一六三七年の遠雷

一六三七年の遠雷


「よっ! 備前の総代。ここに来るなんて珍しいじゃないか」

 久々に演練の様子を見に来た日のことだった。
 芙蓉の隣には軽く会釈をする松井江。そして芙蓉の後ろで驚かせた瞬間で時間が止まったように静止する男。頭のてっぺんからつま先まで鶴の色彩で統一された白装束。備前の本丸にはいない、太刀の刀剣男士。

「鶴丸国永……後ろから話しかけるのはやめてと言ったはずよ」

 背後に立つ鶴丸に、振り向きもせずに答える。こうして会えば何度と同じように話しかけてくる。普通に話しかけて来たらいいものを、変化のないものを嫌う鶴丸だが、芙蓉に対してはそれを崩さずに接していた。

「そう言わないでくれよ。今まさに第一部隊が演練に出てるから俺が手持ち無沙汰なんだ」
「人で退屈しのぎしないで。貴方は確か第二部隊だったはずでしょう? 今日は近侍なの?」

 彼は芙蓉とよく連絡を取る山城国の審神者を主に持つ刀剣男士だ。いつもは和泉守兼定が率いる第二部隊と一緒に行動をしているはずが、今は一人歩きの状態にある。山城の審神者の姿も見えないが、恐らく近くにいるはずだった。

「ああ。たまには近侍をするのもいいだろう?」
「貴方を近侍にするなんて世も末ねぇ」
「はは、辛口評価だな」
「こうして主の側から離れてお喋りに興じてるんだもの。そりゃそうなるでしょう?」
「ごもっともだな。まあ、俺の主はそう口うるさくは言わんさ」
「ふーん……うるさくて悪かったわね。ところでビンタでもして鼻血を出せばもっと鶴らしくなると思うんだけど、どうかしら」

 ようやく芙蓉が振り向いたが、その目つきを見て鶴丸は表情を引き攣らせる。基本男所帯の本丸での生活をする刀剣男士にとって、女の表情ひとつは喜びであっても怒りであっても絶大な衝撃と威力を発揮する。鶴丸を見る芙蓉の目は、機嫌が悪いと明け透けに訴えていた。

「……きょ、今日は虫の居所が悪いな。なんかあったのか?」
「今日は、ですって? 今日も、の間違いでしょう? 貴方がいるからよ」
「あっはは……いや、その節は本当にすまなかった」

 隣で口を挟まず聞くことに徹していた松井江もこれには苦く笑う。無理もないと。
 以前山城の審神者と演練場で談笑をしていた芙蓉は、鶴丸によって背後から驚かされたのだ。些細な悪戯だが、公衆の面前で只事とは思えない事件性のある悲鳴を上げてしまったのだ。誰もが振り向き、遡行軍が現れたと勘違いして抜刀した刀剣男士や、演練場の職員が駆けつけるほどの醜態を他本丸の審神者や刀剣男士がいる中で晒してしまい、今の鶴丸への態度が出来上がってしまった。その場には、同じく抜刀しかけた松井江もいた。
 顔を真っ青にして何度も謝った山城の審神者とは今も交流は続いてはいるものの、そこから芙蓉が演練場に姿を現すのが稀となる原因になった。

「こりゃ参った。松井江、お前からもそろそろ俺への当たりを弱めるように進言してくれないか?」
「私の近侍に指図しないで。ほら、山城のお坊ちゃんが探してるじゃない。早く帰りなさいってば」
「そういうことらしい。じゃあね鶴丸さん」

 松井江は眉を下げて笑いながらひらひらと手を振る。「ここは素直に退け」と言いたげだった。

「おい! 冷たいぞ松井江!」
「助け舟と言って欲しいなぁ」

 備前の二人は何と言われようがどこ吹く風。芙蓉にグイグイと背中を押された先には、演練を終えて鶴丸を探す山城の審神者と第一部隊の面々がいた。
 鶴丸と入れ違うように山城の審神者は芙蓉へ挨拶をしに来る。少し背が伸びたんじゃないかとか、当たり障りなのない話から始まり、そしていつものように声を潜めて話し出すのだ。松井江をその話には入れない。審神者間での情報共有には刀剣男士が入る余地などなく、芙蓉と山城審神者が少し離れたところに並んで話す姿を眺めるだけの時間だった。

