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三年生秋(19)

スマホの画面で確認した時刻は午後五時四十五分。約束の時間まで後十五分程あるので、待ち人が来るまでもう少し時間が掛かりそうだ。
待ち合わせ場所に指定した公園内をぐるりと見回す。秋の夕暮れの公園は随分と人気が少なく、遊んでいるのは小学生の男の子が二人だけ。隣のベンチに置かれた二つのランドセルはきっとあの子達の物なのだろう。遊具を使って遊び回る少年達の姿に目尻を下げていると、ふと視界の端に捕らえた真っ赤なジャージ。小さな園内に駆け込んで来たのは、待ち合わせ相手の黒尾くんで。ベンチに座る私を見つけた黒尾くんは、「ごめん名前ちゃんっ!待ったよね?」と申し訳なさを露に駆け寄って来た。


『ううん、全然待ってないよ』

「マジで??」

『うん、マジで。私も今来たところ』

「なら良いんだけど……。呼び出した相手待たせるとか、無責任にも程があるよな」


「ホントごめんね、名前ちゃん」と謝罪を繰り返した黒尾くん。額に汗を滲ませた姿が、いつかの彼と重なる。そう言えば、春先にもこんなことあったっけ。駅の構内で聞いた真摯な謝罪を思い出しながら、「気にしなくていいよ」と首を振ると、どこか嬉しそうに目を細めた黒尾くんは、人一人分の距離を開けて隣へと腰掛けた。

黒尾くんから“会いたい”という連絡が来たのは、昨日の夜のこと。

リビングのソファで寛いでいると、突然掛かって来た一本電話。メッセージアプリの無料通話を使って掛かって来たそれは、文化祭以降音沙汰のなかった黒尾くんからのものだった。
驚いて落としそうになったスマホを慌てて持ち直し、怪しむ母から逃げるように自分の部屋へ。「も、もしもし?」と少し上擦った声で電話に出ると、「こんばんは、名前ちゃん」とスピーカーから聞こえて来た黒尾くんの声。
「ど、どうしたの、黒尾くん、」「何かあった??」と戸惑いを露に返事をすると、小さな笑い声が聞こえたのち、電話の向こうから届いたのは、とても優しくて、でも、どこか少し緊張を孕んだ声だった。


「………会えないかな?」

『っ、え………?』

「明日、いつもより早く練習終わるんだ。……もし、名前ちゃんさえ良ければ、」



 明日、会えないかな。



いつもより少し強ばった声で紡がれた突然のお誘い。断る選択肢がなかった訳じゃない。それでも行こうと思ったのは、私も黒尾くんの様子が気になっていたから。
いいよ、と返した答えに、微かに聞こえた安堵の息。待ち合わせの時間と場所を決めてから通話を切ると、暗くなったスマホの画面に何故か少し胸が痛んだ。
「練習お疲れ様、」「さんきゅ。つっても、今日はスゲエ短かったけど」「体育館の点検とか?」「や、監督とコーチの都合」
なるほど、そういう理由で。「物足りねえけど、試合に疲れを残さないことも大切だしな」と苦く笑った黒尾くん。「予選、今週末だもんね」と眉尻を下げれば、短い沈黙ののち、うん、と頷いた黒尾くんは細めた瞳で前を見据えた。


「……組み合わせ、聞いてる?」

『……………梟谷と、当たるんだよね……?』

「うん。勝った方は本戦出場切符を獲得。んで負けた方は……崖っぷちに立たされることになるな」


真っ直ぐ前を映し続ける黒尾くんの瞳。その先を辿るように視線を動かせば、隣のベンチに駆けて来る少年たちの姿が。やばいやばい、と慌ててランドセルを背負う男の子たちに、門限を過ぎてしまったのかな、と眉を下げる。公園を飛び出して行く小さな背中を見送ると、二人だけになった公園で更に黒尾くんは言葉を続けた。


