一六三七年の遠雷

逢魔の足音


一六三八年二月二十七日


突然時空の歪みから人のようなものが現れた。
遡行軍から僕らを庇うようにして一瞬で斬り伏せられた朧げな人型は、破片となって砕け散った。まるで刀剣男士の末路のように。
あれは一体誰なんだ。
誰も教えてはくれない。主でさえも。
僕らはなんのためにこの時代に送られたんだろう。
もしかして見捨てられたのか?
混乱の最中に、忽然と僕たちの目の前からこんのすけの姿が消えた。



× × ×




『近いうちにお前さんに政府から直々に使命が下される。心の準備をしておけ』

 連隊戦が始まって初めての総代と役人が顔を合わせる集まる会議だった。だがその中の目立つ空席が前回は一つだったのが二つに増えている。
 前回と同じ、政府への尽力精神の塊のようなうるさ型の女と、今回は上から目線が鼻につく男だ。どちらも共通しているのは、元審神者の役人であるということだった。
 様々な要因があって審神者を解任して役人の立場に就くというのは、まあある話だ。しかし審神者の立場を理解しているからと言って、無条件で政府との関係が円滑になるわけではないらしい。
 現役の審神者と政府に板挟みにされ、寧ろ気苦労は増える。審神者に説法するには日々更新されていく激動の情報に対して知識が古すぎたり、政府との緩衝材になるには特にこの二人の元審神者はプライドが高すぎるのだ。感情のやり場がなく机を力任せに叩く姿やヒステリックに声を上げる姿を見ては、気持ちが全く理解できなくもないだけに総代達は皆溜息をつく。

 議長の号令を皮切りに、芙蓉はいの一番に立ち上がって会議室を後にする。向かう場所は松井江がいる近侍達の待つ部屋ではない。寧ろ決まっていない。その辺をうろうろほっつき歩いている者を探すのは多少骨が折れるが、今絶対に必要なことだった。

「備前の総代、何かお探しかな」

 早足を引き止められる。苛立つように振り返ると、挑発的な笑みを湛えた男がそこにいた。

「そうよ。それに急いでるの。だから何か用があるのなら申し訳ないけど後にしてもらえる? 山姥切長義」
「随分な挨拶じゃないか。協力できるものならしようと思って引き止めたというのに。君は協調性は充分以上にあるけれど、自分のこととなると人の助けを拒むきらいがあるよね」
「そういう貴方は総代以外にはいつも高慢ちきで高飛車じゃない。貴方が監査官として備前国にくると必ず苦情が来るのよ。特に決まった初期刀を選んだ本丸から。人を選んで態度を変えるのをどうにかして」
「目には目をと言うだろう? 俺なりの彼らへの檄だよ。俺の偽物を最初に選んでおきながら実力がないというのは本歌である俺が我慢ならない。巡り巡って俺の評価に繋がるからね。それで、何を探してるんだ?」

 山姥切長義は理知的で淡々と任務をこなす。言ってしまえば仕事のできる刀剣男士だが、どうにも性格に難があった。
 数ある刀剣男士の中でも屈指のプライドの高さを持つ彼は、自身の写しである山姥切国広と違い会話のキャッチボールには問題はない。だが本人が人の実力によって態度を天地ほどひっくり返すものだから新米から中堅になりたての審神者からの評判はすこぶる悪い。しかも彼の口から出てくる言葉の数々は限りなく正論なものだから反論の余地がないのだ。端整な顔立ちから飛び出す容赦を知らない辛口の評価は多くの初心者マークが外れない審神者の心を打ち砕き、滅多斬りにする。

 だが政府直轄の刀剣男士であり、政府と自国の審神者に板挟みにされる比較的立ち位置が近い総代や自分が認めた実力を持つ審神者に対しては、こうして自ら話しかけ軽口を言ってくるのだった。

