一六三七年の遠雷

春の闇


 そこからの行動は早かった。連隊戦を打ち切り十三振の刀剣男士を執務室へと招集すると、一番乗りでやってきたのは松井江だった。芙蓉にとりわけ驚いた様子もないが、どんな顔をしていいかわからずじまいといった顔で笑っている。側には歌仙が控えていた。

「……早いのね。さっきは追い出してごめんなさい。ここから則宗と一緒にいるのが見えたけど、今回のことは聞いた?」
「少しだけね」
「そう……今回松井の出陣はないわ。でも近侍だから、内容は知ってもらうわ。そこはよろしく頼むわね」
「ああ」

 則宗の言葉のせいで、無難で曖昧にしか返事を返せなかった。どんな内容で進めるのかをまだ知らず、どうするかを決めかねている松井江に対して、歌仙は腹が据わっていた。続々と執務室に集まってくる刀剣男士をただじっと見据えている。

「……集まったわね。それでは軍議を始めましょう」

 芙蓉は袖から取り出した符を一枚手に取ると瞬時に焼却した。特に変化がないが、ふと扉の鍵を閉めようとした小夜左文字が、鍵がびくともしないことに気づいた。

「結界……?」

 そう言うと、各々が物珍しげに執務室をぐるりと見回す。結界を使用するのを初めて目にする者がほとんどだった。余程の自体だとその場にいる全員が察知すると、申し訳なさげに芙蓉は眉尻を落とした。

「気を悪くしないでね。今回の出陣は政府からの特命だから。この軍議に聞き耳立てられると冗談抜きで首が飛ぶわ」

 いつもと違う雰囲気に、いつになく緊張した様子が芙蓉だけでなく歌仙にも見られた。どちらも喋り好きな方だが、今は余計なことを一切口にしない。

「まずこの特命について」
 一度言葉を切った。
「一切の口外を厳禁とします。政府の権限により発禁となるから、注意して」

 口調はいつもと違って硬い。今まで政府からの特命を与えられたことはあったが、「政府の権限」という最上級にきな臭い単語が出て来たことによって、その場にいる全員の表情に芙蓉と同様の緊張の色が見え始める。

「これは元々、他の本丸が請け負っていたものを政府の命によってこの本丸が引き継いだものになります。前任の本丸は主戦力を投入していたけれどこれが崩壊。刀剣破壊された者もいると言われています」

「……随分と穏やかじゃないですね。主戦力を投入してそれだけの被害が出るってことはそれだけ遡行軍が強いってことですか?」

 篭手切江が挙手をした。顔に不安はないが、不審な要素が多い。

「それもあるけどとにかく数が多いと言ってたわ。報告に上がっている数の正確性には欠けるけれどおよそ五百体。前任の本丸による報告だから今は変動してるはずよ」
「五百……? そんな数を俺達だけでやるのか? 間違いなく疲弊するぞ」

 薬研が言う。普段あまり口を挟まない薬研でも無視できない数だった。

「話はまだ途中よ。今回は共同でもうひとつの本丸も出陣することになります。今回一緒に組むことになった本丸の強さは折り紙つきよ。うちともよく演練を通して交流をしている山城のお坊ちゃんの本丸だから、そこは安心していいわ」

 部屋の電気を消して、こんのすけの首飾りの鈴から壁一面に今回の任務概要の地図の縮図が映し出される。九州地方が拡大され、西部には赤く塗りつぶされた丸が一箇所に集中して元の地形が見えていない。遡行軍の数がそれだけ集中していることを表していた。

「では任務の概要の説明をしますが、まず最初に言っておきます」

 全員、自然と背筋を伸ばした。

「歴史改変の阻止をするという点においてはいつもと変わらないけれど、今回は大勢の人間を殺す必要があります」

 瞬時に場の空気が凍りつく。
 皆声には出さないが、目はどういうことだと各々が訴えかけてくる。全員の気持ちが共通していた。

「西暦一六三八年の二月二十八日。日本最大の一揆と言われる島原の乱。結末だけ先に言えば、正史での死者数はおよそ三万七千人。天草四郎率いる一揆軍は一人を除いて女子供を含めたほぼ全員が殺された、と言われています」
「小鳥よ、一ついいか?」

 山鳥毛は縮図から芙蓉に体を向ける。

「どうぞ」
「死者数を最初に述べたと言うことは、遡行軍は一揆軍に力を貸しているということか?」
「ええ」
「つまり、小鳥が言った殺しの対象はその一揆軍であるということだな?」

