一六三七年の遠雷

春の形見


 大きくうねる炉の炎をただ眺めていた。
 ずっと見ていると目が焼けてしまいそうで、時折膝に顔を埋めてはまた上げるを繰り返す。

 今まで以上の戦力増強が急務となるため、最近はサボりがちだった鍛刀を少し多めにこなしていた。糊で固めたら鈍器になりそうなほど貯まりに貯まった富士札も、こういう時に使ってこそだ。いつもより明るんだ炎がぱちぱち音を立てながら弾けて揺らめく様子は、本来の役割を果たせる時がきたと張り切っているようにも見える。
 じっと眺めていると気が落ち着いた。たまに用もないのに鍛刀部屋へ足を運ぶ刀剣男士がいるが、少しだけその気持ちに近づけたのかもしれない。

 時計を見ると鍛刀職人が提示した完成時間はもうすぐになる。今日最後の鍛刀はなにが出てくるのか。新しい刀剣男士がくるのだろうか。富士札もただのちり紙となる時がある。今日はそれが多かった。
 重複した刀剣は刀解して元の資材に戻すことにしているが、還元というには元々投資した数よりはるかに減ってしまうからあまり嬉しいものではない。

 目を閉じると瞼の向こうの炎が揺れた。
 瞼の裏にこの数日間の激動が揺り起こされる。


   * * *


 あれから執務室に閉じこもった芙蓉と松井江は長義と連絡を取り合いながら必要な手立てを片っ端から行っていた。
 刀剣男士の約半数の負傷に伴う数日間の本丸機能の停止の申請、特命調査に向けて先行調査員から得た情報の集約。
そして戦力増強、拡充の要があるとして一文字則宗の当本丸への引き入れ。
 一文字則宗の引き入れが通らなかった場合、長期化した聚楽第を鑑みて保有する全ての資材を特命調査に参加する備前国所属本丸に分配し、特命調査は後方支援に徹する。それに伴い総代から退き、特命調査の戦績の優良者の中から選定し、次の備前国の総代とする。

 則宗の刀解も、他本丸に行く可能性も徹底的に摘み取ることに専念した。人によっては今までの関係に亀裂を入れかねない、場を引っ掻き回す打診をしたその翌日。拘束されていた則宗は解放された。

 騒動と併せて則宗の処遇をどうするかと荒れに荒れた場を制した決定打になったのは、自国の一本丸の凍結という一番の被害を抱えた相模の総代だったと芙蓉の代理を引き受けた長義は言う。
 普段同僚からは戦力以外では当てにならない扱いを受けていたが、ことがことなだけに今回は様子が違っていた。

 刀剣男士が一振り折れるのと、力のある限り際限なく刀剣男士を顕現させ、修復する力を持つ審神者が一人再起不能になるのでは被害の規模が全く変わってくる。凍結ともなれば、破壊されていない刀剣男士も顕現が一時的に解かれる。だが凍結された本丸が再び動き出した前例は片手で数えられる程度なのが現実で、実質解体と同義でしかない。
 遡行軍と交戦しての死ならまだしも、味方の自分勝手な都合によって潰されたようなものだ、と憤りを剥き出しにしていた。その上で稀少な則宗を我先に引き抜こうだの、刀解しろだの、同じようなことを繰り返すつもりかと、恫喝する勢いでその場にいる全員に食ってかかった。

 長義は聚楽第の一件の直後だったことから余程愉快だったに違いない。相模の総代のあまりの剣幕に私情を持ち出した者達は閉口して下を向く他ない珍しい光景が見れたと、長義の報告は終始動物園にでも行ってきたかのような口ぶりだった。

 本当ならば一番図太い要求をしている芙蓉と代理で出席した長義も恫喝される中に入るはずなのだが、その場にいなかったせいで相模の総代は怒りのあまりそのことは頭からすっぽ抜けていたらしい。同じ被害を受けた立場であることから味方意識が芽生えたのかもしれない。話し場における相模の総代のあと一歩の物足らなさと、芙蓉のちゃっかりした面が見事に噛み合ってしまったのだ。しめしめといった長義の顔を見て、同僚である他国の総代は解散後に一様にずるいと声を上げていた──と言っていたのは諍いが苦手で話に入りきれなかった美濃の総代、繭莉からの文面での通信だった。

 報告を終えた長義はあからさまに疲れを隠さず愚痴を漏らした。
「あーあ、君のせいで俺への風当たりが強くなってしまうかもしれない」
 と言う長義に、
「じゃあ私の本丸に引き抜こうかしら」
 と言ったところ、丁重に断られた。考え直せと。

「きっと俺のストレスの矛先は全て猫殺しくんに向かうだろうね。君と則宗と毎日顔を合わせるのなんてごめんだ。たまに話すくらいが丁度良いんだよ」

 則宗が芙蓉の本丸へ配属の承認が下りたのは丁度その時。「良かったな」とだけ言い、長義からの連絡は切れた。

 それから武装を解いた松井江といくつもの政府機関の検問を通り、守衛の先導に着いて行った先に、則宗の本体は厳重に保管されていた。
 非常に見覚えのある鈍い金色の拵えの太刀の一振りがそこにある。
 目の前にした瞬間、胸が詰まった。
 人の姿を解かれた一文字則宗を受け取った時が、本当にこの騒動の終着だった。

