14話
「……タフやなあ」
『え??』
ポツリと呟かれた声にぱちぱちと瞬きを繰り返した。
怪我の治療を終えた私は、そのままソファで大人しくしているよう命じられた。もうほとんど痛くないのになあ、と内心ごちていると、少しの話し合いののち、三年生たちはハートの部屋、つまりあの教会に戻ることに。何をしに行くのかというと、怪我の騒動で置いてきてしまった聖杯を取りに行くらしい。
孤爪くん曰く、条件を満たしたなら聖杯は動くようになっているとのこと。次の扉を出現させるには聖杯は必要不可欠。しかし、あの聖杯には私の血が入ったままだ。聖杯を持ってくるのはもちろんだが、問題はその血を入れたまま持ってくるか、零して持ってくるのかということ。
“愛”で満たされたままの杯を“聖杯”と言うのなら、血を零す訳には行かない。けれど、血が注がれた聖杯と言うのはあまりに生々しい。ということで、一先ず三年生だけで聖杯を取りに行き、血を零すかそのままにしておくかを決めることに。自分の血のことなのだから私も行こうとしたのだけれど、「いいからお前はそこにいろ」と黒尾に一蹴されてしまい、大人しくソファの上で待機することとなった。
薬箱の中に入っていたアルコールと、最初の探索で見つけた布で手に付いた血を拭いている、開け放たれた扉から聞こえて来た会話。なんの話しをしているのだろうと耳を立てようとした時、「苗字さん、」と治くんに声を掛けられ視線がそちらへ。「なに?」とソファの前に立つ治くんを見上げると、どこか申し訳なさそうに眉を下げた治くんが頬を掻きながら口を開いた。
「……薬塗ってもらってもええですか?」
『くすり??……あ、もしかして首に?』
「はい、」
頷いた治くんの首には、薄らと赤い線が見える。なるほど。確かに首は自分で塗るには難しい。しかしなぜ私に?首を傾げると、「侑くんに頼まなくていいの?」と尋ねると、「同じ顔の男が顔突合せて薬塗るなんて気持ち悪いやん」と心底嫌そうに顔を歪められた。そういうものだろうか。
小さく笑いつつ、いいよ、と答えて隣に座ることを促すと、すんません、と謝りながら治くんがソファに腰掛け、手に持っていた薬を渡してくる。塗りやすいように互いに向き合って座る。少し上を向いて首を晒してくれた治くんに、「塗るよ」と声を掛けると、指で掬ったクリーム状の薬を傷に塗り始めた。すると、塗った途端に薄れていく赤い傷。やはり便利な薬である。感心しながら更に薬を追加しようとしたとき、向けられたのが冒頭の台詞である。
『タフ?私が??』
「おん、タフですやん。こんな訳分からん事に巻き込まれて、おまけにそんなエラい怪我して。もっと泣いたり取り乱たりしてもええのに、そんな素振り全く見せんし」
『……一応聞くけど、褒められてるんだよね?』
「褒めてるつもりですけど?」と返された言葉に、なんだかとても微妙な気持ちになる。“タフ”と言う言葉を褒め言葉として受け取るのは、正直女としてどうなのだろうか。
「腕の傷、まだ完全に治っとらんのでしょう?」
『あー……まあ、確かに塞がりきってはないけど……でももうほとんど痛くないし、』
「傷が残ったりせんとええですね」
独り言のように零された声に薬を塗っていた手が止まる。視線を首から少し上に上げると、どこか心配そうな顔をした治くんがじっと天井を見上げていた。
『……ありがとう。気にかけてくれてたんだね』
「苗字さんは女やし、そう言うもんやろ」
『こんな状況に泣いて怖がったりしない“タフ”女で可愛げはないけどね』
「……まあ、確かに可愛げはないなあ」
グサリと胸に大きなトゲが突き刺さる。事実だとしても、改めて口にされる結構傷つく。せめてもう少しオブラートに包んでくれればいいのに、と頬を引き攣らせていると、「けど、」と続けられた声とともに治くんの視線が天井からこちらへ。
「かっこええなあとは、思います」
『え、』
向けられる真っ直ぐな視線と言葉に少しだけ頬が熱くなる。かっこいい。そうか、かっこいいか。
自分が男の子に言うならまだしも、逆に男の子から言われる日が来るなんて思いもしなかった。誇らしさと照れ臭さを入り混ぜたふにゃりとした笑顔で「ありがとう」と言うと、少し驚いたように目を見開いた治くんは、直ぐ様微笑み返してくれる。
「礼を言うんは俺の方やろ。おおきにな、助けてくれて、」
『え?あ、い、いや、そ、そんな改まって言わなくても……』
「礼くらい言わせてや」
面と向かってお礼を言われると、こんなに気恥しいものなのか。少し視線を彷徨わせた後、「…ど、どういたしまして…」とぎこちなく返せば、何が面白かったのか、ぷっと吹き出した治くんが喉を鳴らしてくつくつと笑い始める。何もそんなに笑わなくても、と少し赤くなった頬で治くんを睨んでいると、「何笑ろてんねん。気色悪っ」と顔を顰めた侑くんが歩み寄ってきた。
