一六三七年の遠雷

愚者の抵抗


 芙蓉の本丸を後にした則宗は政府本部にある末端の一室に足を運んでいた。無遠慮にノックもせずに入って来た則宗を声だけで迎え入れたのは男だった。座った先のモニターには芙蓉からの戦況報告と出陣先の状況が表示されていて、力なくそれを眺めている。思わず鼻で笑ってしまうくらい清々しい有様で、芙蓉に伝えた言い分ほとんどが虚偽にまみれていた。

「いやぁ、明白で結構なことだな」
「遠慮はいらない。いくらでも笑え」
「ああそうだな。ここはさながら見世物小屋だ。せいぜい短い間だろうが楽しませてくれよ。隠居とはいえ、つまらんものに構ってられるほど僕は暇じゃない。だが……」

 部屋を見回す。部屋には男一人しかいない。

「小娘に釘を刺されて大人しくしているとは意外だな。あの口やかましい方はどうした?」
「逃げた」
「ほう? 仲違いか?」
「あの女は高を括っていたんだ。こっちで原因を調査中だから大人しくしていろとだけ役人に強く言われて黙ってる審神者がいると思うか?」
「いないな。そんな性根が慎ましい審神者は存在しない」
「……審神者なら、同じ審神者の方が信頼できるに決まっている。小さなことでも政府の言うことを律儀に守ることが絶対なあの女はそれがわからなかった。相模の総代の本丸が島原へ時間跳躍を何度も強行している」

 抜け殻のようだった。いつものような高圧的な覇気が一切見られない。

「……破壊された刀剣男士というのは、お前さんらが顕現させたあの無垢に等しい少年のことだろう」

 男は壁の方を向いて遠くを見ていた。こんなに背が狭かっただろうかと則宗が思う。おおよそ男からは精気が抜け切っていた。

「これは僕の主観だが、お前さんらが元々考えていたことは悪いとは思わんさ。霊力の減衰した元審神者や霊力の乏しく審神者になり切れん者でもおそらく顕現しやすく、即戦力になり得れば……というのは、机上の話ではあるが数少ない審神者の負担を減らせるいいきっかけになりそうなものだったからな。結果失敗に終わったが。そう上手くはいかないな」
「それもこれも全部水の泡だ……昔は絶対やらなかったことを平気でやったんだ。俺も随分落ちぶれた」

 息を吐き出すような声だった。もう打つ手も逃げる気力もないといった様子だ。

「今小娘達が救出しようとしている刀剣男士はどうなっている」
「救うものなどいないさ。死人に口無しとは、刀剣男士にもあてはまる。口減らしをしたからな」
「今の発言でも十分重い罪が構成されるが、それは理解してるんだな? 私的な刀解は重罪だ」
「わかっている。だがもうどうすることもできやしない。受け入れるだけだ。私もあいつも、政府からの正当な評価を取り戻そうとしたというのに、どうしてこなったんだろうな」


   * * *


 意識が急速に取り戻されていく。
 時空の歪みからひと突きされた心臓が鼓動を刻んでいることが夢なのかもままならないまま。歌仙が床に転がる首の入った袋を掻き抱き、目の前に現れた検非違使の脇に刀を突き立てて横に払う。
 手のひらで懐に入れていた御守りの有無を急ぎ確認すると、入れていた場所には何の感触もない。あの貫かれた痛みはまぎれもなく本物だったのだ。あの御守りがなければ、自分は折れてこの地で最期を迎えていたのだ。
 歌仙兼定に襲い掛かった刀剣破壊の危機は回避されたが、次はもうない。

「思っていたより、来るのが早い……!」

 篭手切江の言葉は尤もだが、そんなことは知らないと言わんばかりに検非違使の猛攻は凄まじい。城内は騒然としていてあちこちから悲鳴の声が上がっている。殺戮の限りを尽くして無理やり歴史通りに持っていこうとする検非違使の執念深さが目の前で示されていた。

「歌仙、大丈夫ですか」

 目を覚ました歌仙の元に寄ったのは小夜だった。ひどく血塗れだったが、遡行軍の返り血が消滅して傷は大したことでないことがわかる。

「全く、検非違使の殺せば全て清算されると思ってるところが相容れないよ」
「……大丈夫そうですね。よかった」
「お小夜、外はどうなってるかわかるかい」
「検非違使は城内だけに出現しているみたいです。でも悲鳴を聞いてどこかの軍が抜け駆けしたと思ったのか、細川が進軍を強行したみたいだからまずいことには変わりない……です」

