一六三七年の遠雷

泥梨に咲く花


「すぐに顕現させないんだね」

 小夜左文字は執務机で実務を続ける芙蓉の傍に立って、芙蓉が処理している書類をぼんやりと眺めている。

「せめて南泉を休ませてからの方がいいでしょう? 息の上がった南泉を見た山鳥毛が何を思うかわからないから」
「それもそうか……でもこんなに早く十万も集まるものなんだね」
「こんのすけが言うには、全本丸の中で二番目だったらしいよ」

 歌仙はお茶を啜って言った。執務室の中には第一部隊の面々が揃っている。南泉は疲れを隠さずにソファーで丸くなり、寝息をかいている。この面子の中でよく頑張ったと、皆起こさずに寝かせたままにしていた。骨喰はどこからか持ってきた毛布をかけている。

「二番目でも十分すごいけど、一番目ってどこなの?」
「相模の総代よ。演練で何度かボコボコにされたから覚えてる人は多いと思うけど」

 全員の視線が宙を舞った。演練で当たるとほぼ一人残らず返り討ちにされるのだ。気づいたら皆倒れて小夜しか動けるものがいないなどもあった。

「あそこかぁ……確かに練度は高いが雅とは程遠い本丸だった」

 相模国の総代は全本丸の中で一番の戦果を挙げ、最前線で戦う本丸である。常に全ての部隊が出陣して遠征が困難なため、芙蓉の本丸から資材の融通を利かせていた。本丸に襲撃されることも多いがその全てを撃退している。そのため部隊に入っていない刀剣男士であっても練度の高さはその辺の本丸より抜きん出ている。

 だがどうしてか総代である審神者自身は歴史を守るという確固たる芯はあるが、口を開けばどこか常識がズレている人だった。同僚からの嫌われ度合いは有名税くらいにしか思ってなさそうで、誰に臆することもない。上から強く言ったところで暖簾に腕押しというある意味で大物な人柄をしている。
 初期刀であり近侍である蜂須賀虎徹を常に隣に置いていても、全く見劣りしない存在感を放つ人物であった。

「蜂須賀は元気にしてるのか?」

 南泉の寝顔を観察していた骨喰が聞く。かつての演練で容易く自身を戦線崩壊に導いたのは蜂須賀だったのだ。

「元気よ。相変わらず装備の輝きが眩しいから、次演練で当たったらサングラスでも着けるといいわ」
「全員で着けるか。威嚇できるかもな」

 薬研が悪ノリしてくる。

「小夜とか意外と似合うかも」
「南泉なら問題なく似合いそうだな」

 と皆が言う中、歌仙は明らかに嫌そうな顔をする。

「サングラスって、あの目を覆う黒い硝子みたいなやつだろう? 僕は遠慮しておこう。雅じゃない。なあ、君もそう思うだろう松井」
「……」

 会話には入らず、ずっと窓に寄りかかったまま外を眺めている松井江に話を振るも、思ったような返事は返ってこない。

「なんだい、まだ機嫌を損ねているのか? 飽きないな」

 本人ではなく、小言は芙蓉に投げかけられた。声なく「今はそっとしておいて」と口に指を当てて笑う。連隊戦で好きなだけ暴れさせたらスッキリしてくるかと思ってはいたが、そうでもなかった。一度怒ると熱りが冷めるまでが長いのはもう今更なことなので、あまり気にしてはいなかった。

「そういえば主さま、あの山のように積み上がった枡はどうするの?」

 小夜が聞く。宗三同様、小夜自身の背丈以上に積み上がった枡の山を通りすがるたびに気になって仕方がないのだという。

「よく松井さんがあんなに集めたり買ったりするのを止めなかったなって思って」
「あれは売るのよ」
「売る?」
「そう。他の本丸にね」

 書類にサインを書く手を止めずに答える芙蓉に、歌仙は顔をしかめた。

「また君は……政府も枡を売っているんだろう? 転売じゃないのか?」
「大丈夫よ。ちゃんと政府の益に繋がるようにするから」
「どこで売るんだ?」
「演練場」

 寝ている南泉以外の全員が「え」と口を揃えた。昨日の今日で心変わりが早すぎる。

「言っておくけどこれは政府から総代への任務みたいなものなのよ。せっかく戦力アップにつながる催しを政府が主催したのに、不参加なんて許さないって。強制ではないけど、なるべく全員参加しろって言いたいのよ。理由があって参加できないならまず演練自体できないだろうし、政府から直接お小言なんて与えたら反感を買うでしょう? 例えで言うけど、歌仙がご飯作ってる時にご飯早く作れって言われたら頑張ると思う?」
「万死に値するってキレまくると思う」

