一六三七年の遠雷

青に咲き初め


 かすかな雨の匂いがして目が覚めた。
 起きがけに芙蓉が身を起こそうとすると、いつもはない自分以外の体温に再びベッドの中へ引き戻された。
 捲ったところから侵入した冷気に身を縮こませて、暖をとるように松井江が芙蓉を抱き寄せている。ボタンが一つ外されて、首元のリボンもサスペンダーもない。脇机の上に籠手や上着と一緒に畳まれて置かれている。ベッドの中には二人分の体温があった。

 昨夜は泣きすぎてこの温かさに少し頭がぼうっとした。窓を見ると雨はすでに上がっているようだった。外は少し寒いだろうが、熱の籠もった今ならちょうどいい。少し風に当たりたかった。
 少しずつ腕から抜け出して窓枠に手を掛けたが、思っていたより鋭い冷たさに窓を開けようとした手が止まる。先に松井江を起こそうと掛け布団を抱き枕にする腕をぺちぺち叩いた。

「起きたのかい……?」

 掠れ声がしたかと思えば、目が閉じては半開きを繰り返している。何を勘違いしているのか大事そうに抱きしめる掛け布団に向かって話しかけていた。

「おはよう松井。二度寝はだめよ」
「しないよ……」
「昨日の今日だから早々に政府の役人が来るわ。起きて」
「うん……」

 優しく揺すったものの、松井江には心地いい揺り籠にしかならなかった。睡魔に敗北した瞼がゆっくり落ちていく。

「……実は私、賠償請求されたのよ。他本丸からいろいろとぶん取りまくったら本丸運営ができなくなったんだって。請求額聞きたい?」
「うん……」
「本当に? 松井気絶するわよ」
「うん……」

 あの松井江がこの手の冗談を聞き流した。これは完全に寝ぼけてる。松井江の耳元まで顔を寄せると、手のひらを添えてそっと囁いた。

「昨日は楽しかったわね」
「うん……?」

 くすぐったいのか薄らと松井江の目が開いた。眠気に勝てず目尻がとろんとしている。

「寒いから服を取りたいんだけど、そんなに人肌恋しいの?」
「!?」

 目を見開いた松井江が慌てて飛び起き布団を勢いよく捲る。自身の身なりを見て、芙蓉の着物の合わせを見た。きっと頭の中には大量の疑問符が大行列になって右に左に駆け回っている。どちらも服を着ていることに混乱する様を見て、想像以上の慌てぶりに芙蓉が肩を震わせる。それを見てようやく頭が覚醒してきたらしい。松井江は大きくため息を吐いて丸まった布団に項垂れた。

「未遂……?」
「私貞淑よ。落ち着いて」
「もっと普通に起こしてくれないかな……?」

 そう言うと芙蓉が不満げに手を筒にした。

「普通に起こしても起きなかった人〜?」

 にこやかにわざとらしく探す素振りをして目を合わせてくる。松井江は寝起きの悪さに自覚があるだけに諦めて挙手をし、その場は収まった。



 窓を開けると、日差しに照らされた雨上がりの匂いにほのかな湿気を感じて涼しい。ただ腫れた頬には冷たく刺さるような痛みが走った。
 本丸にいると滅多に怪我をすることがないうえに、刀剣男士達の怪我をしても手入れをしたらすぐに治る様子を間近で見る。人の身である自身の怪我の治りの遅さをつい忘れてしまいがちだった。

「まだ痛む?」
「少しね。でも大丈夫……とりあえず目も腫れてるから顔だけでも洗いたい」

 そう言って立ち上がって自分の着物を見下ろすと見事にシワだらけになってしまった。

「せめて寝るなら着替えてから寝るんだった」

 そう肩を落とすと「しょうがないよ」と宥める松井江の声に被さるように、もう一つの返答が部屋の扉の向こうから聞こえてきた。

「おい、起きたのか」

 一瞬薬研が様子を見に来てくれたのかとも思ったが、薬研にしてはやや爽やかすぎる声で、もっと言えば嫌味で喧嘩腰だった。

「……薬研?」
「いや、今のは薬研の声じゃない」

 扉の向こうの違和感に緊張する松井江が刀を手にした。注意深く扉を凝視しているが、反対に芙蓉の警戒心はさほど高くなかった。この本丸で思い当たる声ではないが、知っている声だとはっきりわかっている。