「……一文字則宗を見なかった?」
「見たよ」

 聞かれることを知っていたかのように返す。面白そうに目を細めている長義は存外頼られるのが好きなのだ。

「どこにいるのかしら」
「方向からすると甘味処へ向かったんだろう。見かけたのはさっきだからすぐに向かった方がいい」
「わかったわ。ありがとう」
「彼も君を探していたからね。すぐに会えるはずだ」
「きっとろくな用じゃないから嬉しくないわね。そうそう、うちの猫が貴方に会いたがってたから今度いらっしゃいな。お茶くらいは出すわ」
「へぇ、猫殺し君が? それはまたいい暇つぶしになりそうだ。こっちの仕事が落ち着いたら今度お邪魔するとしようかな。……まあ、そんな時間はそうそう出来やしないんだけど」
「その通りね。せいぜいお互いヘマしないように頑張りましょう」

 長義は「そうだね」と言い、ストールを翻してそのままどこかへ行った。忙しいと言った長義は歴史改変され放棄された聚楽第の監査官として動いている。
 多くの新人、事の発端である本丸を抱えた周防国の総代とともに長期化した戦いを終結させるために動いてはいるが問題はやはり多い。中堅が不足している周防国は決定的に突破力が不足していて、聚楽第の深部にいる敵部隊に返り討ちにされる重傷撤退の回数を重ねていた。刀剣破壊が起きていないことが奇跡に近く、他国の審神者に応援を求めようにも連隊戦と重なっている上に、特命調査という名目上自分たちでの解決を強く要求されている。

 とは言っても実際は慣例と感情を便利に使った役人が言い争った結果、周防国にだけ白羽の矢が集中してしまったのだ。他国の審神者にも頼って解決した方がいいのは誰もがわかっているが、自分の発言が間違っていたと認めることを役人はしたがらない。結果、その目下に置かれる総代達は表立った支援ができずにいた。
 芙蓉を含めた何人かが裏でこっそり長義から情報を得て必要なところへ資材や手入れ道具の融通は効かせているものの、そろそろ結構な時間が経とうとしている。会議中の周防の総代は顔色の悪さが隠せないほど終始疲れ切っていた。

 長義はそんな周防の総代を見ているから責めはしない。淡々と戦況を分析し、周防の総代や審神者が不利にならないように政府へ立ち回って報告している。その代わりに泣き言をほざく新人どもには容赦ない正論と叱咤激励で威力を増した発破に拍車がかかる。


 そんな激務の長義とは真逆に太平楽とはきっと彼のことを指すのだろうと、甘味処に着いた芙蓉は団子を味わう一文字則宗を見つけて無遠慮に隣に座る。床几台しょうぎだいに置かれた団子を芙蓉が横取りすると、次の団子に手を伸ばしていた則宗の手が宙をさまよう。

「ちょっと顔を貸しなさいな」

 芙蓉が食べたのはあんこが乗った団子だった。給仕にお茶を頼むと則宗は呆れたように串を皿に戻して言う。

「小娘ぇ、もう少し情緒のある言い方をするもんだぞ」
「あの人は前回に続いて今回も顔を出してないわ。それにもう一人もいなかった。あれからどうなってるの」

 構わず問い質す様を見て則宗は溜息を吐きながら返した。

「残念だが僕にもわからん」
「わからないって……貴方が言ってきたのよ?」
「僕は途中で追い出されたんだ」
「いつ」
「今日だ。突然顔色を変えた。何か不都合が発生したんだろうな」
「……攻勢なんでしょう? 大丈夫なの?」
「お前さんは気が早すぎる。僕は攻勢だなんて一言も言ってないし肯定もしていないぞ」
「だって」

 食い下がる芙蓉を見て、則宗は考え込んだ。

「……そんなに悪い話ではない。いや、違うか。審神者の負担が減る、という意味合いもあった。不確定要素だらけだがな」

 出していい情報、いけない情報の取捨選択をした則宗の言葉は理解しようとする芙蓉の脳内を余計に掻き乱した。

「どういうこと……? 審神者の負担が減るって、それと私になんの関係があるの?」
「すまんが、そこはまだ言えん。いろんな事情を抱えた多くの審神者が関係してくるが、まずは総代であるお前さんからという流れだったとしか、今の時点で明かせない」