 丁寧に真っ直ぐ挙手した小夜が答えた。

「お小夜……?」

 歌仙の裏切られたような顔が小夜に向く。

「でしょう? だから総代からいい感じにサボり連中に尻叩いて欲しいって」
「大将。ひとついいか」

 ソファーの上で胡座をかいた薬研が聞く。

「そのために山鳥毛を手に入れるのを急いでたのか?」
「そうね。こういうのは早ければ早いほどラクに効果が出るから。ただ、うちの本丸の純粋に戦力を増やしたいっていうのもあるわね」
「なるほどなぁ。で、実際どうやって売るんだ? 山鳥毛は連れて行くんだろう?」
「勿論。政府が売ってる価格より下げて通行手形用の小判もセットを出す代わりにお金と一日分の資材か札を貰うわ」
「資材ならいっぱいあるじゃないか」

 歌仙の言う通り、備前の本丸の資材は規模に反して業者並に蓄えている。資材棟の中に置き切れないから、桑名江と同田貫と蜻蛉切に追加でかなり増築してもらったのが過去に三回。今や資材棟が四つ並んでいる。

「それでもまだ資材を得ようとするつもりかい? あって困るものではないにしても、ありすぎもどうかと思うよ」

 歌仙は投げかけると芙蓉ではなく窓の外を見ていた松井江が「そんなわけないだろう」と反応した。

「その資材の行き先はうちじゃなくて、別の本丸だよ。相模の総代ような常に出陣で遠征が回せないような本丸へ送るんだ」
「でも資材を差し出すのか? ある意味金より大事なもんだろ?」

 手入れや鍛刀、刀装の作成に欠かせないものだ。特に手入れで足りなくなるのは本丸運営にあたって死活問題にあたる。

「連隊戦は資材消費が一切ないから、日課をこなせば政府からの報酬で基本的に連隊戦中はどこの本丸も黒字だよ。売値だって政府のより安くするし、枡と小判の価値を考えると『一日分の日課で得られる資材を差し出して試せるのであれば』って損には見られない。資材がないなら単純に金額を上乗せしたらいいし、一人につき一回のみでいい。演練場なんて人が集まりやすい場にわざわざ主が練り歩くんだから、山鳥毛を連れていろんな人の目に触れさせて参加の敷居を下げないと意味がないからね」
「枡は何個で売るの?」
「八個よ。それに小判を三万両つけるわ。参加しないんじゃなくて、小判がなくて通行手形を買えないから参加が出来ずやる気が出ないって本丸も多いはずだから」
「それで足りないならあとは万屋が販売してる枡を買えばいいってことか」
「そういうこと」

 とりあえず鼻ちょうちんを作っている南泉以外は第一部隊は全員が納得した。そうと決まれば山鳥毛を顕現する必要がある。

「さて……そろそろ南泉を起こしてもらえる? 山鳥毛を顕現させるから」
「わかった」

 骨喰が即答した。毛布をかけてあげてたり、案外南泉を気にかけているらしい。「突きだ」と鼻ちょうちんを勢いよく割ると南泉は情けない声を上げて飛び起きた。

「んぇ!? 皆どこに行くんだ? にゃ?」
「鍛刀部屋だ。山鳥毛を顕現させる」
「ハッ!? まじかよ……寝癖は付いてねえよな!?」
「寝癖だらけだ」
「嘘にゃ!?」
「嘘だ」

 ──この二人、今度組ませてみようかな。
 骨喰が南泉を面白がってるだけかもしれないが、それでも骨喰が下の兄弟以外を率先して世話するのは珍しい。

「僕は一旦部屋に戻るよ。鍛刀部屋で合流でいいかい?」
「それでいいわ。よろしくね」

 歌仙を筆頭に全員がぞろぞろと執務室を後にする中、ただ一人だけ松井江はその場から動かずに執務室に止まっている。じぃっと何かを言いたげに芙蓉を見ていた。

「……」
「……」

 情緒のへったくれもない見つめ合い合戦だった。お前が先に喋れと、声なく煽り合う。

「ふふっ……」
「なんで笑うのかな」

 根負けした芙蓉が上機嫌に笑い出した。

「拗ねててもキッチリ仕事をするんだもの。律儀ねぇ……」
「……うるさいよ」
「松井のそういうところ、私大好きよ」
「そういうところって」

 褒められている気などしないのだろう。悪巧みをするような笑みを浮かべる芙蓉を見て不服そうに目を逸らした。芙蓉は自分の湯のみに口をつける。仰いで空にすると、まだ口を尖らせる松井江を見て立ち上がった。口は楽しそうに弧を描いている。