「急に呼び出してごめんね、名前ちゃん。けど……どうしても試合前に、名前ちゃんの顔が見たかったんだ」

『…………黒尾くん、あの、私、「大丈夫」っ、』

「大丈夫。分かってっから。名前ちゃんが俺らを、俺のこと応援出来ないのは、ちゃんと分かってっから」


口元に浮かべた緩やかな笑みをそのままに、そっと目を伏せた黒尾くん。ごめんね、と口にしそうになった唇を必死に噛み締める。謝るのは、ダメだ。謝られることを、きっと黒尾くんも望んでいない。
膝の上に置いた両手が、いつの間にか小さな拳へと変わる。返答に迷って目線を泳がせ始めた時、徐に立ち上がった黒尾くんにさ迷っていた視線が自然とそちらへ。


「声援も、拍手も、歓声も、何も要らない。それは全部、梟谷の奴らにくれてやる。ただ、見てて欲しい。応援しなくていいから、頑張れって思えなくてもいいから、見てて欲しい」


黒尾くんから向けられた切実な願い。
黒尾くんはきっと分かってた。遮った言葉の先を分かっていた。音駒の応援は出来ないと。梟谷を応援したいと。そう口にしようとしていたことを、黒尾くんは分かってたんだと思う。それでもこうして私を呼んでくれたのは、会いたいと思ってくれたのは、それだけ彼が、彼の気持ちが真っ直ぐだから。真剣だから。直向きだから。
胸が、痛かった。“応援するよ。”“頑張ってね。” たったそれだけ。たったそれだけの言葉を伝えられないことに、胸が痛くて仕方なかった。だけど、薄っぺらなエールを送ることは出来ないから。だから、だからせめて、



『分かった。ちゃんと、見てるね』



このくらいの約束は、許して欲しい。
目の前に立つ黒尾くんの瞳が柔らかく細まる。嬉しそうな、愛おしそうな微笑みから伝わって来る甘くて優しい彼の想い。どうして私は、この想いに応えられないんだろう。待たせてばかりの私を一途に想ってくれている黒尾くん。彼の気持ちに頷くことが出来たら、私も、黒尾くんも、幸せになれるのに。なのに、どうして私は、まだ答えを出せずにいるのだろう。
重なった視線がなんだか凄く眩しくて、思わず下を向いてしまうと、名前ちゃん?と小首を傾げた黒尾くんが一歩距離を詰めてみせた。


『……ひ、日が落ちるの、早くなったね』

「え??……ああ、確かに。言われてみるとそうかも、」

『試合前はあんまり疲れを残さないのも大事なんだよね?早く帰って休んだ方がいいんじゃ、』

「だいじょーぶ。疲れなんて、名前ちゃんの顔見たら一発で吹き飛んだから、」

『っ、そ…………ソレナラ、ヨカッタ、デス、』

「すげえ片言」


からりと楽しげな笑い声に、俯いていた顔をそうっと持ち上げる。黒尾くんの恥ずかしげもなく吐かれる甘い台詞には、いつまで経っても慣れる気がしない。
いつも通りの姿が見れて安心したような。揶揄われているようで不満なような。なんとも複雑な面持ちで黒尾くんを見上げると、再びかち合った視線の先で切れ長の瞳がとても優しく和らげられた。


「……やっぱあん時、是が非でも勝つんだった」

『……あんとき?』

「文化祭。情けねえことに、最後の最後で木葉の野郎に負けちまったからな」


そう言って自嘲するように笑った黒尾くん。まさか、その話題を彼から口に出すなんて。驚きを露に目を丸くする。固まる私に苦く笑った黒尾くんは、「意外そうだね」とやけに軽い口調で言い落とした。


『え、あ、そ、その………あんまり、触れない方がいい話題なのかなって、勝手に思ってたから、』

「まあ好き好んで思い出したいことではねえな。カッコ悪いとこ名前ちゃんに見しちまったわけだし。……けど、だからって今更引く気は更々ねえし、負ける気だってもちろんない。“あっち”の本気を見ちまった以上、ウジウジ悔しがってる訳にもいかないわけよ」

