一六三七年の遠雷

砂上の楼閣


二二〇五年×月△日


主から出陣の命が下る。僕にとっては思い返さずにはいられない。
あれは嵐だ。善人も悪人も等しく平等に悲劇を下す嵐だった。


× × ×



 美濃の総代の本丸から帰ると、連隊戦で疎かになっていた書類仕事が待ち受けていた。
 松井江はどこかすっきりしていた顔が、芙蓉はわずかに思いつめていた顔が、その書類の山を見た瞬間、二人は同じ無の表情に変貌する。
 枡を大量に売り捌いたこともあり、処理量は先月の倍となる。
 そしてその処理が落ち着いてきた頃、芙蓉が思い出したように紙の束や引き出し、戸棚に手をつけて何かを探しながら「どこにもない……?」と声を上げる。おかしいおかしいとぼやきながら羅列する背表紙と睨めっこする芙蓉に松井江がなんのことだと顔を上げた時だった。

「松井、今月の収支と給与ってまだ見てなかったわよね」

 芙蓉の一言に、松井江の時が一瞬止まった。いかにも自分がその存在が今どこでどうなっているかを知っていますと示すようにぎこちない。
 芙蓉からは松井江の顔は見えない。何かを考えているのだろうと思っていた。しばらくすると、おもむろに松井江は自分の机の鍵付きの引き出しから、芙蓉が求めていたものを引っ張り出した。

「なんでそんなところにこの本丸の帳簿と給与一覧を仕舞ってるのかしら……?」
「ちょっとね……」
「確認してもいい?」
「……」
「……この手を退けてもらえるかしら」
「すまないねぇ、どうも帳簿は僕の手から離れられないみたいだ」
「へぇ、そうなの。帳簿と刀、末永く幸せになれるといいわね。さぁ、帳簿を見せてもらえる?」

 松井江は頑なに帳簿の雑費の項目と自分の給与を見せようとしない。そしてあろうことか芙蓉が多忙なタイミングを見計らって自分で承認の判を押していた。

「帳簿はこれから僕が管理するよ。主の仕事の負担が減るだろう?」

 笑顔で言う松井江だが、芙蓉の不信感はさらに高まった。

「いいわけないでしょ? どうして雑費の項目と貴方の給与を頑なに隠すのよ……、あれ? ちょっと待って、雑費と貴方の給与……」

 雑費と松井江の給与。この二つで思い出した。
 政府の会議に行った時に文具屋で松井江が珍しく買い物をしていたことを。それに気づくと、芙蓉と取り合いになっていた帳簿を瞬時に松井江が抜き取った。

「あ! ちょっと……! そういえば松井、結局前に買った文具って使ってないわよ、ね……! ああもう!」
「そうだったかな?」

 芙蓉がジャンプをしたと同時に松井江は帳簿を持ってる腕をさらに真っ直ぐ掲げていた。背の高い松井江にそうされては、芙蓉は椅子にでも乗らない限り届かない。とぼけた上によろけた芙蓉を支えるまでに余裕を湛えている。
 脇をくすぐろうかとも一瞬だけ手を構えたが、そういえば全く効果がなかったことを思い出して、すぐに諦めた。腕っ節が強い次郎太刀や意地の悪いことを一切しない蜻蛉切を連れてこようとも思ったが、その間にまた隠される。この場で頼れるのは、芙蓉自身の口の強さだけだった。

「……そんなに隠したがるなんて、しかも経費で立て替えてまで何を買ったの? 人にはあれだけ無駄な浪費はしないようにって言ってたくせに、自分は人に見せられないものを買うのね?」

 松井江は言葉を詰まらせた。なんせド正論だ。経費で立て替えるだなんて松井江くらいしかやらない手段を私事でやってしまったのだ。

「職権乱用をする者に近侍をさせるつもりはないわ。それでも構わないのであれば一生その帳簿を頭上に掲げてなさい」
「……わかった。事情を話すから、少しだけ待っててくれるかな」

 困ったように笑っている。松井江はそう言って添え机の鍵を開けると、あの会議の日から変わらない紙袋がそのまま取り出された。芙蓉と目を合わせると、気まずそうに深く溜め息をつく。