 ──そんな中で出会ったのだ。
 松井江の隣に悠然と一人の男が立っていた。

 気配も何もなかったので突然現れたその存在を松井江は思わず凝視したが、男は気にせず真っ直ぐに何かを見ていた。
 ふわふわとした金色の毛先は奔放さを表しているようにも見える。片目を隠していて、何を考えているのかは傍から見てもわからない。全く敵意を感じないことしかその場ではわからなかった。どうにも機嫌がいいらしい。鼻歌を歌っているのだろうか。少しだけ間延びした、抑揚のない、言ってしまえば古臭い音程を声に乗せていた。
 服装から明らかに演練で戦いに来たようには見えない。つっかけを履いていて、内番服の装いに近い。二本指抜きのグローブを装着した手は、どうしたものかと顎を撫でている。

「──やれやれ、珍しく演練場に来ているというから重い腰を上げて来てみれば、あちこちから引っ張りダコじゃないか。ああも引く手数多だと、目が離せん近侍はさぞ大変だろうよ。なあ?」

 名指しをされている気分だった。さっきは見えなかった灰がかった薄水色の右目は、しっかりと松井江を映している。

「貴方は……?」

 帯刀をしていない。刀の代わりに鮮やかな赤い地紙が覗く黒塗りの扇子を持ち、背に菊の意匠が入った羽織を纏ったこの男は、隠しようがなくまごうことなき刀剣男士だ。松井江には確信があった。

「なぁに、隠居のじじぃさ」

 どうということはないと答えた男に、不審な目を寄越す。納得とは程遠い。鶴丸と違い、なぜこの演練場に、主がいるようにも見えないのに出歩いているのか全く見当もつかない。

「僕の主に用があるように見えるけれど……」
「……いや、あったがやめておこう。審神者として成長したとわかればそれでいい」

 全然、意味がわからなかった。わからないが、男は満足げに開いていた扇子を閉じた。その瞬間、なにかに導かれたようなタイミングで芙蓉が振り向いた。
 バチッと、明らかに何かと目が合った。松井江の方を向いているが、目が合ったのは松井江ではない。松井江の隣にいる、この隠居のじじいを自称するおちゃらけた男だとわかった。その証拠に、山城の審神者にひとつ挨拶をした後、血相を変えて甲高い足音と共に駆け寄って来る。
 ──今日はよく怒る日だな。
 そう思う松井江と男の間に芙蓉は割って入った。松井江を庇うようにして男を睨み上げている。知己というわけでもないらしい。

「ちょっと、貴方ここで何をしているの? 松井に変なこと吹き込まないで」

 いきなりの非友好的な言動にも関わらず、隠居の男は笑って返してみせた。

「なんだなんだ、久しぶりに会ったというのに捲し立てるような怒声じゃないか」
「まさかこんなところにのこのこ現れるなんて思わなかった……! 松井、何を話してたの?」

 怒っているようにも見えるが、焦っているようにも見える。男に向けた剣幕のまま問われて、松井江も戸惑いを隠せずにいた。

「えっと……僕は彼が主が成長したな、と言ってたのを聞いただけだよ」
「坊主。正直なのはいいが、そこは「いい女になった」と言い換えておくもんだぞ」
「ぼ、坊主……?」

 松井江が驚愕する。正体不明の初対面の男に、突然坊主呼ばわりをされたのだ。だが男は松井江の様子を見ては、当たり前だろうという姿勢を崩さなかった。

「僕からしてみれば、お前さんは坊主同然だからな? うっははは」

 冗談なのかどうなのかもわからない松井江の横で、芙蓉は慣れたように答えた。

「笑ってないで、用がないなら帰りなさい。どうしてこうも白いのは徘徊したがるのかしら」
「じじぃだからな」
「じじいと言えばなんでも許されると思わないで」

 先ほどの鶴丸と同じように背中を押そうとすると、手を掴まれた。フリだろうと思ったが、思ったよりしっかり掴まれていることに気づいて芙蓉は不快感を露わにした。見下ろす男の右眼はにこやかに笑っている。だが悪漢のように醜悪なものではない。それどころか、久々に会う親戚の子を見るようだった。

「何……? 気安いわよ」
「そう釣れないことを言わさんな。坊主、すまんがお前さんの主を少し借りるぞ」
「あっ、なんで松井に言うのよ! ちょっと!」

 芙蓉の手を掴んだままズンズンと男は人気のないところへと歩いていく。

「こうして手を繋ぐとお前さんが子どもの頃を思い出すなあ! ほれこっちだ」
「えっ……?」

 聞き逃せない一言が飛び出てきた。散歩を拒否する犬のように、引きずられる形になっている芙蓉はさらに眉間のシワを濃くしている。

「勝手に思い出に浸らないで。思い出したくもない……」

 この男のでまかせの言葉ではないと証明しているようなものだった。やがて芙蓉は諦めたように男についていくのを、松井江は「待て」の引き止める一言すらも言えないほど呆然と立ち尽くして見ていた。