『???』


分かるようで分からない言葉の意味に首を捻る。
バレーの話、で、いいんだよね??引く気はないとか、負ける気がないって言うのは、試合に対して意気込みと思っていいのだろうか。ぱちぱち瞬きを繰り返していると、「つーわけで、」と話を仕切り直すように手を叩いた黒尾くん。
響いた音に更に目を見開いていると、目尻を下げた黒尾くんが薄い唇をゆっくりと動かし始めた。


「……クリスマス、考えてくれた?」

『あ………いや、その、えっと………』

「その反応は、まだ考え中か」

『ご、ごめんね、』

「いやいや、謝らなくていいって。本当は名前ちゃんから切り出してくれるまで待ってるつもりでいたんだけど……そうも行かなくなっちまったからさ」

『もしかして、クリスマスに何か予定が入りそう……とか?』

「……いや。ただ情けねえことに、仮予約のままじゃ横入りされそうで不安なんだ」

『よこはいり………?』


その言い方ではまるで、他の人に、黒尾くん以外の誰かに、クリスマスのお誘いを受けるみたいだ。
「考え過ぎだよ」と否定の声を返したものの、苦笑いを浮かべた黒尾くんは、「だったらいいんだけどね」と困った顔で眉尻を下げる。横入りという状況が有り得るかはどうかは置いておくとして、こうして答えを求められている以上、デートの返事はくらいは今ここでちゃんとするべきだ。何もかも待ってもらおうなんて、虫がいいにも程がある。
迷う心を叱咤して、何となく答えを口にしようとする。けれど、そう都合よく返事が出てくる訳もなく、動かそうとした筈の唇は固まったままになってしまう。どうしよう、と回る思考に吊られて目線まで右往左往し始めた時、頭上から聞こえた小さな笑い声に彷徨う視線が前を向く。


「んな無理して答えなくてもいいって」

『で、でも、』

「そんだけ迷ってくれるってことは、多少なりとも“行こうかな”って気持ちがあるからっしょ?なら、やっぱりもう少し待つことにするわ」


「その方が名前ちゃんも納得の行く答えが出せるだろうし」とにこやかに笑った黒尾くん。迷う私を気遣う優しさに申し訳なさが込み上げて来る。帰ろっか、と踵を返そうとする彼を前にベンチから動けずにいると、動きを止めた黒尾くんが名前ちゃん?と顔を覗き込んで来た。


『……“無理矢理出した答えに納得なんて出来るわけない”』

「っ、え??」

『前にね、木葉に言われたの。ほんと、その通りだよね。迷ってばかりのくせに、曖昧な答えじゃ満足出来ない。要領が悪過ぎて、自分で自分が嫌になりそうだった。……でも、でもね。そんな私に、木葉は言ってくれたの』


悩んで迷って、俯いてばかりの私に、木葉は言ってくれた。


“でもそれが、苗字のいいとこだ”

“そんなお前が、誰かと向き合うのに無理矢理答えなんて出せるわけねえじゃん。出したところでそんな答えに納得する訳ない。つかそもそも、そんな半端な答えを黒尾に伝えられる筈がない。……苗字は、そういうヤツじゃん”

“答えを出したいって気持ちがあるなら、苗字なら絶対納得いく答えが出せるだろ。だからゆっくり考えりゃいいんだよ。……赤葦への気持ちに、少しずつけじめを付けて行ったみたいに、黒尾の想いにもゆっくり答えを出せばいい”


他の誰でもない。木葉の言葉だったから。情けないところも、カッコ悪いところも、全部知っている木葉が言ってくれたからこそ嬉しかった。沈んだ心が軽くなった。
夏休み中。コンビニから学校へ戻るまでの短い時間を思い出し、ふんわりと胸を満たした温かい気持ち。綻んだ顔で黒尾くんを見上げると、小さく目を剥いた黒尾くんが何か言いたげに口を開く。けれど、動かされた唇からは結局何も音にされず、薄く開いた唇はそのままゆっくりと閉ざされてしまった。