「何話してたん?」「ほかっとけ。こっちの話や」「はあ??なんやそれ?」と怪訝そうに片眉を上げた侑くん。彼の首にも傷があったはずだけれど、誰かに薬を塗って貰えたのか、既に傷は消えている。誰に塗ってもらったのだろう?と首を捻っていると、「……苗字さん、」といつの間にか治くんとの言い合いを終えた侑くんが少し気まずそうな様子で目の前に立ち現れる。
『っ、えっ、あ、は、はい?』
「………その………」
『その??』
「………おおきに。あんたのおかげで助かったわ」
ぶっきらぼうな声で綴られたお礼の言葉。目を合わせるのは照れくさいのか、侑くんの視線は斜め下へ向けられている。
最初にここで自己紹介をした時、一人だけ部外者である私を怪しんでいた彼だったけれど、どうやらその疑いも綺麗さっぱり消えたらしい。ふふ、と小さな笑い声を漏らした私に、笑うな!と言うようにキッと向けられた視線。毛の逆立った猫のような反応に益々笑みを深めた時、ふと思い出したハートの部屋でのこと。そう言えば治くん、お腹空いたって言ってたような。ゴソゴソとポケットの中を漁り出した私に「?どないしたんです?」と治くんが不思議そうに首を傾げた。
『確かにここに……あ!あった、』
「??」
『はいこれ、あげる』
「これって……」
「飴やん」
ポンっと治くんの掌の上に乗せたのは、ここに来る前、先生からお使いのお駄賃として貰った飴玉だ。「お腹空いたって言ってたから」と飴玉を指して笑って見せれば、飴と私の顔を見比べた後、「おおきに」と治くんは嬉しそうに笑ってくれる。こんな飴玉一つじゃ気を紛らわす事も出来ないだろうけれど、どうやら喜んでくれたらしい。
包みを開け、早速飴を口の中に放り込んだ治くん。コロコロと口の中で転がされる飴に頬を緩めていると、部屋の方々に散っていた皆のうち、何人かがソワソワとした様子でこちらを見ている。どうしたのだろう?と小首を傾げていると、「……あの、」と話しかけて来た国見くんに自然と視線が彼の方へ。
『国見くん?どうしたの?』
「……さっきの、まだ持ってたりします?」
『さっきのって……あ、もしかして飴のこと?まだあるけど……。良ければいる??』
「ありがとうございます」
即答で手を差し出してきた国見くんの可愛らしいこと。もしかして、甘い物とか好きなのかな。素直な国見くんを微笑ましく思いつつ、ポケットから取り出した飴を掌に乗せてあげると、治くんと同じくように直ぐさま飴を食べだした国見くん。「侑くんもいる?」と飴を頬張る二人に挟まれた侑くんを見ると、「甘いもんはええわ」と手を振られて断られる。あと数個あまっているけれど、国見くんのように欲しい人がいるだろうか。
ぐるりと周りの皆を見回すと、目が合ったのは月島くん、孤爪くんの二人。「……いる?」とポケットから取り出した飴を持ち上げて見せれば、無言のまま近づいてきた二人にそっと飴を渡してあげた。
「……ありがとうございます」
「…………ありがと」
『……ふふ。どういたしまして、』
男子高校生が飴とかチョコとか甘い物を好きだと可愛く見えてしまうのは何故だろう。小さく笑いながら包みを開けている月島くんと孤爪くんを見守っていると、二人の白い首に残る赤い血が目に入り、思わず眉を下げてしまう。
二人もそうだけど、治くんも侑くんも首に血が付いたままだ。痛々しいその首元に「治くん、」と隣に座る治くんに声を掛けると、「?なんですか?」と飴で片頬を膨らませた治くんがきょとりと目を瞬かせる。
「首拭こうか?」「首?」「血がついてるから」「……ああ、」
思い当たったように自分の首に触れた治くん。自分用にと使っていたアルコールを、まだ使っていない綺麗な布に染み込ませ、「上向いて」とお願いする。太く逞しい首にこびり付いた血を取ろうと赤く汚れた首を布で拭き取れば、綺麗になったところで手を離し、今度は侑くんへと向き直る。意図を察してくれたらしい侑くんは何も言わずに顔を上げてくれる。察しがいいって手間が省けるなあ、と感心しながら彼の首も拭き終えると、「ども、」と聞こえてきた小さなお礼。いえいえ、と小さく首を振り応えつつ、月島くんと孤爪くんにも視線を向ければ、何やら微妙な顔をした二人は揃って足を一歩後ろへ。
『?あれ?拭かなくていい??』
「………拭くだけなら自分で出来るので……」
「………………俺も………………」
どこか気まずそうな顔をする二人。もしかすると、初対面の人間に触られるのが嫌なのかもしれない。パーソナルスペースが広そうな二人だし。なんて一人で勝手に納得していると、「何集まってんだ?」とハートの部屋から戻って来た三年生達の姿が。
