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三年生夏(6)

二階分ほど下った踊り場で足を止める。エレベーターの利用者が多いせいか、他に階段を通る人の気配がない。早足で降ったせいか少し浅くなった息を整える。掴んでいた制服の袖を離してゆっくりと振り返ると、見上げられた黒尾くんは気まずそうに頬を掻いた。どうやらここに連れて来られた理由は察しているようだ。
眉根を寄せ、じっと黒尾くんを見続ける。申し訳ないとばかりに眉を下げた黒尾くんは、少し重たげな様子で口を開いた。


「…………怒ってる?」

『…………ちょっと…………』

「だよなあ……」


居た堪れなさそうに首元に右手を添えた黒尾くん。ぐるりと辺りを一周させた視線が、再び私へ戻ってきた。


「……ごめん。その……一応言い訳してもいい?」

『…………どうぞ、』

「ありがと。…………えっと…………さっきはさ、赤葦にちょっと八つ当たりしたくなったと言うかなんと言うか……。……名前ちゃんのことフッといて、何もなかったみたいな顔して名前ちゃんを気にかけてんのがすげえムカついて……」


流暢に喋るイメージが強い彼にしては、随分と言葉を詰まらせている。八つ当たりだと言っている以上、黒尾くんも自分で思うところはあるのかもしれない。口篭る彼に途端に怒りが鎮火していく。
多分黒尾くんは“フラれた子”の立場になって赤葦くんを見てくれたのだろう。赤葦くんの態度は至って普通だ。私が告白した前と後で、彼が大きく変わった所はない。でもそれは、私がお願いしたからだ。これからも赤葦くんの友達として仲良くしたいと、そう私が望んだ。黒尾くんからすれば、フった相手に期待を持たせるような対応に思えたのかもしれない。だからわざと突っかかるような言い方をしてしまったのだろう。黒尾くんの言葉もまた、フラれても尚赤葦くんを好きでいる私のために吐かれた言葉だとすれば、彼を責めるのはお門違いかもしれない。でも。


『赤葦くんにフラれた時、これからは友達として仲良くしたいって最初に言ったのは私の方なの。だから、赤葦くんが何もなかったみたいな顔してても何も悪くない。私が望んだことだから、』

「……バッティングセンターでもそんな風に言ってたね。ただの友達になるって約束したんだって」

『うん。……それにね、私は……赤葦くんが庇ってくれたり、優しくしてくれたりしても、勘違いしたりしないから大丈夫だよ』

「……なんでそう断言出来んの?赤葦のこと、まだ好きなんだよね?」

『それは、』


“………俺は、先輩とは付き合えません”

“好きな子が、いるんです”


春休みの書庫。あの日赤葦くんの口から聞かされた言葉を、忘れることなんてきっと出来ない。
赤葦くんは私と付き合えない。だって彼には好きな子がいるから。赤葦くんは私を好きにならない。だって彼は、


叶絵ちゃんが、好きだから。


ポロリ。目尻から涙粒が零れ落ちた。鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなっている。変なの。なんで私、泣いてるんだろ。赤葦くんのキーホルダーが叶絵ちゃんから貰ったものだと知った時も。赤葦くんにフラれた時も。その時の事をかおり達に話した時も。泣きたくなる時はいつも苦しくて悲しくて、そんな気持ちが溢れてしまうように涙を流してきた。
でも、今は違う。自分でもどうして泣いてしまったのか分からないくらい、自然と流れた涙だった。
赤葦くんを好きになったことに後悔はない。その気持ちをなかったことにしたいとも思わない。これからは友達として接していけたらと思ってる。赤葦くんを好きになったからバレー部のみんなとだって仲良くなれた。赤葦くんを想って頑張ってきたことは、何一つ、無駄じゃない。
でも。でも少し、少しだけ思い出してしまった。

赤葦くんに気持ちが届かないと、分かった時の胸の痛みを。

頬を伝って流れていく涙に黒尾くんがギョッと目を見開く。「ちょ、名前ちゃん!?」と慌て始めた彼に、慌てて涙を隠そうと手の甲で瞼を押さえる。最悪だ。こんな所まで引っ張ってきて、こんな情けない姿見せてしまうなんて。
「ご、ごめんね、目にゴミが入ったのかな、」なんて下手くそな嘘で誤魔化してみたけれど、もちろんそんな嘘に黒尾くんが騙されてくれるはずもなく、目を隠す手の指先に慰めるように黒尾くんの手がそっと触れる。