「ここで貴方に渡さなかったら本当に僕を近侍から外しそうな勢いだから」

 はい、と紙袋の中身を芙蓉に差し出した。「え?」と芙蓉が顔を上げる。

「……私に?」
「他に誰がいるんだい」
「実務用って……」
「主が使うものであれば、実務用だろう?」
「屁理屈……」
「開けないのかい?」
「本当に、もらっていいの?」
「貴方に贈るって言ってるのに、貴方が開けなくてどうするんだ」

 言われるがままに受け取る。合皮が貼られた化粧箱だけでもう高価なものだとわかる。重さはそこまででもない。恐る恐る軽く揺すって見た感じ、すずりでもなさそうだった。

「フ……爆弾処理じゃないんだから」
「だ、だって緊張する……」

 机の上に置いて薄目で開けると、明かされた中身を見て「わ……」と慌てて閉じた。

「なんで閉じるんだ!?」
「だって心の準備が……」

 芙蓉にしては本当に珍しい、消え入りそうな声だった。無理強いをする必要もないので、芙蓉が胸を押さえている内に松井江はこっそり帳簿を背に隠した。今度こそちゃんと開けると、布が敷かれた化粧箱の真ん中には銀のトリムが施された紫色の万年筆が鎮座していた。

「主は書き物が多いから筆だと袖を汚しがちだろう? それならあまり汚すこともないし……装飾品より、ずっと使える物がいいと思って」
「──ありがとう、とても綺麗よ……使うのがもったいないわ」

 朱に染まった頬のほのかな熱が伝わる。手に取って綻ぶ姿を見て、密かに心の中でほっとした。それにしても、目の奥が子供のように歓喜と好奇心で輝いている。この隙に、静かに背に隠していた帳簿を添え机に積み上がった書類の下に紛れ込ませて言った。

「喜んでくれるのは嬉しいけど、使わないと意味ないよ?」
「だって、これ、こういう贈り物、昔誕生日でもらって以来本当に久々で──……」

 しまった、と失言を発したように言葉を止めた芙蓉を、松井江は見ていなかった。だからつい出来心で言ってしまった。今まで一切触れてこなかった家族についてを自分から話してくれるのかと、期待してしまったのだ。

「誕生日に家族から贈り物をもらったりするだろう? 今まで主はどんな物を貰ったり贈ったりしてたんだい?」

 バチッと頭の中で何かが弾けた音がした。
 答えなきゃと、必死に言葉を探すが、全く見つからない。何かを発しなきゃと思っても、喉の奥に何かがつっかえたように、言葉が出てこなくなる。思考回路のヒューズが飛んで行き場がなくなる。諦めと絶望がひたひたと静かに冷たく胸を浸していく。

「……主?」

 松井江の戸惑う顔を見て、記憶に闇が降りてくる。決定的な溝を作られたあの日がフラッシュバックする。両親達のあの戸惑いの顔を思い出すのだ。
 現世とは隔絶され、厳重な情報規制に阻まれ、家族に自分の代わりはいるのだと思い知らされた日。審神者は圧倒的な弱者であり、飼い慣らしの駒だとわからされた日。十三歳だった芙蓉の本当の始まりの日だった。

「ぁ……、」

 愕然と開いた口は小刻みに震えた息しか出てこない。
 空気が冷たい。震えが止まらない。ドクリと嫌な音が胸を打つ。もらった万年筆を強く抱くと、視界がぐにゃりとひん曲がる。
 異変を感じ取った松井江の息を飲む音がやけに耳についた。

「すまない……! 本当に、ごめん……」

 酷く狼狽した声だった。松井江がさっきまで手に持っていた書類は全て床に散らばった。覆い隠すように、顔を見ないように抱きしめられていた。
 ぽたり、ぽたりと音がして、芙蓉は自分が今泣いているのだと気づいた。
 ──泣いていることにも気づけないだなんて、どうかしている。
 自分の目から床に雫が落ちていくのを、芙蓉は呆然と眺める。繭莉の吐露と涙を見たせいだろうか。身を震わせるうちに耐えきれなくなり、次第に松井江に縋って嗚咽した。


