三年生秋(5)
ころころ、ころころ。コオロギの鳴く声がする。
九月の夜。秋を感じる虫の声に、「…秋だな」と木葉が小さく呟いた。
『秋だね。もう、夜はそんなに暑くないし』
「昼間はまだまだ暑いけどな」
『体育館は熱気がすごいもんね』
熱い空気の籠った体育館を思い出す。選手たちが努力を重ねる体育館内は、いつも熱気に包まれている。
「暑苦しいったらありゃしねえよ」とうんざりした顔で愚痴る木葉。毎日毎日あの熱気の中にいたら、流石の木葉達も嫌気がさすのかもしれない。顔を顰めた木葉に、なんだか微笑ましさを感じてしまう。くすくすと笑う私に気づいた木葉は、「何笑ってんだよ」と拗ねた声を投げてきた。
『木葉たちでも、体育館が嫌になることあるんだなって思ったら、なんか、面白くて、』
「なんも面白くねえっつの。バレーが好きなのと、暑苦しい体育館に我慢出来るかは別問題だっつーの」
『そうなの?』
「そうだよ」
たく、と呆れたように零された声。確かにそれはそうかもしれない。バレーが好きなのと、暑い体育館に我慢出来るかは別の話なのだろう。「早く涼しくなるといいね」と夜空を見上げて口にすると、「練習中は冬でも汗かくけどな」と零した木葉。「それじゃあ結局我慢するしかないじゃん」と笑って言うと、「……うっせえな」と木葉は唇を尖らせた。
こうして木葉と並んで歩くのは、もう何度目だろう。
勢いで手伝いを申し出たバレー部の合宿。かおりや雪絵は「マジでありがとう!」「ほんと助かる!」と手放しで喜んでくれたけれど、ちゃんと役に立ててるいるのか、正直なところ自信はない。
隣を歩く木葉の横顔を盗み見る。帰り支度を終え、食堂を出ようとしたとき、偶然遭遇した木兎と赤葦くん以外の梟谷メンバー。帰ろうとしている私に気づき、「今から帰るの?」「もう暗いよ?駅まで歩くんだよね?」と心配してくれたかおりや雪絵。「近いし大丈夫だよ」と笑って答えた私に、「送る」と躊躇なく申し出た木葉は、返事を聞く前に監督さんの元へ向かって行った。
『(……こういうところが、菅原くんに勘違いさせる原因かな……)』
盗み見た横顔から目を逸らし、そのまま視線を地面に向ける。監督さんに外出許可を取りに行った木葉。そんな木葉を待っている間、話し相手になってくれたのは菅原くんだった。昼間のことがあったせいか、木葉と黒尾くんのことを聞いてきた菅原くん。誤解を招いたお詫びも兼ね、黒尾くんとの曖昧な状態を説明すると、「木葉くんは?」と木葉との関係も菅原くんは尋ねてきた。たぶん菅原くんには、木葉の優しさが“特別”なものに見えてしまったのだろう。
木葉の優しさに甘えている自覚はもちろんある。だから、木葉との関係を答えるとき、木葉に申し訳ないと思った。私が甘えているせいで、こんな勘違いをされてしまっているのかな、と。
この先、もしも木葉に好きな子が出来たとしたら。いや、もしかしたら私が知らないだけで、もう既にいるのかもしれない。私が赤葦くんを好きだったみたいに、赤葦くんが叶絵ちゃんを好きだったみたいに、木葉にも誰か、誰か特別な人が、好きな人がいるのかもしれない。でも、もしその子が、菅原くんみたいに勘違いしてしまったら。木葉と私の関係を、“ただの友達”以上だと思ってしまったら。もしそうなったら、私は……私が、木葉の恋を、邪魔することになってしまうのでは。木葉の気持ちを、無駄にすることになってしまうのでは、
「っばっ……!苗字!前見ろ!!」
『っ、え??』
沈んでいた目線と思考が、木葉の声に引き上げられる。それとほぼ同時に掴まれた二の腕。驚きに俯いていた顔を上げると、目の前には固いコンクリートの電柱が。
『っ!?……び…………びっくりした………』
「こっちの台詞だっつーの」
ため息混じりに吐かれた台詞に肩を縮める。「ご、ごめん。あと……ありがとう、」と謝罪とお礼を口にすると、ん、と小さく頷いた木葉の手が、二の腕からゆっくりと離れて行く。
「ちゃんと前見て歩けよ」と注意を促す声に、うん、と頷き返すと、ジャージのポケットに手を入れて歩き始めた木葉に、慌てて隣へ駆け並んだ。
「……また考えごとしてたのかよ?」
『……また??』
「前もボケっと突っ立ってだろうが。……黒尾のこと、考えてて、」
不機嫌な声で紡がれた黒尾くんの名前に、ああ、と小さな声を上げる。木葉が言っている“前”と言うのは、夏休み中、コンビニ前で会った時のことだろう。
