一六三七年の遠雷

薄氷の上に立つ


 連隊戦。あらゆる環境化における、より実戦に近い対遡行軍の戦闘訓練である。
 もちろん戦えば刀装も消耗され、傷も負うし、痛みも伴うが、政府管轄の異空間から抜け出すとたちまち全てが元通りになり、経験も積めて資材に優しい仕様の訓練となっている。各本丸のやる気を引き出すために、催しものとして政府は報酬の釣り糸を用意して全体の戦力の底上げと増強を図る。

 芙蓉が率いる備前本丸もその釣り糸に引っかかっている一つだった。というより、一番やる気を見せないといけない立場である。
 出陣用の門には山のように三倍枡と十倍枡が積まれている。「どこぞの王の墓でも作るつもりですかと?」通りすがった宗三が呆れ半分で言う。その横に不用心に置かれた金庫には、十万の御歳魂を手に入れる必需品となる通行手形を買うための小判がぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。

「……あれ換金したらいくらになるんだろうな」

 どこからともなく誰かが言った瞬間、皆の目が気まずく金庫に向いた。刀剣男士というもののやはり気になる。目敏い言葉を発する彼らの主もまた目敏い。その様子を見て笑顔で返答する。

「ネコババしても構わないけど、それで一生困らない量をくすねていった方がいいわよ。給料以上の魅力を感じるのであれば……でもまあ、そうねえ。換金できるようなところがあるといいわね」

 手をつけたら最後、金輪際給料が入ることはない。
 小判の見た目とはいえ作ったのは政府で、現世に出ても価値がない見た目だけの貨幣である。中身は一生困らない量の金額とは程遠い。芙蓉の一言がだいぶ効いていた。部隊長と松井江以外、誰一人として金庫には触れようとしない。


 そして今まさに歌仙兼定が率いる第一部隊は、順調に遡行軍を斬り伏せて御歳魂を集めていた。
 乾燥した喉から吐き出される呼吸はひどくささくれている。唾を飲み込むのが今できる精一杯の水分補給で、膝に手をついて滝のような汗を流す南泉一文字を横目に、刀に付着した血を払った松井江が歌仙に歩み寄る。次の敵が現れるまで、少しの空白時間があった。

「歌仙、今八戦目が終わったところだよね」
「ああ、多分」
「多分……?」

 いい加減な返答に松井江の眉間にシワが寄る。

「僕は部隊長だけど、わざわざ数えるなんてしないよ。どうせ全て倒すのなら数える必要がどこにあるんだい?」

 思わず額を押さえる。歌仙兼定は文系名刀と自称するものの、その実得意分野以外のやり方がかなり大雑把なのだ。脳みそは筋肉で出来ているのかと喉元まで出かかったことは何回もある。だが歌仙はこの本丸の初期刀であり、松井江の元主が仕えていた細川家に愛された刀だ。ぐっと苦言を飲み込んで眉間をほぐした。

「……次からは僕が数える」
「助かるよ。松井ならそう言ってくれると思ってた」
「あまりいい気がしないなぁ……」

 はあ、と溜息をつく松井江を「溜息など風流じゃない」と嗜める。

「今日の君は随分気が立っているね。主とくだらない喧嘩でもしたかい」
「今それを聞くのか?」
「いいじゃないか。松井のことだから、兄弟以外にじっくり面と向かって踏み込んだ話をするのは苦手だろう?」

 図星だった。そうこう言っているうちに新たな敵が現れる。降り注ぐ弓を見切って払い落とす松井江に、歌仙はお構いなしに話しかけていく。

「出陣前に口の周りを大福の粉だらけにした薬研達を眺める君の顔、なかなかに酷いものだったよ。自分で気づかなかったかい?」
「残念だけど、覚えがないかな」
「何があったかは知らないけど、僕に歌を詠まれたくなかったらあまりつまらないことを引きずらないことだ」
「勝手に人で歌を詠まないでくれないか」
「それは無理な話だ。悋気も嫉妬も素晴らしい歌の種だからね。君と主を見て僕なりに馳せるのが楽しみでもあるから」
「それ、歌仙にしては俗っぽい楽しみ方だと思うけど?」

 今や近侍は本丸の誰もが認める松井江の落ち着く場所となっているが、元は歌仙がいた場所だというのに呑気な初期刀がいたものだと遡行軍の残骸を蹴飛ばした。

「なんとでも言えばいい。僕は松井と一緒にいる主の顔が好きだからね。逆もまた然りだ。ただ間に挟まっている主従関係が難儀だなと思ってるよ」
「だから……」


 ゴッ。


 鈍い音が突如松井江を黙らせた。歌仙が「あ、」と目を見開く。

「おやおや、大丈夫かい?」

 頭から流血しながら痛みで仰け反る姿に声をかけるも、もう聞こえてなどいない。かっ開いた目は血走り、縹色の瞳が右から左にせわしなく動き回る。どこの誰からの投石かを全力で探し当てている。見つけた。その瞬間、一層松井江の闘気が爆発する。