 本当の始まりだった日、底知れない孤独に沈んだ時に寄り添ってくれた一振り。
 もう何も失わせない一心で、この則宗を受け取るのは私でなければならないと強く思ってここまできたのだ。
 依代である一文字則宗を抱いたまま、もうしばらくは枯れて出ないだろうと思った涙が自分でもわけがわからなくなるほど後から後から大粒の涙が流れ出た。

 そして満を持して顕現する。
 すでに数人の総代や古参の審神者が抜け駆けで顕現を試したそうだが、則宗が応えることはなかったという。

「……則宗」

 涙を拭う。
 泣いてる姿ばかり見られるのはもう嫌なのだ。

「起きて」

 芙蓉の声に揺り起こされた瞬間、しんとした空間に懐かしい気配が生まれた。
 腕に抱かれた一文字則宗から、刀剣男士としての半生の記憶が雫となって落ちるように、命の花弁がひとひら溢れ落ちる。

「──とても、とても懐かしい夢を見ていた」

 ぽつり、ぽつりと声がする。

「小娘が泣いていた。近づいたら手を強く引かれて、そこで終わってしまったが……」

 白と赤の色彩が揺れ、はたと目が合う。芙蓉と松井江を交互に見た。

「何が起こっているんだ……?」

 則宗はゆっくり目を見開いた。神様のくせに天国に来たとでも思ったかのように呆けている。
 政府による顕現を解かれ、芙蓉の手によって再び顕現したと松井江がわかりやすく端的に伝えても「そんなはずはない」と、夢見心地のままでなかなか飲み下そうとはしない。
 今一度しつこく説明をしようとすると手で制され、言葉を遮られる。

「これが夢でないのなら、頬を叩いてくれないか」

 と、いつになく自信なさげに則宗は言った。
 それで伝わるのであればと望み通り渾身の力で叶えると、則宗は熱烈に床を抱いたまま「ああ、現実だ」と嬉しそうに笑った。
 隣にいた松井江はわかりやすく引いていた。



「──つまりは、僕を寄越さなかったら今後一切資材が大量に必要になった時のアテに出来なくさせると」

 芙蓉の本丸へと帰りつつ、これまでの話をしていた。検問の待機にあてられた部屋で則宗は閉じた扇を顎に当てながら聞いた内容を反芻する。

「自分の代わりに戦力的に申し分ない本丸の審神者を総代として差し出すか……」
「そうよ。嬉しいでしょう?」
「よく言う。性格の悪さが露呈してるぞ小娘、よほど必死だったと見える」

 底意地が悪そうに眉を下げて笑う芙蓉に、扇の先を向けて言った。目は呆れている。

「最前線の本丸にとっては遠征の負担が増えるだけ。代わりに差し出される審神者が心底気の毒で目も当てられないじゃないか。審神者の仕事は臣下の数だけ見ると大変だが、ある意味では自由な立場だ。目的さえこなせば後のやりようは自分次第だからな。
 それをあの都合主義か融通の利かない人間しかいない役人共と一緒に同じノリでやっていけると思うか? 今までのびのびとしていたのに、いきなり目の上のたんこぶが増えるだけで全く美味しくもない話だ」

 則宗は拡げた扇を仰ぎながら饒舌に語る。拘束されて再び顕現されるまでの短い間が余程暇だったのか、それまでの鬱憤を晴らすかのように喋っている。
 芙蓉は笑みのまま言葉を受け流し、松井江はこの話は政府本部の中でしてもいい話なのか口を閉ざして静聴するだけに止まっていた。

「戦績優良で強い本丸なんてごまんといるのに。そんなのを代わりに差し出されても、役割分担ができてしまっている今の総代連中からしたら心底迷惑な話だ。だが僕という条件を我儘と突っぱねるには今まで小娘は役に立ちすぎた。自分に依存させるだけ依存させて突き放すとはひどい話だ。小娘は嫌がらせの天才か何かか?」

 曲がりなりにも元監査官なだけあって今がどういった状況であるか飲み込みは早い。絶えず芙蓉の口から飛び出る数々の異常事態の有様を驚くこともなく受け止めているあたり、やはり当事者であった。
 あんな出来事に関わったことから則宗の練度は据え置きとはなっておらず、刀解を免れて本丸へ入るにあたり、政府本部への出入り禁止など通常の刀剣男士にはない様々な制約が科されることとなった。

 そしてあらかた話し終えたのを見計らうと、則宗は恭しく頭を下げた。

「申し訳ないことをした」

 則宗なりのけじめだった。松井江によって心の内にあるほんのさわりを知ったから、止めることもなくその一連の動作を受け取る。拒否したら、則宗の居場所がなくなると思ったのだ。

