一六三七年の遠雷

アイアンウィンド


 耳をそばだたせればどこからともなく時間遡行軍の唸り声が聞こえる。
 刀が翻って風を鳴らすと人肌ではない飛沫が降りかかった。ぜえぜえと肩を上下させて膝をつく。廃城のむせ返るような血の匂いの中に歌仙兼定はいた。

 こんのすけを呼びつけて篭手切江と小夜を先に帰したものの、遡行軍もさることながら検非違使の殺到ぶりが尋常じゃない。相当な数を斬り伏せたはずだが、残骸を数える前に消えてしまう。もう何体倒したのか数えるのも諦めてしまった。

「また報告書の討伐数が合わないって主から文句を言われてしまうな……」

 だがそんなことは性懲りもなく目の前に現れた検非違使によって瑣末な問題にさせられる。血で滑る柄を握り直した瞬間、獲物を振りかざしていた検非違使の首と胴体は泣き別れた。歌仙が驚く間もなく次々に斬り倒されていくと、ふいに後ろから肩を引かれた。油断した、と体が強張った。斬りかかられると予感したが、肩を掴む手のひらの力で相手がその気がないとわかる。観念して刀を下ろすと呆れた声が降ってきた。

「辞世の句を読んでみたかったんだとか考えてんじゃねえだろうな之定」
「おや……道すがら、ってわけではなさそうだね。助けに来てくれたのかい?」

 和泉守が舌打ちをする。明らかにふらついている歌仙の脇に手を差し込んで無理やりその場から引き離すと物陰に隠れた。

「心配は無用さ。筆だって持ってきてない」

 どこもかしこも血濡れで自慢の装いがぼろ同然となった歌仙が力無く答えると兄弟刀は不満げに鼻を鳴らした。

「そりゃ結構なことだ。見つけ次第へし折ってた」
「筆一本とはいえ、和泉守はもう少し物の価値の知見を深めてほしいところだよ」

 持ってこなくてよかったと歌仙が安堵していると、絶え間なく上がっていた断末魔と悲鳴が一際強まった。この短時間の間に正史との帳尻合わせを計る検非違使はさらに猛威を振るっている。

「残りの遡行軍はあとどのくらいだい」
「この場にいるのはあんたがほとんどやっちまったから、今見えるのはこっちに向かってきてる連中だけだ」
「そうか……和泉守達が来てくれたなら心強い」

 歌仙はまだ帰還するつもりなんてなかった。立ち上がろうとする様を見て和泉守は苛立ちを隠さずに「いい加減にしろ」と声を荒げた。

「小夜から御守りを奪ったやつが何言ってるんだ……さっさと撤退して小夜に返してやれ」
「撤退だって? 何を言ってるんだ」

 心底理解できない声で歌仙が言い放った。

「自分の歴史に思い入れの深い君だからこそ、再出陣しにきたんじゃないのかい? この歴史改変から帰ったら歴史ほど無粋なものはないと一緒に飲み交わそうと思っていたのに。そうか、違ったのか。残念だ」

 ここまで心の内を明け透けに語る歌仙を見るのは珍しい。和泉守が押し黙ったままなのをいいことに、歌仙は次々と吐露していく。

「僕はね、僕達を形作る歴史の地を土足で踏みにじった遡行軍も、主にあんな選択をさせた検非違使の存在も許さない。どちらも僕の本能が許すことはできないんだよ。君にだってわかるだろう」

 思いとどまらせようと肩を掴んでいた和泉守の手をゆっくりと退かせた。

「……許さないなんて言葉は雅とはほど遠いけれど、そうまでしてでもやり遂げなくては。難儀な主を持ったものだよ。そう思わないか」

 和泉守が自分の握り拳を見た。意図しなかったとはいえ、芙蓉を殴った時の感触は未だに生々しく残っている。簡単に殴り飛ばされた身体の細肩に伸し掛かる想像以上の重責を垣間見た。

「何年も前に僕は君を支えると主に言ったことがあったけれど、僕もまだまだだね。結果的にこんな不甲斐ない状況になってしまった」

 しゃがれた声で言い切ると白刃を構える。

「さあ、お喋りは終わりだよ。教えてくれ。敵はどこにいる……?」
 その時初めて顔を上げた歌仙を見て和泉守はぞっとした。首筋の毛が逆立った。
「よく見えないんだ」

 歌仙の両目は血で固まり塞がっているも同然だった。頭から流れている血は何条にもを伝って毛先と着物を赤黒く染め上げている。執念の権化に気圧されて言葉に詰まらせた。

「和泉守、敵はどこにいるんだ」

 もう一度、唸りのような声を上げる。
 トンと後ろから背中を押された。

「──二時の方向だよ」

 新しい気配が現れて歌仙に告げる。
 場に似つかわしくないほど涼やかな声に標を示された歌仙は、感覚がほとんどない脚に鞭打って駆け出す。剣筋は見えないから全てを勘に頼るしかない。途中、血の匂いの中に丁子油の香りが鼻を掠めた。誰かが加勢している。徐々に強まる気配を斬り払う。柄を握る手のひらには確かな手応えがあった。

