一六三七年の遠雷

二二〇五年の花嵐


 春も終わりの頃になった。
 帳簿を脇に挟んだまま資材庫の戸を開けるとふわりと桜の花弁が滑り込んだ。
 松井江はなんとなしに目線だけで追うと、畑の方からしきりに休もうと桑名江に猛抗議をする一文字則宗の声が風に乗って聞こえてくる。昨日は自らじじぃを主張し過ぎたあまり、ついに「老後の趣味に畑は最適だよねぇ!」と悪意なき一言に打ち負かされてしまったせいか、今日の文句は至ってシンプルなものだった。

 今のうちにそろりと資材庫を後にして執務室へと向かう。随分とまではいかないが、賑やかな本丸になった。則宗を始めとして骨喰と篭手切江しかいなかった脇差に鯰尾藤四郎が増え、日向正宗が増え、特命調査を終えた後に古今伝授の太刀と少し時間を開けて地蔵行平が加わった。

 そして本丸の当番表に「修行中」の項目が増えた。
 そこには歌仙兼定の名札が下がっている。


   * * *


「慶長熊本の記録をつけに行くんじゃなかったのかい」
「そうだった」

 松井江が資材庫から戻ると、芙蓉が執務机で硬筆で書き散らされた紙と睨めっこをしていた。本当に忘れていた様子でいそいそと万年筆の蓋を捻り、歌仙からの手紙を片付ける。

「手紙は思うように書けてる?」
「ううん、全然。手紙を書くのって意外と難しいのね」

 芙蓉は眉を下げて笑った。

 慶長熊本の特命調査を終えた後。歌仙を見送り、古今伝授の太刀と地蔵行平を迎え入れ、ようやく喧騒が落ち着き通常の審神者の業務に戻った頃のこと。
 執務机の引き出しを開けると、島原の任務の前に仕舞っていた両親からの手紙が入った検閲済み封筒が覗いていた。この封筒を松井江が開封して芙蓉の名前が明かされた時からすっかり忘れたままになっていたそれの中身を取り出すと、目を見開き、思わず息を呑んだ。
 黒い縞模様だったはずの便箋には、見間違えようのない母の筆跡があった。
 全ては明かされてはいない。内容は疎らでも充分すぎるほど、報われた心地で手の中の手紙を強く握った。

「──いざ書くと何書けばいいのか頭の中で話題が渋滞しちゃって。その点でいうと歌仙すごいわ。これだけ書いてて誤字すらないんだもの。政府に書き過ぎないよう注意を受けてるのはびっくりしたけど」
「誰よりも手紙に慣れてる歌仙を参考にしなくても……最初は簡単に元気ってことだけでも十分じゃないか?」
「だっていつ届くのかもわからないし、あんまり当たり障りなさすぎると誰か代筆したんじゃないかって思われそうじゃない?」
「そうか……」
「まあ、ゆっくり考えながら書くわ。私からは十年も音沙汰がない状態だもの」

 そう言って手紙の一式を机に仕舞い腰を上げる。
 遠くから聞こえる馬当番ではしゃぐ鯰尾の声と明確に叱る一期の声を耳にしながら回廊を渡り、離れの部屋に向かう。

「……鯰尾は歌仙が聞いたら気絶しそうな遊びをしてるわね」
「僕触れないでいたのに」
「無理よ。一期のあんな訛りかけた迫真の声初めて聞いたもの。ある意味、包丁以上に大物かもしれないわ」
「包丁と鯰尾って明日の出陣で一緒の編成じゃなかった……?」
「和泉守には特別手当でもつけようかしら」
「どんな?」
「胃薬」
「また可哀想な報告書が上がってきそうだね。長話を覚悟しないといけないんだろうなぁ」
「あら、修行に行ってくる? 歌仙みたいに」
「修行か……」

 考える素振りを見せる。真面目に考え込むのは予想していなかったらしい。

「やっぱりまだダメ」
「そう?」
「ダメ」

 やはり根は寂しがりだった。歌仙を送り出す時は気丈に振舞っていたが、見送った後は目に見えて心配から落ち込んでいた。

「……行くのは当分先だろうけど」

 と松井。

「まだ僕自身が過去を受け止められそうにないけど、受け入れられたらどうなるんだろうねぇ」

 修行には適正の練度が求められるが、練度があるからと必ず帰還してくる保証はない。旅に出てから帰って来ずの刀剣男士の姿も多くはないが、そういう男士がいるのは事実だった。特に一悶着ある背景を持つ刀剣男士を送り出すのは慎重にならなければならない。