「……」

 芙蓉は沈黙を貫いていた。隣で静観していた松井江が則宗と芙蓉を交互に見る。もう三分は頭を下げっぱなしだった。

「止めないのかい?」
 ひそりと耳打ちをする。
「さっきあれだけ好き勝手言ったんだもの。気が済むまで、好きなだけ下げたらいいわ」
 とだけ淡白に返した。

「……おぅい、長くないか? もう頭を上げてもいいか? 刀剣男士とはいえ、じじぃの首がそろそろ限界なんだが」
「そうね。私も貴方の頭が私の目線より下だと落ち着かないから」
「小娘め」
「貴方が十年も見守っていたその小娘が、意固地で頑固な貴方の手を取ったのよ。これから貴方がどうしていきたいのかを聞かせてくれる?」

 今更とってつけたような安い厚意は不要だった。笑みを湛えているものの、普段のようなおちゃらけた様子は今の則宗にはない。

「……政府側の監査官として自分の意思で働くのも悪くはなかったが、僕も刀だ。久々に主の刀として振るわれたくなった。これは僕の本心だ。こむ……」

 言いかけたいつもの呼び名を止めて喉を鳴らした。


「主、これから世話になる」


   * * *


「なんとなく新しい血の予感がする」

 不意に隣に座る松井江がそんなことを言い出すと、いつの間にか入眠しかけていた芙蓉の意識を引っ張り上げた。うとうとと首が上下するのを松井江は目敏く見ていたのか、口元は笑っている。

「寝てた? ここ温かいから」
「大丈夫よ……もしかして松井の兄弟刀だったりしてね」
「ない話ではないと思うなぁ。芙蓉の鍛刀は結構ピーキーだけど、そのおかげで僕達が揃っていると思ってるから」
「それ褒めてるの? どこで覚えたのよピーキーなんて言葉」
「豊前が万屋でバイクの本を買っててね、少し覗いてみたんだ。横文字って結構面白い言葉が多いよね」

 美濃の本丸に足を運んだその日から、松井江は近侍の加州清光からの電話に雑談を交えるようになってきていた。不慣れな横文字を口にすることが少しずつ増えたと思っていたが、芙蓉が思っていた以上に学習して吸収している。

「勉強熱心で嬉しいわ。これからうるさい電話がきたら全部松井に回してあげるから、勉強の成果を存分に発揮してちょうだい」
「望むところだよ」

 そうこう言ってるうちに鍛刀終了の知らせがきた。
 先に立ち上がった松井江に手を引かれて立ち上がると、擦り上がった刀剣が鎮座する部屋に向かう。

「さて。富士札がちり紙でないことを祈るわよ」
「フ、そうだね」

 摂氏八〇〇度の炎より生み出されたのは短刀だった。
 堂々とした佇まいに指先が触れると、息吹に花弁が弾けて人の輪郭が現れる。
 薄い亜麻色の髪が花弁と共にふわりと揺れた。睫毛で縁取られた一等鮮やかな群青の瞳が芙蓉を映し出しす。
 少年はにこりと微笑んだ。
「君が今代の僕の主なんだね」と。

「──流れ流れてやってきた。僕が日向正宗さ」



 夜。仕事は早々に切り上げて本丸内にある離れ家にいた。
 明後日から本格的に本丸としての機能を取り戻す日になる。本丸の機能を停止とは言ったものの、騒動の後処理に追われ、島原で負傷した刀剣男士の修復を行い、戦力の増強を同時に行うには短い期間でしかない。二、三日くらいは休めるかと目算していたがそう甘くはなかった。
 本当なら新しく刀剣男士が顕現した時は宴会で騒がしい夜になるはずだが、今は短期間で鍛え上げる必要があるため、本丸の刀剣男士達が総出で扱き回している。それが終わった今日、皆眠っているためひどく静かな夜だった。

 しっとりとした夜風が桜を撫で揺すり、石燈籠の淡い灯りが舞い散る桜を照らした。
 目を伏せる。今日顕現した彼に因果を感じずにはいられなかった。

 別の本丸で非業の最期を遂げた刀剣男士と同じ姿形をした別の存在だが、島原での想いを馳せる。あの事象自体が政府によって発禁になったため口に出すことはできない。そんな措置がなくたって間違っても本人に話すことは決してないが、まだ感覚は昨日の今日と言って差し支えなかった。あの酷い出来事の直後に全く別の存在として接するには、それなりに胆力がいる。

 せっかくだから一足先に花見でもしようかとこの離れ家に来たが、酒を持ってくると言った松井江はまだ来ない。
 ──少し冷えてきた。
 足を擦り合わせて桜を見上げる。すると突然音を立てて襖が大きく開かれ、驚いて振り返る。離れ家はまだ誰もいないはずだった。開けた本人は「おや?」とわざとらしい声を上げた。

「なんだなんだ、花見酒にいいところがあると思ったのに。先客が随分辛気臭い顔して陣取ってるな」

 則宗だった。寝衣に見慣れた菊模様の羽織を着ている。手には小鍋が乗った盆。小鍋には徳利ひとつが湯に浸かっていた。

「勝手に次郎のお酒を拝借したの? 怒られるわよ」
「心配ないだろう。あそこまでの飲兵衛なら少し減ったところで気づかんさ。それに遠征先から買って帰った酒がたんまりとあるだろうよ」

