一六三七年の遠雷

澄清の夜もすがら


 剥き出しになった心の虚がぽっかり空いてしまった今、包丁に執務室の留守を任せていた。
 松井江の無断出陣、加えて則宗にしてしまったことを思い返すだけで頭の中がないまぜにされる。もうなにも考えられないと思っていたけれど、長年審神者という職務を全うしてきた身には無意識に今は何をするべきかの行動がしっかり刻み込まれていた。

 勝手に動く力のない足が向かう先からは少しずつ薬研達の怒声が聞こえてくる。怒りから怒鳴るというより、一刻を争う心配からくるものだとわかる。だからだろうか、誰も私が来ていると気がつかなかった。
 手入れ部屋の襖を開け放つと、出陣から戻っていた面々が「しまった」と顔を歪ませる。水を入れた桶を持って固まっている和泉守と目が合った。
 手入れ部屋には鉄の匂いが充満していて、床は血を引き摺った跡が黒く変色してしまっていた。何人か染み込んだ血を拭き取ろうと試みていたその奥の部屋に、横たえられた歌仙がいる。

 華美な装いが見る影もなく切り裂かれて赤黒く染まり、目は幾重に巻かれた包帯で覆われていた。傷が塞がっていないせいで内から痛々しいほど血が滲み出ている。包帯を手に持っていた薬研は歌仙の横から退くと私の後ろに控えた。他の重傷を負った刀剣男士も同じく応急処置を施されていて、薬研自身も少しではあるが打ち身や切り傷が覗いている。
 刀掛けの歌仙の刀身は一度完全に折れたことによって御守りを使用した痕跡が生々しく残っていた。その下の段にある自慢の拵えも柄に血がべっとりと染みこんで元の色がわからない。
 怪我をしていない方の歌仙の手をそっと掬う。手の皺には拭きれなかった血が入り込んで固まっていた。

「主……?」

 歌仙の視線は私を通過して隣の空間へ流れた。

「──地獄に咲く花を見るにも、その目じゃ見られそうにないわね」

 声を聞くと、手を握り返される。
 彷徨っていた包帯の奥にある視線が私に向いた気がした。

「見るだけが全てじゃないさ……触れたり、聞いたり、想像を膨らませることはできるよ」
「そんな状態になるまで戦えなんて言った覚えはないわ」
「悪いね。これは僕の本望で、僕達の本能だ」

 全ての刀剣男士の代弁であり本音だった。掠れた声には熱がこもっている。

「見上げた根性ね」と言うと、歌仙は笑った。
「きっと彼も同じだったよ」
「……松井のこと?」

 歌仙は返事をする代わりに僅かに頷いた。

「主のことだから松井にはあの時代に行くなと言ったんだろうけど……どうか彼の取った行動を欺きだとは思わないであげてほしい」

 いつの間にか皆出払い、部屋には私と歌仙だけになっていた。

「僕は審神者となった主を最初から見てきた。だから君からすると今回の任務はどれほどの気持ちだったかは痛いほどわかる。だけど同時に、同じ刀剣男士で僕の知己でもある彼の衝動とも言える行いをした気持ちもやはりよくわかる……でもここは、松井の気持ちを汲み取ってもらえないだろうか」

 松井江とは切っても切れない長い繋がりがある。顕現した後でも同じ立場に立つ歌仙の言葉には重みがあった。
 この理不尽な任務の果ての歴史改変を思えば失敗は許されない。歌仙や松井の故郷を踏み荒らされて、どうしたって抗えないものが多すぎる。それを肌で感じ取っておきながら、これ以上「何故」と問いかけるのはあまりにも人間の傲慢に思えた。どうしたって太刀打ちできないものがある。

「……貴方にそんなことを言われたら、もう受け入れるしかないじゃない」

 失うことを避けたいだけなのに、そうはさせてくれない。
 他の審神者達はこれをどういう気持ちで飲み下しているんだろうと考えた時、刃を突きつけてきた則宗を思い出す。信じて待つのが仕事のうちだと言っていた。それもそうだ。戦わせるために顕現させたというのに、失うことが怖いから戦うなは私の我儘の他ならない。則宗は刀剣男士として至極真っ当な言葉を私に向けていた。

「審神者なんて因果な稼業ね」

 静かになった手入れ部屋が声のか細さを際立たせた。歌仙は何も言わない。折れた痕の残る刀に手を添えると、霊力が注ぎ込まれていく。歌仙兼定は擦り上がったかのように変貌していった。