 細川の指揮をしていたのは松井江の元主だから、無茶な強行はしないと油断していた。本当に全部が狂い始めている。

「それは困った……乱戦じゃないか。だが先に手を打ってよかった」

 検非違使を斬り捨てながら城内から脱出を試みるが、どこから現れているのか不思議なくらい次から次へと湧いて出てくる。遡行軍は遡行軍で、不気味な唸り声を上げてなりふり構わず全てを攻撃してくる。

 検非違使さえ出てこなければ陣佐左衛が城内に辿り着くまでを遡行軍から護衛するだけでよかったが、検非違使はその時すでに死んでるはずの人間もめざとく狙う。一揆軍だけではなく細川軍も例外ではない。検非違使は陣佐左衛門を確実に守り抜くが、「死んでないとおかしい」自軍の兵を狙って殺しにかかる検非違使を、陣佐左衛門が味方と見なすかどうかは別の問題だった。仲間を殺されて黙っている兵などいない。検非違使から逃れたとしても遡行軍の邪魔が入る悪条件の中で陣佐左衛門がここまで生きたままたどり着くことはない。

「本来の結末より後ろ倒しになっているだけでここまで不利にさせられるんですね……」

 再び身構える。歌仙と背中を合わせる篭手切江は中傷を負っていた。いよいよ最悪の場合も視野に入って来る。この二人はまだいいとして、歌仙はもう後がない。

「……歌仙」
「お小夜、言っておくけど御守りならいらないよ。それは君のものだ」

 敵を見据えたまま小夜が黙りこくる。そのまま何も言わず、敵に踏み込み掻っ捌いていく。外で上がる断末魔に混じり雄々しい怒声が轟めく。嫌な想定ばかりが当たっていく。どうしたものかと思いながら、歌仙兼定は騒乱に身を投じた。


   * * *


 松井江がそれに気づいたのは、襖の向こうから聞こえた前田藤四郎の誰かを引き止める声だった。出陣から戻った重傷者を手入れ部屋に運び入れ南泉の止血をしていたが、困惑する前田の声を聞き、手を止めて振り返る。だんだんと声が近づき、無遠慮に襖は開かれた。引き止めようとしていた前田を背にくっつけた男は、一文字則宗だった。

「これまた手入れ部屋が賑わっているなあ。僕もあちこち行き来したから一休みしたいところだ」
 悪びれもなく言うその様を見た松井江は表情を変えずに溜息をついた。手入れ部屋にいる意識のあるもの全員から「誰だ」と視線を浴びようと則宗は全く意に介さない。本当に入れてよかったのかと申し訳なさそうに目で謝る前田に、ここは大丈夫だと松井江が手振りで伝えると、南泉の処置の続きをしながら言った。
「監査官というのは、よその本丸を自由に徘徊するものなのかい?」
「これも僕の仕事のうちだ。許せ……なるほど、大半の刀剣男士が帰還しているものの……」

 一息おいて則宗は手入れ部屋をぐるりと見回す。あちこちで負傷したものが並べられていた。

「わかってはいたが損害が多いな」
「多勢に無勢の中を撤退をするんだからそういうものだろう。味方の流血が多いけど、無事に越したことはないよ」
「残りは?」
「歌仙達だ」
「なるほど。重役がまだ未帰還か」
「……手伝い札を持って何をする気だい」

 則宗は手入れ部屋の棚に潤沢に並べられた手伝い札を二枚掴み取っていた。

「なぁに、ちょっと若いのに発破かけるだけだ。保険は掛けておくものだろう? ……ほら、起きて立て。次がまだあるぞ」

 政府権限をこれみよがしに遺憾なく発揮させる。則宗が奮い立たせたのは南泉と山鳥毛だった。血塗れになった寝床で蹲る南泉の顔からは苦悶が消える。則宗が南泉の枕元に座り込んだ。