 不良の講義を聞かされた気分だった。やけに解像度が高いから、きっと別の本丸でされていたことに違いない。

「頼むから変な入れ知恵とかしないでよ?」

 眉根を押さえると則宗は徳利を差し出した。

「桜を前にしてそんな顔をするもんじゃないぞ。そら、一杯どうだ?」

 離れに誰かがいると見越していたのかは定かではない。一人で来たというのに、盆にはお猪口が何個か重なっていた。

「結構よ。今松井が持ってくるの」
「釣れないなぁ。まあいい、隣失礼するぞ」

 どっこいしょとわざとらしいほどジジ臭く、無遠慮に真隣に腰掛けた。遠回しに「よそに行け」と言ったつもりが、全く通用しない図太さに呆気に取られる。

「ちょっと、今松井が来るって言ったわ」
「いいじゃないか減るもんじゃないし」
「せめてもうちょっと遠慮しなさいってば」
「逢瀬の邪魔をするなって? いつも二人で仕事してるんだからたまにはいいだろう。月に叢雲花に風って知らないのか?」
「……南泉には一生付きっきりの介護任務を頼もうかしら」
「気が早い。僕はまだまだ現役だぞ」
「手のかかるジジイは皆そう言うの」
「そんな手のかかるじじぃを執念の権化と化して手に入れた、いじらしい物好きな審神者がいるらしい。なぁ?」

 則宗が扇を広げる。赤い地紙越しに見える目は愉快そうに細められて芙蓉を煽る。事実なせいでろくに言い返せず、結局口から出たのは言葉ではなく深い溜め息だった。則宗はそれ以上何も言わない。たまに度を越した言動はあれど、言いくるめたいわけではないのは長年の付き合いで嫌でもわかっている。仕方がないからしばらく則宗の隣で松井江を待つことにした。
 まるでひどい出来事などなかったかのように、いかにも嬉しそうにしている姿をちらりと盗み見る。

「則宗」
「なんだ? やっぱり一杯欲しくなったのか」
「なんであんなことをしたの」

 不意の一言だった。
 島原の騒動の直後に長義と情報のすり合わせはしたものの、則宗が何故あんな行動に出たのかだけがはっきり知ることができなかった。芙蓉にとって今も心の中で引っかかりとなっている。
 則宗は酒気を帯びた息を一つ吐いた。

「……お前さんわかってるだろう。残念だが、僕に語る口はもうないさ」

 政府の発禁は約束や宣誓だけでは当然収まらない。芙蓉も則宗も、あの出陣に携わった全員が、許された場と時だけしか口に出せない処置を受けている。芙蓉はその線引きのギリギリを攻めた言及をしていた。

「無事に僕を引き入れたと言うのに態度が刺々しいままだと思ったが、まだお前さんの中で飲み込めてないものがあると?」
「自覚があるなら話が早いわ。じゃあもっと前よ。どうして私をそこまで気にかけてたの? それなら答えられるでしょう」

 則宗に諌められても引かなかった。今まで何も疑問に思わなかったわけではないのだ。

「昔あんな出来事に居合わせたら気にかけるのも無理もないってずっと思ってた。だけどそれだけで今回みたいなことになるの?」

 親元から半ば強制的に引き離されて審神者になったなど、似た境遇の者が数えきれないほどいる。だというのに、たかが一審神者のために刃を向けた上、刀解一歩手前までいったのだ。ただ気にかけるにしてはあまりにも私情の度が過ぎていて、お節介の範疇には収まり切らない。

「貴方が言った通り、私は自分の手で一文字則宗を顕現させることに必死だった。だけど貴方を刀解するべきと言った役人や審神者の言った気持ちも理解してるつもりよ」

 なぜあの行動に至ったのか、その根源を知らない。則宗に向ける目は真摯だった。則宗は「そうだな」と一息置いた。

「それについてはまず僕自身についてから話さねば。お前さん、僕という刀についてはどれだけ知ってるんだ?」
「ほとんど知らないわ。調べるような時間、最近なかったのよね……」
「嘘をつけよ! 自分でもちょっとは有名だと自負していたのに、流石にそれは傷つくぞ!」

 期待を込めた目で振られたものの、困惑した顔で正直に即答すると則宗はあからさまにショックを受けてますと瞳が訴えた。

「……今と違う名前で沖田総司の刀だったとか、知ってるとしたらそのくらい」
「うむ……まあ、そこを知ってたら重畳としよう」

 少し納得いかなそうな顔をしているが、「実はずっと誰かに話したかったのだ」と則宗は言った。

「それがまさか本人になろうとは思わなかったが」

 止まない口は嬉しそうに弧を描く。頬は酒でほんのり赤らんでいる。湖面のように凪いだ瞳は遠くを見つめた。

「……さて、僕には強固な逸話がある。いま小娘が言ったような、新撰組の沖田総司が持つ『菊一文字』と称された刀として愛されたという逸話が」

 一万両と値打ちされたその刀は、ただ一度だけ抜き身をさらして人を斬り伏せた。その逸話はある時を境に瞬く間に広まり、何百年の時代を超えた今でも色濃く残っている。

「だが、なぜだか不思議なことに、僕にはその天才肌の少年剣士に愛されたという記憶がない。しかし皆は当たり前のようにその作り話を口にするのだ。僕が知らない僕を皆が知り、僕が知らない僕を皆が愛しているんだ」