「ごめん。俺、マジで余計なこと言ったね」

『っ、違うの……!今のは、その、黒尾くんがどうとかじゃなくてっ……!お、思い出し泣き、みたいな!!』


自分を責める黒尾くんの言葉に慌てて首を振る。瞼を押さえていた手を退かし、もう一度黒尾くんを見上げると、ひどく悔いた顔をした彼と目が合って慌てて口を動かした。


『ほ、本当に違うんだよ!…………く、黒尾くんが、赤葦くんを責めるのは辞めて欲しいって思ったけど……それとこれとは別というか、今のは私の気持ちの問題というか、』

「……そういう気持ちにさせた時点で、俺が悪いと思うんだけど?」

『黒尾くんのせいで泣いたわけじゃないんだよ!ただ……ただ少し、思い出しちゃっただけで……』

「…………なにを?」

『………赤葦くんに、私の気持ちは届かないんだって知った時のこと、思い出して、』


赤葦くんに優しくされても勘違いなんてしない理由。それは、彼には叶絵ちゃんという特別な子がいると知っているから。それを初めて知った時、とにかく泣きたくて仕方なかった。初めから叶うはずのない恋をして来た自分が酷く滑稽に思えて、みんなの前から走り出した途端に涙が溢れて止まらなかった。
でも、滑稽なんかじゃなかった。赤葦くんを好きになって変われた自分がいる。だから彼を好きになったことは滑稽なんかじゃない。そう気づけたのは、木葉はもちろん、かおりや雪絵。傍で見守ってくれた皆のおかげ。だから、体育祭の時かおり達に“落ち着いた”と言われて嬉しかった。漸く私も、赤葦くんへの気持ちを整理出来てきたのかなってそう思えた。それなのに。


『……最近ね、やっと気持ちに整理が出来てきたつもりだったんだ。けど、さっきみたいに思い出し泣きしちゃうなんて……やっぱりまだ、前を向けてないのかな……』


唇から零れた弱音に嫌気がさしそうだ。気まずさに目を伏せ、足元を見つめる。多分そろそろ木兎たちも戻ってきている頃だ。私も戻って勉強しないと。
そう思って視線をゆっくり持ち上げた瞬間、再び伸びてきた黒尾くんの大きな手。頬を包んだその手は、涙のあとを消すように親指で目尻を優しく撫でた。


「普通だったよ」

『っ、え……?』

「さっきの名前ちゃん。赤葦と同じ空間にいて、同じ机に座ってんのに、すげえ普通だった。……自分をフッた相手を前にしてるとは、何も知らなきゃ分かんねえくらいに」


優しく、穏やかで。でも少し拗ねたような声。
小さく見開いた瞳に映った黒尾くんは、とても柔らかく微笑んでいた。


「だから余計に嫉妬したんだと思う。赤葦も、名前ちゃんも。二人があまりに普通に接してて、名前ちゃんをフったくせに、当たり前みたいに笑い掛けられてる赤葦に嫉妬した。……そんな権利もないのにな」


自嘲するみたいに笑う黒尾くん。
嫉妬って。そういうの、直接言っちゃうの。あまりに明け透けな物言いに呆けた顔で固まってしまう。そんな私に更に優しく目元和らげた黒尾くんは、目尻を撫でていた指を止めた。


「人の気持ちなんて他人はもちろん、自分にだって分からない時がある。けど名前ちゃんは、俺から見たらちゃんと気持ちを進めようとしてる。だから“普通”に見えたんだ」

『……黒尾くん……』

「そもそもさ、赤葦への気持ちにケジメを付けようって。そう決めた時点で、名前ちゃんはちゃんと前を向けてんだよ。だってさ、立ち止まったままでいる事を望んでるなら、そんな風に決意することも出来ないじゃん?」

『……そう、なのかな……。私は、……ちゃんと、前を向けてるのかな……?』

「向けてるよ。少なくとも…………俺にはそう見えてる」


力強く頷いてくれた黒尾くんの言葉に、なんだかまた泣きたくなった。どうしてだろう。自分が不安に襲われた時、誰かに大丈夫だよって言って貰えると、そうなのかなって思えてしまうのは。
頬に触れる手が大きくて温かい。男の子にこんな風に触られるのは初めてだ。でも今は、大きな手から伝わる体温が心地よくて、くすりと顔を綻ばせてしまう。


『……この前とは逆だね』

「え?」

『前は、黒尾くんが慰められたって言ってたけど……今日は、私が慰められちゃったね』


きょとんと一瞬目を丸くさせた黒尾くん。すぐさま“前”を思い出した彼は、「ホントだな」と笑ってくれる。添えられた手に自分の手を重ね、自分も柔らかく笑って応えると、そのままのゆっくり唇を動かした。


『ありがとう、黒尾くん。おかげで、元気出てきた』

「……それなら何より。……まあ、名前ちゃん泣かせたのも俺なんだけどね」

『そ、それはホントに違うから!気にしないでね……!』


「分かったよ」とからりと明るく笑う黒尾くんに、ほっと胸を撫で下ろす。和やかな雰囲気が訪れた時、バタバタと階下から聞こえてきたやけに大きな足音。駆け上ってくるような足音に、黒尾くんの手が離れる。二人で下の階へ続く階段に目を向けると、手摺の向こうに見えた萱色の髪。あっ、と目を見開いたのと同時に、下の踊り場に現れたのは、浅く早い呼吸を繰り返す木葉の姿だった。


