一六三七年の遠雷

松井江という刀


『松井江という刀はどの刀剣よりも自我が強く、良くも悪くも人間らしい面倒臭さをしている』


*  *  *



 天に太陽、地に光。
 酷寒に耐え忍んだ寂しい桜の枝に花開く準備がされる頃。いつもは刀を手にして戦う彼らも、農閑期を越えた備前の本丸では刀剣男士が総出で畑仕事に勤しんでいる。今日は全員が農具を手に戦装束ではなく動きやすい格好で泥まみれになっていた。
 毎年恒例になっているその光景を本丸の執務室の窓から眺める女は溜息まじりに紫煙を吐き出した。外に向けられている朝焼けを閉じ込めた紫の瞳は執務室の中へと戻り影を落とす。奥の机には報告書類がいくつも低い山を作っていて、手つかずの状態で置かれている。
 終わらせても終わらせても勝手に増える書類仕事に毎日追われる身からすれば、手に持った煙管から上がる紫煙の匂いが忙しなさをちょっとは薄れさせてくれる、安寧を与えてくれる心強い味方だった。
 その煙管の火皿の先端が目線の先に向けられる。この貴重な休憩時間を説教のために潰そうとする輩を見据えて言い放った。

「ほら見なさいな松井江。みんなが汗水流して明日のご飯のために働いているというのに、貴方はどうしてここにいるの?」

 机の傍で立つ細身の男は畑に目もくれず、書類の束を整えている。丁寧に襟足で切り揃えられた黒髪を揺らしてさも当然のように言った。

「僕は畑を耕すくらいなら土に還った方がましかなぁ」
「働かざる者食うべからずっていうのよ。馬鹿なこと言ってないで早く内番着に着替えて戻りなさい。貴方がいないって桑名が気づいたみたいよ」
「泥だらけの状態で執務室には来ないだろうから大丈夫だよ」
「その計画性をもっと別のところで活かせなかったの?」

 たとえ兄弟にサボりがバレたと伝えたとしても全く動じない。この松井江という刀、こういうやりとりは一度や二度ではない。内番サボりの常習犯なのだ。こんのすけにでも聞いたのか、こうして休憩時間を見計らって毎度やってくる。
 審神者──芙蓉は早々に松井江を持ち場に帰らせることを諦めてわざとらしくもう一度溜息を吐いた。

「素行不良がいき過ぎると給料減らすわよ」
「それを挽回するためにここに来てるんだけど」
「案外しぶといのね。そろそろサボりの口実のネタも尽きる頃だろうと思っていたんだけど、ここまでくると次はなんて文句をつけてくるのか楽しみにしてたのよ。今日はどういった理由でここにきたのかしら?」
「豊前には馬当番、桑名は畑を任されてるなら、僕は実務を任されたい」
「そうきたかぁ……」
「適材適所って言葉は主も好きだろう?」
「松井江、貴方……」
「なんだい?」
「見た目に騙されたわ……もう少し謙虚な性格だと思ってた」

 篭手切江の名前を上げないのは、なんでも吸収しながらそつなくこなしてしまうからだ。それをこなした上でやりたいことをやっている。適材適所という前に、まずはそっちを見習ってほしいところだった。
 やれ畑仕事をさせると「桑名と僕を間違えないでほしい」だの、馬当番をさせると「馬は自分を怖がっているみたいだから向いていない」だの、「手合わせや演練はより堂々と血を流せる実戦がいい」と、顕現したてにしてはなかなか舐めた文句をぶつけてくる。しかも本人は正当だと言わんばかりの悪びれのなさ。サボりの口実に対しての語彙力は間違いなくこの本丸で一番だった。

「好き嫌いがはっきりしすぎというか我が道を行くというか……いや、百歩譲って好き嫌いがあるのはいいわよ。だけど貴方まだ顕現してそう経ってないのに最初から飛ばしすぎじゃない? こうもハッキリ主命を足蹴にするどころか逆に指図してくる刀剣男士なかなかいないわ。危うく煙管を噛み潰すところだったのよ。顎が痛いの。毎度貴方の話し相手になってる私にちょっと一回感謝する練習してみない?」
「いつも僕の話を聞いてくれてありがとう。僕を近侍にしてくれたら噛み潰す心配はなくなるよ」
「それよそれ。過言よ。松井江ってみんなそういう性格なの? それとも貴方が特別我儘なだけ?」
「我儘を言ってるつもりはないよ。不向きな作業を無理にやって時間をかけるより、得意分野に振り分けて役割分担がはっきりしている方が効率いいだろう?」
「物は言いようよねぇ。その清々しい主張が羨ましいわ。私もそんなふうに気持ちよ〜く上の方々に進言してみたいものね」
「で、どうだい? 僕なら貴方の力になれると思うんだ。とりあえず僕がいる限りこの書類の山は作らせないよ」