 妙な胸のざわつきを感じた。審神者になってから初めて感じるこの総毛立つほどの嫌な感じが、通り過ぎるのではなく胸に流れ込んで滞留するようだった。

「不安そうだな。手を繋いでやろうか?」

 則宗が差し出した手には食べ終わった団子の串がそっと置かれた。

「……正直不安しかないわ。中途半端に隠されるのが一番堪えるもの」
「大丈夫だ。その場には僕が着いている」
「貴方が……? 松井は……歌仙は……?」
「僕じゃあ不安なのか? 心配するな。審神者の負担を減らすためのものなのに、どうしてそこまで怯える必要がある」

 どうしてそこで言葉を濁すのか。不都合の中身が則宗でさえわからないのだから、不安に思うのは当たり前だった。

「お前さんが政府に疑念を抱く気持ちもよくわかる。だが今は気にしていても仕方あるまい。いつものように過ごせ。杞憂ばかりでは身を滅ぼすぞ」
「無理よ……最近あの時のことをよく思い出すの。それだけじゃない、両親から手紙が届いたのよ。検閲された真っ黒な縞模様の手紙が」
「ほぉ……手紙がなぁ」
「でもそれを松井に見られたわ。今まで通りなんて……」
「僕はいつも通りと言ったんであって、今まで通りとは言っていない。隠す必要がどこにある。嬉しければ笑えばいいし、悲しければ泣けばいい」

 簡単に言うなと芙蓉は声なく瞳を揺らした。それができたら松井江にあんな姿を見せていないのだ。素直に感情を表に出すには今まで抑え込むものが多すぎた。

「どうしたらそれができるの」
「……」
「声に出そうとしても、喉につっかえて声が出てこないのに」
「……」
「ねえ、何か言って──、」

 扇子で顎を掬われた。則宗はいつになく真顔で、芙蓉の瞳を真っ直ぐに覗いている。瞳を通して、不安感を透かし覗かれているような感覚になる。空恐ろしくなって喉がひくりと反応すると、則宗は言った。

「……お前さん、強気でいるより今みたいに少し物憂さがあった方がいい」
「何を……」
「色気がある」

 思わず「は?」と声が出た。何を言っているのか理解したのは頭の中で反復した後で、徐々に芙蓉の顔が朱に染まりながら怒りで歪んでいく。

「──〜あああ馬っ鹿みたい! 貴方相手に真面目に話すんじゃなかった!」

 平手の一発でもお見舞いしてやると思ったが、じじいと自称しても刀剣男士だった。あっさり躱され、残像のように特有の笑い声がその場に残る。

「うははは、怒るな怒るな。そら、団子のおかわりいるか? 奢るぞ?」
「いらないわよ! 喉に詰まらせて一生黙っててクソジジイ!」
「おいおいそれもう死んでるじゃないか」
「そう言ってるのよ!」

 芙蓉は立ち上がり、足早に甘味処から去るとあろうことか則宗まで着いて来た。

「小娘、どこに行くんだ?」
「貴方のいないところ」
「面白い、僕も着いていこう」
「耳が遠い上にボケが始まってるみたいね。さっさと退役するべきよ」
「おお、介護してくれるのか?」
「本丸は介護施設じゃないの。貴方が行くのは強制更生施設」
「そりゃ心外だ。僕が何の罪を犯したというんだ?」

 あっけらかんと言ってくる則宗に芙蓉は振り向き、表情もなく言い放つ。

「私にセクハラをした罪」
「参った。僕は本気で思ったことは否定したくない」
「最っ低」

 一文字則宗の視界に、今度こそ火花が散った。ゴミを見るような目で手のひらを摩る芙蓉は何事もなかったかのように颯爽とその場を去っていく。通りすがる同僚に笑顔で挨拶を返す後ろ姿に、則宗は芙蓉の女性性を垣間見た。刀傷とは違う頬に咲いた痛みを手のひらで摩りながら、則宗は声を上げる。