   * * *


 深夜に差し掛かる頃、豊前江の部屋はまだ明かりが灯っていた。
 本日の第四部隊の出番も終え、風呂も入った。あとは寝るだけだが、全ての刀剣男士達にとっての欠かせない日課、自身の命でもある刀の手入れだけは誰しもが必ずしている。豊前江も例に漏れない。懐紙を口に咥えて終始無言のこの空間に、重々しい足音が近づいてきていた。

「……?」

 ちょうど手入れも終わったところで視線をやると、ゆっくりと襖が開く。松井江だった。刀身を鞘に納めて口から懐紙を取った豊前江はおもむろに襖に身体を向ける。

「よっ、今仕事が終わったのか? お疲れ」
「主を泣かせたんだ」
「まじかよ。やるなぁ松井」

 間髪入れずに返ってきた松井江の言葉にただならぬ雰囲気を感じて、豊前江はそのまま松井江を部屋に招き入れた。灯りの下に入ったにも関わらず、ただでさえ白い顔色がいつもに増して青白い。いつか昔に重傷になった時と同じ顔をしている。その時と違うのは息をして立っていることだけで、心が今にも死にそうな顔をしていた。こういう時の行動は決まっていた。豊前江が両手を広げると、吸い込まれるように松井江が納まった。いつもならすぐ脱力するのに、今日に限っては完全に身体が強張っている。
 江の中でも、松井江は少し異色だった。おおらかさが目立つ兄弟の中で、一途とも言える頑なな真っ直ぐさと繊細さが際立っていた。一度悩むとずっと抱え込んで、細い線を描くように長く悩み続ける。悪いようには思っていないが、過去のことを踏まえると自身を苦しめる難儀な性格だと豊前江を始めとした兄弟全員が心配している。

「──僕は主を勝手に強い人だと思ってたんだよ。いつも何があっても平気そうで口が達者で、でも違った」

 取り返しがつかないことをしたと懺悔するようだった。江の兄弟で皆それぞれ抱えるものはあれど、松井江は否定してしまうと何もかもがポッキリと折れてしまいそうな危うさがあった。だが別に弱いというわけではない。少しずつでも再起できる力があることを、少なくとも豊前江は知っている。

「あんなに脆いと思わなかった。肩を少し揺らせば棒切れみたいに身体が揺れて本当に驚いたんだ。きっと僕の軽率な言葉で深く傷つけた。血を流させるよりもよっぽど酷いことをした……」

 吐露する松井江に腕を回した。少しだけ力が抜けたのか、肩に頭を押し付けている。

「……主はいつだって何より俺達に対して絶対に気丈だよな」
「うん」
「俺も松井もさ、隊員まとめる立場をやってっからよくわかるけど、自分を頼る連中に弱いところを見せろって言われてもなかなか見せられないもんだ。松井もそうだったろ?」
「……ああ」
「こうして松井が俺の腕を借りるみたいに、いつも気を張ってりゃどこかでガス抜きしなきゃやってられねえじゃん? 何があったかはわかんねえけど、早かれ遅かれきっとどこかで同じことが起きてたと思うぜ?」
「……そうかな」
「そうだよ。でーじょうぶだ。松井が泣かせたくて泣かせたわけじゃないのは、主が一番理解してる」

 松井江が豊前江から離れる。死にそうな顔から、少し生気が戻りつつあった。

「朝になってりゃ、けろっとしてんよ。心配すんなって」
「……ありがとう、豊前」
「いーよこんくらい。またいつでも来いよ」


 顕現して何度目かの出陣で、刀剣男士である己の存在意義と目の前の現実に心を限界まで摩耗された時。
「抱えてるものが一人で抱えきれないくらい重たいのなら俺の両手を頼れ」
 と、豊前江は言ってくれた。
 激しく慟哭しながらも、少しずつ吐露していくうちに出陣の失敗も目立たなくなった。心に余裕と余白ができ始めた。未だに途方もないことを考え続けることは多いけれど、豊前江の両手に確かに救われたのだ。