 自身に向けられた殺気は断ったが、今度こそ身体の限界を感じた。息が詰まるほど身体のあちこちから悲鳴が上がり痛みに全身を強張らせるが、崩れ落ちることはなかった。「大丈夫?」と、さきほどの聞き慣れた声の主によって身体を支えられていた。

「撤退する小夜の御守りを奪って戦い続けるなんて、随分な無茶をしたね」

 松井江だった。芙蓉が懸念していた存在が、この島原に現れている。

「みんな誤解してる……お小夜から押し付けられたんだよ。君がここにいるってことは……きっと今頃、主の情緒は大忙しだろうな」
「そうだろうねぇ。君を含めた今ここにいる全員がを張られる覚悟をしないといけないかな。特に僕は無断出陣だから両側とも差し出さないといけないかも」
「はは、違いない。でもまさか松井江が主命を振り切るとはね……どういう心境の変化だい? ぜひ聞かせてほしいな」
「歌仙が好きそうな話だから撤退してくれたら後でゆっくり聞かせてあげるよ」

 和泉守に続いて松井江にも言われて閉口する。しかも松井江は大きな釣り餌も携えていた。松井江の肩に脱力した重みが掛かる。

「……参ったな、何が何でも戦うつもりだったのに」

 歌仙は痛みを逃そうと浅く息を吐いていた。

「殿を全うすることは出来なかったけれど、誉一つでは釣り合わない働きをしたからいいかな……君と和泉守の他に誰が来ているんだい?」
「山鳥毛と南泉。目が潰されてるから見えてないだろうけど、今横で戦っているよ。一文字則宗が再出陣しろって無茶言ってきたんだ」

「ああ、彼か」と歌仙が薄ら笑う。

「いつでも正月だなんてとんでもない……逢魔時の茜空と共にやってきておいて何を言ってるんだと思ったけど、今は感謝しないといけないな」

 外套の内側から取り出した袋をぐっと手渡される。それがなんなのかを知っている松井江は一瞬どきりとした表情を見せたが、歌仙は構わず受け取らせて問いかけた。

「どうだい? 自分の過去に来てみて」

 芙蓉と同様の懸念を歌仙は共有していた。現状に当てられて変な気を起こさないかと。単純な問いではあるけれど、問いを通して松井江は目が潰れている歌仙と、この場にいない芙蓉にじっと見つめられているような気持ちになる。何が何でも戦うと言った歌仙の最後の足掻きだった。

「……不思議な気分だよ。正直、気持ちが落ち着かないんだ。あまりにも僕の記憶とかけ離れすぎていて──ただこの有様は、僕自身を否定されているようで気分が悪い」

 偽りのない率直な気持ちだった。歌仙の口が弧を描く。「そういえば我の強さは主の折り紙付きだったね」と、痛みも忘れたように無用な心配だったと笑う。

「だから君は信頼に足るんだ。松井……こんな無様を晒してすまない」
「無様なもんか。あとは任せて」

 検非違使の向こうにこんのすけの首根っこを掴んで奮闘する南泉達の姿を横目に、松井江は和泉守に歌仙を預けた。
「騒がしいったらないね」と溢す歌仙の表情には安寧があった。


   * * *


 ──ひどい戦だ。惨たらしい。

 やらなければならないとわかっていても、陣佐左衛門の人心はそう訴えた。

 ──それにあの化け物達はなんだ。まるで地獄から蘇った浪人のようじゃないか。

 臓の底から恐怖を駆り立てる形相は、なんの基準があってか籠城する人間ばかりを狙う。たまに味方が斬られるから、自分達の仲間でもないことは理解できた。ああいう意図が理解できない行動をする浪人が血の流れる場では一番恐ろしい。仲間が斬られた瞬間に身を隠したものの、何かを探すように同じ場所を行ったり来たりを繰り返していて、この乱戦の中で陣佐左衛門は前にも後にも引けなくなっていた。