「おぅい、もう出て来てもいいぞ」

 そう言われて出て来たのは若干引き気味の、ストールの青がよく映える青年だった。

「……一体彼女に何を言ったのかな?」
「山姥切の本歌か。なぁに、ちょっと小娘の杞憂を晴らしてただけさ」
「へぇ……でも彼女が怒るのは珍しい、初めて見たよ。関係が深いんだっけ?」
「小娘とは切っても切れないものがあるからな。全く、感情を抑えなければ自分を保てんと勘違いをしているのだ。僕に発散させられるなんて、未熟未熟。うっははは」
「まあ貴方だからできることなんだろうけど、俺はあの剣幕を真正面から受けるのは勘弁だな」
「そう言わず一度浴びてみろ。クセになるぞ」

 長義は軽く眉根を押さえた。

「……俺は同じ政府の刀剣男士として貴方を尊敬しているけれど、そういうところに怒ったんだろう」
「何を言う。審神者だって人間だ。喜怒哀楽なんてのは上手いこと使ってこそ成り立つものだろう? 今の小娘には必要なことだ」
「参考にはしたくないけど、なるほどね」
「ところでお前さん、今日はよく会うな」
「貴方が人気者だからだよ。おかげで俺は貴重な休息に伝書鳩さ。お呼びがかかっている」
「それは悪かったな。全く、さっきは追い払われたというのに勝手な者達だ。じじぃを呼ぶなら自分から来いと言いたいところだが、仕方がないな。行ってやろう」


   * * *


 則宗と別れてからは松井江と合流し、本丸へと戻ったが、戻った途端松井江は桑名江に連行された。きっと今頃泥だらけに違いない。
 抗議の声を笑顔で見送って実務の続きをしていたが、これから起こるであろう任務のことを思い出すとやる気が思ったより出てこなかった。無理やり自分の脳を仕事に切り替えて書類を捌いていたが、手が止まる。

 気晴らしに万屋にでも行こうかとも思ったが、目の前の書類を見ると行く気力も失せる。政府からの呼び出し以外で個人的に出かけたのは何ヶ月前だったのかもう思い出すことすらままならない。遡行軍が三六五日現れると言うのなら、必然的に本丸も三六五日稼働するということなのだ。そうなると各本丸に一人だけの審神者は自由時間なんてそうそう取れるはずもない。

 ──なんか疲れちゃった。

 気がかりなことが胸に残っているのが何より一番嫌だった。一人だけの執務室で机に伏せって窓の外を見る。外は淡く春の色に染まっている。美濃の本丸から戻った後、景趣を春のものに変えたのだ。あの見事な景観までは行かないがこれはこれで落ち着くものがある。まだ満開ではない桜でも、十分綺麗だ。
 ──そういえば、満開じゃない桜も趣があって風流だと言っていたのは歌仙だった。
 いつだったかはあまり覚えてはいないが、審神者になりたての頃だったかもしれない。歌仙のことを随分見上げていた気がする。

「……歌仙のところにでも行ってこようかな」

 本丸の廊下を渡りながら次に自由時間ができたらなにをしようかと考えていた。
 思い切って明日半日だけでも非番にしようかと、今ある仕事にかける時間を逆算する。自室に仕舞い込んである着物や私服も、たまには着ないとカビが生えてしまう。服も刀も建物も「物は人が使わないとどんどん劣化していってしまう」と歌仙たち付喪神も度々言っているが、あれは本当に不思議だと思った直後、誰かとぶつかった。

 咄嗟に腕を掴まれて倒れることはなかったが、着物の袖が土で汚れてしまった。ぶつかったのは、桑名江に引きづられて畑仕事を終えた松井江だった。「至るところ」という言葉では間に合わないほど全身が土まみれになった松井江の機嫌はすこぶる悪い。というより荒んでいる。桑名江にこき使われたのだろう。畑で桑名江に逆らえるものなどいない。松井江の後ろにある部屋からは力尽きた豊前江の足が飛び出している。

「不注意だったわ。ごめんなさい」
「いや、こっちも悪かったから」
「ふふ……ご機嫌斜めね。桑名と篭手切は?」
「……今厨に野菜を運んでいるところだよ」
「そう。あ、ミミズがついてる」
「!?」