「全体を俯瞰して見ることができて、ちゃんと私の意図を理解して説明してくれるところ。私の近侍にぴったりね」
「本当に大変だよ」

 大変だとは言うものの、さっきまでとは違い自信を湛えた顔だった。

「いつもありがとう。鍛刀部屋まで一緒に来てくれる?」
「ああ、いいよ」

 そう言って二人は執務室の扉に向かうが、先に進む芙蓉の後ろで松井江は一瞬立ち止まった。松井江自身の添え机を見て目を細め、再び歩き出す。芙蓉は気づいていなかった。


   * * *


「お久しぶりです、いや、お待ちしてましたのがいいか?」

 そうして鍛刀部屋まで着くと、南泉が部屋の隅に一人で念仏を唱えるように挨拶の練習をしている。南泉がこれだけ緊張する相手なのだ。どんな刀剣男士なのか気になって仕方がない。

「まだ挨拶が決まってないから待ってにゃ」
「待てませ〜ん」
「クッソォ……昼寝しすぎた!」

 制止する南泉を軽くあしらうと、早速顕現させることにした。

「すごく華やかな刃文ね」

 山鳥毛を目の前にするなり芙蓉が言う。それに触れると一瞬だった。命の花弁が弾けるとその姿を現す。桜の花びらが舞う中で、白い上着の裾と煤色の髪が揺れる。炎を思わせるほどの真っ赤な瞳と目が合った。


「──上杉家御手選三十五腰のひとつ、無銘一文字。号して山鳥毛。我が家の鳥たちは集まっているか?」


「頭! ご無沙汰しております! にゃ!」

 語尾のせいで締まらない挨拶だが、山鳥毛は「おおよしよし」と、顔を綻ばせている。

「子猫か。久しいな……息災か?」
「ウスッ!」

 悩んだ甲斐あった南泉はやりきった顔だった。

「おっと、君が今代の小鳥か。無礼をすまない。挨拶が遅れた」
「こ……小鳥?」
「大将はどっちかって言うと小鳥っていうより鵜の目鷹の目って感じがするがな」

 あまりにも慣れない呼び名にほのかな羞恥を覚えたが、それは薬研の一言によって一瞬で掻き消された。

「今死ぬほど私の仕事の手伝いがしたいって切望の声が薬研から聞こえた気がしたわ。気のせいかしら」
「すまなかった。後生だ、勘弁してくれ」

 もちろん芙蓉はそんなつもりは毛頭なかったが、「後生だ」と言うほど嫌がるものだろうか。すると後ろの山鳥毛が「愉快な小鳥達が多いのだな」とサングラスの奥の瞳が優しく細まっていた。太刀の刀剣男士なだけあって、やはり落ち着いている。

「来てくれたばかりだというのにうるさくしてごめんなさい。私は芙蓉、貴方の主よ。よろしく山鳥毛」
「ああ、よろしく頼む」

 握手を交わすが、やはり気になるものは気になる。失礼だとわかってはいたが、たまらず芙蓉は言った。

「……やっぱり山鳥毛を見て思った。みんな演練にサングラス着けて行った方がいいわよ。新人なのに山鳥毛の貫禄があまりにも大物すぎて私びっくりしてるわ。薬研と初めて合った時と似たような感覚よ、今」
「大将、俺に対してそんなこと思ってたのか」
「ええ。声だけ無駄にベテランだと思ってた。今もよ」
「声だけ? ひどいことを言うぜ大将……俺はまだ小さかった大将に華奢だし儚そうと言われた瞬間からその考えを覆らせるつもりで全身全霊で頑張ってきてるんだぞ? 心の中で思い描く俺はいつも屈強なベテランだ」