「松井、大丈夫よ。刀を納めて」

 松井江の背に隠された状態で芙蓉は問いかける。

「誰かいるの?」
「備前の総代……起きているならさっさと身支度をして俺を部屋の中に入れろ」

 聞けば聞くほど聞き覚えのある声だが、心なしか声が震えている。それに芙蓉を「備前の総代」と呼ぶのはこの本丸にはいない。政府関係者の存在を示していた。
 普通ならこんのすけに寄って執務室に通されるというのに、私室に案内をされている。ここまで気やすい態度を取れるのは一部しかいない。

「……もしかして監査官?」
「そうだ。山姥切の本歌だ。寒いから早くしろ」


   * * *


「……春先とはいえ明け方は寒い。聚楽第の特命調査をやっと終えたと思ったら今度は島原だ刀剣破壊だなんだと言われて来てみればもう終えてると言うじゃないか。こんのすけに備前の総代のところへ案内されたかと思いきや私室。事もあろうに婦人の部屋だ。迷った末に急務だと自分に言い聞かせて覗いてみればなんだ? ひとつベッドの上で君は松井江と同衾してるじゃないか。服は着てたしただ寝てるだけだったからよかったとはいえ、山姥切の本歌であるこの俺が休みなしで、寒い廊下で、こんのすけで暖をとって冷える肩先を撫りながら資料を読んでる間どういう気持ちだったと思う?」

 暖房をつけた芙蓉の部屋に入るや否や、山姥切長義は抗議の文句を一言一句噛まずに息継ぎもせず早口で言い切った。
 抗議を受け取った芙蓉はというと「すごく綺麗な滑舌ね」と拍手をしながら笑みを浮かべている。あの後急ぎ寝着に着替えて、上半身を起こした状態でベッドに入っていた。枕元には長義の小言の相手をして疲れたこんのすけが寝息を立てて丸くなっている。

「そんなところを見られたら本当は首を締めてやりたくなるけど、昨夜は未遂だから私的にはセーフよ。寒いだけで済んでよかったわね」
「どうも君に人の心はないらしい。そういうことを言ってるんじゃないんだよ俺は」

 語気を強める長義を見て松井江は「この人とは仲良くなれそう」と思いながら横で不毛なやりとりを見守っていた。

「全く、政府も人使いが荒い。だがそれにしても……やはり君はもう少し刀剣男士の数を増やすべきだと思うけどね。総代の本丸にしてはあまりにも小規模すぎる」
「小言を言いに来たなら南泉を呼んであげるけど?」

 ムッとした口調で返すと丁重に断られた。

「こっちは心配して言っている。今だって半数が手入れ中か手入れ待ち状態だろう。君が一番力を入れてる遠征だって満足にできなくなる。それに総代ともあろう者が、そんな無様な姿になって本丸の機能を止めていいはずがない」
「それは悪かったわねえ監査官殿」

 流石の言われように芙蓉の目尻がピクリと歪む。だが長義の小言は枚挙にいとまがなかった。

「ああ本当に。本っ当に酷い目に遭わされた」

 政府の命によって引っ張り出されたのは則宗ではなく山姥切長義だった。引き継ぎをされた様子はない。
 本丸に来たのはまだ生物が寝静まっている夜明け前と同時で、人払いをせずとも誰にも会うこともなくこんのすけの案内でほぼお忍びの状態であると。そのおかげで寒い廊下で一人今回の件を予習をすることになった。
 いつもの余裕の面持ちは鳴りを潜めてはいるが、結局頼られることが好きな性分なせいかこうして職務を全うしている。

「……とはいえ、大変の一言では済まない任務だったのも確かではある。それに政府は今、昼夜問わずてんてこ舞いだ。こちらからは悪い報告がひとつあるが、まずはお互い状況の擦り合わせをしたい」

 長義が顔の高さの位置に手をかざすといくつものホログラムが展開されていく。

「待って。松井、長義とは初対面だったわよね」

 話を振られて松井江が頷いた。審神者と政府関係者の会話となると近侍は口を挟むことは少ない。自分に話を振られた時以外静聴するのが基本だった。

「そうだね。彼は僕のことを知っているようではあるけれど……」
「それはそうさ。総代の近侍ともなればこちらから聞かなくても勝手に耳に入ってくる。しかし名乗らずに失礼した。俺こそが長義が打った本歌、山姥切。くれぐれも偽物くんとは一緒にしないように。手短だがよろしく頼む、松井江」

 にこやかに握手を交わす長義を見て意外そうにしていたのは芙蓉だった。

「あら、珍しく好意的じゃない?」
「天下三作の一振りだ。お目見えできて光栄だからね」
「ならよかった。松井、長義は政府管轄の刀ではあるしプライドは高いけど、話はどの政府の刀剣男士よりも通じやすいから仲良くしておいた方がいいわよ」
「褒めても何も出やしないさ。──さて、本題に入ろう」