 乱雑に鼻を拭う。一体この短時間にどれだけの人が殺されたのか。鼻腔に血がべっとり張り付いたように戦場には鉄の匂いが満ちていたその時。ザァッと音を立てた強い海風が大地を吹き晴らすようにそれらをすべて一掃した。

 二月の風は冷たい。身を縮こませて思わず目を固く閉じて開くと、喧騒が嘘のような無音の中に陣佐左衛門はいた。

 さっきまで目の前であれだけたむろしていた浪人の化け物達がいなくなっている。悲鳴を掻き消す雄叫びも、痛烈な恨みを孕んだ断末魔もない。海風によって世界の外側に押し出されてしまったのではないかと錯覚させるような静寂だった。いつしか身を隠すことも忘れ、誰かいないかと別の恐怖に駆られ、人の気配を求めてまろび出る。

 大地は人の血で赤く染まっていれど、ついさっきまであんなにぶ厚い曇天に覆われていた空模様が嘘のように取り払われた晴天で、なんとも現実味のない光景だった。
 天上か桃源郷か。一揆軍が声高に言っていたハライソにでも来たのか。そんな馬鹿な。
 自分の中で理解し切れない現実に打ちひしがれていくと、陣佐左衛門の目の前に一人の男が現れた。

 温血の絨毯に骸の丘でできた廃城に不思議と溶け込む佇まいだった。場違いなくらい自分達とは全く違う装いで、青空を映した廃城を取り囲んでいる海の色と同じ瞳は陣佐左衛門に向けられている。どう見ても武士には見えないのに、腰には見事な拵えの刀を携えている。さらに頭を混乱させるものが、籠手に印されているものだった。

「ぬしゃその胸にある家紋は細川か? 松井か……?」

 見慣れた紋が組み合わさっていて思わず声が上擦る。男は薄く微笑むと「貴方の敵ではない」とだけ言って片膝をついた。何者かさえ全くわからずにいきなり膝をつかれて陣佐左衛門は少し後ずさった。男は気にせず抱えていたものを差し出す。

「自分を形作ったのは細川家と松井家。何も言わず、これを受け取ってほしい」

 中身を覘くと、陣佐左衛門は血相を変えて狼狽えた。

「これは、こんなもの受け取れん!」
「両家に数え切れないほどの深い恩義がある。ただそれに報いたい」

 男は淡々と大真面目に答えている。恩義に報いたいというが、言葉の中にある真意が全く見えない。

「何を……正気とは思えん。ぬしゃ一体……」
「……貴方に名を明かすことはできない。けれどこの功績は、自分であっても忠利様でも興長様でもない。貴方でなければならない」

 臓腑から絞り出すような懇願だった。自分でも無理な願いだとわかっていると言いながら、でもこうするしかないのだと表情から訴えかける。

「正しい歴史のその先の……ずっと遠くに僕の主が、大事な人がいる」

 ──芙蓉が。
 意味も理解からも遠く及びはしないが、自身の中にある主従という関係性の垣根を超えたなにかを垣間見た。それまで取り繕っていたどんな理由よりも、一つの存在に対して初めて人間味のある説得力があるように思えてならなかった。
 しかしそれとこの首級になんの関係があるのかはわかりそうもない。
 ただ、今この戦場の中で唯一自分にできる血の通った行いかもしれないと思った時には、手渡された首級に手を伸ばして受け取ろうとしていた。

「……わかった。儂が討ち取ったと、それでいいのだな」
「ああ」
「お前は怪しい。だが不思議と信じようとしてしまった。全く違うはずなのに何故か姿が重なった。松井佐渡守興長様に。言っておくがこれは悪口ではないぞ。あのお方は常に主君のために動いておられる」
「知っているよ。翁長様は僕にとってかけがえのない人だから」
「きさん……もしやわしとどこかで会ったか?」

 そう問われて男は一瞬目を見開いた。その様相をじっと見つめる。だが見れば見るほどに、思い当たらない。

「……いいや。多分、初めてだよ」

 頭を振ると、ほっとしたように男が笑う。このまだ終わっていない戦の中で生死とは関係なく、無事に全てが終わり事なきを得たように目を伏せた。

「ありがとう」


 ──気づけば隠れていた場所に身を隠していた。
 短い夢から覚めた心地だった。
 さっきの晴天が嘘のように分厚い雲が島原の空を覆っている。ふと何かを抱えていることを思い出すと、腕の中にはあの男から託された濃い死の匂いがする重みを抱いていた。