 それでも、豊前江に言えたはずのものは芙蓉に言えずにいる。
 審神者とはいえ生きる時代があまりにも違いすぎる人間だからだ。こんな血に塗れた感情は知らない方がいいに決まっている。自分でも抱えきれないのに、軽率に背負わせてはならないと思って言い出せずにいる。
 ──でも、それでも。
 芙蓉が抱えるものを持ってくれる者はいるんだろうか。
 教えてくれない限り誰にも見えない琴線に触れて泣き崩れた姿は、かつての自分と同じだった。過去の重さに押し潰されそうになって、自分で自分を支えきれなくなりかけたあの時の自分と一緒だ。
 そこはかとないよるべなさは怖いのだ。

 だけどまた、心の内にあるものを言えない気持ちを誰よりも知っている。


   * * *


 あの後、泣き止むまで松井江は側にいてくれた。泣き疲れた姿を見て、自室まで送ってくれたのだ。寝た方がいいと。
 結局、いつまでたっても閉じた瞼から力が抜けることはなかった。諦めてベッドから身を起こす。あれだけ泣いたせいか、頭が酷く重かった。
 重い足取りで化粧台へ向かう。わかってはいたけれど、人前に出られるような顔ではない。あまりに見てられなくて、鏡に手をつき、鏡に映る自分の顔を覆い隠した。

「……何してるんだろ私」

 感傷に浸りたいわけじゃない。浸りたくもないのに、心がどうしてもそっちの方に引っ張られる。思い出の引き出しが空き巣にあうように、次々と無遠慮に引っ張り出されていく。

『──僕が今回、お前さんの監視役をする一文字則宗だ。まあ、監視役とは言ったが、要は付き添いだ。……そう肩肘を張るな、念願叶った両親との再会なんだろう? もっと笑った方がいい』
『──■■、■■■■? ……■■■? ■■■■■■■■?』

 審神者になって三年が経った時の頃だった。
 芙蓉の強い希望と年齢のことも合間って、両親との面会が実現した。だが夢見た再会とは、ほど遠いものだった。
 一枚の見えない壁に阻まれ、両親の言葉は雑音で掻き消された。まるでどちらかが犯罪でも犯したかのような扱いだった。お互いの温度も、伝えたかったことも聞きたかったことも、全て政府に阻まれた。
 今にして思えば、政府がそんな夢を見せることをさせるはずがない。家に帰りたくなるようなことを、審神者を手放しかねないことを、政府がやるはずがないのだ。
 薄闇の中に鏡から離れた手のひらが宙に舞う。じっと見つめて、あの時の則宗の言葉を途切れ途切れに復唱する。念願叶った、両親との再会、もっと笑った方がいい。

「……本当は知ってたんでしょう? 則宗。会話なんて、まず不可能だって。知ってたくせに、あんな期待させるようなこと言って、本当に酷い神様よ」

 ──嘘だ。知ってるはずがない。あの時の則宗の顔は今でも忘れられない。
 徹底的に生きる世界が違うのだと知らしめて、諦めさせることを目的とした面会だったのだ。「お前が戻る場所などない」と。目の前にいても、言葉が通じなければ、触れることもできなければ、どうすればいいというのだろう。打ちひしがれる間にも、限られた短い面会の時間は終わりに迫って行く一方なのだ。
 それに、一人っ子だったはずなのに、自分が審神者になった後に生まれたのか、養子をもらったのかもわからない、見ず知らずの子どもを抱いて、あの諦めた顔で芙蓉の目の前から立ち去ろうとする両親の顔が、今でも色濃く焼き付いて脳裏から決して消え去ることはない。

 ──私は、手放されたのか。諦められたのか。仕方がないのか。私は忘れられる存在になってしまったのか。あれは一体誰なのか。私のいた場所は、知らない誰かの場所にすり替わっていた。私はその程度の存在だったのか。
 いても立ってもいられなくて、両親が去る前に面会の部屋から逃げ出した。この三年間、自分が信じていたものがなんだったのかわからないままに泣いていた時、手を握って一緒にいてくれたのも、則宗だった。監視役としての責務を全うするためなのか、最初に言った言葉の罪悪感からなのかは、定かではない。