 長義が最初に提示したのは刀剣破壊をされた部隊の行動記録だった。
 あの役人たちが「様子がわからない」と言ったのは嘘だと最初からわかりきってはいたものの、こうもあっさりと開示される。罵倒に近い文句を言われながら、できる限り聞き出そうとしたこっちの苦労は一体なんだったのだと芙蓉は思えて仕方がなかった。
 長義は一瞬瞑目すると、静かに話し始めた。

「──元は相模国の一本丸の部隊の任務だった。部隊長である日向正宗率いる第一部隊が介入するのはかつて自身も投身した歴史だ。『一揆の勢いが強く、首謀者周辺に遡行軍の存在を認めた。敵と首謀者を討ち、歴史通りに戻せ』というなんの変哲もない、いつも通りの主命だったとある。俺は日向正宗という刀剣男士の性格を少しばかり理解しているつもりだが、今回彼の目の前にあったのは、日向正宗が信条とする人助けとは程遠い光景だっただろう」

 一揆勢の異様なまでの士気の高さに圧倒され籠城を強いられた。籠城戦の用意なしで応戦なんてできるはずもなく、次第に追い込まれるのは当たり前だった。
 純粋な力で言えば、人が刀剣男士に敵うはずもない。しかし農民といえど正史から逸脱した存在となり、人であって人でなくなる。意志の統率の取れた数で攻められればひとたまりもない。
 いつものように過去に遡り、力に翻弄される非力なはずの人間全員から殺意の矛先を向けられた。そしてそこにはあのおびただしい数の遡行軍がいる。周囲を取り巻く全てが敵になり彼らへ殺到した。

 途中、「長くなりそうだね」と話の最中に松井江が席を立って茶の用意をしようとすると、芙蓉が慌てて引き留めた。

「この話を一人で聞かせないで」

 袖を掴んで言う顔は必死そのものだった。

「……一文字則宗に平手打ちを食らわせていたのを見た時はどうしようかと思ったが、可愛いところもあるじゃないか」

 至極どうでもよさげに吐き捨てると、気にしない様子で長義は話を続けた。日向正宗達の資料から別のものに切り替わる。

「そしてここからが本題だ。則宗が関わってくる」

 日向正宗らの目の前に、不完全な顕現状態の刀剣男士らしいものが突如として現れた。時間跳躍をさせたのは二人の元審神者の役人。
 二二〇五年の刀には「時間遡行軍と戦う」と言う明確な目的を持っている。刀剣男士として顕現が可能であるなら簡単な任務や遠征などは彼らにさせたらどうか、という試みだった。
 出陣だってタダではない。前線であればあるほど装備や資材の消費は目を背けられない問題となる。どんなに強い本丸であっても蓄えがなければ戦うことができない。相模の総代が芙蓉の備蓄に頼りきりなのが最も当てはまるいい例だった。

「俺達が刀剣男士として姿形を得られるのは逸話があるからだが、巴形薙刀や静形薙刀のような銘も逸話もなく集合体として顕現する例もある。歴史修正主義者の脅威から歴史を守るという明確な目的のために鍛刀をすれば……というのは無理やりのように感じるが、理論上顕現は不可能ではない。まあ前からまことしやかに囁かれてた話だが、実際実行に移した者はいなかった。彼らは霊力の少ない者でも、強すぎる逸話を持たない現代の刀なら相当の数を扱えるのではないかという机上の空論を実現させようとしたんだと」

 審神者の負担は審神者にしかわからないが、脅威を全体的に俯瞰する立場である時の政府は思いのほか余裕がない。審神者の感情的な負担にはあまり見向きはしなかった。元審神者だって最初は善意があった。秘密裏に進められていたそこには一文字則宗が乗っかっていた。
 長く政府の刀剣男士として、時に厳格に査定する立場でいろんな審神者の苦悩を見てきた彼をどうやって説得したかは知るところではないが、結果的に則宗が助力することになる。

 長義の話を聞いて思い出したのは、演練場や団子屋で告げ口まがいなことをしてきた則宗だった。芙蓉に心配をするなと言っていたにも関わらず、役人二人に対して明確な怒りを露わにしていた。「肝心なあれはどうした」と。