「本当にひどいわよ」

 段々と声に涙が滲むと「ああ、」と懐かしむ声がした。

「今の声……昔の主を思い出したよ。僕らが出陣するたびに泣きついてきて大変だったのを覚えてるかい? 主が父君と母君に会ってからというもののめっきりなくなったけれど、やっぱり変わってなかったんだね」

 布団に深い皺を刻みながら歌仙が身を起こした。解ける包帯の下からは優しく細められた翡翠の目が覗く。

「……こっちがどれだけ心配したかわかってるの」
「わかるよ。僕は僕達に危険な方へ行かせなかった君の今まで頑張りを最初から見てきたから」
「歌仙の言ってること、頭では理解してる……わかってるけど」

 まだ自分には清濁を合わせ飲む度量なんてない。頭で理解はできても飲み下そうとすればするほど声が震えていった。

「無理に割り切れなくていいんだ。わかろうとしてくれている、それだけで充分だよ。ありがとう主」


   * * *


 あの地に自ら向かうことは、過去の記憶を隅々まで掘り起こす事に他ならなかった。
 顕現してから今の今まで、頭の中で過去に向き合っても延々と収拾がつかないままあの島原へ向かって行った。だが改変された過去の地から見慣れた本丸へ帰った瞬間、冷や水を打たれたように我に返る。
 歌仙を失わないため、芙蓉が壊れてしまわないためという使命感で無理矢理自分の記憶に蓋をして駆けていた。ただただ必死で、自分のためではなかったことをありありと実感する。耳の裏に通う血が煩わしいほどうるさく、耳鳴りが止まらない。

「──……ぅ、」

 気管の奥から込み上げる不快感がここにきて顕になる。自分以外の大量の血が混ざり合った匂いを思い出してその場に塞ぎ込んだ。毒を吐き出すように激しく咳き込むと、戸惑いがちな小さい手のひらに背中をさすられた。

「ま、松井さん、大丈夫ですか? どこか痛みますか……?」

 今にも泣き出しそうな五虎退だった。
 五虎退自身も中傷で寝ていたはずだが、傷もあらかた塞がっている。しかし虎の数が足りていない。そう気づいた時、手入れ部屋の奥から複数の拙い鳴き声がした。同時に「わかったから裾を引っ張らないでおくれ」と、聴き慣れた声に顔を上げる。そこには足元に子虎を引っ付かせている深手を負っていたはずの歌仙がいた。

 前田藤四郎に身体を支えられながらおぼつかない足取りではあるものの、潰されていた両目はしっかり瞬いて壁に手をついてもたれる姿を映し出している。五虎退も含めて芙蓉が修復を行なったのだ。あんな状態で手入れまで行うとは思っていなかったが、呆けていると歌仙に「早く執務室へ行くように」と促された。

「無理もないけれど、ひどい顔色をしているね。大丈夫かい」
「……歌仙こそ、もう動いても平気なのか?」
「うん、この通りだよ。全快ではないけどね。僕から君の行動に関して主に伝えられることは伝えておいたから、あとは頼むよ。主のことだから元々刀解や懲罰を与えるなんてないとは思うけど」

 どんな状態であっても根回しが早いのが歌仙だった。

「すまない、そんな状態になっているのに。ありがとう」
「昔馴染みだ。それに君と主の間に血が流れるなんて僕は望まない。忠興様だけで充分だよ」

 歌仙は「全てが済んだら、話を聞かせておくれよ」とだけ言うと手入れ部屋へと戻って行った。



 異様なほど静かな本丸の廊下を進む。
 今回の出陣はかなり特殊な出陣だった。常に出ずっぱりの遠征部隊を全て帰還させ、編成以外の刀剣男士は執務室と手入れ部屋、刀装保管庫、時間跳躍と出陣に関わる全ての場所に近づくことを禁じられていた。
 軍議で「少しでも聞き耳を立てようものなら首が飛ぶかもしれない」と芙蓉が言っていたせいもあり、各所に人払いの札が貼られている。広い本丸ではあるが、いつもどこかしらに誰かの気配があるものだった。しかし今やこの執務室を中心とした一帯には刀剣男士の気配すらない。