 それはそうだろう。来歴が物語っている上に、執務室にサボりに来ては実際は頼んでもないのに勝手に書類の整理や要点の抜き出しをしているのだから。
 だが松井江が来たのはこの冬の間だった。完全に新参者なのだ。ここで「はい、じゃあお願いね」となると、松井江の他に内番を嫌っている刀剣男士達が黙らない。近侍が内番や当番の免罪符になるのであれば、自分もやるというものが出てくる。傍から見るとただのサボりの口実、新人の我儘だ。簡単に頷くわけにはいかなかった。

「自信があるのは結構だけど、お願いするならもう少しまともな駆け引きを覚えなさいな」

 詰めが甘いと跳ね返すが、松井江はすでに次の手に打って出ていた。爪を瞳の色と同じ色を施した指先が、机の上から一枚の書類を掴んで芙蓉の前に差し出している。

「この書類」
「なにかしら」
「他の本丸から資源を横領した形跡があるね」
「……」
「おや、どうして目を逸らすんだい?」
「涙を堪えてるのよ。快く譲ってくれたというのに、私が顕現させた大事な貴方がそんな泥棒を見るような目で私を見ていたと思うと悲しくて」
「フ、口元が僅かに笑っているよ」
「自分の望みのためならたとえ相手が主であっても強気に出るのね。私の二の舞が増えないように貴方の刀帳に追記しておかなくちゃ」
「ついでに畑当番、馬当番には向いてないとも書いておいてくれると助かるよ」
「いい加減にしないと流石に怒るわよ」

 ああ言えばこう言う。槍の刀剣男士だってここまで我を貫き通すことはない。向こうの方が何百倍も謙虚だ。自分の矜持を守ることに熱心なのはいいが、戦場でこそ映えるものだろうと思ってしまう。内番を嫌がるものはそれなりにいるものの、大体数をこなせば文句を言いつつもやってくれるし嫌でも手が慣れるというのに、この美意識の塊のような刀剣男士は自分のスタンスを断固として譲らない。
 しかしながら、本人の得意分野を強く望む声を我儘だと無下にするのも少し忍びない。やり方はこの上なく悪いが、一緒に実務をする姿を想像してみると案外良さそうと思ってしまったのだ。

「……まあただ、元主が実務に秀でた人であっただけはあるのよね。貴方が勝手に作り直してくれた戦績は見やすくなったし、人見知りはするけれど周りのことをよく見てるのは知ってる。数字に目敏いのもたった今よくわかった。……これで他の刀剣男士達から苦情殺到したら貴方に脅されたって答えるから」
「それは……まあいいよ。うまく切り抜けるさ」
「いい心意気ね。私の近侍になるのならそれくらいできてもらわなきゃ。内番もそれくらいやってくれたらいいのに」

 嫌味たらしく呆れたように笑う。松井江はそれを受け流すように縹色の目を細める。この稀少と名高く、滅多にお目にかかれない郷義弘が作刀の打刀は強かさも併せ持っていた。

 芙蓉は書類を一枚摘む。さっき横領した形跡があると指摘したものとは別のもので、この備前本丸の資材を融通させて欲しいといった旨の申請書だった。赤で不可の判が押されている。

「こういうのは楽しようと横着する連中が多いから、松井江みたいな数字に強くて強気な人には向いてるわ。この本丸は備前国をまとめ上げる総代の本丸だから、こっちが望まなくても真面目な書類もふざけた書類も四方八方から常に山のようにくるの。もう一度聞くけど、本当にやるのね? 酷使する気満々だからボロ雑巾になっても知らないわよ?」