 だけどその時点から、刀剣男士に縋って生きていたのは確かだった。
 そこから誰にも代わりが務まらない存在になるために、総代なんてものになるまで頑張ってきたというのに。その時のことを連想させる言葉を聞いただけで、いとも簡単に心を瓦解されてしまう。自分で作り上げたこの芙蓉という審神者は、砂上の楼閣そのものだった。

 顕現した刀剣男士に縋るしかないのに、家族ではないけど、家族に近い存在と自分に言い聞かせながらそう信じていても、その戦いが終わればまた一人、居場所を奪われた現世に放り込まれる。審神者なんて、どう足掻いても時の政府の使い捨ての存在だ。
 でも悲しいことに、理解はできてしまうのだ。なぜならこれは、審神者にしかできないことだから。これに尽きてしまう。それ以上でもなければそれ以下もない。審神者にしかできないから手放せないし、審神者だからこの戦いが終われば役目もなくなるのだ。当然のことだ。
 がむしゃらに生きながら、自分はなんのために生きているんだろうと、もう数え切れないほど我に返ってきた。その瞬間がどうしようもなく孤独だった。真っ暗闇の嵐が自分の中で渦巻いていく。
 こんなにどうしようもなく弱い自分を、誰に見せられようか。

 だけど幸いなことに、辛くなることを思い出したとしても、じっとしていればこの嵐は収まるし、薄らぐ。自分の中から一時でも追い払うことができる。砂上の楼閣と言われようと、何度崩れようと、壊れても、また作ればいい。

 それができたら、あとはもういつも通りだ。

 松井江からもらった万年筆を手に取り、机の引き出しを開ける。装飾が施された箱の中には、紙の束があった。黒線模様の束を一緒に胸に抱く。それは唯一心を保っていられる証だった。
 曙光が窓から差す。薄闇だった東の空は、薄紫から真っ赤に染まる。
 手のひらが離れた鏡に映る芙蓉の目には、再び光が宿っていた。


   * * *


 結局満足に寝られるはずもなかった。
 明日どんな顔をして芙蓉に会えばいいのか。そればかり考えていた。
 豊前江の言ったことも一理あるが、泣かせたことも事実なのだ。芙蓉の線を引いた領域に踏み込むには早すぎた。一抹の不安が夜通し松井江の頭の上を飛び交っていた。いつもは突き刺す日光を遮るように布団にくるまっているが、もう横になるだけ無駄だと思い身体を起き上がらせた。

 なんとなく加州に相談したい気持ちがあった。松井江から芙蓉への感情を明確に知っているのは、彼だけだった。だけどこの明け方の時間帯に電話をかけるほど迷惑なことはない。自分がされたら怒鳴る自信があったからだ。だけどこの悶々とした気持ちをどう扱ったらいいのか知らない。

『──主のことだから知りたい気持ちもあるけどさ。でも主が自分で言いたがらないなら無理強いするわけにはいかないじゃん』

 加州の少し寂しそうな顔を思い出す。
 寝不足の頭が覚醒するのを待っていると、ふいに襖から一枚の紙が隙間から滑り込んできた。折り目のついた紙は、元々何かの形を成していた。松井江を見つけると、中に書かれた文字を見せつけるように折り目もシワひとつない状態で松井江の手元に舞い落ちる。芙蓉が差し出した式神だ。
 少しだけ汚れた紙には『執務室へ』とだけ書かれていた。



「変な顔」
「こんな朝早く呼び出して言うことじゃないよねぇ……?」

 豊前江の言う通り、案外普通な様子だったことに驚いたが、先の第一声で余計な心配だったと眉を寄せた。「もう少し寝るとするよ」と踵を返すと、冷たい指先が松井江を引き止めた。驚くほど冷たくて振り向くと、躊躇いがちな目と合った。やはり、自分のことを隠すのは下手なのだ。あんなに泣いた後で、普通でいられるわけがない。よく見るとまだ若干目が腫れている。