「……思い当たる節はあるわ」

 顕現自体はかろうじて成功だった。
 刀剣男士であるという自覚すら朧げな真っ白でまっさらな少年だったという。

 試験的に実行されていたそれは遡行軍と戦わせるのではなく、決まった時間、決まった場所で歴史通りに事は進んでいるかの確認だけをさせるつもりだった。
 連隊戦が始まって初めての総代を含んだ会議の前日。遡行軍の姿を確認する中で比較的近代に近い函館へ一文字則宗と共に少年を向かわせたのだ。
 結果、函館の地に立っていたのは一文字則宗ただ一人だった。

 思惑とは大きく外れ、正史が不安定化されている時代へ手繰り寄せられた。あの手この手で探し出した時には、すでに最悪の形で島原に出陣中の刀剣男士達と遡行軍の目の前に顕現も保てない姿で現れてしまった。
 彼を顕現して時間跳躍を試みた元審神者の女は、著しい霊力の減衰により、審神者でいられる基準を満たせる見込みがなくなったことによって失意の元に審神者の任を解かれていた。

 そして遡行軍の手によってあっけなく破壊された正体不明のそれを、見たものすべてを記録として残すこんのすけに見られた。政府から渡され、審神者が使役する式神であるこんのすけを政府の権限を行使する形で強制的に抹消させてしまった。
 何も知らずに多勢に無勢の状態に陥れられた刀剣男士達の不安感と絶望感は計り知れない。その瞬間彼らは生き延びる全ての機会を失った上に、激しい交戦があったものの生きていたにも関わらず、口減らしのために政府権限で刀解された。

 長義の報告に「待って」と静止が入った。ひどく青ざめた芙蓉だった。

「ねえそれって、私が二人にあの時代への出陣制限を課すように指示をしてなかったら、彼らを助けられたの……?」

 唇は震えていた。湧き出る仮定は弱った心を容赦なくさらに蝕む。長義は静かに頭を振り、真っ直ぐ見据えて答えた。

「そもそも君に高度暗号通信があった時にはすでに当該のこんのすけは消されていた。本丸からこんのすけのサポートもなしに無理に介入しようにも大きく座標がずれてしまう。それに躊躇なく私的に刀解をしたのなら、介入した刀剣男士だって証拠隠滅のために同じことをされていたと考えられる。事態を知った相模の総代も島原への時間跳躍を何度も試みていたから、今以上の被害拡大にもなり得ていたかもしれない。出陣制限をしてもしなくても、どのみち手遅れだ。君はその時の最善を尽くしていたと思う」

 あくまで長義は淡々としていたが、慎重に言葉を選んでいた。
 主命と目の前の現実に板挟みにされた彼らが辿って来た過酷な日々を思うと、心が痛んでたまらなかった。「皆にあんなことまでさせてしまったのに」と芙蓉が声を震わせた。確かに歴史を守り、役人からの要望は全て答えたが、本当に必要だったものは何もかもが間に合わなかった。

「──すでに終わったことへの可能性を考えても仕方がない。だが終わったことを受け入れて涙を流すのは無駄なことだとは思わない。今のうちに好きなだけ泣くといい。どうせこの後は後始末に追われて泣く暇すらなくなる」
「……私と一緒に今回参加した山城の審神者は無事? 査問とかは……」
「彼は日向正宗の手記や破壊された刀の破片の解析データを相摸の総代に提出してくれた。事が事だから聴取はあっても何も罰せられることはないさ」
「あの子はまた勝手に危険なことを……でもよかった……」

 もし何かがあれば本当に立ち直れないところだった。任務終了の通達時は何事もなかったかのように振舞っていた。危ない橋を渡ろうとするところ以外、どこまでも欠点の見当たらない少年の頼もしさに救われた。

「じゃあ、あの二人の役人はどうなったの……?」
「君にしては察しが悪いぞ。ふざけた茶番で一つの本丸を崩壊させただけでも罪が重い。挙げ句の果てに時間跳躍の私的行使だ。きっと今頃死んだ方がマシと思ってるだろう。……それと今回巻き込まれた相模国に属する本丸だが、凍結が決まった。まあこんな形で刀剣男士を失えば無理もない。本丸が狂気を育むわけにもいかないからな」

 話を一区切り終えた長義は展開した資料のホログラムを消して足を組み直した。

「──島原についての報告は以上だが、最初に言ったように悪い報告がひとつある」

 刀剣男士と検非違使に邪魔をされ改変が阻止された島原の一件は、遡行軍の執念をさらに激しく燃やすものとなった。徒党を組んでいた遡行軍は邪魔をされながらも、島原から逃れるようにある時代に集中して雪崩込んでいた。