「ぅあ……?」
「よぉ、息災か?」

 親戚の子に接するようだった。気兼ねないとはいえ、年の差を感じさせる。南泉がぼんやりとした目を開くが、まだ覚醒しきっていない。

「あれ……主にしては、なんか……男臭いにゃ」

 隣で寝ていた山鳥毛はすでに身を起こしていた。南泉のぼやきの方へ首を向く。
「よっ」と呑気に手のひらをひらつかせて笑う則宗がいることに、少なからず驚いてサングラスをかけ直した。

「寝ぼけてる場合じゃない。子猫、起きろ。お前の言っていたことが証明されてるぞ」

 山鳥毛は頑固な眠気に抗えない南泉の肩を揺り起こす。

「お頭ぁ、なんのことだ……? にゃ」
「やれやれ、僕は自分をじじぃと言ってるが……これだとお前さんの方がよっぽどじじぃに見えるぞ、南泉の坊主」
「南泉の、坊主……?」

 寝ぼけた金眼とはたと目が合う。調子よくにこにこと笑う則宗を認知した南泉の瞳孔がキュッと縮まる。眠気は一目散に散っていった。

「うええ御前だ!? やっぱり俺が見かけたの御前じゃねえか!」
「誰も子猫の言葉を疑ってなどないさ。だが貴方にこんな情けない姿を見せてしまったのは、少し気が引ける。申し訳ない」

 頭を下げる山鳥毛を見て則宗はうははと笑い飛ばす。

「頭を簡単に下げるものじゃない。そう思うのであれば、名誉挽回の機会をやらねばな。僕は一文字のどうこうからは隠居した身ではあるが、今は政府の立ち位置だからな。連隊戦で鍛えたんだろう?」

 則宗が捲し立てるが、南泉は正気を疑う顔で返した。

「あ、あれと今回とじゃ数が違いすぎるにゃ」
「うっははは! 何を恐れる。僕達は研ぎ澄ました信念をただ振るうだけだ」
「お頭ぁ〜!」
「子猫、つまりそういうことだ。腹を括れ、準備をするぞ」

 山鳥毛はすでに再出陣の準備を始めていた。南泉が諦めて布団の上で大の字になった時点でようやく松井江が切り出す。

「……再会のところ悪いけど、もう少し静かにしてくれるとありがたいな」
「すまんすまん。だが松井江、お前さんも準備をしろ」
「なにが……」

 立ち上がった則宗はおもむろに松井江の隣に立ち、扇で告げ口を隠す。目は笑っているが、扇の隙間から厳しく結ばれた口元が垣間見えた。

「歌仙兼定は刀剣破壊を回避する加護を使い果たした。歌仙が破壊されれば小娘はもう立ち直れん。本物じゃないにしろ、家族だと思っているからな」

 遡行軍と検非違使の苛烈な猛攻については手入れ部屋の惨状を見れば明らかだったが、予想以上の事態に松井江の輪郭に嫌な汗が滲む。

「……貴方はどうするんだい」
「僕は出陣することができん。口出しはできてもこれには権限がない。強行をすれば別の問題が小娘にも及ぶ。お前さんが出陣することについて、小娘からまた平手打ちを食らうのが僕の仕事だ」

 すでに平手打ちを食らっていることも気になったが、今はそれどころではない。それ以上にずっと気になっていることを、今こそ聞くべきだと松井江が口を開く。立ち去ろうとした則宗を引き止めて言った。

「ねえ、貴方はどうしてそこまでして主に手を貸すんだ?」

 意外な問いだったようで、色素の薄い目が見開かれている。

「……坊主は、僕が小娘を助けてるように見えるのか?」
「僕はそう思ったよ。あの演練の時から、自分の主というわけでもないのに見守っているように見えたから」
「いいのか? そういう話は小娘から聞くんじゃなかったのか? 約束なんだろう?」
「芙蓉の過去は芙蓉のものだ。貴方から聞く話は、また違う。屁理屈かもしれないけど、僕は今その一端を知りたい。知る必要がある」
「若いなあ、言ってることが無茶苦茶じゃないか」

 さっきは抜刀しかけたというのに、今では前のめりでさっさと教えろと言っている。かという則宗も、さっきまでは言うつもりだったというのに、言ってしまっていいのだろうかと、脳の奥がざわめく。ものの見事に逆転した言い分にどうしたものかと目を伏せて、近くて遠い過去を見た。