「きさんなんばしよっとか! くらすぞ!!」

 苛立ちが最高潮まで達した松井江の八代弁が戦場に炸裂する。歌仙にとっては大変耳に馴染みある訛り言葉に思わず笑いが出た。少しいじりすぎた。
 松井江は自分の頭に直撃した血のついた投石を鷲掴み、一番近くまで接近していた遡行軍の頭に直接殴打して破壊した。でもまだ気が済むことがなく、完全に頭に血が上っていた。人に聞かせないという配慮の一切をかなぐり捨てた砲声のような舌打ちは近くにいた南泉を震え上がらせた。

 後ろにいた打刀の遡行軍の目玉から頭部に刀を突き刺して横に払う。猛然と迫り来る敵短刀に目もくれず握った柄を振り下ろして頼りない骨で出来た体を粉砕し、斬り漏らした手負いは回し蹴りで砕け散る。
 それを横から手持ち無沙汰で見ていた南泉は、敵である遡行軍がだんだん気の毒に思えて縮こまった。見た目に反しすぎて誰かと入れ替わってるのを疑ってしまいそうだった。

「怖ぇっ……刀いらねえじゃん! 近侍って普段あんなだったっけ……?」
「体の大半が足みたいだとは思ってたけど、ああも血の気が多いと手足の長さが遺憾無く発揮されていいね。雅ではないけれど」
「血の気の多さはお前も負けてない気がするぜ……にゃ」
「おや、そうかい?」

 借りてきた猫のようだと思った歌仙は、指を差して言った。

「さて、彼は今鬱憤晴らしをしているから、君はお小夜がいる方に行って討伐数を稼いでくるといい」
「お、おう……」
「この分だと、今日中に十万は集まりそうだ」

 九戦目が終わり、残り一戦。政府が作り出した擬似合戦場は、空模様のグラデーションが青空から黄昏時へ、そして新月の闇夜へと切り替わる。
 歌仙兼定は御歳魂が蓄積する袋の重みを感じながら、敵の首を斬り落とした。


   * * *


 出陣中の本丸にはしんとした静寂に満ちていた。
 誰もいない廊下を進む芙蓉の後ろにはこんのすけが尻尾を揺らしてとことこ着いてくる。松井江がいないうちに、本丸で待機している各々を意図的に内番や遠征に出向かせていた。

 こういう時にしか容易に入れない離れの部屋がある。

 袖にしまい込んだ鍵を南京錠に差し込むと、解析と照合のホログラムが現れる。解錠されるとガチャリと重い音が鳴り、こんのすけと一緒に固い扉を力一杯押し開ける。しばらく誰も立ち入らなかった間に部屋を満たした古い紙の匂いと、外の空気が入り混じり、差し込んだ陽にキラキラと塵が反射している。一足先に踏み込んだこんのすけが小さくくしゃみをした。

 この刀帳が保管された部屋は刀剣男士の立ち入りが許されない唯一の部屋だった。
 基本的な刀剣の情報が記載されている帳面が保管されているが、総代になると現在から過去までの各本丸の刀剣男士が引き起こした事象を閲覧できる。何もせずとも勝手に帳面の情報は更新され、蓄積されていく。壁一面に並ぶ中から一冊を取り出した。『堀川国広』と書かれたその中には、最近の事象が新たに追加で記載されている。

「──山城のお坊ちゃんのところの堀川国広は真面目で自分の使命に忠実だと思ってたんだけど……やっぱりこういうことは誰にでも起こりうることなのね」

 開かれたページには、彼の元主である土方歳三の隣に並び、箱館戦争の兵士としての堀川国広の写真が載っている。
 幕末、新政府軍と相対する旧幕府軍の軍服。肩には誠の赤文字とだんだらのワッペン。あってはならない光景がそこにはあった。 
 椅子に腰掛けると、こんのすけが芙蓉の膝の上に上がり刀帳を覗き込む。

「でも結果的にはなにも問題は起きずに帰ってきたから、よかったですね」
「本当にね。これでもし歴史を改竄したとなれば査問会どころの騒ぎじゃなかったわ……それにこれ、読んでても凄まじい内容よ。新撰組に入った堀川を回収しないまま三年後に跳躍して堀川と合流、そのまま箱館戦争で土方歳三の最期を見届けさせるなんて。堀川国広が離反扱いをされなかったのが奇跡と言っていいけれど、どうもその立役者は山城のお坊ちゃんと和泉守みたいね。心の底から唯一無二の主である土方歳三を救いたかっただろうに」
「三年も野放しなんて大胆ですね……でもでも、それをよく演練の場で話しましたよね。しかも笑顔で」

