一六三七年の遠雷

初花にはまだ遠い


 頬に受けた衝撃でグラグラしていたはずの頭が、松井江によって別の熱の塊が頭の中で渦巻いた。
 こういう行為を知らないわけではなかった。たまに耳にはするけどまさか自分もこうなるとは思ってなくて、話で聞いて想像していたより舌先と粘膜が生々しくて戸惑った。恥ずかしすぎて目も開けられない、自分ですら聞いたことのなかった息苦しそうな自分の声に世界がぐにゃりと歪んでいく。朦朧とする意識の中でようやく唇が離れる。ふと芙蓉と松井江を繋いでいた濡れた糸がプツンと切れて、冷たい感触が芙蓉を正気に戻らせた。
 ハッとした顔にまた不安を招いたと勘違いしたのか、ますます強く抱きしめようとする松井江に慌てて待ったをかけた。

「ちが……違う、もう、大丈夫だから……」

 松井江の顔を見ると少し赤い唇が目に入る。芙蓉の口の端から出ていた血がついていて、改めて何をしたのかを自覚させられたような気がした。顔に熱が集中するのがわかって恥ずかしさが頂点に達する前に袖で顔を覆い隠さずにいられない。
 今まさに皆が出陣の準備をしているというのに、何をやってるのと総動員された羞恥心が反省会を芙蓉の中で開かれようとした時だった。執務机の電話が鳴る。条件反射で伸ばした手が意図に反してソファーに沈み込む。体重をかけてきた松井江のせいだった。

「……出るの?」
「え……、だって……出なきゃ」

 あんまり普通に聞いてくるものだから、思わず声が上擦った。その間も電話は鳴り止まない。さすがに出ないとまずいと思い始めた頃に、松井江が受話器を取った。声を聞いて、芙蓉の上から退く。そのまま芙蓉の手を引いて立ち上がらせると、受話器を差し出した。松井江がのしかかって乱れた着物の合わせをいそいそと直しながら受け取ると電話の主は山城の審神者からだった。
 役人から説明を受けたもののやはり不明瞭な点が多すぎることについてで、できる限り理解度を確認しあいながら説明しなければならない。早合点する子ではないから、特に問題なく説明を終えて電話を切った。
 本当にふざけた人達だとふつふつと怒りが湧くが、松井江によって後ろ向きな思考も任務の概要も全て蹴散らかされた後だからか頭の中が妙に冴えてきて、徐々に整理整頓されていく。机の上にある歌仙が淹れてくれたすでに冷めきっているとびきり濃いお茶を一気に飲み干して、脳内を完全に切り替えた。

「松井」
「何かな」

 当たり前のように芙蓉の横に立っていた。顔は変わらず、整っているがほのかに複雑そうな表情をしている。

「ちょっと後で話があるから、お得意の言い訳でも考えてて?」

 松井江は目をしばたたかせて目尻を細める。少しだけ、芙蓉の調子が戻ってきていた。



 ほどなくして、島原への任務は始まった。
 先んじて島原へ送り込まれた歌仙はかつての顔馴染みである小夜と篭手切江を連れて目的の人物のところまで突っ切る。
 そしてそれはやって来た。
 全てを巻き込んで時空が黒く渦巻く。その中心には時間遡行軍がいた。
 現代に至るまでの歴史を我が物で荒しまわる、二二〇五年の敵。腕が千切れようが片足になろうが、疲れも恐れも知らない。衰えない闘争心のみを糧に物言わぬ顔で殺意を剥き出しにし、刀剣を手に持つ正体不明の荒くれ者。
 執念の権化は物陰から屋根の上まで黒く覆い尽くした。

「──無作法者には手討ちが必要だ」

 歌仙の一声で全員抜き身を構える。歌仙の瞳は色濃く激情に染まり、かつて暴君と称された元主の苛烈さが覗く。
 壁と床が真っ赤に濡れた花で彩られていく。小夜が先陣を切る後ろで、小夜が討ち漏らした敵を篭手切江が腕ごと切り落とし、歌仙が確実に首を跳ね飛ばす。「首謀者の首を討ち取る」という目的まで着実に距離を縮めていた。
 そしてその少年と目があった。まだ歳若いながらも様々な人ならざる奇跡の逸話で祀り上げられ、戦意高揚の象徴として総大将に仕立てあげられた悲劇の子。小夜によって退けられた護衛の死体に囲まれ、この城を取り囲む幕府軍の殺意の矛先を一身に受けながら「何奴だ」と吠え叫ぶ姿は、あまりにも年相応で使命とはいえ心を抉った。