「──昔、小娘が泣いていた」

 静かに紡がれた声に松井江は思わず驚いた。言った言葉が問題なわけではない。

「無機質な部屋で、父と母の残り香に縋るように泣いていた」

 則宗は今までの流暢な物言いが嘘のように言葉に詰まっていた。声音から、口元を覆う扇を握る手の強さから、見えないものが見えてくる。その時則宗が肌で感じた光景を垣間見えたような気持ちになった。

「僕が泣かせたようなものだ。僕が小娘を助ける理由とすれば、そうなる」

 襖の向こうがまた騒がしくなる。奇跡的に無傷で帰還していた和泉守の焦りの声が新たな帰還者を迎え入れていた。
 話を切って則宗と松井江が手入れ部屋から出てその惨状を見る。重傷で意識のない篭手切江を同じく傷が深い小夜が肩で息をしながら背に担いで引き摺っている。歌仙がいないのだ。小夜が腰紐から下げて身につけていたお守りも紐が千切れている。再出陣する南泉達を見て、和泉守も出ると武装し始めた。

「──僕から見れば審神者は皆、禍根の子らよ。政府は精神を擦り減らして管理をする。小娘のような境遇の審神者は珍しくもない。だが僕が小娘を手を握ることになったのは、本当に偶然だった」
「……」
「さぁ、時間だ。お前さんの知る島原に正してこい。その正史の先に今の僕らがいることを忘れるなよ」
「言われなくてもわかってるよ」
「死ぬなよ」
「見送る時はそれだけ言ってくれたらいいのに」
「ぬかせ。さっさと行ってこい、坊主」


   * * *


 包丁藤四郎が本丸の異変を感じ始めたのは一期一振が薬研達を母屋から送り出していった後のことだった。
 別に粟田口の兄弟に限った話じゃない。連隊戦を中断して出陣準備に取り掛かる姿を遠目から見てる時はなんとも思わなかったが、出陣する人数が多い割に静かすぎる。あの和泉守や同田貫ですら、顔を険しくして無言で準備をしていた。一緒に留守番する信濃も包丁と同じものを感じ取ってはいたようだったが、あえて触れずにいるのはなんとなくわかった。

 本丸がこの様子なら、必然的に審神者とその近侍が忙しいのは当然の事だった。
 ──なら、どれどれ。俺にできることをしに行こうじゃないか。一期一振にはきつく止められていたけれど、そんな軽い気持ちで執務室に近づいていく。

 お菓子を持ってくればよかったと心の隅で思う最中、開いたままの執務室の扉の手前で淡い気持ちは冷え固まる。いつものノリで「包丁藤四郎が来てやったぞ」と扉から顔を出さなくて、本当に良かったと心の底から思った。
 執務室から聞こえてきた断末魔のような悲鳴は包丁の足を床に突き刺した。

「嫌! 嫌だ! そんなの嘘よ!」

 芙蓉の声だった。すぐに「落ち着け」と知らない男の声が宥めているのがわかる。中の様子は窺い知れないものの、そんな気休めの言葉で落ち着けるような雰囲気ではない。悲痛に爆発した泣き声は包丁の心を総毛立たせた。いつだか重傷した包丁を宥めて頭を撫でてくれた時の芙蓉と今の芙蓉とはあまりにも似ても似つかない、別人のようだった。

「どうして、歴史なんかより歌仙の方が大事なのに……!」

 弱々しく放たれた言葉に思わず「え……」と声が漏れた。それがいけなかった。中にいる知らない男と目が合った。だがそ知らぬふりをした男はそのまま崩れ落ちる芙蓉に再び目を向ける。

「だから僕が松井江と和泉守、山鳥毛と南泉を向かわせたんだろう」
「その松井が問題だって言ってるの! 当事者の刀として弱者と敗者達を目の当たりにしてるのよ!? だから行かせたくなかったのに、もしものことがあったらどうするのよ!」

 間隙を縫うような金切り声に包丁の心が荒く波立つ。
 だがすでに改変しかかっているとはいえ松井江にとってただの戦場ではないことが重要なのだと中にいる男が言う。検非違使と遡行軍で溢れ返る戦場で少しでも歌仙の生存率を上げて歌仙を救いたいのであれば、あの場を熟知している松井江以外ありえないのだと。それは尤もだと包丁にも理解できた。

