一六三七年の遠雷

子夜の喧騒


「お腹が減って頑張れないわ」

 なんの前触れもない一言だった。隣の机で実務に励んでいた松井江は筆記具を置いてゆっくりと振り向くと、芙蓉はしっかりと松井江の方を向いて言っていた。この執務室にはこの二人以外いない。

「厨にある長芋に醤油と鰹節かけたやつ食べたい」

 ──ああ、酒か。
 松井江は、そろばんを一旦机の脇に除け、無言ですっと右手を差し出す。握り拳を作っている。

「いいよ。じゃんけんで負けた方が作りに行くというのはどうかな?」


   * * *


 深夜の厨。松井江は黙々と長芋を取り出してとろ火で髭を焼き切っていた。
 結果を言えば、ストレートに負けた。

「じゃんけんってね、大体最初に挑んできた方が負けるのよ」

 勝ち誇ったようにチョキをひけらかして言う芙蓉に対して「そんな馬鹿な」と思いながらパチパチと音を立てて焼けて消える髭を眺めていた。どうにもくだらないことなのに、なんか釈然としない。別に難しい要求をされているわけじゃないからいいか、と手に持った料理包丁で剥き終えた長芋を適当に角切りにして器に盛る。この際だから、自分の分も作ってしまえともう一つ器を取り出して同様に盛った。芙蓉は一人で飲むより二人で飲む方が好きだから、器が二つあるのを見ただけできっと喜ぶ。
 この間にも、少しやる気を出した芙蓉は猛スピードで書類を片付けて酒を取り出しているに違いない。「頑張れない」と言っていたが、こういう現金なところがある。そういった小さなやる気を見逃さないのも、ある意味近侍の務めでもあった。
 しかし棚から出汁醤油と鰹節を手に取った時に、背後から猛烈に視線を感じる。隠そうともしないこのあからさまな気配には覚えがあった。

 そろりと後ろを見ると、隠れることもなく口をへの字に曲げた包丁藤四郎が厨を覗いていた。目元は赤く腫れている。さっき終わった連隊戦の編成発表で派手に泣き喚いたせいなのは、もう言うまでもない。解散する前に芙蓉が包丁を執務室に来るようにと骨喰にことづけていたが、結局来ずのままだった。
「きっと疲れて寝ちゃったのよ」と仕方がないように言っていた芙蓉の予想は大きく外れ、解散後も兄弟喧嘩は勃発していたのだ。きっとこっぴどく薬研にやられたんだろう。ヨレた襟が明らかに掴みあったと物語っている。何より今までないほど本人が拗ねている。

 どうせならとそのまま手招きをすると、案外素直に包丁は小さい足取りで厨に入ってくる。さっき作った長芋の角切りを箸で一つ摘んで包丁の手のひらに置くと、何も言わずにぱくりと食べた。シャクシャクと長芋を無言で咀嚼する音が静かな厨によく響く。ごくんと飲み込むと、包丁は下から松井江をじっと見つめている。どうにもこうにも無言だったが、目は口ほどに物を言う。包丁の目は「俺を構え」と言っている。
 松井江は内心「どうしよう」と心の中で困りながら腕を組んでいた。自分から手招きをしたものの、刀剣男士とはいえこうして拗ねる小さい子の対処なんて松井江は知らない。

「……もっと食べる?」

 恐る恐る聞いてみると、こくりと頷いた。てっきり「長芋よりお菓子ちょうだい」と要求されるものだと思っていたから少し安心して「はい」と自分用の器を差し出した。相当お腹を空かしていたらしい。包丁はあっという間に松井江の分の皿を空にした。なんとなく、餌付けをしている気分だった。
 時刻はもうすぐ日付を超えそうになっていた。包丁には執務室に来るようにと言っていたが、時間が時間だから今日はやめるつもりでいた。

「僕は執務室に戻るけど、包丁は部屋に戻れそう?」

 一応聞くだけ聞いてみたが、聞いた瞬間、包丁は松井江のジャージの裾を握り締めた。何も言わない。部屋に戻るという選択肢は、今の包丁にとって不都合なのだ。頑として譲らない姿勢の包丁を見て、今この場にタイミングよく一期一振か豊前江が現れてくれないかと心の中で助けを求め始めてきた。

「えっと……一緒に執務室に行こうか」

 ──もっといい言い方があっただろう。これじゃあ連行するみたいだ。
 だが松井江の思いに反して包丁はすぐに頷いた。少し表情も明るい。晩酌気分であろう芙蓉がびっくりする様を思い浮かべながら、松井江は包丁を連れて執務室へ向かうのだった。


 同じ頃、執務室にノックの音が響いた。予想より随分早く肴を持ってきたなと思いながら顔を上げる。

「松井早いわね……」

 言いかけたところで言葉が途切れた。呆れたように頬杖をついて、来訪者を迎え入れる。

「……どうやら臣下にあるまじき行為があったみたいね。薬研」
「必要なことだ。大目に見てくれ」

 白衣は着ていない。顔はたくさん引っ掻かれ、黒いシャツのボタンは数個弾け飛んで糸が垂れている男前な姿になっていた。

「服はこの有様だが、眼鏡が無事だったのはありがたい」

 薬研はソファーに座った。こういう瞬間、彼も短刀であることに間違いないと芙蓉は思う。包丁みたいに直球で甘えさせてほしいとやってくるより、こうして「俺の話を聞いてくれ」とたまに突然やってくる。