 まるでよその本丸に迷い込んでしまったような感覚を覚えながらさらに進んで行くと、紫煙の匂いが漂っていた。芙蓉の愛用している刻み煙草のものだ。

 ──この先に芙蓉がいる。

 自然と胸が緊張した。導かれるように廊下を渡り、執務室に入る。執務机の傍に立っていた芙蓉が、目も合わせず煙管を煙管箱に戻した。
 執務室には和泉守を始めとした手入れの終わった少数が集まっていたが、その中にちゃっかり紛れ込んでいる包丁と目が合った。しかしどうしてここにいるんだと指摘できるような雰囲気ではない。
 松井江から芙蓉の表情は窺い知れず、「戻った」と報告するより先に芙蓉は受話器を手に取る。

「……政府および協力本丸へ。全ての刀剣男士の帰還と遡行軍の討伐を確認。救出可能だった刀剣男士はおらず、歴史の被害数は概ね歴史通り。改変の阻止、検非違使の撤退を確認しました。これにて終了とします」

 普段なら安堵の溜め息と同時に受話器を戻すところが、芙蓉は受話器を耳に当てて持ったままだった。受話器から微かに音が漏れている。

「──……」

 しばらくして芙蓉は無言で耳から離すと、歯を食いしばり力いっぱい受話器を振り上げて元の場所に叩きつけた。
 思いがけない衝動に、周りにいる刀剣男士達の肩が跳ねる。力任せの衝撃に耐えきれなかった受話器が反動で机から床に落ちて、コードで繋がれたままだらしなく床に転がっている。
 転がったままの受話器を無視して、芙蓉は扉の前に立っている松井江に睨みを効かせたまま詰め寄った。

「松井江、どうして勝手に出陣したの!」

 腹の底から響くような声で掴みかかった。気まずそうに止めに入ろうとした南泉は早々にお手上げ状態で引っ込んでいく。松井江は返す言葉もないと静かに真っ正面から言葉を受けていた。

「どうしてあの場で一人だけ残ったりなんか……!」

 何も言わない松井江に何か言えと乞うように怒鳴るが眉を寄せて静聴している。

「何が無事終わったよ、あの時代に……」

 急に言葉を詰まらせた。喉の奥から声を出そうにも苦しげで、それでも唇を噛み締めてなお松井江を睨む。目には涙を浮かばせていた。

「……行かないでって言ったわ」

 一杯一杯の中でようやく絞り出せた声は震えていた。「ごめん」と口を開く瞬間、胸元にあった引っ張られる力から解放されると世界に火花が炸裂した。松井江は倒れはしなかったものの、あまりの剣幕にその場にいる全員が呆気に取られる。芙蓉から明らかな怒りの感情をぶつけられたのは初めてのことだった。

「行くなら行くって一言くらい言いなさいよ! なんで伝える相手がよりにもよって則宗なのよ! 貴方私の近侍でしょうが!」

 涙を散らして叫ぶ姿が初めて大声を出した子どものようだった。ズルズルと床にへたり込み、段々と嗚咽が抑えられなくなり、ついには両手で顔を覆ってしまった。

「ふざけないでよ……あんなことまでしておいて」

 思っていた以上の憤慨に伸ばした手が戸惑いがちに止まりかける。膝をついて目線を合わせようにも、どうしたらいいかと松井江の手が宙を彷徨った。だが未だ腫れの引いてない頬を見て気づけば背中に手を回していた。
 演練場で則宗に連れて行かれた時も、和泉守が激昂した時も、二度も手を伸ばさないといけない時に何もできなくて後悔するのは堪らなく嫌だった。

「本当にすまなかった──でもこうして帰ってきたよ」

 則宗がやってきた逢魔時からこれまでの数時間にいろんなことがありすぎた。強張る身体を「よく頑張ったね」と抱き留める。冷えた身体から少しずつ、緊張の糸が途切れたのか段々と力が抜けていく。身体が松井江に預けられていた頃には、静かに意識を落としていた。


   * * *


「……案の定、疲れだな」

 猫足の椅子の上で胡座をかいた薬研が言った。

「この様子じゃ昨日今日どころか最近ろくに寝てなかっただろう。さっきは歌仙や傷を負ったやつの手入れもしてたしな。大将は俺がどんなに言っても無茶をするから手に負えん」