 お猪口に注いだ熱燗を一気に煽った。前髪のせいで顔は見えない。

「前の主──僕を最初に顕現した審神者が天寿を全うし、政府の刀となってからというものの、一人で考える時間だけはたくさんあった。だが作り話で一方的に与えられた傲慢な愛を、逸話という切れない鎖を、自分の歪さを、人の感情や心で受け入れるには十分とはいかなかった──だからだろうな。小娘を見た瞬間、放って置けなかった」

 十年前。歌仙兼定を伴った両親に会いたいという少女の嘆願。
 役人の苛立ちが滲む態度で一度や二度ではないんだろうとすぐにわかった。境遇を受け入れるにはあまりにも繊細で鋭敏な自我の年頃で、突き動かされる衝動を我慢で押し殺すには何より若過ぎた。

「僕にしては、らしくもないことをした。本当に、僕らしくもない」

 一瞬泣いているのかと思うくらいの間が空いたが、則宗は構わず続けた。

「両親からの愛を確かめたかったんだろう。主を失ったばかりの僕は小娘の面会の監視役を自ら買って出たんだ。今でこそ僕は政府の刀として残ったが、主だけでなく、かつての仲間も皆いなくなって本当に一人になったからだ」

『──お父さんもお母さんも私を見放した。この戦いが終われば松井も……みんないなくなるわ。現世に、私一人だけが取り残される』

 松井江の虚をついた顔を思い出す。
 耳朶に触れた則宗の言葉の寂しさは芙蓉が抱いていた恐怖と同じものだった。

「この戦争の黎明期、死期を迎える審神者に対して僕ら刀剣は本当に無力だった。病に冒され少しずつ主の霊力が失われていくのを感じながら、仲間の誰かが顕現を保てなくなり消えていく毎日だ。政府の目を欺いたつもりで、まだこの本丸は機能していると知らしめねばと無理に出陣をすることもあった。遠征もままならなくなって次第に底をつき始める資材と、修復もできずに床で眠り続ける仲間を見てきた。できれば、あれはもう見たくはないものだ」

 そういうことかと、ようやく長義の報告と合点がいったが、気分のいい話ではない。あの二人の元審神者の役人も、もしかしたら同じ光景を目にしたのかもしれないと思えば、則宗が手を貸したのも想像に難くない。

「政府の計らいによって僕はこうして残ったが、そこに僕の意思はほぼないに等しい。だからこそ小娘の会いたいという気持ちが痛いほど理解できてしまった。だが僕はそればかりを見てしまって政府の意図まで掴み切れていなかった。僕の浅はかな行動の結果、お前さんを酷く傷つけた」

 則宗のせいではないと強く断言できたが、沈黙を貫いて耳を澄ませた。

「両親から愛された記憶はあるのに、現実はそれを覆そうとしている。僕は望まずして歪な愛を与えられたが、小娘は望んだ愛を奪われようとしている。どうしても他人事だとは思えなかった」

 ふと下顎をいつの間にか閉じた扇で掬われる。頷くことすら忘れて、聞き入っていたことが不満だったらしい。

「ずっと無反応だと相槌が恋しくなるんだ」
「真面目に聞いてたのに」
「嬉しいが、熱っぽく見過ぎだ。僕を好いてると思われるぞ?」
「池に突き落とすわよ」
「……冗談だ」

 真顔で突っぱねると則宗は口を尖らせた。「鯉の餌にされたら敵わん」と音を立てて酒を啜ると、ふと酔いで濡れた目が一瞬瞑目する。則宗は芙蓉を見ずに「小娘」と呼んだ。

「なに?」
「すまないが……少し、手を握ってもいいか」

 最初で最後のような、突っぱねるにはあまりにも弱々しい、蚊の鳴くような声の頼みだった。桜の枝先が揺れる中、芙蓉は自分の手のひらを通して過去を見つめた。

 最初の時は十年前、則宗から差し出された手を縋るように掴んだ。二回目は、演練場で引き摺られるように掴まれた。三回目は団子屋だった。差し出された手のひらに食べ終わった団子の串をの皿代わりに置いて拒否をした。四回目は──あまり思い出したくはない。

 手のひらを則宗の前に静かに差し出す。則宗は一瞬戸惑った。
 おずおずと触れた指先は熱い。

「……冷たいな。冷えるか」
「少しね」

 名残惜しそうにゆっくり手を離すと則宗は立ち上がる。「身体を冷やすのはよくない」と、袖を通していた羽織を脱いで芙蓉の肩にかけた。

「十年か……大きくもなるはずだな」

 元の位置には戻らず、少し間を開けたところに座ると仕切り直すように笑みを見せた。

「まあ、つまりだ。私情を挟むなど刀剣男士の行動としては失格だろうが、別に悪いことではない。変えてはならない過去の出来事ではなく、今を生きる現実だからな。だからこそ行動を起こせば救いはあると思えてならなかった──これが小娘を気にかけていた僕の答えだ。納得できたか? 小娘と坊主」