「……子どもの、頃……?」

 ──そんなことを、どうして本丸外の奴が知っているんだ。
 真水に墨滴を垂らされた気分だった。いつも隣にいるはずなのに、突然黒い水の中を手探りにされるこの感じが、たまらなく嫌いだった。
 ──僕はこんなに卑しい性格だったか? 主は元々顔が利くし広いじゃないか。
 突然湧き上がった黒い淀みを抑え込むように理性に働きかけるが、それでもあの男の芙蓉を見る目がとてつもなく気になった。松井江が顕現するよりもはるか昔から知っているような。あれは、見守るような、歌仙が芙蓉を見る目に近い。
 そう考えると、以前芙蓉が言っていた本丸の中では誰も知り得ないことを知っていると言っていた人物がチラついた。

『本丸の中では誰も。歌仙も知らないわ……でも政府にいる人で一人、いるわね。ただ松井と会うことは多分ないと思う』
『ちょっと、貴方ここで何をしているの? 松井に変なこと吹き込まないで』
『まさかこんなところにのこのこ現れるなんて思わなかった……!』
『勝手に思い出に浸らないで。思い出したくもない……』

 耳朶に蘇った言葉の数々に額を押さえて項垂れる。

「絶対あいつのことじゃないか……」

 芙蓉と男が向かった先を見るがもう姿が見えない。
 どうしてこう手を伸ばさないといけない時に何もできないのか。行き場のない憤りが脳内で暴れ回って仕方がなかった。このやり場のない感情をどうにか発散したいが、本丸に帰っても都合よく出陣できるわけでもない。
 こんなやきもきした気持ちを抱えたまま、机に向かって仕事の続きをするのだ。桑名あたりに付き合わせて手合わせで発散しようかと考えたが、今本丸の道場は粟田口兄弟達が包丁のために占拠されている。仮に入り込んだとしても変な目で見られるのは本意ではない。なら連隊戦の編成にも組み込んでもらう。芙蓉には一体どうしたのだと思われるだろうが、最早関係なかった。
 今まさに演練で思う存分刀を振るっている仲間達を心底羨ましいと思いながら、松井江は芙蓉の帰りを待つのだった。


   * * *


「小娘ぇ、刀剣男士と言えど手の甲を爪で強く抓られると痛いんだぞ?」
「さっさと手を離さないからよ。戦線から離れてるからといって一文字則宗とあろうものが抓られたくらいで目に涙を浮かばせるなんて、ちょっと弛みすぎなんじゃないの?」

 一文字則宗。一文字の祖と言われ、刀として授かった名前。
 政府の管轄下に置かれるこの刀剣男士は、どこの本丸にも属さない。監査官として、時に各本丸を評定する立場であった。

「それで、監査官様が一体私に何の用なの?」

 手にわざとらしく息を吹きかけ、恨めしそうにする則宗に芙蓉は話を促すと、則宗は背を屈めて密やかに言った。

「近くお前さんに政府から直々に使命が下される。心の準備をしておけ」
「政府から…? 何を言っ……」

 口元に扇子の先が当てられた。迂闊に喋るなと、一文字則宗は芙蓉を制した。

「無用心だぞ小娘。そら、喋るなら袖でも何でもいいから口元を隠せ」

 演練場とはいえ、政府の管轄区域であることも、どこで誰が聞いているかわからないのも事実だった。芙蓉は素直に従い、袖を口元に当てて静かに問い質した。

「じゃあこんな所で話すなって言いたいところだけど……貴方、なんでそんなことを知ってるの」
「僕は政府の刀剣男士だぞ? 隠居の身とは言え、刀剣男士を持て余すほどの余裕はないってことさ」
「誰に言われてきたの」
「それは言えない。だがその時になればわかる。それまで待て」
「信用ならないわ」
「まあ待て、僕は予告をしに来ただけだからな。伏せるところは伏せねばならん」
「内容については?」
「それも言えない」

 平行線にしかならない返しの応酬に芙蓉は息を短く吐き捨てた。

「冷やかし? 貴方は井戸端会議をしに来たの? 隠居って自称するだけあるのね」
「その減らず口を許せるのは、政府の中では僕くらいなものだ。じじぃだからな」
「くそじじい」
「うはは、もっと言っていいぞ。ゾクゾクしてきた」
「もう二度と言わない」