 あれから芙蓉は私室まで運ばれた。ベッドの上で横になっている芙蓉を除き、今この部屋には薬研と松井江のみだった。

「今まで寝てなかった分好きなだけ寝かせてやろうぜ。主にとって今回の任務は本当に堪えただろうしな」

 そう言って「いてて」と言いながら背中を伸ばす。軽傷で済んだ薬研は手入れの順番を自ら後回しにしてもらっていた。

「しかし大将の剣幕はすごかったな。和泉守と包丁と南泉なんて圧倒されて背中がピッタリ壁に張り付いてたぞ」
「そうなの?」
「ああ。女は怒らせるもんじゃねえな。くわばらくわばらってな。……ところで松井、あの紅白の男って誰なんだ? 確か則宗とか、さっき大将が言っていたが」

 薬研が居住まいを正した。

「いきなり手入れ部屋に知らんヤツが乱入してきたかと思えば手伝い札を勝手に使うわ、一文字の連中を勝手に出陣させるわ堂々と無茶苦茶してたが、大将の顔馴染みか?」

 あらかじめ顔を合わせていた松井江はいいとしても、薬研を含むそれ以外の男士達からするといきなり見知らぬ刀剣男士が突然現れたように見えるのは当然だった。

「彼は一文字則宗といって、政府所属の刀剣男士だよ。明石さんや燭台切さんみたいな一文字派の祖にあたるらしい」
「なるほどなあ、通りで。政府お抱えなら納得だ。雰囲気がそこらで見かけるやつとは段違いに偉そうだった」
「貫禄なら薬研も負けないよ」
「違うぞ松井、その貫禄も大将あってのもんだ。……さっきは好きなだけ寝かせた方がいいとは言ったが、本音を言えば早く目を覚ましてほしい。俺たちだけがあったって仕方がない」
「……そうだね」
「大将が泣くところなんて久々に見たよ。昔は風呂で隠れて泣いてんだろうとも思ったが、少しずつやせ我慢が上手くなってたんだな。和泉守に殴られた時だってそうだ。あの受話器を思いきり顔面に叩きつけて前歯を全部へし折るくらいしてやればよかった」
「それはさすがにやりすぎだろう……」
「何を言う。どうせ手入れで治るんだぞ」
「たしかに」

 とは言ったものの、もし本当にそうなったら無断出陣で平手打ちが入ってた自分は一体どうなっていたんだと背筋に少し悪寒が走った。そうならなくてよかった。

「でもそうしないのが大将だよなあ。書類捌きは人の心がねえと思うが、こういうところがままならん。俺が顕現した頃は毎日右も左もわからなくて、怪我して戻りゃピーピー泣きまくってさ。頼りないが可愛げがあったんだぞ? どうしてこうも変に逞しくなっちまったんだか」

 最初期から顕現してこの本丸にいる薬研から見ても、今でさえもっとこうしたらいいのにと押し問答したくてもできなかった部分があったのだ。今なら寝ているせいか、なんでも言える。

「つくづく思うが人間はあっという間に成長するな。俺が見下ろしてたはずの大将の背も今じゃすっかり俺が見上げるようになった。俺達にとってのたった十年とは比べ物にならん重さをしてるよ……もう少しゆっくりでいいのにな」

 薬研のまごうことなき本音だった。主との時間の価値観の相違に歯痒さを感じさせられるのは刀剣男士全員の共通の悩みだとすら思う。今生の主と一緒にありたい、刀としての本分を全うしたい。薬研の場合は前者だった。
 泣いてばかりだった頃は初期刀の歌仙や初期鍛刀の小夜に、薬研と大いにいろんな刀剣男士を頼ったことだろう。総代となって身の振り方がある程度決まってからは段々と頼る事柄も絞られていき、やがてそれも少しずつなくなる。本当にあっという間の出来事だったに違いない。でもなぜだか芙蓉らしい。

 ──いつか自分もそうなるんだろうか。
 そう思うと、松井江はゾッと身震いした。ハッキリ嫌だと自覚できる。

「さて、まだ当分目は覚めない。大将の部屋はただでさえ一部のやつしか入れないんだ。変に心配するやつもいるだろうし、行こうぜ」
「……僕はもう少し一緒にいるよ」
「そうか。俺はそろそろ戻るから、後を頼んだぞ」

 薬研が退室し、息をついた。
 ──あっという間か。
 歳を取るという概念がない刀剣男士にとっては説得力が有り余る言葉だった。
 こうして芙蓉が寝ている姿をじっくり眺めるのは和菓子屋で倒れた時以来だ。あの時と違っていろんなものが込み上げる。