「そういう話でいうと、松井は刀剣男士として顕現したことを最初は後悔してるんじゃないかと思ってたの」
「どこでそう思ったの?」

 心外そうに聞き返すが「素直に手入れをさせてくれなかったでしょ」と言われた松井江が言葉を詰まらせた。確かに、このままでもいいと言った覚えがあった。

「後悔はしてないけど……なんのために生まれたんだろうとは、ずっと考えてたかな。遡行軍を倒すだけでいいならどうして人の心なんて与えたんだろうって」
「そうねぇ。でも遡行軍や検非違使みたいな機械的な行いであの時の歴史を元通りにすることはまず不可能だったと思うわ。松井にだって覚えがあるでしょう?」

 そうでなければ陣佐左衛門の説得は恐らくできなかった。

「そうだね」とだけ返すと、芙蓉は立ち止まって振り向いた。いつの間にか刀帳保管庫の前に着いていたのだ。

 松井江が保管庫を扉を開けると扉の外で立ち止まる。だがなかなか中に入らない芙蓉を見て「入らないのかい」と促すが、中に入る素振りもなく、大事なものを眺めるように松井江を見上げた。

「私ね、自分が必要とされるのが嬉しかったの」

 それは今でも審神者と総代という立場に立っていることが示している。

「でも今はそれ以上に、松井から想われてることが何より嬉しい」


「この先に答えが見つからなくても、松井とこうありたいって思えるものはできたのよ──じゃあ、また後で」


   * * *


 閉じた扉を背に本棚へ歩み寄る。
 慶長熊本の記録を残すために足を運んだが、気が向いて思い思いに書かれた刀帳を覗き見て、元の位置に戻した。

「みんな、結構好き勝手書いてるのよね」

 まだこの本丸に顕現していない刀剣男士の刀帳の背表紙を人差し指が素通りしていき、松井江の刀帳に触れる。
 中身を見ないように、書き込めるページを開くと万年筆を手にし、書き出した。

 ──松井江という刀はどの刀剣よりも自我が強く、良くも悪くも人間らしい面倒臭さをしている、と。


   * * *


 満開を終えた桜が地面を春に染めている。
 温かい風が吹き抜けて役目を終えた花びらを逆巻きながら、新しく芽吹いた花の香りを運ぶ。刀帳保管庫の前で待ちぼうけながら松井江は芙蓉を待っていた。

「全てのものは循環の中で出来上がっている」とは畑仕事で嫌というほど桑名江から言い聞かせられたが、自分達はその枠から外れている。ひらひらと散って淡い赤から土の色に変わりつつある花びらを眺めた。
 そしてその自分達と共に過ごす審神者は普通の人間の人生とはかけ離れる。

 それでも芙蓉が心の内を明かした時、「そばにいて」と口にしたあの時。
 自分自身を取り巻く形のない苦しみを差し置いて、自分を突き動かした。たとえ人の真似事だとしても、そうしたいと思ったのだ。自罰で押し殺せない衝動だった。
 人間と刀剣男士と結ばれたところで、子どもだってできなければ、共に歳を重ねることもできない。苦悩と隣り合わせで傷を舐めて慰め合い、過去の激動と均衡が脅かされた現代の平穏を行き来する終わりの見えない戦いの行く末の最中にいて、終わった後もどうなるかは誰も知らない。

 だがきっと、これから大事なものがこの両手で抱えきれないほどに増えていく。
 兄弟である豊前江達に抱く感情とは違う、則宗が口にする愛と当てはめられるような単純な感情とも違うような、人がそれを何と言い表すのかもまだはっきりとわからないけれど。
 刀だった頃の、自分の名の元となった佩刀とされていた時とは違う。
 姉嵜芙蓉の人生に己の存在を刻みつけたいのだ。


「──……松井?」

 保管庫から出てきた芙蓉が呼ぶ。本能的な安堵に気が安らいだ。

「なに考えてたの?」
「……随分時間をかけて僕の刀帳を読んでたんだなって」
「松井の口から聞くことに意味があるって言ったのに、忘れたの?」

 顔を突き合わせて唇を食んだ。毛先が揺れて芳香が散る。
 笑みを深めて耳打ちをすると擽ったそうに頬を擦り寄せた。

「忘れてないよ」

 ──だから今度は、僕自身を貴方に物語ろう。


 本丸を吹き抜ける花嵐が二人の姿を攫った。



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