 芙蓉が本を閉じて困ったようにこんのすけを見下ろした。

「それなのよ。笑いながら話してたけど、聞いてるこっちは気が気じゃなかったわ。一歩間違えたら総代に堀川の処分を命令されてたかもしれないのに。お坊ちゃんといい則宗といい、最近は総代を冷やかすのが流行りなの?」
「そ……そうじゃないと思いますよ?」
「そう?」
「きっとそうです!」

 堀川国広に関する書物を閉じてこんのすけの肉球を堪能する。埃のある場所を歩いたせいか、少し粉っぽい。

「まあでも、本当に何もなくてよかったわ。離反した刀剣男士の末路ってどれもこれもロクなものがないもの」

 自分で顕現させた刀剣男士を審神者が刀解して済むならまだ収まりはいい方だが、仮に離反して他の本丸に侵入した場合が一番悲惨だった。他人が顕現させた刀剣男士を刀解する術は審神者にはない。基本は迎え撃って破壊することに限られる。
 だが程度問題によっては自白させる必要がある。そうなると総代に刀剣男士を生捕にしろと政府より命令が下される。滅多にないことではあるが、それぞれで異なったやり方で保険をかけていた。
 着物の袖に手を添える。芙蓉はそれを常時肌身離さず潜ませていた。使うことがないのが一番だと複雑そうに視線を落とす。離反を起こすような一番の原因は分かりきっているのだ。

「──やっぱり、人が死ななければならない任務に過去の当事者だった刀剣男士は就かせられないわね。過去を見てきたという確実性があるけど……特に自分を使ってくれていた主を失う過去を任せるのはあまりにもむごいし、危険すぎるわ」
「審神者さまはあまり関わりのある時代には向かわせないですよね」
「何かあってからじゃ遅いじゃない」

 肉球を弄る手が止まった。

「私は山城のお坊ちゃんみたいに直接過去に遡れるわけじゃないもの。堀川国広の一件は彼が力を持っていたからこそ間に合ったし、無事でいられたようなものだから。私が同じ目にあったらそうはならないわ」

 同じ審神者でも、刀剣男士と一緒に時間跳躍が可能な審神者もいれば、そうでない審神者もいる。どうしても霊力という先天的な部分で力不足は感じる場面が芙蓉は多い。最前線の本丸は大体百振近い刀剣男士を抱えているが、芙蓉は二十五振に留まっている。目に見える部分でその差は顕著に現れていた。

「最悪本丸の凍結か、せいぜい刀解処分がいいところよ。だから危険はできるだけ避けなきゃ。私は目の前から大事な存在を失わせたりなんかしたくないもの。そうなったら、私は今度こそ立ち直れないわ」

 会話こそあれど、静かな時間が流れていた。
 芙蓉が審神者となった日から一緒にいたこんのすけは、もしかしたら歌仙より一緒にいる時間が長い。
 こんのすけは一緒に過去に遡り戦う刀剣男士の姿も見ているが、過去に遡ることもできず、やるせなさを胸に本丸の執務室で仲間の帰りを待つ芙蓉の気持ちの理解者でもあった。

「……ごめんなさい」
「こんのすけが謝ることじゃないわ。私こそ言いすぎちゃった。ごめんね」

 こんのすけを抱きしめる。いつだってふかふかして温かかい。式神だけど、微かに聞こえる心音が心地よくて大好きだった。静かにぎゅっとされているこんのすけがたまらないが、そろそろ第一部隊が返ってくる頃合いだった。


「……さて、そろそろ出ましょうか。ここにいることが松井に見つかったら拗ねちゃうから。もうじき第一部隊が帰ってくる頃よね?」
「はい! あともう少しで十万に到達ですっ」
「ちなみに全本丸の中で何番目くらい?」
「三本指にはいります〜!」

 尻尾をこれでもかと振って飛び跳ねている。油揚げ以外で飛び跳ねるのを見るのは久々だった。

「上等ね。残った枡は売り捌くわよ」
「どうやってですか?」
「山鳥毛を連れて演練場に行くの」
「昨日はもう二度と行かないってあんなに嫌がっていたじゃないですか!?」
「それとこれとは話が別なのよ。さっき政府から総代全員に通達があってね、おさぼり連中の尻に火をつけてこいって」
「なるほどぉ」
「山鳥毛には悪いけど、顕現早々から広告塔になってもらうわ」

 執務室へと戻る道中にこんのすけが「みなさんが帰ってきました!」と綻ばせる。部隊の中には、七振目の存在もあると。
 山鳥毛を手に入れた第一部隊が帰ってきた。



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