 相変わらずの語気の強さで力を持って語る薬研の目は本気だ。

「きっとそのせいね。昔と比べて肩幅三人分くらいの風格があると思ってたわ」
「そのうちその肩幅でど突いただけで遡行軍を倒せるようになるかもな」

 薬研と意味のわからない会話をしている横で松井江が静かに俯いている。元々ほのかに憂鬱そうな顔をして案外笑いのツボは浅く、いまいちそのツボがよくわからない。そんな松井江をさておき、ずっと静観していた歌仙が歩み寄ってくる。こういう新人が顕現する時、人見知りな歌仙は大体最後の方になって喋り出す。山鳥毛が落ち着きのあるタイプだとわかって、安心しているようだった。

「僕は歌仙兼定だ。よろしく山鳥毛」
「ああ、こちらこそ」
「それと……すまない。少し君のそれを拝借してもいいかい?」
「? 構わないが」

 歌仙が指差したものは山鳥毛のサングラスだった。どうも真っ黒なものという先入観があったらしい。物珍しげに眺めて自分の中に新しい価値を見出そうとする歌仙は、いつも楽しそうだ。

「サングラス……こういうのなら、僕は着けてもいい」
「歌仙、冗談よ」

 こうしたちょっとした冗談にも、簡単に引っかかるところも歌仙兼定なのだ。真に受けていた。サングラスを返す歌仙は、少しはにかんでいた。


   * * *


「ああ、いたいた」

 芙蓉は演練場に来るなり、ある人影を見つけると一直線に向かって行く。そこにいるのはいたって普通の女性の審神者だった。演練で戦う刀剣男士を見ては時折ガッツポーズを決めていて、ちょっとしたスポーツ観戦気分のように見える。
 演練に夢中になっている彼女に芙蓉は普段通りに挨拶をすると、彼女はわかりやすくその場から飛び上がった。身振り手振りが激しい話し方はかなり特徴的で、早口だ。見ているだけで騒がしいが、芙蓉は煩わしく思うことなく軽く笑って受け流している。

 そして女の表情は一変して、山鳥毛に向けられた。この瞬間、一目惚れというものの瞬間を目にし、理解した者は、芙蓉と連れてきた刀剣男士含めこの演練場において大多数だったと言える。山鳥毛の少し気恥ずかしげな困り顔は、年若い女の審神者から婦人の審神者の、あるいはその渋い姿から何かを見出した男の審神者の視線を釘付けにしていた。
 そして周囲が察する。誰も見たことのないこのグッドルッキングガイは、今催されている連隊戦の報酬の刀剣男士だと。それまで声を潜めていた芙蓉があからさまに声を大にして言い放った。

「もしよろしかったら誰でもいいから使ってくれる? 三倍枡と十倍枡と小判がたくさん余ったの」
「寧ろ買わせてください!!」

 すかさず女の審神者が飛びついた。
 多分、こんな光景は二度とお目にかかることはない。最初は疎らに、波が押し寄せるように審神者が芙蓉の元に殺到し、枡と小判の確約ができたと思えば引き波のように皆急いで各自の本丸へと一目散に撤収して行った。演練場はひとっ気がなくなり、たちまち廃れたシャッター街のようになった。

 突然のことに驚いた演練場の政府の職員と役人が目を丸くしてその光景を見ていたらしい。何事だと名指しの呼び出しを食らい、部隊のみんなを先に帰らせてから一通りの説明をし終えて備前の本丸へ帰る最中だった。総代全員に課せられた催し物の参加促進ということでお咎めなしで済んだが、演練場を売買の場にするなと叱られる程度に終わった。

「審神者同士の交流の場なんて演練場くらいなもんなのに、無茶を言うわよ」

 芙蓉に反省の色は全くない。同じことは何度もある。恐らく忘れた頃にまたやり方を変えて懲りずにやるだろうと察した松井江は、芙蓉に引っ張られて説明の場に一緒に立って叱られていたのだった。

「……さっきの彼女には、なんて言ったんだい?」
「わかっちゃった?」
「出来すぎてたよ。誰だって気づく」
「さっきの人、それはそれは出費の多い本丸でね。皆が快適に過ごせるように本丸を増築したりシステム化を進めたり、本丸にいる刀剣男士達全員に軽装を買ったり、リフレッシュできるように景趣を充実させてたり熱心な人で、こんのすけのグッズを作ったりして本丸資金を地道に増やしたりしてるのよ」
「ああ……いつだか貴方にもそんな話を持ちかけてる人がいたね。その人だったのか」
「そう。だから連隊戦みたいな小判を必要とする催しには消極的なの。今日この演練場に来てる本丸のほとんどがそうよ。他で困ってはないしやる気がないわけではないけど、何にせよ小判が足りないの。だから彼女にはお金も貰わず小判を多めにあげるからいい感じのことを大声で言ってくれない? ってお願いしたのよ。喜んで引き受けてくれたわ」
「呼び水みたいなものかぁ。たまに人間が怖いよ」
「小判は貯めるのは大変だけど、消えるのは一瞬だから。誰だってチャンスを逃したくはないでしょう?」
「まあ……、それは確かにそうだけどね」