「え?」と声を上げて則宗が来た時と同じように振り返ると、複雑そうな顔をしている松井江がいた。手の盆には硝子の徳利とお猪口が乗っている。

「誰か夜食でも食べたのかなと思ったら……」

 松井江は無言で則宗と芙蓉の間に割って入った。頬の内側を噛み締めたような顔をして気難しそうにしている。わかりやすい態度に両脇の二人は含み笑いを抑え切れない。松井江が自分で持ってきた徳利に手を出そうとしたのを「拗ねないで」と芙蓉がやんわり止めた。

「手酌なんて酷いわよ。ジジイが絡んできても私ずっと松井を待ってたんだから」
「その割に楽しそうだったけど?」
「則宗だけね」
「ひどいなぁ小娘、二人で思い出に浸っていたじゃないか」
「ほら、楽しくない」

 口の割に愉快そうにしている。芙蓉と則宗の間に挟まれた松井江が位置どりに若干の後悔を覚えた遠い目で桜を眺めた。

「つまらない嫉妬なんて飲んでさっさと忘れちゃって」
「次郎太刀さんみたいなことを……」
「あのスタンスだってたまには役立つわ」
「主が飲んだくれにならなくてよかったよ。酒の味を教えたのは彼だと聞いたから」
「流石に泥酔して障子に頭突っ込んだまま朝まで寝られちゃ反面教師にもなるでしょう? でもこんな時間は今だけよ。また忙しくなるから」
「そうだねぇ……慶長熊本の特命調査が終われば、次は歌仙の修行になるのか」
「……そうね」
「心配?」

 俯いた顔に影が掛かる。「正直ね」と笑う顔には僅かに不安が滲んでいた。

 時代を封鎖されている慶長熊本はまさに歌仙の元主に関わる異変だった。自ら出陣を志願した歌仙を部隊長として編成に組み込んだものの、その改変自体を元に戻さない限り歌仙の修行が成り立たなくなる可能性すらある。島原に大挙していた遡行軍の大多数が流れ込んで行ったため激戦は必須だった。

「大丈夫。彼は強いから」

 同じ細川家所縁の刀であるだけに松井江が言い切る。

「だから帰ってくるのを信じて僕と一緒に待とう」

 行くなと引き止めるよりかはいくらか出陣はしやすい。こっちの方が本来なのだとわかるが、それでも急に変われるほど人間器用ではない。

「……笑って見送れるようになれるかしら」

 そう言うと横で静聴していた則宗が割り込んだ。

「見送って待つのは辛いだろうが、迎える時にその分笑って喜べばいい。戦って帰ってくる僕達はそれを見られるだけでまた次も頑張れる。それだけで最後まで戦える。そういうもんだ」
「最後までね……」

 その結末がやはりどこまでもついて回る。
 昨日の今日で則宗の話を聞いた後なせいで、まだ少しそのことに触れられると胸の内に棘が残っているような気持ちになる。だが自分で大丈夫と言い聞かせなくても、辛うじて心を持っていられるのは松井江のおかげだった。

「歴史改変の脅威が潰えるのは僕らの悲願だ。小娘、何をそんなにしおらしくなっているんだ」
「うるさいわね。なってないわよ」
「何故目を逸らすんだ? 意味深だな、酒が入ったこの場でそれは唆るぞ」
「根こそぎ落としたデリカシーを今すぐ拾って来なさいよ」
「全ての時間遡行軍を倒すことができたらゆっくり探しに行こう」

 堂々たる言葉に声を詰まらせた。則宗はこんなふざけた会話から松井江にやっとの思いで伝えた真意を無作法に推し量ろうとしている。

「時間遡行軍を殲滅し、歴史を取り戻す。この戦いが終わることを小娘たち審神者は喜ぶべきことだろう? そのために僕達は戦っているのだから」

 そう言うと則宗はじっと芙蓉を見る。
 上から下まで、時には松井江にも目を向けてこの不可解さを解き明かそうとしている。ここまでくると全てを見透かされるのだ。則宗の好奇心に徐々に呆れの色が滲み出した。

「何をそんなに悩んでいるのかと思えば……」
「貴方のそういう見透かした物言いが私は嫌いなの」

 辛辣な評価に盛大に声を上げて笑い散らした。「だってなぁ」と続く。

「お前さんは先を見据えすぎだ。先を考えることももちろん大事だが、今ある愛を大事にすることを疎かにして取りこぼしては本末転倒だ。だからそんなに身構えんでいいのさ」

 明確には言わない。だが覚えのある内容に芙蓉以上に松井江の方が驚愕していた。

「何がとは言わないけど……僕がそこまで知るのにものすごい時間を要したんだけど」
「落ち込まないで松井。ひたむきに私のことを考えてくれたところが大好きよ」

 手を掬い上げて言うと、松井江の肩越しに則宗の「ここに忘れ物があるぞ」と言いたげで心外そうな顔が覗き込んでくる。

「小娘、忘れてないか? 僕は十年も見守っていた」
「ちょっと黙ってて」
「この扱い、ひどいと思わないか坊主」
「ごめんね。あんまり思わないかな」
「これだから若いのは。じじぃをぞんざいに扱うのが流行りか?」

 空になった則宗のお猪口に気づいて松井江が次を注いだ。顔には明らかに「黙って飲んでろ」と書いてある。則宗は仕方がなさそうに巡らせた思案と一緒に酒を飲み下すと桜を見上げる。「あー」と、歯切れの悪そうなひとつの結論じみた言葉を紡いだ。