「まあ兄弟間でのいざこざだし、私からわざわざ口出しするつもりはないわ」
「俺が包丁に厳しすぎるって?」
「なにも言ってないわよ」
「大将を見てたらわかるさ。さっきだって包丁をここに呼ぼうとしてただろ?」
「わかってたら喧嘩なんてしなくてもよかったじゃない」
「あんな雑魚に重傷を負わされてるんだ。弱ければ簡単に犬死する世界だからそういうわけにもいかないだろ。なにより粟田口の名が泣く」
「余計な言葉が多いわよ。心配なら心配だって言いなさい」

 芙蓉が大きく溜め息をついた。戸棚を開けて、小箱を包んでいる風呂敷を薬研の目の前のテーブルに置くと、薬研は見上げて言った。

「大将、これは?」
「大福よ。包丁にあげるつもりだったの。これで包丁と仲直りしなさいな。主命よ」
「いや、こういうのは大将から渡してくれ」
「よく聞こえなかったわ」
「受け取れない。大将から渡した方が包丁も喜ぶ」
「薬研は私にいい役しかさせようとしないのね」
「兄弟は大事だが、甘やかすようなことはしたくない」
「たまにはいいと思うけど?」
「俺がやっても包丁はよくないと思うぞ」

 主命とは言ったものの、ここまで言われるとなんだか気が引けてきた。芙蓉は二度目の溜め息をついて風呂敷を執務机の上に戻した。

「……わかったわ。これは明日私から包丁に渡すから、貴方も早く寝なさい。先発なんだから」
「ああ、邪魔してすまなかった……、?」

 じっと何かを探るように執務室の扉を見ている。すると扉とは真逆の方に回れ右をして芙蓉の執務机の方に向かっていく。

「どうしたの薬研」
「すまん大将、もうちっとばかし邪魔をするぞ」
「え? ちょっとちょっと、どうして私の机の下に潜ってるの?」
「いいから」

 それだけ言うと机の下に隠れた薬研の気配が完全に断たれた。そっと覗くとやっぱりいるが、手振りであっち行けと追い返されてしまった。仕方がないから隠れんぼで匿うように書類を片付けると、執務室の扉が開いた。
 なるほど、薬研が隠れたのはそういうことかと芙蓉は理解した。

「おかえりなさい。可愛いのを引っ付けてるじゃない」
「厨でちょっとね」

 薬研に負けず劣らずボロボロの包丁を連れた松井江は苦笑う。前に万屋へ着いて行くと自分で名乗り上げた時とは違い、きっと拗ねてご機嫌斜めな包丁を前に、背に冷や汗を垂らしたのだ。座るように促すと素直に芙蓉の隣へ包丁はやってきた。

 松井江はおつまみの乗った盆を執務机の上に置き、自身の添え机に途中で置いてきた書類の整理をすると、執務机の下の存在とはたと目があった。口に人差し指を添えるボロボロの薬研だった。特に驚きもせず、見なかったように添え机の上を片付けを続けた。横目で包丁の様子を見るが、薬研には気づいていないようだった。

「目が真っ赤ね」

 芙蓉が包丁にかけた率直な言葉だった。乾燥した涙の跡をなぞると、包丁はムスッとした顔で頭の位置をずらす。頬にあった芙蓉の手は、包丁の頭の上に乗せられていた。包丁の静かな主張を遠越しに見ていた松井江は吹き出している。

「笑うなんてひどい近侍」
「フフ……いやすまない」

 全く悪いと思っていない松井江を、悪巧みした顔でじっと見つめる。しまったと気づいた時にはもう遅く、楽しそうに笑いながら芙蓉は包丁に向きなおった。

「知ってる? 松井ってあんな澄ました顔してても、顕現したての頃は今の包丁みたいに同田貫からすごく扱かれてたのよ」

 今から数年前、新人の立場で近侍をやりたいと申し出た松井江は練度上げのために部隊長として出陣を繰り返していた。しかし毎日出陣から帰ると決まって頭に血を登らせていたのだ。部隊の中にいたのは同田貫正国。明け透けに正論を口にする剛直さはあれど、同じく我が強い松井江とは反りが合わないようだった。

「『絶対ブチのめしてやる。アイツの兜ごと薄切りにして僕の刀生の敷石にしてやらなきゃ気が済まない』ってすっごくキレまくってて。それに比べると今の包丁、すごく可愛いわ」