 扉に向けたままだった身体の向きを芙蓉の方へ直す。もう引き返す意志はないとわかると少しだけ芙蓉の顔に安堵の色が差した。

「……昨日は取り乱しちゃって、ごめんなさい。万年筆、本当に嬉しかったのに松井の厚意を台無しにしたわ」

 ──謝るのは僕の方なのに。
 だけどなんとなく、謝るのは松井江の中で制止がかかった。謝罪は控えるべきだと。少なくとも、今ではない。昨日の今日だから、また何かのきっかけになってしまいそうな気がした。正直なところ、どこが琴線に触れたのか、まだよくわかっていなかった。

「もう大丈夫なの? あまり顔色がよくない。眠れてないんじゃないか?」
「まあ、正直あまり……でも少しだけすっきりしたから、大丈夫よ」
「そう、……うん? ……うん!?」

 絵に描いたような二度見だった。穏やかな顔から一変、この世で一番許せないものを目撃した顔になり、松井江を引き止めていた腕を鷲掴んで縹色の眼前に持ってくる。突然の勢いに芙蓉が肩を震わせた。

「まつ……、松井?」

 松井江が凝視する先には、芙蓉の指の腹から爪先にかけて、斑らに黒い液体が染み付いていた。

「あ、いや……なんだ、墨か……爪を黒く塗ってるのかと思った……」 
「えと、その……これ、インク……」
「インク!?」

 寝不足だからだろうか。松井江の反応が一段と激しい。また目をかっ開いて、今度は芙蓉の執務机の上に勢い良く顔を向けた。机上には、昨晩芙蓉に贈った万年筆、黒インクの瓶と、その横に白い紙とティッシュが並び、黒いインクが大小の模様を作って湿らせていた。

「せっかく贈ってくれたものだから使いたいと思ったんだけど……どうやってインクを入れたらいいのかわからなくて、指に付いちゃって……」

 松井江は理解した。わざわざ式神を使って呼び出したのは、それが理由だった。
 ──そういえば、あの式神は少し汚れていた。
 掴んだままだった芙蓉の手をゆっくり下ろした。芙蓉が不思議そうに見上げると、松井江は満更でもなさそうな顔をそっぽを向いて隠した。そのまま一緒に机に向かっていく。

「……これ、ちょっと貸して」

 インクを補充する芯のようなものとペン軸を付けた。手際が良いからか、物珍しいからか、瓶からインクを吸い上げていく様子と、松井江の顔を芙蓉は交互に見ていた。

「松井、練習でもしたの?」
「文具店の店員が教えてくれたよ」
「へぇ……私も今度行ってみようかしら」
「ダメだよ」

 即答だった。

「なんで」
「ダメなものはダメ」
「……収支報告」

 ムッとした顔で芙蓉は言う。忘れていなかったことに、松井江の手元が少し止まった。

「……ダメだよ」
「ダメばっかじゃない」
「贈り物の値段を調べるなんて野暮、主はしないよね?」

 雑費から立替えた金額を見たら、あの万年筆の値段が判明するのだ。

「松井は私をなんだと思ってるの? しないわよそんなこと! ……でも、本丸のお金に関しては一人だけの確認なんて御法度は御法度」

 あくまで芙蓉の主張は立場として公正公平だった。ここで松井江がまた声を上げたら、昨日の続きとなってしまう。何か言いたげにあぐねる松井江を見て芙蓉は口を開いた。

「……歌仙に数字が合ってるかどうかだけ、見てもらいましょう」
「歌仙に……?」

 正気か問うような目だった。数字に弱い歌仙をなぜここで出してくるのか全く理解できなかった。

「歌仙にはそれっぽい言い訳を私からするわ。支出と天引きの金額が合っていれば、あとの部分は私が見るから」
「……わかった」

 そして朝餉の後、嫌がる歌仙に数字の確認をしてもらい、松井江の数字の正当性は無事証明されたのだった


× × ×


一六三八年二月二十五日

救いを謳う信仰の縦糸は、圧政を強いられ立ち上がった農民達という横糸をより強固なものへと織り成した。
僕はこの戦いの後、二三〇年後の幕末まで白刃を晒すことはない。だからよく覚えてる。
この眼下に広がる島原と僕が見た島原とは、少し様子が違う。



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