 何か物申したそうだが、それ以上に芙蓉の機嫌がよかった。

「儲けたお金があるわけだし、奮発して何か買って帰らない?」
「この前買ったお菓子がまだあるだろう? 無駄遣いは見過ごせないね」
「ケチ」

 不意に芙蓉が立ち止まった。

「どうしたんだい? 店には寄らないよ?」
「違うわ、あそこにいるの……」

 芙蓉が指し示す先には、芙蓉と同じ年くらいの女性が佇んでいた。

「あのご婦人のこと?」
「ええ。どうしたのかしら……随伴も連れずに……」

 本丸の外を出歩くときは基本的に審神者は近侍を連れて歩くのは常である。だが芙蓉達が見つけたその審神者は、以前総代を集めた会議で燭台切光忠に想いを伝えて見事結ばれたと芙蓉に報告してきた美濃国の総代だった。
 繭莉まゆりという名の彼女は普段は控えめで穏やかだが、何やら沈みきった顔で一人歩いては時折立ち止まっている。

「少し様子がおかしいんじゃないか……?」
「松井もそう思う?」

 どうせこのまま帰っても松井江の目がある限りお菓子を買って帰れないのだから。芙蓉は彼女の方へ歩み寄っていく。後ろには、やはり松井江がついている。

「ご機嫌よう繭莉さん」

 話しかける。はっとしたように振り返った彼女の目元は少しだけ赤い。ようやく腫れが引いてきたような色をしている。

「……芙蓉さん? と、松井江……ごめんなさい。こんなところで立ち止まってしまって、目立ちますね」
「いいえ、いいんです。お陰でこうして声をかけられましたから。元気がないようですがどうかしました?」
「あ……、えっと」

 繭莉は言葉を詰まらせた。しばらく考え込むように口を噤むが、やがて意を決したように「あのっ……」と顔を上げた。繭莉が話してもいいかもしれないと自分の中での予防線を突破した時だった。だがすぐに彼女の意気込みは引っ込んだ。

「あーるじー! なんだよ会議終わってんじゃん」
「清光……」

 加州清光。繭莉の本丸での初期刀である。普段は近侍に燭台切を置いている彼女が、今日は加州をお伴にしていた。
 だがそれとは別に芙蓉が松井江と目を合わせた。会議なんてものは今日はない。あれだけ政府が連隊戦の参加者を増やせと躍起になっているというのに、連隊戦初日に会議なんかやるわけがないのだ。

「ん? 備前の総代と……近侍?」
「そうだよ」

 松井江が簡潔に答えると、加州は手のひらを差し出した。

「そっか。俺は加州清光。よろしく。あんた名前は?」
「松井江だ」
「へぇ〜、江か。俺江のやつと初めて喋ったかも。前に近侍の待機室で見かけてたけど、やっぱあんたセンスいいな」

 加州は目敏い。握手を解くと、爪先を指差して自分の言葉の意味を補強する。唐紅に染まった加州の爪と縹色に染まった松井江の爪。色の趣味は違えど通ずるものがあるらしかった。芙蓉の本丸で爪を塗っているのは松井江くらいだからか、褒められるのは新鮮なのか慣れない様子でお礼を言っている。

「……あら、松井が他の本丸の誰かと話してるなんて珍しいから、もう少し長話しててもいいのよ? ねえ繭莉さん」
「え? あ、……はい」

 本当にどうしたのか。心ここに在らずといった感じで、言葉の全ての歯切れが悪い。ずっと俯きがちの繭莉を見た清光も何か感づいたのか「んーっとさ、」と口火を切る。

「備前の総代、この後時間ある?」
「ナンパ?」
「残念。俺は主一筋なの。時間があるならさ、うちの本丸に寄ってかない? 主まだ喋りたそうにしてるし。普段男ばっかの中で生活してるなら、たまにはそんな時間があってもいいでしょ? ね、主」