「恨みはない。だが君に生きていられると困る」
「何を──」

 少年の勇み声はそこで途切れた。瞬間的に思考と意志を失った胴体は重力に従って冷たい床に崩れ落ちる。

「……お小夜、篭手切、僕がやると言っただろう」

 少年の見開いたままの目をそっと伏せながら申し訳なさそうに小夜が言う。

「すみません……でもこんな汚れ役は僕だけでよかったのに」
「小夜だけにさせられない。私だって元々同じ古巣の仲間だ。僕だけでいいだなんて言わないでもらいたいな」

 すかさず篭手切江が反論した。だがそこにあるのは彼らなりの気遣いしかない。

「わかったわかった。ありがたいことに君達が僕のことを心配してくれているのはよく理解したよ。首を回収するから、周辺を見張っててくれないか?」

 あとはこの首を肥後細川藩士・陣佐左衛門になんとかして渡すだけとなる。
 ──和泉守はそろそろ、いやもう来ている頃だろうか。
 早いところこの城から抜け出さないといけない。城を取り囲む包囲網を細川の陣営の側から少しでも打開させる必要がある。すでに狂い始めた歴史で、遡行軍の支援を受けて勢力を保ったままの一揆軍に細川の軍が押し入っても返り討ちの可能性が高い。
 回収した首を持ち、ここから出ようと立ち上がる。ふと背中から胸にかけて冷たい糸が通るような悪寒がすり抜けた。

「──歌仙っ!!」

 小夜の張り上げた声が、やけに遠く聞こえた。瞳孔が開いた篭手切江が視界の端で応戦しているのが見える。途端に猛烈に嘔吐く。信じられない量の血が、喉の奥から逆流して迫り上がるのを止められず吐き出した。
 時空の歪みから歌仙の胸にかけて大きく突き出る赤く濡れた切っ先からは、ぼたぼたと雫が滴り落ちていた。


   * * *


 同刻。骨喰藤四郎が持って来た物を見て、山姥切国広は頭を抱えていた。
 手に持っているのは使い込まれた手帳だった。まめに記帳されたそれは明らかに刀剣男士の私物である。
 取り残された刀剣男士を救出する役目で島原へと送られたが、この場所に辿り着いた頃には遡行軍が我が物顔で占拠していた。刀剣だったであろう鉄の破片があたりに散乱し、救える者など誰一人としていなかった。その中にこの手帳があったのだ。
 持って来た骨喰から「見ないのか?」と促され、他人の手帳の中身を勝手に見ることへの罪悪感に無理やり蓋をして数ページ捲る。梅干しに関する内容が異様に多い。山城の本丸には料理好きな者はいれど、ここまで一貫して梅干しが好きな者はいない。誰なのかが全く見当が付かなかった。閉じた手帳と破片となった刀剣を交互に見ると山姥切の心は妙にざわついた。

「こんのすけ、主に連絡をしてくれ。救出できる刀剣男士はいなかったが、刀剣男士の私物と見られるものを発見したと」
「わかりました」

 薬研と骨喰に周囲の警戒を指示すると、さっそくこんのすけに返事が来た。こちらに来るらしい。主は言うが早い。こんのすけから返事を聴き終わる頃には、「大変でしたね」と歴史の地に足を踏み入れていた。
 ぐるりと見渡して、目線が足元にくる。口を固く結んで目を伏せた。

「……酷い有様ですね」
「ああ……」

 刀剣男士の末路には各々複雑な思いが生まれる。
 戦いに使われてこそと言う者は折れるまで使ってくれたことに感謝するし、死というものを自覚したものは自ら命を奪って来たのだからと受け入れる。あるものは懺悔し、あるものは怨嗟を吐き散らす。だがどんな感情があれど、無念であることには変わりはない。ここで一体何があったのかを判明させるために回収した後は政府に明け渡すが、できれば最初に今生の主の元へ届けてあげたいという気持ちが山姥切の中にあった。