 この言葉は嘘でも冗談でもない。
 審神者が属する本丸はそれぞれの本拠地が国として分かれている。時の政府の発足当時は備前、相模、山城の三つだったものが今では二十一まで増えた。政府の役人が直々に管理するには審神者が増えすぎたため、所属国に中間的な役割を作ったのだ。芙蓉が審神者になった十三年前には、すでに総代という下からも上からも様々なご意見が飛び交う気苦労が絶えない立場が出来上がっていた。
 芙蓉に念を押された松井江は初めて実務中の芙蓉を見かけた時に聞いた小言を思い出す。

 当時は全本丸を対象にした戦力拡充計画終了直後だった。政府の催しが終わり、再び各本丸はそれぞれの時代への出陣が始まる。すると決まって総代へ何かしらの報告が集中するのだ。
 始めて松井江から芙蓉へ何をしてるのか問いかけたのはその時だった。電話が鳴ってると催促すると「この戦争が終わったら出てあげてもいいわよ」と松井江に取らせ、極めつけに「遡行軍は政府から末端の本丸にお金を渡して総代を書類で溺死させようとしてるんじゃないの?」と、冗談を冗談じゃない顔で言い放つ。口ではそう言いつつも律儀に書類を捌く手を止めずに動かしていた。中間管理職の苦しさを窺い知るには十分すぎる。
 それでも本当にやるのかと、念を押して問いかける。

「これが務まるのは、僕しかいないよ」

 松井江は堂々と自信たっぷりに答える。「寧ろ自分以外に相応しい者がいるなら連れて来い」と言葉なく細められた目は物語っていた。
 芙蓉は「こんのすけ」と呼び煙管の火皿でコツコツと軽く机を叩くと、机の椅子の足元で寝ていたまるまるとした管狐が椅子をよじ登り、なんでもない時でも常ににこにこしている愛嬌のいい顔を机からひょっこりと覗かせた。

「はーい、なんでしょう?」

 ふかふかの尻尾を揺らして問いかける。こんのすけの耳の裏を掻いてやると、いかにも気持ち良さそうにしている。そのまま頭を撫でながら芙蓉は言った。

「我が本丸の近侍殿に伝えてくれる?」
「歌仙さんにですか?」
「実務をしたがる変わり者が現れたから、いい加減書類仕事を放棄する数字が嫌いな貴方を近侍からクビにしますって」

 横で聞いていた松井江がギョッと目を見開いた。
 歌仙兼定は近侍である以前に、この本丸の初期刀なのだ。その初期刀が、近侍のクビを宣告された。そしてそれを、この一見するとぬいぐるみのようなものに伝えさせようとしている。

「くび……?」
「ええ、クビ。解雇ね」
「それぼくが言うんですかぁ!?」
「そうよ。よろしくね」
「いやですいやです! ぼくただでさえ今朝油揚げをこっそり食べたことで怒られたのに! 絶食を強いられるのはいやですよぉ」

 こんのすけは千切れるんじゃないかというほど首を横に振って強い拒否反応を示していた。そんなこんのすけを宥めるかのように、やはりゆったりとした口調で芙蓉は諭す。

「大丈夫、安心して。それに関しては今日の貴方のおやつを渡しておいたからその怒りはもう収まってるわ」
「えっ……」

 こんのすけの動きが止まる。今朝の朝食を思い出す。芙蓉の膝の上に座って献立を見ては「あんな大袈裟に怒らなくたって油揚げはまだいっぱいあったんじゃないですか〜」と、呑気に芙蓉から一口もらっていた。

「え!? だからお味噌汁に油揚げが……? 今日のぼくのおやつは……?」
「ないわよ」
「そんなぁ!」
「こんのすけは今日寝てばかりじゃない。それに一口あげたでしょう? ほら、私が呼んでるとだけ言ってくれたらいいから行っておいで。今は畑にいると思うから歌仙なら喜んですっ飛んでくるわ」
「はぁい……」

 あまり気が乗らないこんのすけのお尻をぽんと軽く押して促すと、ぽてぽてと小さい歩幅で畑へ向かって行った。
 こんのすけが去った執務室は妙に静かで、こんのすけを視線だけで見送った松井江の鼻孔を細く立ち上る紫煙が掠める。芙蓉は肩を震わせてくつくつと笑っていた。

「可愛いでしょう? あんなころころしたのでも、ちゃんと役に立つから可愛がってあげてね。貴方みたいな新人が近侍になるなら、人並み以上に出陣もどんどんしてもらうから」
「至れり尽くせりだよ。実戦も得意だから」
「あら頼もしい。じゃあこれからよろしくね。松井」



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