「ぼ、ボケっとはしてないよ」と拗ねた声で反論すると、「ボケっとしてなきゃコンビニの入口なんかで立ち止まらねえだろ」と正論を返してきた木葉。う、と言葉を詰まらせて答えを口篭っていると、で?と顔を顰めた木葉に、きょとりと目を瞬かせた。
『で?って……なにが??』
「…また、黒尾と何かあったのかよ?」
『え?別に何もないけど…………?』
「……………………じゃあ……………………菅原、とは?」
『?菅原くん??』
どうしてここで彼の名前が出るのだろう。疑問に思いつつも、「何も無いけど?」と首を捻ったまま答える。すると、何故か止まった木葉の歩み。数歩先で慌てて足を止めると、立ち止まった木葉を肩越しに振り返った。
「………ほんとだな?」
『え??』
「ほんとに菅原と何もねえんだな??」
『……ないけど……。……まさか木葉、菅原くんのことまだ疑ってるの?昼間のあれは、目に砂が入っただけだってば』
「昼間のことはもう分かってるっつの!そうじゃなくて、俺が聞いてんのはさっきのことだよ!」
『……さっき……?』
「…………菅原と…………話してただろうが、」
どことなく拗ねた声色で綴られた言葉。気まずそうに目を逸らす木葉に、また首を傾げてしまう。
確かに話はしていた。していたけれど、それの何が気になるというんだ。「世間話してただけだよ」と当たり障りのない答え方をすると、納得出来なさそうに眉間に皺を寄せた木葉は、「じゃあ何考えてたんだよ?」と更に質問を重ねてきた。
「電柱に突っ込んで行ってんのに気づかないくらい、なんか考えてたんだろ?」
『それは……菅原くんのことを考えてた訳じゃなくて……』
「……じゃあ、やっぱり黒尾かよ?」
『ち、違うってば!黒尾くんでも菅原くんでもなくて、木葉のこと考えてたの!』
「っ、は???」
不機嫌な顔が一転する。呆けた顔で固まる木葉に、漸く自分の言動を省みる。木葉の事を考えていたのは本当だけど、今の言い方だと、なんかちょっと、変な意味に聞こえてしまうのでは。
『あ、ち、違くて!変な意味じゃなくて!』
「っ、お、おう、」
『実は……菅原くんに、木葉か黒尾くんと付き合ってるのかって質問されて…………』
「……………………は??」
『も、もちろん否定したよ!!木葉とも黒尾くんとも付き合ってないし、木葉とはただの友達だからってちゃんと伝えた!』
慌てて言葉を付け足していくと、突然胸を押え始めた木葉。不思議な行動に「?どうしたの?」と首を傾げると、胸を押さえたままの木葉は、「べ、別に」と引き攣った顔で答えた。
「………で?“ただの友達”ってちゃんと答えたのに、なんで電柱に突っ込んでったんだよ」
『……木葉に……申し訳なくなって……』
「は??」
引き攣っていた顔が怪訝なものへと変わる。向けられる視線に、う、と肩が縮めると、「何が申し訳ねえんだよ?」と木葉は片眉を吊り上げた。
『……だって、菅原くんにそういう風に見えるってことは、それだけ私が、木葉に甘えてるってことでしょ……?甘えてること自体もそうだけど、それで周りに勘違いさせてる思うと、すごく、その……申し訳ないなって…………』
だんだん小さくなる声は、最後まで木葉に聞こえただろうか。木葉は優しい。優しくて面倒見がいい。だから私を気にかけてくれる。そして私は、そんな木葉の優しさに何度も何度も助けられてきた。
赤葦くんを好きになってから今日まで、木葉はずっと傍に居てくれた。それが心強い反面で、だからこそ木葉に甘えてしまうのだと思う。かっこ悪いところも。情けないところも。全部知ってる木葉になら、甘えてしまってもいいのかなって、自分で自分を甘やかして。
俯いた顔が上げられない。分かってる。こんな事で木葉は私を突き放したりしないって、もう、十分知ってる。でも、それでも顔が上げられないのは、木葉に顔向け出来ないのは、今自分が、酷く情けない顔をしていると分かっているから。
流れた沈黙に瞼を閉じる。何か言わなきゃと分かっているのに、何を言えばいいのか思いつかない。トートバッグの持ち手を掴む手に力がこもる。とにかく顔をあげねば、と閉じた瞼を持ち上げたとき、
「レモンのはちみつ漬け」
『……………………へ………………?』
「レモンのはちみつ漬けが食いたい」
れもんの、はちみつづけ???