 掴みっぱなしだった手を咄嗟に引っ込めて自身のジャージの裾を掴んで確認するが、くつくつ笑う声を聞いて松井江は冗談じゃないという顔で芙蓉を見た。

「嘘よ。畑仕事お疲れ様」
「……面白がらないでくれるかなぁ」
「松井が怒ったり焦ったりするのは見てて楽しいもの」
「桑名が今日の畑仕事に僕と豊前を呼んだことを主の許可はもらってるって言ってたけど……?」

 昨日の晩、芙蓉は「明日の畑当番に人手が欲しいから豊前と松井に手伝ってもらいたいんだけど、いいかなぁ」という桑名江の相談に快諾していた。

「だって、前もって言うと貴方逃げるじゃない」

 芙蓉も桑名江も、松井江が事前に畑仕事がある知ると逃げることをよく知っている。お互い黙っていつものように朝を迎え、豊前江は普段の起床時間前に同じく畑当番の篭手切江に起こされ、松井江は会議から帰ってきたところを桑名江に捕獲された。仲良く江の四人で畑作業をしていたのである。

「ひどい目にあった……」

 畑仕事は桑名江が気合を入れている分、手を抜きたいところも抜かせてはもらえない。文句を言えば「じゃあ大地に聞いてみるね」と全ての文句など万物の前には無駄だとと十中八九やんわり跳ね返され、なんやかんやで全部桑名江の監督の指示通りにやらされる。
 彼も松井江の兄弟。我がとんでもなく強い。彼に物申して通用するのは蜻蛉切くらいだろう。

「疲れてるところ寝かせてあげたいのも山々だけど、もう少ししたら歌仙が夕餉の仕込みを始める頃合いだからそれまでに床を掃除して豊前も連れてお風呂行って来なさいな」
「床……?」
「歌仙に見つかったら大目玉よ」

 相当疲れたのか、ぼやっとした目で床を見て目を見開く。床が土と泥まみれなのだ。ご丁寧に玄関から部屋まで線を描いて、乾いたせいて泥は白っぽくなっている。
 歌仙は料理に対しては並々ならない拘りを持っている。他の刀剣男士に比べて厨に入る時間が早い。それまでにこの惨状をどうにかしないと歌仙を怒らせる上に夕餉の時間が遅くなる。万年食べ盛りの刀剣男士達の怒りの矛先は江のこの二人に向くだろう。巻き込まれた松井江や豊前江にしてみれば踏んだり蹴ったりだ。

「……いつも頑張ってる近侍殿を怒らせてしまったから、少しだけ時間を稼いであげるわ。ほら豊前起きて」
「いいのかい……?」
「歌仙はともかくお腹を空かせた刀剣男士には敵わないわ。手合わせ中の粟田口兄弟にも掃除を手伝うように言っておくから」
「……助かるけど、それはいいよ」
「どうして?」
「主は疲れてるだろう。さっきも機嫌が悪かった」
「それは松井も一緒じゃない?」
「全然違う。僕は休めば取れる疲れだけど貴方のは寝ても取れないものだよ」

 芙蓉はキョトンと見上げると松井江と目があった。「どうかした?」と芙蓉の眼前で手のひらを振ると、何がおかしいのか困ったように笑い出した。

「これじゃあどっちが主かわからないわね」
「あ、いや……すまない、出すぎたことを言った」
「いいの、ありがとう。松井の言葉に甘えて私は歌仙のところでお茶してくるわ」

 廊下の泥を避けながらその場を後にする。芙蓉が去った後では、豊前江の頭を抱える声がした。
 ──松井、隠し事が下手って散々私に言ってるけど貴方が鋭すぎるのよ。
 他の本丸の松井江に出会ったことがないがどうなんだろうか。嘘が一切つけない臆病者だけど、思ったことを言えるところは一緒なんだろうか。それでもきっと、会って喋れば違和感を覚えるに違いない。

 久々に刀剣男士達の母屋に足を運んだ。
 普段は立ち入ることがないからほのかに懐かしさを感じるが、同時に自分の本丸だけど知らない場所に入って来たような感覚を覚える。審神者になったばかりの頃はよく夜になると歌仙や小夜に半べそかいて部屋に押しかけてた。歌仙の部屋までの足取りが止まることはない。部屋に押しかけることも両親の面会があった日からなくなっていた。