「お前さんが気に掛けるもしもはそうそう起きん。それに全員修復済みにしている。小夜左文字は撤退前に歌仙へ御守りを押し付けている。そう簡単には折れん」

 歌仙は完全に折れたわけじゃないことに包丁は胸を撫で下ろしたが、芙蓉にとっては理屈で収まるような怒りと悲しみではない。すでに心の許容をはるかに超えているのは目に見えて明らかだった。

「もう目の前から大事な人がいなくなるのは嫌なのに……」

 単純な悲しみの声だった。床に少しずつ湿った染みが増えていくのが見えて、包丁は堪えきれない気持ちになった。それを目の前にしても、芙蓉の側に立つ男は構わなかった。

「お前さんがそんなことでどうする。しっかりしろ。審神者は信じて待つのも仕事だろう。さあ立て小娘」

 則宗は冷たく言い放つ。それを見て包丁はとにかく芙蓉に対しての懸念が止まらなかった。こんな生きた心地のない状態で信じて待てと言われる寄る辺なさがあるのかと、早鐘を打つように嫌な予感が心臓が激しく脈打つ。力のない目だけが、静かに則宗に向けられていく。

「……信じろ? そんな言葉、貴方にだけは言われたくない」

 芙蓉がゆっくりと顔を上げる。袖から何かを抜き出そうとする芙蓉の手よりもいち早く、目ざとく則宗が掴み上げた。するするとずり下がる袖に手を突っ込むと、薄い紙が指先に当たる。掴み取るとそれは護符だった。しばらくじっとそれを見つめる。びっしりと敷き詰められた文字を見て何をしようとしたかを理解すると、静かに口を開いた。

「……調伏の符か。小娘が持つ玩具にしては、危ないな。自分でそうは思わんか?」

 顔を見て言うと、小さく肩が跳ねた。

「らしくないぞ。私的に使えばどうなるか一番知っているだろう」

 それ一枚で他者を制し、怨敵を下す降伏か呪い殺せる強い効力を持つ。自分で顕現させた刀剣男士以外の、主に謀反の刀剣男士に扱う護符だった。

「小娘にとっては最大の自衛だが、常に己の使命と罪悪感の狭間で揺れ動く僕達刀剣男士にとっては猛毒に等しい代物じゃないか。なんとまあ、歪な愛らしさを見せてくれる。しかし残念だが、僕を殺したところでこの状況はどうにもならん」

 色素の薄い目で射竦められて、上目遣いになった芙蓉の目に微かに怯えが走る。則宗は子どもをあやす様に笑い、ぐっと顔を近づけた。

「──だからお前は小娘なのだ」

 手を離されると身体はあっさり床に崩れ落ちた。

「めでたき日に炎より生まれたこの一文字則宗の最期が呪殺になろうとはとんだ笑い話だな。だがなんの因果か、小娘からそうされるのもまた歪な愛なのだろうと僕は思う。しかしな、悪いがそれは今ではない」

 則宗が、抜き身の切っ先を芙蓉の目の前に突き出した。話を聞かなければ斬り伏せることも止むなしと言わんばかりの目を向けている。
 うまく息ができない。ずっとごく間近で刀剣男士を見て来たが、刃を向けられる恐怖と緊張を、殺される側が見る光景を味わうことなんて一度もなかった。彼らはそうしないだけで、それを行使することができる存在なのだと、身を以て思い知る。だがそれと同じことを、芙蓉は則宗に向かって行使しようとしたのだ。
 ──怖い。逃げ出したい。
 だが一歩も動き出せない。まさか自分の足がこんなに役立たずだなんて思わなかったと、息が浅いまま涙だけが溢れてこぼれ落ちる。それを理解してか、則宗は行為に反してゆっくりと言い聞かせるように語りかけた。

「僕らは元より存在自体に価値を見出される。祈り、捧げられ、護り、命を奪う。刀とはそういうものだ。そして刀剣男士として顕現したその瞬間に使命を課せられる僕らは、命を奪い取る以上にこちらの都合で生きている者に失わせることを強いるんだ。心を得た僕達も失うことを恐れはするが、それを受け入れて罪の意識に等しい感情を抱えて生きていかねばならんのだ。審神者の、主命の名の下にだ」

 頭ではわかっているつもりだった。だが実際に刀剣男士の口から言われると鉄塊で頭を殴られたような衝撃と重さがある。口から出るのは沈黙だけだった。

「だというのに、お前さんはなんだ? 歴史で運命づけられているからと過去の人間の命も未来をも失わせることを強いておいて、今この現実でまだどうにかできそうなものをたった一度勝手に絶望して諦めただけで、自分は失いたくないだと? 甘えるんじゃない」

