高句麗の夜は、春と言えど寒い。そんな中、小野妹子は一人足早に歩いていた。
向かうは遼東城にある地下室。摂政皇太子、つまり聖徳太子のいる部屋。
本当なら向かいたくないが、きっと今を逃したら聞けないのではないかと頭に過ぎり、こんな夜も暗くなった時間に足を進める。
ふと、こんな時間に聖徳太子のいる場所へ訪れても大丈夫なのかと、不安に駆られた。仮にも皇太子だ。失礼に当たったら、首が飛びかねない。
しかし、何処かであの人なら大丈夫だと思っている節もあるのは本当の事だ。もし寝ていたら諦めよう。そう結論付けて、地下へと進んだ。



「やあ、妹子。こんな時間に来るなんて、礼儀がなってないんじゃないか?」

聖徳太子のいる地下へと足を踏み入れた瞬間、言葉が聞こえた。妹子のいる場所からは、聖徳太子は見えない。
聡耳か。何でも知っている。

「こんな夜更けに申し訳ありません。失礼なのは重々承知です。しかし」

「聞きたい事があるんだろう?」

聖徳太子の前に進み、まだ部屋に入らず膝を着く。
常識外れな時間に来ているのに加え、相手は一応皇太子。これ以上の無礼はまずいだろう。そう思い、非礼を詫び、来た目的を言おうとしたら、聖徳太子に遮られ、その上目的を先に言われた。
思わず顔を上げると、聖徳太子は楽しそうに、意地の悪い顔で笑っている。

「そろそろ来る頃だと思っていたんだよ」

「・・・お見通しですか」

その言葉に、聖徳太子はニィ、と口端を持ち上げて笑った。気の所為だろうか、それは少し自嘲を滲ませた、歪んだ笑みに見えた。

「入れ、妹子。お前の質問に答えよう」

妹子は従い、静かに聖徳太子のいる部屋へと入った。部屋と言っても地下牢だ。地上では戦闘に明け暮れている。静かな場所と言えば、地下しかない。
しかし、妹子にとって此処は何も聞こえない静かな場所だが、聖徳太子にとっては地上よりも少し増しだと言う所だろう。
何を考えているか分からない笑みを浮かべている聖徳太子の前に、腰を落とす。向かい合うように座れば、聖徳太子は何を思ったのか、益々顔を歪めた。

「まず、こんな夜更けに訪れた事、誠に申し訳ありません」

頭を下げ、謝罪する。先程も言ったが、やはり悪いのは自分だ。こういう事は言わないよりは言った方が良いと思い言ったら、聖徳太子は「さっき聞いた。それはもう良い」と斬って捨てた。

「それよりも早く用件を言え。聞きたい事があるのだろう?早くしないと、また隋兵達が動き始めてしまうぞ」

それを聞き、妹子は、はっ、と気付いた。
確かに今は隋からの攻撃は止んでいる。しかし、いつまた開始されるのか分からないのだ。隋兵は休んでいるだけだ。きっと適度に休んだら、またすぐ戦闘は始まる。時間はあまりない。
だが、いざ聞くとなると、分からない事が多すぎて何から聞けばいいのか分からなくなってしまう。

「何故、貴方は此処にいるのですか」

結局、妹子は一番疑問に思っていた事を口にした。
摂政皇太子である聖徳太子が、何故高句麗にいて、何故隋と高句麗との戦争に関わっているのか。
通常なら、倭国で推古天皇と相談し、国政をしているべきはずなのに。

「平和を守る為だ」

その質問に、聖徳太子はあっさりと答えた。

「今、高句麗に負けられては困る。隋に倭国を意識させるのは、非常に危険だ。だから、高句麗に力を貸している」

まあ、大っぴらには出来ないから、僕が此処にいるのだろう。そうつまらなそうに、聖徳太子は言った。
隋が高句麗を占領したら、次は妹子達の国かもしれない。しかし、倭国は小さく田舎な国、しかも島国だ。沖縄ほど交易も盛んではないし、これといって特産物もない。文化も遅いあの国を、隋が相手にするとも思えない。
もし、そうだとしたら理由は一つ。

「・・・貴方が、あんな国書を書いたからなのではありませんか?」

『日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を致す』
あの国書が、隋の皇帝陽帝の自尊心に触れたのではないか。

「あれはちょっとした実験。僕の所為じゃない。食い意地の張ってる陽広ちゃんは、例え何の取り柄もない田舎の島国でも、何時かは兵を進めたさ」

「それでは、陽帝はまるで世界を自分の物にしようとしているみたいじゃないですか」

「そう。陽広ちゃんのおっきな夢。世界征服」

笑える話ではなかった。陽帝ならやりそうな事だ。
それを止めるとまではいかないが、聖徳太子は自分の国を何とか守ろうと此処にいるのだろう。それは分かった。
反対に自国に被害がいきそうになりそうだが、それは聖徳太子の計画だと思う事にした。何と言ったって、摂政殿は賢い。