「……」

 ふと足が止まる。則宗が頭にちらついたのだ。
 流石に今日則宗に会ったことは伏せておくけど、政府からの特命がくる可能性を松井江には言っておいていいかもしれない。でも肝心な部分が全部伏せられている。今芙蓉が感じているもののように、伝えようにも気持ち悪さだけが心に残らないかが気になった。

「主? 僕の部屋の前で止まってどうしたんだい」

 障子が開くと、そこには歌仙がいた。よく見ると、部屋の札には「歌仙兼定」と書かれている。立ち止まっていた場所は歌仙の部屋の真ん前だった。

「──! ごめんなさい。ちょっと考え事してたの」
「主が部屋に来るなんて珍しいじゃないか。遡行軍は休日でももらったのかな」
「いいえ働き者よ。彼らからしたらきっと私はサボり魔ね。たまには歌仙のところでお茶を飲みたくなって」
「茶菓子がついてくるからかい?」
「半分あたり」
「もう半分は?」
「泥と汗を見てしまったから協力してあげたくなって」
「……? よくわからないけれど、まあいい。少ししたら夕餉の準備に行くけど、ゆっくりしていってくれ」
「ありがとう」

 促されるままに座る。「今は歌仙がゆっくりするところよ」とは流石に言わない。
 整頓された歌仙の部屋は香が焚かれていて心が落ち着いた。そのままパタリと身体を横に倒すと茶を点てていた歌仙の肩が跳ねる。倒れたかと思ったらしい。一息おいて「こら、はしたない」と怒られるが、つんと無視して目を閉じていると諦めたのか歌仙はそのまま再び手元に集中した。

「袖が汚れているね。洗って落ちるといいけれど……後で着替えた方がいい」
「着替え……ああ、匂い袋も買わないといけないんだった」
「万屋に行くなら付き添うよ?」
「残念、明日歌仙は馬当番よ」
「僕の審美眼を持って主の買い物のお供をしようというのに、馬当番!」

 よほどショックだったのか茶筅を振る音が途切れた。

「ふふ、今日は内番ショックを受けるのが多いわね」

 声に抑揚がなくなっていく。そのまま目を閉じると本当に寝てしまいそうだった。

「……なんか疲れてるね?」
「ちょっとね。会議でいろいろあって」
「僕はああいう雰囲気は苦手だから、君はよくやってると思う。大体君は働きすぎだ。無理なんてものはたまにするものだよ。今日はもう休んだらどうだい」

 確かにああいった場は、歌仙には似合わない。だけどその代わりに、歌仙はこうして人の姿を見てどう見えるかやどういう状態になっているかを教えてくれるのがとても上手かった。

「……そうねぇ、歌仙がそう言うならそうしようかな」
「是非そうしてくれたまえ」

 意味もなく寝そべっていたはずが、許されたと思った途端、本格的な眠気がやってきた。目を閉じるとほんのりとかおる香に、ちょっとずつ主張し始める抹茶の匂い。誰かの部屋で寝るなんて十三歳以来だ。

 ──いやよく考えたら十年も前じゃない。

 急に現実を見てしまって目を開けると、歌仙が驚いた顔をしている。芙蓉が起きたことに対してではなく、どこからともなく音もなく現れたこんのすけに向けられていた。当のこんのすけは、困ったように芙蓉に告げた。

「審神者さま、政府より高度暗号通信を受信しました。現在解析してますが、すごくややこしいです……」
「高度暗号通信……?」

 ただ事ではない単語に緊張が走る。余程の限りじゃないと滅多に使われないものだ。畳から起き上がるとこんのすけの首輪から解析情報が表示される。

「解析完了しました。つなげます」

 映像は出てこない。音声のみのようだった。咳払いの声は男性のものだった。

『……備前の総代、聞こえるか』
「問題ありません」
『やっぱり暗号通信ともなると音声が聞き取りにくいわね。そちらは今一人?』

 通信の相手は二人。声からして会議に欠席していた元審神者の男と女だった。

「いえ、初期刀の歌仙兼定が一緒ですが現在執務室ではありません。場所を移した方がよろしいでしょうか」
『構わん。そのままでいい。そっちに使いを寄越したから迎え入れてから執務室へ向かってほしい』