『あの……黒尾くん?今、何か言おうと、「ごめん、」

「ごめん、名前ちゃん。やっぱり………さっきの返事、今貰ってもいい?」

『え………』


一転した返答に目を丸くする。
答えを求められるのは当然だ。これだけ待たせているのだから、急かされるのは仕方ない。でも、ついさっきまで黒尾くんは、もう少し待つと言っていた。なのに、どうして急に“、今”答えが欲しいと言い出したのだろう。さっきの今で、何か心境の変化があったのだろうか。
出口に向かっていた足先が再び此方を向く。目の前に立つ黒尾くんはとても真剣な顔をしていて、瞳から注がれる想いの実直さに目を逸らすことさえ出来ない。ゆらゆらと揺れる瞳に映った黒尾くんが一歩距離を縮めてみせる。膝先に真っ赤なジャージが触れそうなくらい、すぐ傍に立った黒尾くん。すると、ジャージのポケットに手を入れた黒尾くんは、切れ長の目を微かに細めた。


「……いっそのこと、お互い運に賭けてみねえ?」

『……運に?』

「名前ちゃんが、俺とクリスマスデートに行くか行かないか。迷ってるなら……今ここで、神様に聞いてみようぜ」


言いながら、ポケットの中から出てきた右手。握り拳を作ったその手が、手のひらを閉ざしたまま目の前に差し出された。


「今朝、ばあちゃんに飴貰ったんだ」

『?飴??』

「うん、飴。貰ったのは全部で四つ。いちごとみかんに、レモンとハッカ。みかんは研磨にやって、ハッカはリエーフに食わせた。だから、残ってるのはいちごとレモンのどっちか。………どっちだと思う?」

『っ、え?』

「俺の右手に入ってるのは、いちご味の飴でしょうか。それとも、レモン味の飴でしょうか」


明るい声音とは裏腹に、飴を包み隠す手に力を込めた黒尾くん。戸惑いをそのまま呆けた顔で固まる私に、尚も黒尾くんは声を続けていく。


「名前ちゃんが当てたら、デートはなしでいい。運がなかったっつーことで潔く諦める。でも、もし俺が当てたらその時は………クリスマス、俺とデートして欲しい」

『そ、んな………そんな決め方で、いいの……?神様に任せたりしないで、ちゃんと自分で決めるよ……?』

「………名前ちゃんのそういう律儀なとこ、すげえ好きだよ」

『っ、すっ………!?』

「けど、ごめん名前ちゃん。俺、自分で思ってたより、耐え症なかったみたいだわ」


自嘲するように笑って、その場に膝を折った黒尾くん。重なっていた目線が下へと落ちる。しゃがんだ黒尾くんと目を合わせると、再び重なった視線の先で赤茶色の瞳が小さく揺らいだ気がした。


「……良い奴ぶって後悔するくらいなら、ズルいって思われても構わない。それでもいいから、名前ちゃんを振り向かせるチャンスが欲しい」


射抜くような視線と声に感じた微かな焦り。その焦りが何に対してのものなのかは分からない。だけど、向けられる言葉から伝わる熱が、黒尾くんの想いの強さを教えてくれている。
ズルいなんて、そんなこと思える筈がない。私だって同じだったのだから。ズルでもいい。ズルでもいいから、赤葦くんに振り向いて欲しかった。赤葦くんの彼女になりたかった。だから、分かる。黒尾くんの気持ちが、私には分かってしまう。
握り締められたままの右手に伸ばした頼りない右手。骨張った大きな拳にそっと手を添えれば、熱の篭った黒尾くんの瞳が僅かに見開いた。


『………レモン、』

「………レモン?」

『うん、レモン。レモン味の飴が、入ってると思う』


繰り返した答えに、見開かれた目が僅かに和らぐ。
「じゃあ、俺はいちご味で、」と続けた黒尾くんは、手の甲を下に向け、飴を包み隠す長い指をゆっくりと開いて行く。解き開かれた手のひらの上に見えた飴の包み。見覚えのあるバッケージに描かれていたのは。
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