 山鳥毛は責めている口調ではない。だが言葉は早くも核心に迫っていた。こういう場での沈黙は肯定と捉えられる。

「ちょっと待て……俺達で三万七千人を殺せって言うのか?」
「いいえ」

 和泉守の言葉への否定に、その場の男士達の目線は芙蓉に集中した。

「殺す、と言いましたが、貴方達が直接彼らを手に掛けることはありません」
「どういうことだ」

 ますます意味がわからないと言いたげに声を漏らしたのは同田貫だった。

「三万七千人を殺されるように、仕向けます」

 あくまで冷静に言い放つ。納得のいかない顔をしている刀剣男士はやはりいる。その中で隠すこともなく和泉守兼定はその感情が顕著だった。

「仕向けるったって、そんな数をどうやって……」
「これから作戦と併せてその話をします。
 まず、今この場にいるのは十二振。第一部隊と第二部隊を編成し、そこからさらに三振一組を作って合計四つの小隊に分けることになります。これは山城の本丸も同様なので、最終的に八つの小隊が編成されます」

 こんのすけが地図のホログラムをさらに拡大させると、転送先のマークが付いている。城で取り残された刀剣男士を救出する部隊と、天草四郎を討つ部隊、幕府軍を狙う遡行軍を討伐する部隊に分けられている。

「そしてその小隊は時間差をつけて一小隊ずつ一六三八年の島原に送り込みます。皆がその場で倒すのは、天草四郎と遡行軍のみに絞ってください。人は殺さないで」
「待て待て待て! いろいろ言いたいことは山々だが、そんな介入の連続みたいなことをしたら検非違使のやつらがまた出てくるんだろ? そうしたら遡行軍どころじゃなくなる……」
「それが狙いよ」

 すかさず芙蓉が言い切ると和泉守は言葉を止めた。以前検非違使とは相容れないと以前話したばかりで、それが今回突然検非違使を意図的に呼び出すとなっている。執務室の中で意味がわからないと眉を寄せる顔が並んでいた。

「検非違使は敵じゃねえのかよ!?」
「敵よ。でも今は敵だろうがなんだろうが、使えるものは使うだけ」
「なんだって……?」
「こちらは二十四振り。対して敵と改変阻止の対象は遡行軍約五百体と一揆軍三万七千人。正史通りにするとしても、こちらが一振につき千五百以上を相手にするのはどう考えても無理です。しかも取り残された刀剣男士を救出するとなると、さらに難しい。はっきり言って無謀よ。遡ってやり直すにしても、それだと取り残された刀剣男士を見殺しすることになる」

 さらに、と芙蓉は付け加えた。

「一揆は今まさに佳境なのでまず時間そのものがあまりないです。三万七千という数に対して、検非違使は相当数が現れると見られます。今回の作戦は八回に分けて連続した歴史介入により検非違使を意図的におびき出し、彼らの『歴史の異物を徹底して排除する』という習性を利用して遡行軍及び一揆軍に対して改変され始めている歴史の修正を行わせること。そして検非違使が現れたと同時に、こちらは即時撤退戦に切り替えます。殿は首謀者の首を本来あるべきところへ渡す役目がある歌仙の小隊が務めます。当然刀剣男士も検非違使に狙われる対象となるから困難を極めると思うけれど、その時代から離脱して本丸へ帰還してください」

 五虎退はひどく青ざめていた。聞いてはならない話を聞いてしまったように、目を見開いて硬直している。それ以外も、驚愕の表情で言葉を失っていた。──検非違使を手引きして改変により生き残った人間を皆殺しにさせて仲間を連れてさっさと逃げろ。皆の前に立つ年若い女の口から出た強攻策は、冷血を極めていた。

「おい主……」
「何かしら」

 表情ひとつ変えず返事をする芙蓉を見て、和泉守が額を押さえて瞬きを繰り返した。

「なあ、さっきから……なんでそんなに淡々としていられるんだよ、あんた。俺達の敵は遡行軍だけじゃなかったってことにこっちは少なからず衝撃を受けてるんだ。これじゃあどっちが悪かわからねえ。こんなやり方、頭を冷やせと言いたいのにそれすらも言わせてもらえないのか」
「……」
「何か言えよ主。三万七千、三万七千って、人の命を数で見るなよ。あんたは政府が被害数を重視するだとか、過去の人間は正史の前には弱者だとか言ってたが、それはこっちの都合でしかないだろ。そんな作戦一体誰が考えたんだよ。政府か? 松井も之定も何も思わないのか?」