「審神者様、こちらが手帳になります」
「ありがとう」

 こんのすけから手帳を受け取って持ち主が判明するまで、そう時間はかからなかった。

「──この手帳は内容からすると日向政宗のものですね。松井江の他にこの島原に参戦した刀剣男士だから、この任務では当事者であった元主の刀をこの任務に向かわせたんでしょう。……でもこの手帳の紋は相模国ものだ。備前じゃない。どういうことなんだろう」
「相模だったら何か問題があるのか」
「それが大アリです。この時代のこの場所、実は歴史の放棄を検討してるみたいなんですよ」
「放棄……? 俺達は改変を阻止するために来たんじゃないのか?」
「あ……」

 審神者が咄嗟に口元を押さえた。言ってはいけないことだったらしい。だが立ち直りが早い。まあいいか、と瞬時にいつもの様子に戻る。山姥切の兄弟である堀川国広を三年も幕末の土方歳三の隣にいることを許した審神者は、こんなことで動じるはずがなかった。

「……周防国を震源地に、時の政府に激震走る!」
「!?」

 突然の口上に山姥切が驚いただけでなく、薬研と骨喰も振り返った。

「……って、これは芙蓉さんからの聞きかじりなんですけどね」

 なんだ……、と薬研と骨喰は持ち場の警護に戻る。

「今まさに渦中にある聚楽第の歴史放棄の発端となった本丸は周防国所属だから、他の本丸の戦力を削ぐわけにもいかないので周防国が一丸となって解決せよ……ってことで今、周防国自体が苦戦の真っ只中だとか。たった数ヶ月前にそんなことになっているのに、今回は誰にも知られず他国である芙蓉さんの本丸のみがその後始末をしている。おかしいと思いませんか?」
「……気が変わったとかじゃないのか? 上の考えることはどの時代もよくわからん。常識で物事を言うような人間達ではないと思うが」
「そうでしょうか。この島原はまだどうにでもなりそうな局面なのだから、僕と芙蓉さんの二人がかりで臨まなくても同じ国の相模の総代に頼めばすぐに済みます。こんなのはただの手間でしか……?」

 ぱらぱらと手帳の紙を捲る手があるページを境に止まる。山姥切に「これを見てください」とページを開いたまま渡す。


 ──突然時空の歪みから人のようなものが現れた。遡行軍から僕らを庇うようにして一瞬で斬り伏せられた朧げな人型は、破片となって砕け散った。まるで刀剣男士の末路のように。あれは一体誰なんだ
 ──混乱の最中に、忽然と僕たちの目の前からこんのすけの姿が消えた


 血も付着していて、文字も随分荒々しい。切実なほど切迫さが伝わり、読んだ者を動揺させるには十分だった。だがそれ以上に目を引く一文が山姥切を引きつけた。

「報告書用の記録か? おそらく部隊長だったんだろう。この書き方だと六振以外にも誰かいたのか? というかこんのすけ……お前、消えるのか?」

 漠然と足元にいるこんのすけに問うと「消えません!」と一蹴された。

「……一大事ですよ。審神者が僕みたいに全員時間跳躍ができるわけじゃないですから、こんのすけが消えたとなると座標もわからないまま刀剣男士は歴史に取り残されることになります」
「でも消えるって……遡行軍にでも攻撃されたのか?」
「その可能性はありますが、攻撃を受けても別に僕達の身体は消えませんし、そう簡単に死にません」
「それもそうか……」

 そもそも攻撃されたのならそう書くにちがいない。「それに」とこんのすけが続く。

「僕達は政府から支給された管狐として審神者様に仕えているので、自分の意志で消えることはできませんよ?」

 頷く他なかった。確かに自分の意志で勝手に消えられても困る。

「だったら尚の事わからない。審神者がこんのすけを消したのか?」
「それもないでしょう。さっきこんのすけも言いましたが、政府からの支給された連絡係の管狐です。仮に審神者がそんなことをすれば重い懲罰を与えられます。最悪政府への反逆行為とみなされる」
「じゃあなんだ……政府が消したとでも言うのか?」

 消去法で可能性を残していくが、どんどん話が不穏な方向に向かっていく。最後に残った可能性が一番あってはならないものだった。

「一つだけ気になることがあります」

 手帳とずっとにらめっこしていた審神者が開口する。さっきのページを開いたままだった。

「この手帳を見る限りだと、人のようなものが現れて庇って散り、その後にこんのすけが消えたということになりますよね」
「そうだな」
「こんのすけが出陣で果たすべき役割は主に刀剣男士のサポートと出陣の記録です。さっきも言ったように、こんのすけは自分で消えるなんてできないし、僕達審神者が消すなんてこともしない。となると、政府がこんのすけに手を出す理由が一つだけ残りませんか?」
「記録……?」
「はい。それしかありませんよね」