『僕から見れば審神者は皆、禍根の子らよ』と、則宗はそう言った。
 松井江から見れば芙蓉はその最たるひとつだった。その芽がある。
 ひとりぼっちになると芙蓉は言ったが、こんな本丸の中で本心を誰にも明かすことが出来ず耐えている方がよっぽど孤独だ。これだけ芙蓉と一緒にいたって言葉にしないとわからないものがあまりにも多すぎるのだ。
 意地でも当事者である松井江を島原に行かせまいとしていた。大事に思われている自覚はある。だけどそれを、歌仙を助けるためとはいえ不意にした。

『──皆さんに言わないだけで審神者さまの耳には他の本丸で起きた不祥事の情報がいっぱい入ってくるんです。刀剣男士の皆さんにしてみれば杞憂にすぎなくても、審神者さまから見ればいろんな場面を危惧されても無理はないですよ』

 ふとこんのすけが言っていたことを思い出して、肺の中が空っぽになるほどの溜め息を吐く。
 早く目を覚ましてくれと、落ち着かない心地で芙蓉の手を握っていた。


   * * *


 夢を見ていた。十三歳の頃の夢。
 夢にまで見なくても思い出す光景はいつだって鮮明で心に迫った。

『──僕が今回、お前さんの監視役をする一文字則宗だ』

『まあ、監視役とは言ったが、要は付き添いだ。……そう肩肘を張るな、念願叶った両親との再会なんだろう? もっと笑った方がいい』

 最初はなんて調子のいい声だと思った。
 あの無機質な部屋に行くまで監視役という務めを忘れてるんじゃないかと思った程だ。「喜ばしいじゃないか」と口にしながら、私以上に嬉しそうにしていた則宗が「僕より先に先に行くんじゃない」と握ってくれた手のひらは温かかった。
 いざ扉の前に着くと、天にも昇ってしまいそうなほど緊張して、何を話せばいいのか前もって考えていたことが全て頭から飛んでいってしまった。心の準備が終わらない私に痺れを切らせた則宗が「堂々としろ」と背中を押して勝手に扉を開けると、そこには待ち望んでいた両親がいた。

 でも顔を見てすぐに違和感という温度差を感じた。
 それは多分、則宗も同じだった。

 そこにあったのは喜びではなく、親元を離れた私が別世界で生きているという安堵と、それを最後にした諦めの表情だった。
 私はそれを認めたくなくて部屋から逃げ出した。後ろから追いかけ、私の手を掴んで引き止めた則宗の手のひらはひどく冷たかった。

 何かの間違いだと則宗に諭されて部屋に戻ると、中にはもう誰もいなかった。何も伝えられることができないままに言い得ぬ感情に心が支配されていく。
 両親から別れを告げられたくなくて逃げ出したけれど、私に何も言わず、私から何も言われずに去ってしまった虚しさが、静かに突き放された憤りが、蝕むように広がるもう二度と会えない予感が、ひたひたと病のように私の胸の内を重く満たした。
 錘のような感情は孤独感に底深く沈んでいく。

 ──ああ、そろそろ目が覚める。

 ふと夢に一条の細い墨滴が上から流れ落ちて来た。
 目が釘付けにされていくうちに、それは何条にも広がり真っ黒に夢を塗りつぶし、あっという間にがらんどうに身体が投げ出されていく。孤独を感じる暇もなく、ごぼりと足元から泡が湧いて出て浮遊感に晒された。
 これが海だとわかった途端、身体が反転し、下から上に押し上げられるように真っ暗な深海から浅瀬の青へ急速に浮上していく。
 眩しい。目を開けるのがやっとだ。どんどん周りが透き通って透明になっていく中で手を伸ばす。視界を遮るほどの泡の向こうに佇む、一人の影を見た。



「……?」

 夜明け前の一際暗がりの空は静かだった。
 ぽつんと窓に浮かぶ月をぼんやりと見ていたら、ふと手のひらをぎゅっと握られている感触があった。この本丸に爪先を青で彩られているのは一人しかいないのだから顔を見るまでもない。じっと握られた手を見ていると「ごめん」とぽつりとした声が降ってきた。

 なんの謝罪なのかと、寝起きの頭で記憶と言葉を徐々に繋げていく。よく見ると松井江の袖が血で汚れていた。手入れがされていない姿を見て、松井江が無断出陣したことを思い出した。
 ようやく顔を上げると見慣れた顔が薄闇に浮かび上がる。ほっとしている表情を、ただなんとなく輪郭をなぞるように、少しだけ赤い松井江の頬に指を滑らせた。