「島原よりも前、慶長五年の熊本にて著しい歴史の改変が確認された。今は時代を封鎖し、特命調査の要があるとして今は政府顕現の先行調査員が派遣されている」

 山姥切長義は毅然と告げる。
 上半身を起こしていた芙蓉がパタリとベッドに身を沈めた。遠い目をしてこれから起こりうるであろう仕事に馳せる。
 大変な思いをして島原の改変を防いだものの、遡行軍は同時並行でそれよりもっと前の過去で強かに改変を進めていた。

「……つまり、私達はまんまと遡行軍の陽動に引っかかったってことね」
「まあ、結果としてはそうなる」
「貴方がさっき言った戦力不足ってそういうこと?」
「飲み込みが早くて助かるよ」
「……ふふ、……、もう馬鹿みたい。遡行軍の方がよっぽど頭がいいし優秀よ。足の引っ張り合いをしてるのがいないんだもの」

 寝返りを打って枕に顔を埋める。

「ねえ、この戦いって勝ち目ある? 」

 長義は愚問だと言いたげに「さぁ?」とだけ答えると、返事を仰いだ。

「どうする? こうなった以上、当然上から君に話が振られるが」

 そこには命令ではなく、選択肢があった。突然話を振られる前に現状を伝えて猶予を持たせようとする長義なりの気遣いだった。

「そうね……現状を見てちゃんと報告するつもりだけど、その特命調査への参加はもう少し先にするわ。手入れ待ちの刀剣男士は手伝い札を使うにしても私が今こんな状態だし。それまで先行調査員さんに頑張ってもらえるかしら」
「了解した……あと」
「まだ何かあるの?」

 長義は探るように芙蓉を見た。

「一文字則宗について聞いたか?」
「……なにも」
「懇意の間柄なんだろう?」
「気色悪いこと言わないで。それにさっきまで寝てたのよ?」
「今政府内を騒がせている一因だ。先の騒動の発端を担っていた彼を野放しにするのを良しとせず刀解処分を上げる者と、自分の本丸の一振にすると声を上げる者がいる。前者は役人や一部の総代、後者は一文字則宗に世話になった総代や古参の審神者達だが」
「ジジイって案外モテるのね」
「うるさくて仕方がない。なんとかしてくれ」

 芙蓉と則宗を懇意と強調した長義の顔を見ると、心底嫌そうな顔をしている。
 あれだけおちゃらけた性格をしておきながら、則宗は存外強情だった。責任感の塊ですらあった。この様子だと恐らく則宗は長義が言った後者のどの本丸の誘いにも乗っていない。

「それを養生中の私に言ってどうするの?」
「物である刀は主を選べない。だが刀剣男士ともなると自我が芽生える。もちろん顕現した刀剣男士は自らの本能と主命に従うものではある。だが一文字則宗は別だ。全く贅沢な話だが、現状彼は誰の手を掴むかを選べる手段を持つが、それを放棄している」
「……」
「彼は失うには惜しい存在だと思うが? 勝手知ったる仲は得難い。それに君は戦力不足だろう」

 長義は椅子から立ち上がると扉に手を掛けた。

「もう少しゆっくりしていったら?」
「結構だ。生憎、俺はそんなに暇じゃないんでね」

 退室する前、おもむろに振り返り二人を見た。返事は分かりきっている、と言わんばかりの表情は一言だけ告げる。

「備前の総代からの色よい返事を期待している」



「……言うだけ言って帰ったね」

 松井江がベッドの際に腰掛けた。「そうね」とこんのすけを撫でる芙蓉をあからさまに何か言いたげに見やる。

「なに?」
「悪い人」

 本気で言ってはいないが困った顔をしていた。

「ひどい言い草」
「さっきこっそり笑ってたよね」

 返事はない。撫でる手をそのままに、ただ嬉しそうに目を伏せた。

「政府に楯突いちゃ駄目なんじゃなかったのかい?」
「私は楯突ける程度が丁度いいのよ」
「ずるいなぁ。僕もやってみたい」

 不意に胸がいっぱいになって芙蓉はぎゅっと松井江を抱きしめた。

「どうしたの?」
「なんだか嬉しくて」

 こんな会話、前だったら絶対にできなかったのだ。一人きりで抱えていたことを共有できたのだと実感できて、それだけで口元が綻ぶ。松井江もゆっくり抱きしめ返した。

「松井」
「うん」
「今から大仕事をするから手伝って欲しいの」
「いいよ」

 心の動きを垣間見れた夜明け。紫霄の目には強い意志と光が潜んでいた。



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