 繭莉にとっては妙案のようだ。パッと少しだけ顔色が明るくなる。

「あの、是非いらしてください。あ、お時間は……?」
「大丈夫です。お言葉に甘えてお邪魔しますね」

 ここで断ったら、それこそ倒れてしまいそうな雰囲気があった。「僕は邪魔じゃないかなぁ」と口走る松井江の袖を強く握りしめる。

「松井も来るの」

 強めに言うと、「わかってるよ」と言って四人は美濃国総代の本丸へ向かうことにした。


   * * *


 それぞれの本丸によって勝手が違うのが知っていたが、繭莉の本丸は一言で言うと華やかだった。門を潜ればすぐにちょっとした庭園があるのだ。一目で「歌仙が喜びそう」と言えば、容易に想像がついた松井江は「目に浮かぶねぇ」と桜の通り道に入っていく。
 花の影が重なるにつれて桜色が鮮やかに色濃くなっていく。行き届いた庭の手入れは人の手がはいっているものだとすぐにわかった。実際庭師を雇う審神者は多いと芙蓉は聞いていたが、歌仙がやたら景趣にこだわる理由や、庭にお金をかける審神者が多い意味がよくわかった気がした。

「これは確かに雇いたくもなるはずね」

 口を開いたままになっているのも気づかずにいた。松井江も返事が曖昧になっている。桜を見ては淡い赤と言っていたが、あながち間違ってはいないのかもしれない。

「庭って手入れをしたらどこを切り取っても絵になるとはよく聞くけど、本当に言葉の通りね」
「ありがとうございます。私もこの庭は気に入っているんですよ。ついつい景趣と庭師で小判とお金が減っていくんです」
「ねえ松井、庭師って呼ぶと高いんだっけ?」
「一度呼ぶと一生お世話になることになるけどいいのかい?」
「もうちょっと景色を楽しんでからこの話をするわ」

 あちこちに目が足りないほど庭を楽しむままに進むと、庭園を抜けた先の玄関に燭台切光忠がいるのが見えた。こちらに気づいて合流した光忠と繭莉は、芙蓉も交えて少し話し込んでいる。加州は繭莉と光忠に一言声をかけると、松井江を連れて先に本丸の中へと入って行った。加州の部屋に向かうらしく、通りすがりに見慣れた顔や全く知らない刀剣男士とすれ違っていく。

「ちなみに言っておくけど、うちの主と燭台切は恋仲だからね」
「こ……!?」
「あれ? もしかして聞いてない? 備前の総代は口硬いんだな〜、主が頼るわけだ」

 全く聞いていなかった。思い返せば、普段他の審神者とどんな会話をしているのか、プライベートについてあまり芙蓉は口にしない。話しても、仕事に関係するものだけだ。そうこう話し込んでいるうちに、加州の部屋に着いた。意外と飾りっ気がなく、整理整頓がされている部屋だった。

「なんだかさ、主とはたまにだけど距離を感じちゃう時があって。燭台切と幸せそうにするのはいいんだけど、もう少し俺のことも構ってよって無理言って最近は俺が近侍なの」
「すごいなぁ……」
「それってどっちが? 恋仲になったこと? それとも俺の執念?」
「君の執念」
「アッハハ、松井江には負けるよ。あんた外堀埋めて近侍になったんだろ?」
「語弊があるよ。僕はただ……内番をしたくなかっただけで……」

 語気がだんだんと弱まっていく。外堀を埋めた覚えはないが、日々圧をかけて歌仙をクビにさせて近侍の立場を得たことは確かな事実なのだ。

「ふーん? まあ、いっか。なんか俺、松井には勝手にシンパシー感じるんだよね」
「しんぱしー?」

 慣れない横文字の単語にすかさず復唱した。

「共感っていうらしいよ。主が言ってた」
「へぇ……」
「横文字使いこなしてみたいじゃん。松井も使っていいよ」
「覚えてたらね」

 加州が部屋に来る途中で淹れてきたお茶を一口飲んだ。加州は当たり前のように出して来たが、相当いいお茶だ。なんとなくそんな感じはしていたが、松井江は繭莉の本丸の生活水準が基本的に備前よりかなり上だと実感する。

「ずっと気になってたことがあるんだけど、聞いてもいいかい?」
「いいよ。今主いないし、割と踏み込んだ話も聞いたげる」

 不自然なほど懐を広げてみせている。逆に「言ってくれ」と乞うようにも聞こえる。特に躊躇する様子もなく松井江は口を開いた。

「今日は会議なんてなかったこと、加州は知っていたんだろう?」

 そう言うと、加州は待っていたように笑う。

「それね、ずっと知ってて黙っててくれてありがと。俺そのことについてお礼が言いたかったんだよね」
「政府から何か言われたのか? 君の主の様子がおかしいって主は言っていたけれど」