 本当は飛び出したかった包丁も、則宗の言葉で静かに打ちひしがれた。薬研よりもはるかに強い言葉の前に敵わない。

「しっかりしろ。言ったはずだ、一人で抱えるなと。勝手に諦めるな。お前さんがわかったと首を縦に振るまで何度でも僕は言うぞ。松井江を信じろ」

 容赦のない力の行使の前に、芙蓉は頷く他なかった。年甲斐なくしゃくり泣く様を見て、ようやく則宗は刀を鞘に戻した。

「審神者になったのは確かに本意じゃないかもしれない。それは僕も気の毒だとすら思う。だが総代となったのは自分の意志だ。そこから逃げるな。人一倍苦しみ、享受し、耐えろ。それがお前さんの使命だ。千年にわたって刀として生き、元主達の生き様を、生き汚なさを見た僕だから言える。特別傷つきやすいが、お前さんはそれができる人間だ」

 そう言って護符を真ん中から破く。徹底的に細かく千切って最終的に両手のひらで丸めた。

「これは破棄させてもらうぞ。正しい使い方をしないと、僕もお前さんも取り返しがつかないんでな」

 もう効力の一切がなくなった丸い塊をゴミ箱に捨てると、扉に向けて則宗は声を上げた。

「そこの隠れてる坊主! 暇なら小娘についてやれ」

 芙蓉が急いで振り向く。扉の影からおずおずと姿を現せた包丁に驚いていると、則宗から隠すように芙蓉の前に包丁が割って入った。

「……誰だか知らないけど、主に刃を向けたの俺見てたんだぞ。いろいろ言ってたけど、それだけは絶対に許さないからな」

 鳶色の丸っこい眼はきつく細まる。手は出さないが、言葉で負けるつもりはないと言わんばかりに虚勢を張っているのを見て、則宗はそれ以上なにをしようとはしなかった。

「そう言うな。氷嚢を持ってこようと思ってな。僕が側にいるより、坊主と一緒にいる方がいいだろう。頭を冷やすついでに、その頬も冷やせ」
「頬……?」

 なんのことだと包丁が芙蓉の手を除き、顔を覗き込むと驚愕した。

「なんだよそのほっぺ! どうしただよそれ、真っ赤じゃないか」

 急いで則宗のいた場所を見るが、もうすでに姿はなかった。肝心なことを教えない則宗に腹を立てながら、誰がやったんだと芙蓉に問いかけるも口を閉ざしたまま目からぼろぼろと涙をこぼすだけ。何も言わずに泣く姿を見て責めてしまったような気がして、一瞬たじろいだ。

「うっ……泣いてちゃわかんないだろ! もっと頼ってよ! 俺だって怪我したら退くのに痛いの我慢しながら心を削って作戦指揮とかやってられないに決まってるじゃんか! こんなの主一人で抱えきれるわけないだろ?」

 結局喚いてることに変わりはないが、心配してることだけは伝わって止めようと思ってもさらに涙が止まらず、堪らなくなって袖を濡らしながら顔を伏せてしまった。

「……松井ならきっと大丈夫だよ。そんじょそこらの遡行軍や検非違使より、松井の方がよっぽど怖いもん。でもいくら大丈夫だからって、勝手に行くのはなしだよね」
「……」
「大体主も主で普段全然俺たちに怒ったりしないし、これだけ心配かけさせたんだから主は松井に怒っていいと思うぞ! いち兄だってしょっちゅう俺に怒ってるよ?」
「……それは日頃の行いのせいよ」

 本当にボソリとした小さい声だったが、静かな執務室では聞き取るに十分だった。

「も〜どうしてそこだけしっかり答えるんだよぉ!」

 包丁の声は沸き立った悲しみと不安を少しずつ置き去りにさせた。則宗にしようとしたことを一切触れないし、それを責めない。芙蓉が幼いと認識していた包丁は思ってたより、ずっと大人だった。
 少しずつ芙蓉のささくれていた気持ちが落ち着いてくるのを見たのか、氷嚢を持ってくると言っていた則宗が執務室へ戻ることはなかった。



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