脈絡のない単語に思わず顔が上がる。ぽかんとした間抜け顔で木葉を見つめると、「お前が言ったんだろうが」と拗ねたように返す声に、え?と小さな声を漏らした。
「誕生日プレゼント、考えとけって言ったろ」
『……そ、それは言ったけど……でも、なんで今……』
戸惑いを隠せず木葉を見上げる。夏休みの終わり頃、誕生日プレゼントとして欲しいもの考えてて欲しいと確かに言った。言ったけど、でも、どうして今このタイミングで言うんだ。明らかに会話が繋がっていない。
「んだよ、ダメなのかよ?」
『だ、ダメじゃないけど、でもあの、なんで今なのかなって、』
「思いついたから今言った。ただそんだけ」
『そんだけって…………』
しれっとした顔で目線を逸らす木葉に、ついオウム返しで答えてしまう。そんだけって。いや、別に構わないのだけれど。いつ答えるかは木葉の自由だけれど。でも、なんでさっきのタイミング???
困惑する私を他所に、「ほら、行くぞ」と止めていた歩みを再開させた木葉。え、と驚きつつ、慌てて木葉を追いかける。隣に並んで伺うように木葉の横顔を見上げると、前を向いたままの木葉の唇が徐に動き出した。
「別にいいよ」
『っ、え…………?』
「だから、別にいいんだって。勘違いされようと、どう思われようと、俺は別に気にしない」
真っ直ぐ前を向いて紡がれた言葉。夜の空気を震わせて届く木葉の声は、穏やかなのに力強い。
「周りの奴らがなんて言おうと、俺と苗字がどんな関係か、決めるのは俺たち自身だろ。だから、申し訳ないとか思わなくていい。周りの目なんて気にしなくていい。つーかそもそも、甘えてるとかそんなことねえから。こうして苗字のこと送ってんのも、泣いてる苗字を放っておけねえのも、……苗字に、笑ってて欲しいって思うのも。全部俺が、勝手に思ってやってることだ」
『……木葉……』
「……けどもし、もし苗字が勘違いされたくねえっつーなら………そんときゃ俺も考える。距離置くなり、話し掛けねえようにするなり、なんなりする。でも、そうじゃねえなら。こうして隣を歩いててもいいなら。お前が嫌だって思うまでは、今のままでいさせろよ。そんでそれが申し訳ないと思うなら、レモンのはちみつ漬け作って持ってこい」
足が止まる。立ち止まった私に気づき、一歩前で木葉も足を止める。振り返った木葉と目を合わせると、和らいだ瞳に映る自分に心臓が小さく音を立てた。
『………そんなことで、いいの……?』
「いいよ。苗字が作ってきてくれるなら、……レモンはちみつ漬けで、十分だよ」
鼓膜を揺らす木葉の声が優しい。
木葉は優しい。それは知ってる。知ってるけど、でも、今日の木葉は、なんだか、
「…おい、早く帰んねえと母ちゃんが心配すんだろ」
『あ、う、うん、』
木葉の声に促され、駅への道のりを歩き出す。見上げた木葉の横顔はいつも通りだ。
さっきの、目が合った瞬間の木葉は、あの日、拾ったキーホルダーを渡した時の、
「電車の中で寝て、乗り過ごすなよ」
『わ、分かってるよ』
赤葦くんに似ていたなんて。
そんなこと言ったら、笑われてしまうかな。