 加州は首を横に振る。隠してる素振りでもない。加州でも踏み込めないものがあるのだと言う。どこの本丸にも、やはりそういうことがあるのだなと納得に近い形で心に落とし込んだ。

「多分、主に関係ある人が政府にいるんだろうな〜、とは思ってる。主はよく……というかかなり周りを気にしてるし、持ってる物やたまに来る贈り物だって高価なものが多いし扱いに慣れてる。どんな時でも真っ直ぐに張った姿勢だって崩れない。どっかのいいとこの人なんだろうなって思ってた」

 加州も松井江も、同じだった。審神者というものは家族の話をしたがらないものが多いのだろうかと、少しずつ松井江の中で審神者という存在の性質や枠組みが組み上がってきている気がした。

「主の家族とか、そういう話をしないのかい?」
「俺、家柄とかそういうの詳しくないし。主のことだから知りたい気持ちもあるけどさ。でも主が自分で言いたがらないなら無理強いするわけにはいかないじゃん。少し寂しいけど、俺達に話してもどうにもならない事情があるんだよきっと。あの燭台切だって知らないんだぜ? 聞いて欲しいならさ、雰囲気でなんとなくそういうのわかるじゃん」
「……そういうものなのか?」
「あんたも白々しいな。そりゃそうでしょ。本気で悩んでるなら、そう簡単には口に出せないもんじゃない? 何で悩んでるのって聞かれてもすぐ言葉にできないでしょ」
「……そうかもねぇ」
「そういうあんたも、何か抱えてんだろ? 顔にでっかく書いてあるぜ」
「わかるのかい?」
「バッチリね。それに超嫉妬深い。いや〜気持ちわかる。隣を陣取ってたのにいきなり知らない男が近寄ってくるの、死ぬほど抜刀したくなるよな」

 加州の指摘にお茶が気管に入りかけた。大きな溜息をつくと加州に軽く笑われながら「はーいキレない、キレない」とお茶を注がれる。

「……ちなみにその男って誰のことだい」
「ほら、政府にいるじゃん。声がでかくてめでたい金髪頭に菊をあしらった服の俺らと同類が……今露骨に嫌そうな顔したの面白すぎでしょ」
「なんでわかったのかな?」
「だってあのじじぃ、備前の総代に結構ちょっかい出してるぜ?」

 初期刀というだけあって、初めて会ったはずなのに会話が途切れない。豊前江は沈黙が苦にならない大らかさと包容力があるけれど、加州は真逆で、柔軟性に長けていると思った。細かい隙間を見つけては、するりと懐に入り込むのが上手いのだ。

「いいなあ松井江。最高だよ。俺の味方だ。デリカシーのない純朴なうちの安定とは大違い」
「味方……? なんの?」
「あんた備前の総代を好いてるだろ?」

 率直な言葉に今度こそお茶を吹き出した。激しく咳き込む松井江をちゃぶ台に肘をついて眺める加州はティッシュを渡しながら続ける。

「わかるよそんくらい。俺は間近で主と燭台切を見てたんだぜ? 俺は主に愛されるために可愛くしてんの。松井江は誰よりも備前の総代の近くにいるために近侍をしてるだろ? それって同じじゃん」

 柄にもなく醜態を晒しながら「なぜだろう」と松井江は思った。
 全然違うはずなのに、松井江を諭す加州清光の姿を見て、自分を「隠居のじじぃ」と揶揄する演練場で出会った男の姿を色濃く思い出したのだ。


   * * *


「どこから話しましょうか……」

 光忠が気を利かせてお菓子とお茶を用意してくれたところで繭莉は切り出した。

「今日はご心配かけさせてしまってごめんなさい。芙蓉さんはご存知かもしれませんが……私の家の人は何人か審神者や政府の役人がいるんです」

 繭莉の家系は確かに審神者にも政府の関係者にも多く見られる。時の政府が発足するその時代から、彼女の家は内からも外からも尽力し、活躍してきた家だ。
 そして今、その中でも彼女は指折りの霊力があった。審神者になってからまだ五・六年だが、瞬く間に総代まで上り詰めて大出世したのは芙蓉も見ている。家からすれば快挙や快進撃と言っていい。だがそんな彼女がここまで気を落とさなければならないことが何かあっただろうかと、芙蓉には疑問しかなかった。