「こう言うのはなんだが……政府は小娘を手放しはしないだろうさ」

 静かに言う。芙蓉も松井江も不思議そうにその言葉の続きに耳を向けた。

「審神者として、総代として、時の政府のなんたるかを深く知りすぎたからな。だがそれはひとつの自由の権利を得たと言っていい。そのうち現世との行き来が許され、今お前さんを縛っている強固な情報規制は解かれる」

 芙蓉を見た。何も知らず、面食らっている様にくつくつと笑う。

「てっきりそれを知ってて十六歳なんて若さで総代なんてものになったのかと思っていたのに、ずっと手紙を気にして……そうか、知らされていなかったのか。お前さんは一度政府へかなり強く出張って父君と母君に面会をしたから、警戒されていたのだな」

 情報規制をされていたなんて事実を初めて知る。則宗は自問自答のように、芙蓉を取り巻く環境を咀嚼すると柱に身を預けて夜空を仰いだ。片足を抱えながら、酩酊して重みの増した目蓋が徐々に下りていく。

「ちょっと飲み過ぎじゃない?」
「こんな話、素面ではできんだろう」
「だって……それ私に言ってもいいことなの?」
「別に構わんさ。正直僕も少しばかりは驚いたが、僕の口から出たということは既に段階を踏んで解かれていたんだろう。そんなことをしていたと伝えずに、そのうちしれっと現代遠征を頼むつもりなんだろうよ。今までの小娘達の総代としての仕事ぶりのおかげもあるだろうな。それに現代遠征は誰にでもできるわけじゃない。だけど人手が足りていないのだ」

 ごく稀に江戸以降の近代にも遡行軍が紛れ込むことがあるとは風の噂で聞いただけだ。

「それに時の政府だって、この戦いが終わればすぐに解散なんてことにはならない。なぜなら遡行軍はなんの兆候もなくある日突然現れたからな。完全になくすわけにはいかんさ。解体はされるだろうが、姿形は変えて一部は存続させるだろう……だが、それは誰にもわからない未来の話だ。今考えたところで仕方がないと思わないか?」

 眠気の混じり始めた声は子どもをあやすようだった。だからそれ以上思い悩むなと、則宗の中にある限りの言葉が言い聞かせる。
 やわらかい夜風が立った。

「……そうね。今を見るべきね」
「そうだろう? だから今はこうして酒を飲んでハメを外すのも許される」
「今のうちに後悔ないくらい飲んでもいいわよ。則宗は練度が据え置きになった以上、まずは出陣と明石に代わって桑名指導の下で当分畑当番を頑張ってもらうから」
「おいおいおい、それはないだろう! じじぃの腰を悪くさせるつもりか?」
「本丸の歯車として健全な心身を育みながら存分に働いてちょうだい」
「強制更生施設じゃないか。順風満帆な隠居生活を送ろうと思っていたんだぞ僕は」
「聞こえないふりをしてたけど、それさっきも言ってたわね。貴方が行くのは強制更生施設って前にも言ったはずよ。私にセクハラをした前科は消えないわ」
「……そうだったか?」

 芙蓉はどこからどう見ても呆れた顔をしているが、どこかほっとしている。じわりと松井江は心が淀むのを感じた。酒が入ったせいで朱に染まった指先を見て、さっき見てしまった二人きりで手を取らせた光景を思い出す。

「やっぱり楽しそうだね」
「え?」

 衝動的に芙蓉が持っていたお猪口を奪って一気に飲み干した。芙蓉のぽかんと開いた口を見て、淀んだ心の中にぼんやりとした目的がどんどん形になっていく。とりあえず、このままこの場に三人でいるのが嫌だと直感的に思ったのだ。

「則宗さん。僕が持ってきたお酒も全部飲んでいいよ」

 そう言うと松井江が芙蓉の手を鷲掴んだ。

「朝になったら片付けにくるから」

 そのまま立ち上がって、足早に離れ家から出ていく。調子のいい則宗の笑い声を背に受けながら後にする。笑い声がもう遠い。


   * * *


 どうにも松井江の様子がおかしい。
 本当はいつものように「朝までってどういうこと?」って冗談半分で聞きたいのだ。だけどいつも合わせてくれていた歩幅の容赦のなさで、いつもの平静を保てないほど焦燥を与えてしまったのだと思うと聞けずにいた。

 ──どうしよう。頭の中でひたすらその一言が攪拌されていく。
「朝まで」と言ったこの先のことにうっすらと予感が先走る。いやいやそんなまさか、と思っても島原の際の執務室での行いを思い出して否定の説得力が霧散する。松井江の衝動に任せた行動を一番見てきたのは自分なのだ。

 たまに女性の審神者から人伝で聞いた刀剣男士との色恋沙汰を、もう少し聞き流さずにちゃんと聞いておくんだったと少し後悔してる。ああいった話はこういう時に役に立つのかと今更ながら気づかされてしまった。「どうしようか」「私もどうしたいんだろう」と自問自答しながら脳内は堂々巡りで回転し続けている。正直生きた心地がしない。