 うやむやで実態が見えず気味が悪いもの対して審神者の霧払いで鮮明になった可能性には謎の確信があった。審神者が手帳を閉じて着物の合わせに仕舞い込む。

「こんのすけ、頼みがあります」
「なんでしょう」
「この破壊しつくされた刀剣の破片から、どの刀剣男士が破壊されたのかを照合してください」
「……わかりました」

 こんのすけの返事は重苦しい。だがすぐに取り掛かった。

「山姥切さん」

 審神者も同じだった。山姥切を呼ぶ声がいつもより声が低い。

「なんだ」
「今から見るものは、どうか他の皆には内密に。多分、ただじゃ済まされません」
「……承知した」

 ただならない要求に承諾すると、照合が終わったこんのすけが顔を上げる。心なしか、困っているようにも見えた。

「……審神者様、照合が終わりました」
「そうですか。全部で何振ありましたか?」
「七振です」
「なるほど。おかしいですね」
「一振だけ政府のデータベースに存在しない不明な刀剣があります。作者は不明、推測される製作年月は二二〇五年」

 山姥切と審神者は顔を見合わせる。何が何だかさっぱりわからない顔をお互い見るだけだった。逸話ある刀を励起させて刀剣男士達を顕現させているにも関わらず、逸話も何もあったものではない真っ新な刀を作り出してこんなところに送り出していた。

「……最初は確実に破壊されたのは一振と聞いていたから、救出する対象は最大で五振という先入観がありました。だけど実際、何振が破壊されて何振が残っているかをなかなか教えてくれなかったとも芙蓉さんは言っていました。どうしてだと思いますか?」
「多分、この刀がいたからだろう」
「僕も同じ考えです。あの二人が僕らに課した内密にとは、この不明な刀のことですね」

 憶測の域を出ないが、妙に説得力があった。

「なぜこの刀剣男士がこの場に現れたのか、役人の二人が何をしていたのかもわかりません。ですがこの存在を見てしまったからこんのすけを抹消したっていうのは充分あり得そうです。憶測の域は出ませんが芙蓉さんにこの存在が判明されても困るので、救出に必要な明確な数字をこちらに提示しなかったのはそのためかもしれません」
「破片でバラバラにしてしまえば数が誤魔化せるということか? そうなると本来の六振を破壊したのは時間遡行軍ではなく政府によって、という事になるが」

 政府権限は多岐に渡る。容易に行われないものだが刀解もそのうちの一つだった。

「それは……僕にもわかりません。わかるのは、一番最後に残ったのが日向政宗だったということだけです。この改変阻止はかなり劣勢だったみたいですから、どこまであの二人が手を出したのかはさすがに……」

 ふと審神者が顔を上げる。新たな気配を察知したところから、少しずつ空間に亀裂が生じている。とうとう検非違使が現れた。

「主、俺達は破壊された刀剣の回収も任されている」
「そうですね。回収した刀はご所望の通りそのままお渡ししましょう」
「……いいのか?」
「僕達はこの目で見た事実と、こんのすけの照合されたデータと、この日向政宗の手帳があります。……この手帳はあの役人達にとって、本当に予想しなかった物でしょうね」
「その手帳の存在を伏せたまま持って帰って、その後はどうするんだ」
「僕から相模の総代に掛け合います。本来の目的から逸脱した役人の行動によって自国の審神者がこんな目にあっているというのに、知らないのはおかしいですから」
「備前の総代には」
「巻き込まれている以上、今は言うべきじゃありません。相当焦ってこんのすけを躊躇なく消した暴挙に出た人達です。少しでも知ってると勘づかれては何をするかわかりませんよ。だからこの間に相模の総代を味方につけるんです」
「わかった。このことは他言無用とする」
「はい。こんのすけも、頼みましたよ」
「わかりました」
「……では、僕は戻らなくては。あとをよろしくお願いします」

 審神者のいた場所に薙刀の一振りの一線が通る。仕留め損ねた悔しさから言葉にもならない呻き声を上げる検非違使を斬り伏せ、破片の回収を確認した山姥切達はその場を後にした。



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