 ヒールの音が和泉守に近づいてくる。芙蓉は顔を上げて和泉守を正面から見上げたまま言った。

「和泉守は戦うのに理由が必要なの?」
「当たり前だろ。じゃなきゃどうして刀だった俺たちは人の形なんてしてるんだよ」
「人を殺すのに正義もなければ悪もないわ。歴史がねじ曲げられれば私達だけじゃなくて貴方達の歴史や存在をも脅かされかねない。ただ倒さなきゃいけない存在がいるという事実だけが今ここにある。それだけあれば十分よ」
「それだけ、って……」

 あまりにも血が通っていない返答に、目を見開いた。相談に乗っていた時の芙蓉との別人ぶりに苦し紛れに言葉を絞り出そうにもまともな単語すら出てこない。

「私からの説明は以上。質問があれば、時間の許す限り答えます」
「おい……」
「本当にやるのか」

 山鳥毛が静かに問いかける。その場にいる全ての疑問の代弁をしていた。

「勿論」
 端的で揺るぎない返事が執務室に響く。

「現代を生きるものがいる限り遡行軍は敵です。生きるべきもの、死ぬべきもの、歴史をあるべき形へと戻すことが審神者が率いる本丸の役目。私たちは改変を阻止するものであって、正義の味方ではないわ」
「……わかった。小鳥の覚悟はすでに決まっているようだ」
「おい山鳥毛!」
「和泉守、君が一人怒りを露わにしたところでこの決まりは覆ることはないし、君が決めることではないよ」

 ずっと芙蓉の傍で任務の概要に耳を傾けていた歌仙が引き止める。同時に、もうこの決定は覆らないことを決定づけていることを知っている口ぶりを隠そうともしない。歌仙も覚悟を決めた一員だった。

「今どうにかしなければならないことだ。これは命令であって、主も本意じゃない」
「やらされてるってことか? なら、それを実行に移す俺達は、戦力である他の本丸の刀剣だけを助けて安全なところに逃げて、歴史通りじゃないからとこっちの都合だけで大勢の人を自分達以外の手で丸ごと殺させることになるんだぞ……正気かよ」
「皆殺しが正史である以上そうするしかない。主も僕達も、組織の歯車のひとつにすぎない。歴史を守ることに集中するんだ。君も新撰組にいたのならそれくらいわかるだろう? それとも、僕から君に部隊長を明け渡したのは失敗だったかな?」
「なんだと……?」
「僕の目は狂っていた。主に私情を押し出して鬼の副長の佩刀を名乗るとは、笑止千万だと言っているんだ」

 最大級の罵倒に等しい言葉は、一瞬で和泉守の頭に血を上らせ沸騰させた。くるとわかっている痛みを歌仙は受け入れる。
 だがそうはならなかった。和泉守の拳は歌仙には届かなかったのだ。
 松井江は伸ばしかけた手をそのまま硬直させている。その場にいる全員が固まった。和泉守はおろか、歌仙すら目を見開いて目の前で起こったことに驚愕している。
 歌仙の胸にもたれていた芙蓉は、ゆっくり立ち上がる。その様子を和泉守は信じられない目で見ていた。

「ぁ……、なんで、あんたが」

 和泉守は自分の拳と芙蓉の頬を交互に見て後ずさる。そんなこともお構いなしに、芙蓉は一歩ずつゆっくりと歩み寄った。

「──和泉守が怒って当然でしょう。それだけのことを貴方達にさせるんだから」

 赤く染まった頬に集まった血は、煮えたぎるような痛みの現れだった。耐えているのか、肩で息をしている。

「いいのよ? その怒りという感情は、貴方たちに許された特権の一つだもの」

 怒ってる素振りすらない。自分達の主が「許す」と言ったのだ。そこにいる誰も何も言えず、動けず、固唾を飲んでいる。涙の膜が張った目がぎらついてさらに凄みを助長していた。口の端が切れたまま芙蓉は続ける。

「でもね和泉守、貴方が怒りをぶつける相手は歌仙じゃないの」

 行き場を失っている拳にそっと手を触れると、拳に込められた力は徐々に緩んでいった。よりにもよって、自分の主を殴ってしまったのだ。咄嗟に自ら割って入ったとはいえ、やったことの重大さに、和泉守の顔からは血の気がゆっくり引いていく。