「では、何故私なのですか」

朝廷で蝦夷と会った時、言われた言葉。『高句麗に来いと、あいつが言っていた』と、そう蝦夷は言った。
つまり、聖徳太子が妹子を指名してきたのだ。沖縄で隋の恐ろしさを見、遣隋使として陽帝に会っている妹子だが、理由に上げられるのはそれだけだ。剣も自分より上手い奴は沢山いるし、頭の良い奴も沢山いる。体力や力だって、昔より衰えた。
それなのに、何故妹子を高句麗へと来させたのかが分からなかった。
真剣な顔で尋ねる妹子に対し、聖徳太子はふむふむと顎に手をやり何か考え事をし、そこかぁ、とつまらなそうに言った。

「お前は声が良い。前にも言っただろう?」

洒然と言った言葉に、妹子は驚いた。

「まさか、それだけで?そんな事でこんな重大な事を私にやらせたのですか?」

「まさか」

驚き信じられない物を見たような顔で妹子が必死に絞り出した言葉は、直ぐさま聖徳太子に否定された。否定した声は少し拗ねている様な、ふて腐れている様な雰囲気を含んでいたが、妹子は先程の衝撃から立ち直ってないらしく、それに気が付く事はなかった。

「倭国の未来を決める事に、それだけで選ばないさ。お前は僕が言わずともやる事をやる。自分で考え、行動する。それに、僕が脅さなくても、僕の言う事を聞いてくれる」

そう話す聖徳太子の言葉を聞いている内に、妹子は正気を取り戻した。
聖徳太子は、今もなお何を考えているのか分からない笑みを浮かべている。きっと、この人はこの笑みで無意識に自分を守っているのではないのだろうか、と妹子は思った。

「それは命令だからです」

実際、自分がそこまで考えて行動しているつもりなんて全くなかった。流されるようにして巻き込まれ、何とか手探りでその場を切り抜ける。沖縄でも隋でも百済でも、妹子はそうやってきた。考える時間なんてなかった。
しかし、聖徳太子は緩やかに首を振った。

「命令でも何でもいいさ。僕の意見を聞いてくれるのは、お前だけだ。他の奴らは脅されて聞くか、自分の利益の為に聞く。だけど、お前は自分で考えて、僕に応えてくれる。僕はそれが嬉しかったんだ」

思い出すのは、昔聞いた噂。気が触れている。聡明過ぎて常軌を逸している。そして、耳が聡い。あいつはいつでも聞き耳を立てている。知らない事などない。気づけば、全て知られている。
そう噂されている聖徳太子は、何を考えて過ごして来たのだろうかは妹子に推し量る事は出来ない。ただ、常に畏怖と誹謗の眼差しを受けていただろう事は容易に想像出来る。
他人の秘密を握り、交渉し、人を思いのまま操っていた聖徳太子。そんな聖徳太子に、妹子は普通に接した。相手が皇太子だからというだけではなく、自分の意志を半分以上持って太子と関わっていた。
それが、聖徳太子には新鮮だったのかもしれないし、もしくは本当に嬉しかったのかもしれない。
だが、妹子は聖徳太子が言うように、考えて行動していない。それは過大評価だ。闇雲に走っていたら、此処にいただけの話だ。
そう思い、妹子は「それは買い被り過ぎです」といたたまれなさそうに言った。

「私は何も考えていない」

それに、聖徳太子は「そうかもな」と応えた。

「買い被りかもしれない。でもお前には考える力がある。いつもその場で出来る最良の事をしようとしているじゃないか」

「でも、出来ていない」

「人間なんて、そんな物だ。何でも出来ていたら、それは神だ」

神、という言葉で、ふと福利の言っていたイエス・キリストを思い出した。聖徳太子と同じ馬小屋で生まれた遠い土地の神。聖徳太子が自分はキリストの生まれ変わりだと言っていた。
彼は、何処でキリストを知ったのだろうか。

「貴方は、何処でキリストを知ったのですか」

「僕は何でも知っている」

何でも知っている。それは、まるで神のようだとぼんやり思った。
神なら、これからどうなるのか、何が待っているのか分かるかもしれない。そして、神なら何をするだろうか。

「貴方は、何をしようとしているのですか」

「平和を」

「キリストのように?」

「そうだ」

そこで、聖徳太子は初めて笑った。口端を持ち上げるような笑みでも、何を考えているのか分からない笑みでもなく、純粋な笑みだ。

「愛があれば、世界は平和になる」

それは、慈悲を含んだ純粋な笑みだった。
しかし、すぐその顔は崩れ、また何を考えているのか分からない顔になった。

「愛を貫くには正義が必要だ。つまり、愛と平和と正義だ」

そう言った聖徳太子は怒っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。実は何も考えていないのかもしれない。ただ、目は真っ直ぐだった。