 被せるように即答した。目も合わせようとしない。本当に機嫌を損ねられたら困るので、則宗は咳払いをして場の空気をリセットした。

「……まあ、とりあえずだ。何が起こるかわからん。今より充分に戦力の増強を図れ。僕がお前さんに言えるのはここまでだ」
「戦力の増強……? 攻勢ってこと? どうして……うちより戦力が潤沢な本丸なんていくらでもあるはずよ。てっきり偵察任務かと思ってた」

 決して自身の本丸の練度を過小評価はしないが、全本丸の戦力を見れば芙蓉の本丸は最前線に立つような戦力は有していない。審神者の霊力の強さが一番顕著に出る部分だった。練度にもよるが、遡行軍が数で勝っているのに対し、折れない限り回復できる刀剣男士と回復役になる審神者が疲れない限り継戦能力は際限ない。遡行軍が殺到し激戦とされる時代へと送られる。霊力が平凡な芙蓉は刀剣達の練度上げ、遠征ができない最前線本丸への資材の融通、偵察任務に徹してきていた。

「言えん。だが大掛かりな面倒ごとが水面下で起きているし、その白羽の矢がお前さんに立っている。こう言うのもなんだが、小娘が評価されてるのは、何もあの頭でっかち共の折衝や書類弄りだけではないからな」
「……明日から始まる連隊戦で半数以上の本丸は過去への出陣を控えるわ。その間になにかしようとしてるのね。この前の会議は随分早く終わったけど、いつも出席してるうるさ型の人がいなかった理由はそういうこと?」
「察しが良すぎるのがお前さんの利点でもあり欠点でもある。政府の謀を無闇に突くのはやめておけ。さっきも言っただろう。今のうちに戦力を万全なものにしろ。それだけだ」

 長いこと政府の内側から内情を見て来た「やめておけ」と釘を刺す則宗の言葉には説得力があった。

「……ふざけてる感じには見えないから、一応頭の隅に置いておくわ」
「それでこそ小娘だ。小気味いい疑り深さをしているが、信じてくれて嬉しいぞ?」

 則宗が頭を撫でようとする手をサッと避けた。

「ムカつく」
「そういうところが小娘なんだ。どこぞの愛されたい打刀と一緒だな」
「清光に随分ご執心ね」
「あれはいい。伸び代がある」
「あっそ」
「お前さんにも言えることだぞ? 政府が連隊戦という場を用意したのだ。お前さんにとって好機だ。存分に戦え。頭数が少ないのなら、尚更だろう?」
「人の本丸の戦績を覗いたの!?」
「減るもんじゃないし、別にいいだろう?」
「……じじいでストーカーとか最低。人の本丸を勝手に覗くなんて変態よ」
「僕が直接小娘の本丸に行ってもいいんだがな」

 それを聞いた芙蓉の顔は一気に歪んだ。ある決意が固まった。

「絶っ対に連隊戦頑張るわ」
「うっははは! それでいい。連隊戦の報酬はうちのせがれだからな。せいぜい頑張れ。じゃあな」

 言うだけ言って行ってしまった。だが、則宗が心配をしているのだという心遣いはどうしてもわかる。ああして総代の審神者にちょっかいを出す様子はたまに見かけていた。そしてその審神者は、後に政府からの使命という名の無理難題を押し付けられるのも芙蓉は見てきた。

 則宗はああ見えて、元々は芙蓉が審神者になるずっと前から別の本丸で遡行軍と戦ってきた歴戦の刀剣男士だった。
 近侍として数多くの刀剣達をまとめ上げてきたらしい。時の政府の黎明期から活躍した審神者は神職の者であったが、元々高齢なこともあり身体を壊したのだ。本人の意向で他の審神者に継承をされることもなく本丸は解体された。だが一文字則宗という存在感とその指揮能力の実績を惜しんだ政府によって刀解を免除され、経緯は芙蓉の知るところではないが政府のお抱えとなった。
 刀剣男士になっても、主を失う経験をしているのである。政府からすれば使い勝手は悪いように見えるが、自分の感情を昇華することに関して則宗は上手かった。あっちにフラフラこっちにフラフラしているようで、いつも本質を突いて物事を解決し公正に評価をつけている。それを知っている政府の役人は別にどちらか不利になるようなことはしないとわかっているので野放しが許されているような状態だった。