「その中の一人から呼び出しを受けて……前の会議の時、私は光忠と一緒に参加したでしょう? 浮かれてたんです。一緒にいる時こそ本当に気をつけないといけなかったのに。見ていたんですよ。その時の私と光忠を」
「……その方はなんと?」
「くだらない遊びをするなと……刀剣男士と交わったところで子一つできやしないのだから、無益なことをするな、お前は御家のためにただ戦い、御家を立てろ、って……」

 尊厳なんてまるであったものじゃない言葉に、ただただ絶句した。これ以上ないほど審神者として貢献しているはずの人間に向かって言う言葉ではないという以前に、同じ血の繋がりの人間に対してあまりにぞんざいな扱いだった。

「……そんな言葉、無視しましょう。だから今日は清光を連れていたんですね」

 小さく頷いた。お茶はまだ熱いはずなのに、湯のみを持つ手の指先は、蒼白な顔と同じく随分白い。

「元々私は分家の娘だったんです。審神者になれるだけの霊力を有しているとわかった途端、無理矢理な形で本家の養女になって。元々審神者を輩出している家とは言っても、ここ数年は家から潤沢な霊力を持った素材が出ることはなかったんです。分家から本家に来た私に落ち着ける場所なんて、それこそ気を休める場所も人もいなくて」

 本家からは出ず、分家から出すというのはさぞ気分が悪いだろう。いい顔をするために、無理矢理養子に引き込んで政府に差し出すというのは容易に想像できる。分家の人間に救われる形になれば本家の人間は面目丸潰れだった。自分の自尊心を満たすために彼女へ厳しい態度を取っていたのだ。一般家庭とは違う苦難を彼女は一身に受けて育ってきた。

「だから初めてなんです。毎日がこんなに楽しいのは。悪意の目もない、私を手段としない。恋だってできた……立場上こんなことを言うのはよくないし、戦っているってわかっているんです。でも、それでも思ってしまうんです」

 芙蓉は静かに耳を傾けていた。なんとなくその続きの言葉が予想できて伏し目になる。誰もが一度は抱くことだった。

「……この戦いが終わるのが怖いんです」

 ぽつりと零した言葉は、痛く心に染み込む。この戦いが終われば、自分は一人になってしまう。強迫観念に近い感情を持っている。一拍置いて、芙蓉が語る。

「──わかります……私も全く同じことを、いつも考えているもの」

 繭莉の肩が揺れ動いた。膝上には、どんどん涙の滲みが広がっている。

「終わらなくていいとまでは言わない、けれどその次の言葉が、私は何年と考えても出てこないわ」

 言葉にすればするほど、心が震えていく。俯いて吐露してくれた彼女に対して、芙蓉は肩を抱くことしかできなかった。

「……芙蓉さん、私ね、審神者でなくなったらきっと……いいえ、確実に、顔も見たことない方と結婚をさせられる。私はそういう存在なんです」

 切実さのある言葉だった。

「光忠と清光達と一緒にいたいです。ずっと……」

 一緒に泣いてあげたかったのに、人の涙を見ると自然と冷静になる。心では泣いているはずなのに不思議と涙は出てこなかった。泣く彼女を見ながら、ずっと考えていた。
 彼女が言ったような、私が一緒にいたいと思う存在は誰だろうと。こんなに目を泣き腫らすほどに心の内を曝け出した繭莉を目の前にして、失礼だとは思いつつも考えることが止められなかった。
 一緒にいたくてもいられない存在がいる。そのせいだろうか。ぼんやりと、本丸の皆だと思っていた。本当の家族ではないけれど、血よりも濃い関係性がこの世にはあると思っていたのだ。そう信じて止まなかったはずだった。
 けれどその考えは自分の無意識に裏切られる。
 一瞬の揺らぎに動揺して、息を飲む。芙蓉の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは一人。

 松井江だった。


× × ×


二二〇五年×月△日

梅干しの塩加減を少しだけ変えてみた。
今は時期じゃないけど、本丸は梅雨の景趣だからうまくやれたらいいなあ。蜂蜜を入れた梅干しというのがあるらしいけど、カビが生えやすくならないんだろうか。今度作り方を調べてみよう。
次の出陣から帰ってくる頃には土用干しする必要があるから、主に景趣を変えてもらうように言わなくてはね。



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