 無防備にそこらじゅうを見回しても、さっきまで目の前にいた男の姿はない。さっきのは一体何だったのかもう知る術はなくなった。それに戦場を荒らし回っていた浪人の化け物も再び姿を見せているものの、どこへ消え去ったのかさっきほどの勢いはない。それ以外は本来の戦の形をしている。

 たおやかな海のような男だった。どんな主君に仕えているのか気になるが、さっきの男の懇願する目には「約束を違えたらどうしてやろうか」という水面下に潜む底知れない苛烈さが渦巻いていた。
 思い出して身震いした後、意を決した陣佐左衛門は袋から髷を掴み生首を掲げ、城内に響き渡る声で力一杯叫んだ。
「敵大将を討ち取った」と。
 動乱の終わりが告げられると、化け物の姿は役目が終わったかのように徐々に消えていった。



「……おわりましたね。松井さん、お疲れさまでした」

 それらを物陰から見ていた松井江の足元に、どこからともなくこんのすけが姿を現した。今まで本丸とこの島原を頻繁に行き来してきたから誰よりも奔走していたはずだが、息を荒げる様子もなくこんのすけが心配そうに見上げている。

「他のみんなは?」
「皆さん無事帰城済みです。山鳥毛さんが軽傷を負いましたが、問題はないですよ」
「そう。歴史は大丈夫そうかな」
「時間は多少ずれていても、皆さんが細かいところまで気にかけていただいたおかげで被害数、事象などは概ね歴史通りです。あとは流れに任せても大丈夫かと思います。それより……」
「ん?」
「松井さんは大丈夫ですか?」
「僕かい? まあ、何も思わないことはないけど……案外平気だよ。そんな顔をしてた?」
「いえ……審神者さまはいつも歴史の当事者である刀剣男士本人が関わる時代へ向かわせるのを避けていましたから」
「……そうだね」
「ここだけの話、皆さんに言わないだけで審神者さまの耳には他の本丸で起きた不祥事の情報がいっぱい入ってくるんです。刀剣男士の皆さんにしてみれば杞憂にすぎなくても、審神者さまから見ればいろんな場面を危惧されても無理はありません」
「僕のいないところでこんのすけにそんな話をしてたの?」
「審神者さまには口止めをされていたんですけど……あんな状態の審神者さまを見て黙ってるなんて、ぼくにはできないです」

 あれだけ頑なに出陣をするなと言った背景の一部には、何もしなくても勝手に情報が次々と入ってくる立場からくる恐怖もあったのだ。なかなかその恐怖を口にしないかわりに、審神者の立場でそれらの危険性からずっと守られていた。

「……もっと思ってることを言ってくれたらいいのに」

 ボソリと呟いた一言はこんのすけの耳が拾っていた。

「それを松井さんから審神者さまに言ってあげてください。ぼくが言ってもなでなでされて終わっちゃいます」
「それ、撫でられるだけじゃなくて餌付けされて口封じされてないかい?」
「こんのすけは黙秘します」
「食べ過ぎはよくないよ」
「松井さんこそ、弱ってる女性に迫って押し倒すのはよくないと思います。しかも執務室で」
「……」

 突然飛んできたド正論に驚いて思いがけずこんのすけを凝視する。
 フラッシュバックしたのはこの任務の軍議後、芙蓉と二人きりになったあの執務室の空間だった。

「実はあの場にいたんです……完全にお二人の世界になってしまったから、僕は出るに出られなくて……」

 松井江は思い出した。言われてみれば、軍議の場にこんのすけはいたが、皆が出て行く時にこんのすけが執務室から出ていく姿は見ていない。当の松井江はずっと芙蓉を見ていたからこんのすけの存在を完全に忘れていたが、恐らく芙蓉もずっと痛みを我慢していたせいでこんのすけがいたことを同じく忘れていたに違いない。

「びっくりしましたけど、でも審神者さまがおっけーなら、ぼくもおっけーです」

 ふかふかの尻尾を立ててこんのすけが言い切った。松井江の背中に変な汗が流れる。あれだけではなく、和菓子屋でも押し倒したとはさすがに言えなかった。

「……ところで、主の方は?」

 ぎこちなく話題を変えるとふかふかだった尻尾が窄んだ。

「……心ここに在らずって感じです」
「思った以上に怒ってるねぇ……戻ろうか」

 ふと後ろ髪を引かれるように終結した戦場を一度振り返ると、懐かしい鉄の風が身体を吹きさらした。本能的に、ざらりと肌を逆撫でられたように総毛立つ。
 松井江は振り切るように本丸へ帰還した。



- ナノ -