「……連隊戦の編成、見直さないとまずいわね」

 芙蓉は足早に松井江の元へと帰って行った。
 ──が、帰ってきたはいいものの、すこぶる機嫌が悪い松井江が長椅子に鎮座していた。
 急いで本丸に帰る必要はあったけれど、まずはこのご機嫌斜めの松井江と向き合わなければならない。理由は明白だった。則宗の存在だ。やっぱり演練場になんて来るんじゃなかったと後悔した。
 鶴丸といい則宗といい、人を疲れさせる天才にこうも立て続けに相手をしていたのだ。しかも変な冷やかしまで受けた。この上帰っても実務に連隊戦の再編まで積み重なる。演練場に来ただけなのに、ドッとカロリーの高い仕事が増えたのだ。松井江には悪いが、あとでいくらでも話を聞いてやろうという気持ちだった。長椅子から立ち上がりヒールを鳴らして歩いてくる、今にも質問攻めをしてきそうな松井江の両腕を掴んだ。

「松井」
「……なんだい?」

 やはり声は不機嫌そのものだったが、一人で帰って来たことに安堵しているようにも見えた。

「そこ座って」

 芙蓉は松井江を押し戻すように長椅子へ再び座らせた。意図がつかめない行動に、松井江は冷静さを取り戻しつつあった。

「うん……?」
「じじいの話し相手するのは骨が折れたの」

 松井江は何が始まるんだと思っていた。芙蓉は抑揚のない声でそれだけ言うと、しばらく松井江の目をじっと見つめた。なにか思い至ったのか少し間を開けて隣に座り、パタリと身体を横倒しにした。頭を膝に預けている。流れる動作に松井江はなす術もなかった。

「……えっと、これは……?」
「少しこのままにさせて」
「ええ……?」

 反論の余地も与えず、芙蓉は勝手に目を閉じた。完全に枕扱いになり、もうしばらくは動けなくなってしまった。通りすがりの他本丸の刀剣男士が好奇の目、羨望の目、怪訝な目で見ている。目線も両手も迷子になっていた。
 ──豊前ってこういう時、とりあえず手をどこに置いてたっけ……?
 篭手切江や桑名江が豊前江の膝を借りている光景を思い出そうとするが、実際自分が同時に腕を借りていることに気づいた。宙を彷徨う行き場のない両手で、とりあえず身体を冷やさないように丈の長いブレザーをそろりと脱いで芙蓉に掛ける。しばらくすると寝息だけが聞こえる静かな時間となった。演練が終わるまであと二戦。


「お、いたいた。松井ー、演練終わったぞ」
「ああ豊前、お疲れ」

 上着を脱いだ豊前江だった。第三部隊を率いている彼は松井江の膝で緑のブレザーを被さってうずくまる物体に注目ながら近づくと、意外そうに目を丸くする。

「お、おお……? 主は何してんだ? 膝枕……で寝る側か?」

 松井江を見る。何が何だかよくわかっていないのは、松井江も同じだった。

「……突然座らされたと思ったら疲れたって言って、おやすみ三秒だった」
「なんだそりゃ。起こすか?」
「いや、機嫌悪かったからもうしばらくだけ寝かせるよ」
「……赤子か?」
「僕は甲斐甲斐しいと自称していいと思う」
「ほぉーお……?」
「? どうした豊前」

 豊前江は松井江と芙蓉の顔を交互に確かめるように見て言った。

「松井、ひとつ聞いていいか?」
「ん? なんだい」
「主を口説いたっつーのは本当か?」
「くどっ、え……?」

 気を許した豊前江からのまさかの問いに顔が引き攣る。何がどうしたらそうなるのかと思ったが、今のこの状況で弁解できるような言葉を考えるも、打破できるような言葉は全く浮かんでこなかった。だが、豊前江はうん、と一人納得したように頷く。

「その様子だと違うな。やっぱ噂は噂ってこった」
「……噂?」
「気にすんなって。この前朝帰りした時に包丁や信濃あたりの短刀達があれこれ言ってたからよ」

 包丁はどうしてこうも話題に事欠かないのだろうかと、本日何度目かの溜息が出た。

「……丁度手合わせしたいなと思ってたんだ。いい理由がなくて連隊戦まで我慢しようと思ってたけど、よかったよ」
「あいつ今薬研達に随分しごかれてた気がすっけど……ま、しゃーねえな。こうして駄弁って暇潰すのもなんだし、皆呼ぶか」
「フ、そうしよう」

 半刻後、演練を終えた刀剣男士達六振と松井江に寝顔を覗き込まれながら芙蓉は飛び起きたのだった。



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