「愛の為に、隋を滅ぼすのですか」

無茶苦茶だと思いながら聞く。聖徳太子はそれに「そうだ」と静かに頷いた。

「所詮、人は自分の目に入る範囲しか人を愛せない。愛する人の為に、隋を滅ぼすしかない」

その声は静かで、あぁ、本気なのだと妹子は感じた。
この巨大な隋が滅ぶはずがない。土地も人口も兵力も何もかもが巨大なこの国が無くなるとは到底思えないし、高句麗がもし勝つような事があっても、それは一時凌ぎなだけだ。
隋は、いや、この巨大な土地はいつか倭国に来るだろう。
しかし、聖徳太子の言う事も分かるのだ。国には妻も子も、母もいる。守れるものなら、守りたい。
聖徳太子は神ではない。しかし、きっと誰よりも倭国を思っているのではないか。だから、こんな無謀な事をやり、倭国を守ろうとしているのではないか。
そう思った瞬間、聖徳太子の叫び声が聞こえ、妹子は考え事をしていた顔を勢い良く上げた。
そこには両手を振り回し、頭を揺らす聖徳太子がいた。
さっきまであんなに落ち着いていたのに、今では何か憑き物でも付いたように暴れ叫んでいる。何回も見ているとはいえ、あまりの事で妹子はどうしたら良いか分からなくなってしまった。

「うあああああ!!うるさいうるさぁい!!何処も彼処もうるさいんだよぉぉおお!!」

人には聞けない音が、聖徳太子には聞こえている。うるさいうるさいと喚き散らす聖徳太子に駆け寄り、何が煩いのですかと半ば叫ぶように問い掛けた。

「人が起きる。地面を歩く。服が擦れる。ほら、もうすぐ夜明けだ。準備しろ。塀を登るぞ。こんな城、すぐ落とせ。さぁ、準備だ」

「そ、それって・・・」

「ああああ!!来るぞ来るぞぉおお!!隋兵達が起き始めた。今日もうるさく戦うんだ。うあああうるさいだまれぇぇええ!!」

聖徳太子が言うには、つまりもうすぐ隋兵達が活動を始めるらしい。塀の外の事に、きっとまだ乙支文徳も高句麗兵達も気付いていない。早くしなければ。
しかし、この状態の聖徳太子を放っておくのは危険すぎる。何を仕出かすが分からないのだ。
妹子はどうするべきか迷った。聖徳太子を置いて行くべきか、連れていくべきか。そんな時、聖徳太子は妹子の心情に全く気付いてないかのように言った。

「妹子ぉ、僕は疲れた。喋り過ぎた。疲れたぞぉお!!僕は寝る。寝れば音は聞こえなくなるかなぁ。完全な静寂。無音の世界。いいなぁ、行きたいなぁ。音なんてなくなればいいのに」

そう言いながら、聖徳太子は床に寝転がった。まだ小さな声で「音がない世界なんて、どんなに素敵なんだろう」と呟いている。こうなった聖徳太子はもう連れて行けない。寝るという言葉は信じられないが、妹子は信じるしかなくなった。

「太子、危なくなったら逃げて下さいよ」

と、それだけ言って妹子は地下牢を出た。あの聖徳太子なら、完璧過ぎるくらいに上手に逃げるだろう。逃げるだけではなく、人の弱みに付け込んで、また上手く立ち回るのだろう。
そんな事を考えながら、妹子は階段を二、三段飛ばしつつ上り、近くにいた高句麗兵に知らせ、皆に伝えるように言い、乙支文徳の部屋へと向かった。



その足音を聞きながら、聖徳太子は考える。
頭に鳴り響いているのは、妹子の言葉。『何故自分なのか』と彼は言った。

「なんで妹子なのか、ねぇ」

寝転がりながら考える。足音、話し声、衣類の擦れる音、武器の鳴る音、呼吸音。様々な音が聖徳太子の耳に入る。
なんで、妹子なのか。

「お前の横は、落ち着くんだ」

聖徳太子は目を閉じて、一人言う。瞼の裏に妹子の顔を思い描こうとしたが、出来なかった。代わりに思い出したのは、妹子の声。

「音が、気が、ゆっくり流れている」

人となりからなるのか、または生まれ持った何かなのか。妹子の周りは、いつも緩やかに流れていた。
妹子が自分で考え、行動出来るのは本当だ。自分を疎まないのも。あまり注視されないが、妹子は素晴らしい人材だろう。
しかし、自分はそれだけの理由で妹子を選んだのではないと分かっていた。もしかしたら、あの緩やかな流れを傍に置きたかったのかもしれない。

「静かなんだ」

この世界で、唯一静かな場所が妹子の傍だと感じられた。音はずっと聞こえている。だけど、それは妹子の傍だけは小さく感じられたのだ。
自分は無音の世界に焦がれている。だから、妹子に焦がれているのかもしれないな、と思い、口端が上がるのを感じた。
ああ、うるさい。目を閉じられるように、耳を閉じられればいいのに。
それが出来ないから、ならばと思い聖徳太子は妹子の足音を追った。
その音を聞きながら、聖徳太子の意識は暗闇へと沈んでいった。

外では夜明けと共に雄叫びが木霊した。






我執ラルメール



矛盾した渇望。

無音の世界と、緩やかな流れが欲しい。






















―――――――

無音の世界だと妹子の声聞けないじゃんという矛盾話。
爆撃の太子はいろんな意味で激しくて好き。振り回される妹子も好き。
決して太妹とか妹太とかではなく太+妹。のつもり。・・・太→妹?・・・太+妹。



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