「さっきも言ったけれど、もう時間がないの。差し迫る中で歴史通りにあの戦を完遂させるには、どうやったって刀剣男士達には手が余る。だけどこれは、できるできないの話じゃないの。やるしかない……ひとつだけ誤解を解いておくとね、検非違使をおびき出して自分達の手を直接加えず、無理やり歴史を修正させるという今回の作戦の立案をしたのは政府じゃない。私よ」

『──審神者の力がなければ、こうして人の身を得ることなどなかっただろう。だが逆に、審神者の力を得て僕らの手を取ってしまったからこそ、普通の人間としての人生を失っているのも事実だ。狂わせたと言っていい』

 松井江が息を飲んだ。一文字則宗の言ったことが頭の中を再び反芻する。普通の人生を捨てて、普通の倫理観から大きく逸脱した世界に立って生きているのだと、ずしりと胸に重くのしかかった。

「和泉守の主張はごもっともよ。糾弾されて然るべきことだもの。当たり前の感情だと思う。でもただでさえ相手は恐怖も疲れも知らない異形の敵なのよ。こっちの当たり前なんて意味を成さない。ただ、歴史と違うからってまだ生きてる人を殺さなきゃいけないのかと問われると、本音を言えばそんなわけない。そんな理由で奪いたくない……でもそうはならない。正史が許さない。許されない。だって私は審神者で、貴方は刀剣男士だから」

 先ほどの固い口調から一変して、いつもの芙蓉の吐露だった。

「──冷淡であっても、臆病であってはならないのよ。貴方達に危険を晒して殺せと命令する立場である私の考えがブレることはあってはならないの。私が迷えば貴方達が迷う。理由が欲しい気持ちは理解するけど、今は理屈を捏ねてる場合じゃない。残念ながら、審神者なんてものは正気のままでできることではないの。……とはいえ、それを貴方達にまで強要させてしまってごめんなさい」

 和泉守は完全に沈黙していた。もはや反対の声が上がる空気ではない。初めて触れる審神者側の葛藤に、誰も手も足も出なかった。

「こんのすけ」
「はい……!」
「何も見なかったわね?」
「え、えっと……」
「あなたは今この場であったことを何も見てはいなかった。そうでしょう?」
「……はい」
「よろしい。なら政府へ始動の報告をして。皆も、任務はもちろん、今のことは他言無用よ。いいわね」

 主である審神者に手を上げることは刀解も視野に入る厳重な処罰の対象だが、報告さえしなければ内輪にて解決するべきと見なされ何事もない。歌仙も松井も、和泉守を除いた全員が首を静かに縦に振る。終始和泉守はばつが悪そうだったが、芙蓉に目を合わせた。拳で強く当てたところを見ながら、小さく答える。

「……すまなかった」
「謝ることじゃないわ。いい目覚ましよ」

 無理がありすぎる言い分に歌仙が物申そうとしたが、思い止まった。

「君という人は……本来ならもっといろいろ言いたいところだけど、僕達は準備を始めよう。和泉守、行くよ。自分を納得させる理由くらい、自分で戦いながら見つけるといい」
「……ああ」
「和泉守」
「……なんだ」
「部隊長がなんて顔をしているの。胸を張りなさい」
「わあってるよ」
「では今より三十分後に決行。各自出陣の準備を始めて」

 顔を腫らした芙蓉を気遣わしげにしているから、最後の一人が出て行くまでがとても長い。扉が閉じたと同時に、芙蓉の視界は斜めに傾いた。だが思ったような衝撃は来ない。松井江によって支えられていた。出陣がない彼は、近侍として執務室に留まっている。顔には苦悩が張り付いていた。

「……やせ我慢もここまでくると病気だよ」
「きっと職業病ね。審神者にも労基ってあるのかな」

 こんな時でも冗談を言うのかと一瞬胸が詰まる。審神者にとっての気丈さは、刀剣男士にとっての刀と同じだった。自身の正気を保つために必要なものだと思い知る。

「さぁね……主、顔色が悪い。座ろう。今朝から疲れていただろう」

 一文字則宗が言っていた「人の子は存外脆い」という言葉が、どうしようもなくやるせない。今松井江の目の前で芙蓉は必死に倒れまいとしていた。

「寄りかかっていい……?」
「……いいよ」
「松井」
「うん」
「松井……」

 声に湿り気を帯びてきているが、どこまでも耐え忍ぶことに慣れている。涙が目の淵に留まるばかりで決して流れようとない。

「なんだい」
「……何が正しかったの」
「正しくなくたっていい」

 ──こんな状態の人間に正しさを求める方が、あまりにも酷だ。

「貴方は和泉守に怒りは特権と言ったけれど、それは貴方も同じはずだよ。痛いなら痛いと、辛いなら辛いと言ってくれたっていいのに」
「そんなこと言われたって、わからない……」

