるから、そこんとこ頼むぜ。大将」

 主の身近なところに置かれることが多かった短刀は審神者との距離感を一番気にしがちだ。甘やかしすぎてもダメ、淡白すぎてもよくない。近すぎず遠すぎず。芙蓉にとって一番接し方について慎重になるべき刀種は短刀だった。

「……一期一振のお説教は長いし、とりあえずこの件はなかったことにするわ」
「ああ、わかった。ありがとな」

 薬研は湯のみのお茶を一気に飲み干すと「邪魔したな」と執務室を後にした。実務をしながら聞き耳を立てていた松井江が再び手を止めて芙蓉の方を向く。この短時間のうちに起こったことを思い返しながらまだ見ない包丁藤四郎を想像する。

「賑やかになりそうだね」
「そうね。人妻への変な執着以外は明るそうないい子だと思う。一期の説教で懲りればいいけど」

 そう言うとまだ湯気が立つ湯のみに手を伸ばす。鼻から抜ける香りがいつもと違う。「これ松井がこの前買ったやつ?」と呟くと「うん」とだけ返ってきた。ゆっくり飲むと、湯呑みを持ってそのまま放りっぱなしの書類を片付けるために机に向かって行く。

「気分転換はできたかな?」
「おかげさまでね」

 もうすっかり気分はいつも通りに落ち着いている。歌仙の嗜好とは別の松井江の選んだお茶を飲みながら、芙蓉は実務を再開したのだった。



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