「……そばにいてって言ったのに」

 眉を下げる様は申し訳なさそうではあるけれど、ごめんと言った言葉に反して戸惑いがちに笑っている。

「ひどい近侍。ごめんだなんて絶対思ってないわ」
「目が覚めたから安心したんだよ。よく寝ていたから」

 どのくらい寝ていたのだろうと時計を探したが、松井江に隠れていて見えない。寝てる間にずっと手を握ってくれていたのか、握られている方だけ指先はほんのり赤く、温もりがあった。

「身体は大丈夫? 帰還した時に歌仙の傷がだいぶ塞がっていて驚いたんだ」

 両目が塞がるほどの重傷を負っていた歌仙は優先的に手入れの順番を回していた。全快させることはできなかったが、その後にも重傷を負っていた数振の手入れもしていた。元から少ない霊力が底を尽きても無理はなかった。

「誰かさんが心臓に悪いことをしたんだもの。とってもしんどいわ」
「根に持つねぇ……けど目が覚めて本当によかった」

 一際強く握られた手に吐息がかかった。袖に付着した血が茶色く酸化している。長い時間付き添ってくれていたのだ。

「霊力が尽きたくらいで大袈裟よ」
「それだけじゃない。あんなことがあれば心配するに決まってる」

 背中に差し込まれた手を頼りに起き上がる。帯は少し緩められていたが、いつもの執務着のまま寝ていたから着物にあちこちにしわが寄ってしまっている。

「──ねえ、則宗から私について聞いたんでしょう?」

 松井江の服を正そうとする手が止まり、思い止まったようなかすかな溜息のような声が聞こえた。やっぱり、と言うと松井江は口を噤むが、布擦れの音がするとすぐに顔を上げた。
 ゆっくりとベッドから立ち上がると心配そうに目で追ってくる。自分で思っていたよりもずっと身体が重力に負けそうなほど疲弊しきっていたが、探し物はすぐ近くにあった。

「松井には私が自分で話すつもりでいたのに。則宗は……本当に昔からお節介なんだから」
「違う、僕から聞いたんだ。彼は貴方を助ける理由を「僕が泣かせたようなものだから」と言ってたよ」
「……バカね。誰のせいでもないのに。勝手に気にして、本当にバカよ」

 則宗は私の懸念も手紙のことも、冗談を交えることはあっても、否定することも馬鹿にすることもなく話を聞いてくれていた。話半分で聞いているのだろうとばかり思っていたが、それは全く違っていた。

「でも結果的に松井を差し向けて歌仙を助けてくれたから、バカは言い過ぎね。本人には絶対に言ってあげないけど」

 洋室の一角にあるチェストに立て掛けてある、松井江の依代である刀を手に取った。
 両手で持っても想像以上の重みがある。ゆっくりと鞘から刀身を引き抜いた。息を吹きかけるだけでも御法度だというのに、刀身には無数の生々しい戦闘痕と血と油で本来の刀の姿とはかけ離れた赤黒い斑ら模様になっている。模様の間から見える澄んだ地鉄が私を見つめ返した。

「主? 何を……」

 松井江が注意深く見る最中、なけなしの霊力を注ぎ込むと刀身に光が灯る。
 本来の輝きを取り戻し、呼応するように松井江の身体からは傷跡が消えていく。元の白い肌へ戻っていく様を見ると松井江が血相を変え、飛びかかる勢いで私の手の中から刀を取り上げて床へ放り投げた。刀身が音を立てて床と机に切り傷をつけたが、そんなこともお構いなしに怒鳴りつけた。

「せっかく目が覚めたばかりなのにどうしてそんな無茶を……!」

 修復を一気に終わらせることは負担がかなり大きい。身体を支えられながら、腕に力をかけて倒れ込むと松井江は一緒に床に座り込む形になった。

「怪我人に長話を聞かせる趣味はないから……」
「だからって、」
「松井が私との約束を反故にしてまで歌仙を助けてくれたのよ。だから私は貴方との約束を帳尻合わせしてあげる」

 ぐっと顔を突き合わせて囁くと血と汗の匂いが入り混じる。髪が肌に張りつき、顎の先から玉の汗が滴った。

「私は血の繋がった両親から存在を諦められたの」

 たった一言だった。松井江との間に流れる空気が変わる。
 則宗からどこまで聞いたのかはわからなかったが、肝心な部分は話していないのだと冷え固まった顔を見て理解した。