 使いとはきっと則宗のことを指しているに違いなかった。

「了解しました。執務室に着いたらこちらから……」
『いや、いい。すぐ後でまた発信する』
「承知しました」

 結局使いを寄越すというだけ伝えて、通話が終わった。
 ──今の内容で高度暗号通信を使うものなの……?
 だが女の方は『やっぱり暗号通信ともなると音声が聞き取りにくい』と言っていた。寧ろ今初めて使ったのかもしれない。試運転だとしたら意図が全く見えてこない。
 しばらくその場で思案していると「急ぎじゃないのかい?」と歌仙が肩を叩いた。下からはこんのすけが心配そうに芙蓉を見上げている。

「それにしても物々しいね。松井を呼んでこようか」
「お願いできる? 私は門へ向かうから、できれば歌仙もそのまま松井と一緒に来て」
「わかった」

 そう言うと歌仙は立ち上がった。急を要するからか、さっきまで点てていたお茶は端に避けられている。

「あ、あと! 松井に急いで身を整えるように言って」
「なんかしたのかい?」
「畑でこき使われてたのよ。それと……」
「まだ何かあるのかい?」
「床が汚れてても怒らないであげて」
「……僕はなにも聞いてないし、何も見えないよ」
「ありがとう。じゃあよろしくね」

 言ってる場合じゃないとわかってはいるが、歌仙の点てたお茶を飲みそびれてしまったことを密かに残念に思いながら、こんのすけと門まで向かうことになった。途中でこんのすけを抱き上げる。苦ではないくらいのずっしりとした重みを抱えながら早歩きするのは少し疲れるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 門が見えてくると、すでに使いは来ていた。
 太陽の残火が取り残されたような真っ赤な夕空を背に、桜を見上げる男が一人。

「──なかなかいい本丸じゃないか。あんまり華美だと落ち着かんから、このくらい普通である方が僕は好きだ」

 一文字則宗。いつもの内番着ではないことは一目見て明らかだった。だが本来の戦闘着ではない。正月を象徴する色彩の一切を隠しているような洋装をしている。

「……やっぱり貴方なのね」
「さっきぶりだな小娘」
「その呼び方、松井江の前では言わないでね。彼に何を言ったのか知らないけど、私と貴方が会うことをあまりよく思ってないみたいだから」
「特に何かを言った覚えはないが、まあいいだろう。今は余計な詮索ごとを増やすのは得策ではないからな」
「詳細は聞かされたの?」
「いいや? 事の流れは知っているがな。どうにも隠し事が好きな連中だ。出て行けと言われて出て行ったら、今度は困ったことが起きたからお前さんの本丸に使いとして行けときた。年寄りを敬わんやつにロクなのはいない」
「そもそも神様は年寄りの枠に入るの?」
「僕が入ると言ったら入るんだ……ああ、来たな」

 門に向かってくる歌仙と松井江の姿が近づいてくる。前と服装が全く違う則宗の姿を見た松井江はあからさまに驚いていた。注意深く則宗を見ていた歌仙は、思い出したように言う。

「君は確か……政府の監視役の者じゃなかったかな。見覚えがある」
「監視……!?」

 歌仙の言った言葉に松井江の目の色が変わる。どういうことだと訴えかけるように歌仙を見るが、歌仙はそれ以上何も言わない。 

「歌仙兼定か、監視役とは懐かしい。……だが少し違うな」

 今は監視役ではないという言葉は松井江に向けていた。則宗は開いていた扇子を閉じ、伏せられていた口元が笑っていることを明らかにした。

「──僕はいつでも正月の監査官」

 黒いインバネスコートを纏った一文字則宗の右眼は芙蓉を射抜く。いつものじじぃと自身を揶揄する様子は鳴りを潜めている。
「お前の逢魔刻が来てやった」と言わんばかりの圧があった。


「慈悲深い時の政府は、まだ諸君らにも仕事があると言っている。さぁ小娘、予告していた時が来たぞ」



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