 松井江の手は頑なに手首を離そうとしない。手のひらの熱が気になって仕方がなかった。進めば進むほど向かっている先にある部屋が明らかになっていく。この先にあるのは私の部屋だ。
 ずっと下を向いていると月白で窓も障子の白紙も庭の敷石が眩しい。耳に痛いほどの静寂が身の内側で激しく胸を打つ鼓動を際立たせてくる。
 不意に松井江の足が止まって背中にぶつかった。いつの間にか部屋の前まで迫っていた。振り返った松井江は無表情に見下ろしている。

「どうしたの?」

 いつものような他愛なさが欲しくて、できる限りの平静で聞く。少しむっとした顔で、眉間の間に薄くしわが寄った。

「さっきあの人にはどうして自分を気にかけていたのかって聞いたよね」

 頷くと「じゃあ」と松井。

「芙蓉はどうして僕にそばにいてって言ったの? 近侍だから? たまたま僕がその場にいたから?」

 そんな軽率に言ったつもりはない。慌てて「違う」と頭を振ると、少しずつ表情を緩めた。怒っているかと思ったがそうではない。声は案外いつもの柔らかい調子で思わず脱力してしまった。

「芙蓉の寂しさに付け入ってるかもしれないよ」
「人には今さら試すなって言ってたくせに」
「後悔をさせるつもりはないけど、してほしくないし大事にしたいから」
「……近侍になった時はもっと強引だった」
「そうだったかもしれない」
「でもきっと、ずっとそばにいるとしても、私だけ歳を取って、ゆくゆくはおばあさんになって、看取ることになるかもしれないでしょう?」

 松井江は満更でもない顔で「そうだね」と言った。

「松井を求めてもいいの……?」
「当然」
「もしかして酔ってたりとかしてない?」
「そうかも」
「ちょっと!」
「酔っててもそうでなくても貴方のことを好いていることに変わりはないよ」
「……ねぇ、なんでそんなに堂々と言うの?」
「言っておくけど、僕が気長にしてたら人間なんてあっという間にこの世からいなくなるから。芙蓉が思ってる以上に僕も必死なんだよ」

 耳まで熱いと自覚できる。顔を覆っていた手を退かされて露にされる中、ふと思ってしまった。本丸の皆に対して、本当の家族ではないけれど、家族のように思っていたのだと。だけど今のこれは明らかに違う。 

「芙蓉は?」

 耳元で問いかけてくる。なんて言えばいいのか、緊張で目が合わせられずにいる。
 私のことが知りたいと言ってくれた。
 私の心の中の激情を知った上で抱えているものを持つと言ってくれた。
 一緒にいると言ってくれたのだ。
 たったそれだけのことかもしれないが、たったそれだけのことがどうしようもなく熱の根源になって、他に変えられないほど大切な存在になってしまった。
 もう今まで幾度となく交わした会話の温度じゃない。松井江が近侍にしろと言って来た時の方がまだ普通に喋っていたと思えるほど、慎重に分かりきっている感情を言葉を選んでいる。

 そのたった一言で松井江との関係はどう変わる?
 掻き乱された形を言葉にするなら、ひとつしかない。

「……すき、よ」

 いつもの饒舌さと打って変わって、あまりにも拙い一言だった。当の松井江は何も言わない。声に出すのが精一杯だったから、この沈黙が自分で居た堪れなくて地蔵のように沈黙する松井江に蚊の鳴くような声で懇願した。

「ねえ、ちょっと、ここでだんまりは普通に悪趣味よ」
「芙蓉は結構会話の中では普通に好意を伝えるのに、改まるとこんなしおらしくなるのかと思って」
「松井ちょっと楽しんでない?」

 楽しい、と顔に控えめな字で書いてある気がした。返さずのまま肩からズレ落ちそうになった則宗の羽織を掛け直しながら言った。

「……和菓子屋で自分が言ったこと覚えてる?」
「和菓子……?」

 声も辛々な私とは反対に、松井江の声には謎の重みと落ち着きがあった。だがそんな前のことを今問われても、心がそれどころではない。

「覚えてない……」
「あの時抱かれるかと思ったんだったね」

 思わず「え」と声が漏れた。
 確かに、言われてみればそう言った。完全に思い出した時には、身体がすっぽり腕の中に収められていた。逸らした顔を見上げると、黒髪の隙間から赤みに目が釘付けになった。

「松井にも下心ってあったのね」
「ないと思ってるのが間違いじゃないか?」
「そうね。松井が言うと説得力があるわ」

 そう言うと沈黙が宙を泳いだ。多分反省してるのだろう。珍しく墓穴を掘って少し気まずそうな様子が面白くて、背中に回した手で黒髪を撫でるように耳にかけた。

「耳赤いわ」
「……うるさいよ」

 ようやく目が合う。お互いが観念したように少しくすりと笑うと松井江に腕を引かれる。
 この夜が明けた後のことは今はわからなくてもいい。それよりも、私が鍵に手をかけたことに緊張を薄暗の中で見せた松井江の顔の方をよく見たい。
 短い金属の音が鳴る。
 密かに鍵を掛けられた扉はしばらく開くことはなかった。



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