最後に入ってきた北くんを見た途端、ビシッと背筋を伸ばした侑くんと治くん。そんな二人の姿に小さく笑っていると、不思議そうな顔をした三年生達が揃ってこっちに歩み寄って来た。
「なに?なんか面白い事でもあったの??」
『ううん。そういう訳じゃ……あ、木葉くんも首拭こうか?』
「首???」
『ほら、血がついてるから』
「………ああ!」
思い出した!とばかりに首を撫でた木葉くん。木葉くん達は傷薬だけ塗ったら直ぐにハートの部屋に入ってしまった為、首に血がついたままだ。どうする?とソファの上から木葉くんを見上げると、なぜか少しウキウキとした様子の木葉くんが「それじゃあ……」と歩み寄って来ようとした時、
「「待て」」
「ぐえっ!?」
「木葉、お前には可愛い可愛い後輩の赤葦がいるだろ??」
「もしくはチョーかっこいいスーパーエースの木兎に拭いて貰え」
突然後ろ襟を捕まれ、カエルの潰れたような声を上げた木葉くん。掴んでいるのは黒尾と夜久の二人で、二人とも背後に黒いオーラを背負っている。「ちょっ、首!!首締まってるから!!」と木葉くんが両手を挙げて降参を示すと、そんな先輩の様子を可哀想なものを見るように赤葦くんが見つめている。
「んだよ!苗字ちゃんが血い拭いてくれるっつーからしてもらおうとしただけだろ!?」
「さっきからお前には下心を感じるんだよ」
「シタゴコロナンテネエシ!!」
「片言過ぎるだろ」
「ぜってえさっきの肩車も下心から“やる”って言ったろ?」
「な、ば、ち、ちげえよ!!苗字ちゃんの太ももを堪能しようだなんて思ってねえっつーの!!」
『………………赤葦くん、拭いてあげて』
「すみません……」
アルコールで濡らした布をそっと赤葦くんに託す。大変申し訳なさそうにそれを受け取った赤葦くんはため息を付きながら木葉くんの元へ。冷たい視線を向けてくる後輩に、うっと顔を歪めた木葉くん。「……木葉さん、」と物言いたげな目で見てくる赤葦くんに頬を引き攣らせ木葉くんは諦めようたようにその場に座り、大人しく赤葦くんに首を拭いて貰うことに。「あかあしー!俺も拭いてー」と木葉くんの横に木兎くんが待機したところで、最後の一人である黒尾へと向き直った。
『後は黒尾だね。どうする?自分で拭く?』
「……俺には“拭こうか”って聞かねえのかよ」
『え?』
「別に。アルコールと使ってねえ布を貸して」
ぼそりと何かを呟いた黒尾だったけれど、一体何と言ったのだろうか。聞き取れなかった。首を捻りつつ、言われた通りアルコールと布を黒尾に渡すと、「さんきゅ」と器用に自分で首を拭いていく黒尾。そんな黒尾や木葉くん達を横目に、「結局聖杯はどうしたの?」と夜久に尋ねると、ああ、と頷いた夜久が扉の方を振り返る。
「まだあの部屋にある」
『持って来ないの?』
「……一応全員に伝えてから持ってこようと思ってよ」
『てことは……あのまま?』
「中身がなくなったら“聖杯”じゃなくなった。なんて事になったら困るしな。……苗字の血はそのままだ」
険しい表情を浮かべた夜久。話が聞こえたらしい日向くんと金田一くんが顔を真っ青にしている。なるほど。こういう子達がいるからこそ、先に伝えておくことにしたのだろう。
「苗字の傷どうだ?」と眉を下げる岩泉くんに包帯の上から傷を撫でる。痛みはほとんどないし、動くのに支障はないだろう。「もう平気だよ」と腕を掲げて笑ってみせると、難しい顔をした皆が台座の方へ視線を向ける。
ハートの模様が描かれた台座。あの上に聖杯を置けば次の扉、スペードの扉が現れるはずだ。ゆっくりとソファの上から立ち上がると、心配そうな視線が皆から注がれる。視線を受けたまま台座へと歩み寄ると、台座の上に手を添え孤爪くんを振り返った。
『トランプのマークは全部で四つ。なら、ここで扉が現れるとしたら次が最後。スペードの扉だよね?』
「……うん、そうだと思う」
『なら、ここで足踏みしててもしょうがないし、ここに聖杯を置いて扉を出そうよ』
「……本当に怪我はもういいんだな?」
再度確認してきた黒尾に大きく頷く。その返しに諦め半分、仕方なさ半分のため息を零した黒尾と夜久は、聖杯を取りに戻るため再びハートの扉へと向かっていく。
「ま、苗字もこう言ってる事だし」
「俺らが進みあぐねんのもダセえよな」
ドアノブに手を掛けた黒尾が皆を振り返る。いいよな?と言うように皆を見回す黒尾に、もちろんというようにその場にいた全員が頷き返す。にっと口角を上げた黒尾がドアノブを捻ると、蝶番の音ともに開いたハートの扉の向こうに、黒尾と夜久は迷いなく進み入った。