「もしかしたら何かがあって諦めざるを得なかったのかもしれないけど、私はそれすら知ることができない。でも私みたいな審神者って多いんだと思う。現世では審神者の適性がわかると否応なしに政府に引き取られるから」
「だからあの手紙をずっと大事にしてたの……?」

 問われて、私は「そうよ」と言った。未練がましいと笑われるかと思ったが、そうではなかった。松井江は話の続きに耳を澄ませていた。

「あの手紙が読めないからこそ、私は引き止められたままなのかもしれない。いっそのこと、審神者の馬鹿みたいな給料を毎月全額寄越せとか、そんな最低なことでも書いてくれていたら私だって切り離す踏ん切りがつくのに。でもわからないんだもの。どうして今になっても手紙を寄越すのか、一縷の望みは捨てられないし今だって諦めたくない。あの面会の時、一方的に諦められたあの顔が恐ろしくて逃げ出して、監視役だった則宗に引き止められてまた戻ったら、もうそこに両親はいなかった」
「……」
「その場に留まって文句のひとつでも言えば何かが変わってたのかしらね。今、となっては……」

 途端に言葉が切れ切れになる。
「主……?」と呼ばれて、意識が冴えた。

「……その可能性を口にすることすら憚られる立場になってしまったけれど」

 その言葉を口にした瞬間、松井江の目が大きく見開かれていく。

「やり直したいってこと?」

 静かに問い質された瞬間にざらりとした予感が波立った。
 顔を上げる。妖しく揺れた縹色の双眸とぶつかると、得体の知れない支配感が私の背中を駆ける。

「違う待って、」
「それはつまり──」

 咄嗟だった。口走る松井江のを両手で包み込む。指と手のひらに少しひんやりした松井江の体温を感じながら唇を押し当てると、怖い顔をではなく心臓を跳ねさせた顔で言葉が止まった。忘れかけていた呼吸を取り戻すと、しんとした部屋にやけに耳をついた。

「……今の言葉は軽率だったわ。誤解させることを言ってごめんなさい」

 歴史を守ることを本能に組み込まれているような彼らにとって、一番言ってはならない言葉の一角を見せてしまった。

「あのね、あの時をやり直したいとかそういう気持ちはないの。今を手放したくないし、この本丸には私の大事な存在で溢れてるから」

 この言葉に嘘はない。
 こんなに自分の言葉を引き出しながら心の内を話したのは初めてだった。一仕事を終えたように溜息をつく。心に上澄みができた心地だった。底に溜まった泥のような感情は掘り起こされない限り、平穏は保たれると思っていた。
 だが松井江はそうは思っていなかった。
「まだ言ってないことがあるよね」と。
 全て白状しないと気が済まないのだと、上澄の底の泥に手を触れた。

「一人ぼっちになるってどういうことなの」

 問いかける声は優しいが核心に迫っている。

「それに触れないということは、芙蓉の本心はそこにあるんだよね」

 耳の奥が詰まったように声が遠い。
 戸惑ってるうちに腕を引かれて無抵抗に胸に沈んだ。

「前に僕は貴方の本心が知りたいと言ったよね。みんなも貴方のことを聞けないだけで心配してるけど……でもみんなに言いにくいんであれば、僕にだけこっそり教えて欲しい」

 背中に回された手が、今まで保っていた自制を松井江は簡単にひしゃげようとしている。
 全部を委ねて、自分自身の煩悶を打ち明けてしまってもいいのだろうか。逡巡する私を松井江はじっと見つめていた。
 全てを暴こうとしている。

 自分のことは明かさないくせに、横暴だとも思った。
 だけど目には有無を言わせない力が宿っている。

「ひとりに……」

 言い淀む。
 でもここで言わなかったら、きっとまた振り出しに戻る。
 何度繰り返したかもわからない泥沼の朝をまた迎えるのか。
 一人ひた隠しにして、気が遠くなりそうで途方に暮れそうなほどの孤独感に蓋をして生きていくのか。