 包丁も薬研も、それは初耳だった。兄弟揃って嘘だろと言いたげな目で松井江を見ている。

「主……そういうことを吹聴しないでくれるかな?」
「笑う方が悪いの」

 振り返らずに言い切る。包丁の頭を撫でるのを止めて、乱れたままだった髪と服を整えた。

「はい綺麗になった」
「……ありがと」

 耳を澄まさないと聞こえないほどの大きさだが、ようやく声を聞けた。吊り上がっていた眉は下がっていて、少し落ち着きを取り戻していた。

「包丁、今は薬研に突っつき回されて本当にきついと思うけど、そういう時は鍛練頑張ったからご褒美ちょうだいって前田や信濃や一期を巻き込んで強めに薬研におねだりするのよ。自分が頑張れるように頑張ればいいわ」
「頑張れるように……?」
「みんな出陣で誉を取った分のご褒美を貰うでしょう? 包丁の場合は……そうねえ。お菓子を買ってもらうとか、奢ってもらうとか。どう?」
「薬研兄に……? ムリだよそんなの」

 完全に弱気だった。目の端にまた涙が見える。ここ数日間、薬研と前田が付きっ切りで連続の昼夜問わない鍛練と連隊戦の編成でだいぶ堪えているのは目に明らかだった。包丁は口答えは多いが、それは自分に自信がある現れだ。当然重傷を負った時に反省はしたんだろうが、薬研との鍛練はかなり自尊心を摩耗するものだったのだろう。

「頼られて嫌な兄なんてこの本丸にはいないわ。心配する薬研に応えて包丁が頑張ってるなら、薬研もそれに応えてあげなきゃ。ねえ?」

 芙蓉は松井江を見て言う。さらに松井江は、視線を下げて返した。

「フ、そうだねぇ?」

 何かに言い聞かせるように笑い合う芙蓉と松井江を見て、包丁は疑問符を浮かべる。机下の薬研は松井江に「やられた」と手のひらを見せて笑った。「厳しくするだけじゃなく包丁のやる気を出させるようにも頑張れ」と遠回しに言われているのだ。

「とは言っても、明日から連隊戦だからすぐには無理よ。だからこれは今日までの頑張りのご褒美」

 さっき薬研に差し出した風呂敷の包みだった。「たかそー!」と中を覗いて、大福であることに頬を高揚させてはしゃぎ出した。

「本当に食べていいの!?」
「ご褒美って言ったでしょう?」
「主〜!」

 水を得た魚のように目を輝かせている。今にも脇目も振らずつま先立ちでくるくると踊り出しそうな包丁に、芙蓉がこそこそと何かを耳打ちすると、包丁は大きく頷いた。

「……わかった!」
「じゃあもう寝なさい。一期達が寝ずに待ってるだろうから」

 意気揚々と包丁は大福の入った風呂敷を両手に抱えて執務室を後にした。見送った芙蓉は、執務机に向かって笑いかける。

「ということで薬研、よろしくお願いね。いい機会だから、山鳥毛を受け取ったら包丁も一緒に丸一日非番よ」
「ありがたいが、そこまでしなくていい」
「薬研も大概意固地ね。そもそも貴方働きすぎだから一週間にしてもいいと思ってるわ」

 机の下から出て来た薬研はばつが悪そうにお手上げだと笑った。

「……わかった。わかったから、そんな怒った目で見るな。だがな大将、目の下にクマをこさえた状態で働き過ぎって言ってもまるで説得力がないぞ」

 芙蓉の輪郭に黒い手が沿う。両手でがっちり掴まれてグイっと薬研の顔が近づいた。透き通るような薄紫の瞳にまごついた芙蓉の顔が映っている。目の下を見ているから、絶妙に目が合いそうで合わない。

「大体いつ休んでるんだ? それに寝るのがいつも遅すぎる」
「なんでそんなことまで知ってるの?」

 頬にある両手を緩く掴んで下ろす。

「執務室はわりとどこからでも見えるんだ。大将も早く寝ろよ」

 そう言って薬研はさっさと帰って行った。

「……松井、どうして近侍に薬研を連れてくる女性の審神者をよく見るのかなんとなくわかったわ」

 近侍に連れてくる刀剣男士は十人十色ではあるが、それでもやはり薬研を見かける確率は男女関係なく高い。あのしっかりとした土台のある気質は、審神者にとって安心するのだろう。
 さっきから、松井江はずっと黙っている。声が聞こえない代わりに、シャクシャクと歯切れのいい音がさっきから鳴っていた。

「ねえ聞いてる?」

 振り向いて芙蓉は目をぱちくりと瞬いた。真顔で、それに無言で盆の上にあった器を持っていて、皮膚の薄い頬が動いている。「ああ!」と声を上げて松井江に掴みかかる勢いで駆け寄った。

「それ私のおつまみ……!」
「僕が作ったから、僕が食べてるだけだよ」
「私がじゃんけんで勝ってた!」
「最初に挑んだ方が負けるんだったね。僕がじゃんけんを持ち出すより前にこの話を最初に持ち出した主の負けって解釈もできるよ」
「とんだ屁理屈よそれ! 楽しみにしてたのに! 松井のバカ!」
「眠いのかな? いつもの言葉のキレはどこに行ったんだい?」

 いくら罵倒をしようが、センスのない背景音楽だと言わんばかりの受け流しようだった。つまらない顔をした松井江に長芋を全部食べられて、その日の騒がしい執務室は松井江を置き去りにして強制的に消灯された。



- ナノ -