 芙蓉の瞳の奥に、松井江は禍を見た。

「ずっと辛くても頑張らないと、耐えないと。そうじゃないと、私はひとりぼっちになる……」

 言葉には薄氷の上に立つような緊張があった。足元の広がるひびを直視してはただ立ち尽くしているような、右にも左にも行けず、逃れられない何かに怯えた目をしている。
 こうなるきっかけとなったのが十年前なら、少なくとも人生の半分近くをその恐怖と一緒に過ごしてきている。その限界が、今まさに襲いかかっていた。

「こんなこと、こんな惨めな気持ちを皆に、松井にだって知られたくなかった。言いたくなかった。言ってしまえば、今までのままではいられない。同情の目で見られるのは嫌なの……でも、それでもこんなことを貴方に言うのは、松井には行って欲しくないからよ」

 声ははっきりしているが、震えている。

「だから行かないで」

 こんな弱り切った声を聞いたのは初めてで、目が離せなかった。縋り付くように芙蓉が顔を上げて、駄目押しのように言うのだ。

「一六三八年に行かないで。お願い……」

 ──その約束は出来そうにない。寧ろ僕は行かなくてはいけない。きっとあの赤く染まった大地を再び踏む。強い予感があった。
 自分の中に生まれた葛藤にも答えが出せていないのに、行かないなんて不確かな約束はできない。芙蓉のように、自分の感情を押し殺してまで決断を下すことができないのだ。「ごめん」とも言えず、「わかった」とも言えず、無言のまま松井江は指を芙蓉の頬に滑らせる。
 頬から輪郭と指をなぞらせていくと、親指の腹にぬるりとした感触があった。一瞬痛んだのか、芙蓉は肩を揺らす。殴られた衝撃で切ったものだ。口の端はずっと血が滲んだままだった。
 松井は口元の血を親指で触っては肌に伸ばして、次第に唇に塗りこむようになぞっていった。緊張で乾燥した唇に鉄の味が染み込んで見るからに痛そうだが、止まらなかった。芙蓉も戸惑うばかりで「やめて」と言わない。

『どんな形であれ小娘に寄り添って大事にしてやれ』

 こんな時にまで、一文字則宗の言った言葉を思い出す。
 初めて会い、話した時間もそう長くないはずだというのに、どうしてくれるんだと松井江は眉を寄せる。明らかに芙蓉に対する思いの変化に自分の中で戸惑っていると自覚できた。
 芙蓉はというと顔を真っ赤にして、松井江の胸に手をやって押し退けようにも全然びくともしない。初めて見せた拒絶反応のあまりの非力さに、心の奥から何かが湧き上がった。

「まつ──…」
「少し黙って」

 耳元で言うと、芙蓉は金縛りにあったように身じろぎをやめて固まる。あの和菓子屋での時の仕返しのつもりだった。
 懲りずに唇を捏ねていた親指を離して、芙蓉の肩を乾いた血のついた手でソファーに押さえつけると、そのまま押し付けるように口付けた。目を丸くして硬直する芙蓉を差し置いて、離しては唇の捲れ上がった皮の感触を確かめたり、そこに塗りこんだ血の味を味わうように何度も唇を塞いでいく。

「──芙蓉」


   * * *


 ──朧げな意識の中で人の身体を得た付喪神のこんな目を、私は初めて見た。
 触れたところからどろりとした感情が沁み渡り、秘匿された過去以上に感情が重くのしかかる。頭の中が激しく揺れていた。「主」ではなく、ついには自分の大切なもののように名前を呼ばれた。
 互いの熱を確かめ合うように全てが引き込まれる。目が合って、言葉を失ってしまった。
 今の松井江は、あの目と一緒だ。口にしない感情がはっきりと物語っている。
 光忠に想いを伝えたあの審神者と同じだった。恋い焦がれる感情を知っている目だった。



× × ×




人に対しては非殺でありたかった僕の願いは傲慢だったのだろうか。
なんの前触れもなく突然鉄の破片と化した仲間を掻き抱いた。
敵も味方もわからぬまま逃げ惑うしかない僕らは、どうしようもなく非力だ。



- ナノ -