「ひとりにしないで」

 後ろ暗さしかない醜い内面を曝け出して、新しい道を選んでもいいんだろうか。

「……この本丸の誰が貴方を一人にするの」

 杞憂だと言い聞かせるような声音に、私は「違う」と噛みつくように応えた。

「お父さんもお母さんも私を見放した。この戦いが終われば松井も……みんないなくなるわ。現世に、私一人だけが取り残される」

 私の言葉は松井江の虚を衝いた。
 刀剣男士であるならば、とりわけ自分の過去と同じくらい先々にも目をやれる松井江なら考えたことはあったのかもしれない。だけど答えにはまだ辿りけていない。私と同じ顔をしている。諦めが勝りそうなほど簡単には解決しないことなのだと。

「自分を誰かと、あんな手紙ですら繋ぎとめておきたくて必死だったのよ。松井も皆のことも、血は繋がっていない家族だと自分に言い聞かせてた。こんな独り善がりで一方的な気持ちはとてもじゃないけど言えなかった。否定されることが何より怖かった」

 今まで自分を苛んできた諦観が胸の内を吹き抜ける。喉が震えた。ひりついた寒さを感じて松井江にしがみつく手に力が篭る。

「歴史を守るためだなんて最もらしいことを言って貴方達を戦わせているのに、戦いが終わるのが嫌だなんて口が裂けても言えなかった。地獄の中で戦い続ける貴方達から糾弾されるのが堪らなく怖かった」

 堰を切るように止まらない。私が私でなくなりそうだった。
 今まで必死に虚勢を張って崩れても築き上げた芙蓉という審神者の砂上の楼閣は、足場もろともばらばらと乾いた音を立てて崩れていく。

「目の前から大事な人が消えるのは嫌なの。歌仙がいなくなるかもしれない、松井があの時代へ行ってしまったと知った時、その怖さに耐えられなかった。それこそ──貴方を島原へ向かわせた則宗に手をかけそうになるほど」

 目を閉じる。
 まぶたの裏のもっと奥深く。
 何もかもが崩れ去った暗闇の中で、脳髄に刻まれた一文字則宗の切っ先が鋭く光る。張り裂けそうな胸に今にも刃が突き立てられそうで息をすることもままならない。

 誰か。誰か。

「誰か……」

 きっとこの本丸の刀剣男士誰一人私を突き放そうとする者はいない。大事にしてくれているからこそ、これから先にある孤独への恐怖に拍車をかけてくる。

「ずっと胸が痛い……なんでこんなに寂しいの」

 剥き出しになった感情で、醜い苦悶に喘ぐ顔なんて誰にも見せたくなかった。

「審神者の任を解かれた時、私は本当に一人になる。だから今だけは私のそばにいて……」

 全部言ってしまった。
 もう後戻りはできない。
 今までの虚勢を全部崩すとこんなに脆い心の持ち主だったと知って幻滅しただろうか。
 松井江は何も言わない。長い沈黙に怯えきった末に、震えた肩に手が添えられた。突き放されるかと思い一瞬肩が跳ねると、吐息混じりの声が降ってきた。

「──誰かなんて言うのはずるいよ」

 思いがけない一声に少しずつ顔を上げると、心外だと言いたげな顔をしている。

「あの時僕は半端な覚悟で貴方の隣にいるわけではないって言ったはずなのに。ずっと大事にしたいと思ってたのに、今だけでいいなんてひどい話だよ」

 たとえ冗談や嘘だとしても胸の内の凍えきった空虚を少しずつ溶かしていく。

「……できない約束は、しないんじゃないの?」
「できるよ」
「嘘よ……期待したらどうしてくれるの」
「してよ。勝手に嘘にしないで。この期に及んで僕を試してるの?」

 普段のなよやかさは鳴りを潜めている。目を突き合わせる手つきは力づくだった。

「芙蓉に顕現されて、人の身を得て、過去には心が潰れるほどの重さがあることも、その重さを誰かと分け合えることもできるんだと知ったんだよ」

 ──僕の重さは豊前が少し抱えてくれた。だから今度は僕に任せて欲しい。
 松井江は笑った。

「一人にはさせないと心は決めたから。芙蓉が抱えているものを僕が持たせてほしい。ずっと」

 昼間でも心にわだかまるような薄闇が晴れた気がした。胸に熱いものが満たされて、嬉し涙となってはらはらと零れ落ちると、松井江の胸に額を擦りつける。やっと出せた声で恥ずかしげもなく産声のように声を上げて泣いた。

 松井江の心音がする。
 たしかな温度があり、匂いがする。
 この温もりがある限り私は幸せだと、そう思えたのだ。



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