『こっ、木葉??なんで下から、』

「っ、お、っ、お前がっ……!っ黒尾と、出て行ったって、っ、聞いたからっ……!!慌ててコンビニっ、出て来たんだよっ……!!!」


膝に手をつき、荒い呼吸の合間になんとか話そうとする木葉。額に滲む汗の量が、彼がどんなに急いめ来てくれたのかを教えてくれている。きっとかおりか猿杙が連絡したのだろう。心配した木葉は外のコンビニから、階段を一階一階調べて来たのだ。
少し落ち着いて来たのか。膝から手を離し、上体を起こした木葉が残りの階段も歩き上がってくる。木葉のこめかみから流れる汗に、きゅっと唇を引き結ぶ。流れる汗を鬱陶しそうに肩口で拭った木葉は、最後の一段を登り終えると、鋭く細めた瞳で黒尾くんを睨み付けた。


「……で?二人でここに何してたんだよ?」

「別になんも。ちょっと話してただけだっつの」

「はなし?」


怪しむように黒尾くんを見る木葉。慌てて「ほ、ホントだよ」と伝えると、私と黒尾くんを見比べた木葉が「何の話してたんだよ?」と眉間に皺を寄せた。


『せ、……世間話?』

「……お前、それを俺が信じると思ってんのか?」

「俺が赤葦に余計なこと言おうとしたから、連れ出されたんだよ」

「っ、はあ??」


包み隠さずホントの事を話した黒尾くんに、木葉が更に眉間の皺を深める。
黒尾くん、なんで正直に言っちゃうの。険しい表情の木葉に対し、普段と変わらぬ様子の黒尾くん。けれど視線だけはやけに鋭くて、二人の間に流れる険悪な空気に、背中に変な汗が滲んでしまう。
どうしよう。この空気、どうするのが正解なんだろ。
何をどう伝えるべきか考えあぐねていると、私と黒尾くんの間に割入ってきた木葉。隠すように前に立つ木葉の背中に驚いていると、木葉が再び黒尾くんに向かって口を開いた。


「……お前が、赤葦に何をどう言おうが俺には関係ねえよ。バレーに関係ねえとこで何しようがお前らの勝手だ。けどな、それで苗字を傷つけるっつーなら話は別だ」


言葉尻と共に木葉は一歩前へ出た。


「コイツらの事何も知らねえくせに、余計な口挟むんじゃねえよ!!苗字はちゃんと自分で前に進もうとしてる!後から出てきて横槍入れて、コイツの気持ち掻き乱すなよ!!」


荒々しい声と共に黒尾くんの胸倉を掴む木葉。普段の木葉からは考えられない烈しい様子に思わず息を飲む。
これまでも木葉が声を荒らげる所を見たことはあった。照れ臭さを隠す時。木兎が馬鹿なことを言った時。黒尾くんに揶揄われた時。でも、今日の木葉は今までと違う。苛立ちとか、誤魔化しとか、そう言うのじゃない。ただ純粋に、怒ってる。黒尾くんに向かって、怒りをぶつけている。
普段とは違う木葉の様子に微かに唇が震える。木葉が怒っているのは私のためだ。だから、私が止めなくちゃ。このは、とほとんど音にならない声で木葉を呼ぶ。伸ばした手で、少し汗ばんだ制服を掴もうとした時、それよりも早く黒尾くんが動き出した。


「傷つけるつもりはない。……なんて言ったところで、これまでの言動省みりゃ信憑性があるわけねえな。そこに関しちゃ、俺も反省してるよ。……でもな木葉、」


胸倉を掴む木葉の手を、怯むことなく黒尾くんは掴み返した。


「後から出てきて横槍入れんなっつーのだけは……納得出来ねえわ」

「………あ゛??」


地を這うような低い声を返した木葉。火に油を注ぐとはこのことだ。二人の間に流れる一触即発な空気に、木葉に伸ばし掛けていた手が止まってしまう。


「前とか後とか、出会った順番なんて関係ねえよ。名前ちゃんが俺の事意識してくれんなら、横槍だって入れるし、つけ入る隙はガンガン攻めてく」

「っ、お前な………!少しは苗字の気持ちも、「そんくらい、」っ、」


「そんくらい俺は、名前ちゃんに本気なんだよ」


凛と響く黒尾くんの声に、木葉の目が僅かに見開いた。
「放してくんね?」と少し低い声を放つ黒尾くん。そんな彼に奥歯を噛み締めていた木葉が口を開こうとしたその時、


「あー!!!苗字発見!!」

「「『!?』」」


重たい空気をぶち壊す明るく大きな声。反射的に全員がそちらを振り返る。バタバタと慌ただしく上の階から駆け下りて来たのは木兎で、「何してんだよ苗字!!」とぷんすか怒りながら木兎は私たちの傍へ。


「苗字がいねえと!ぜんっっっぜん進まねえんだけど!!」

『え、あ、ご、ごめん……?』

「焼肉が賭かってんだからな!!ほら!!さっさと行こうぜ!!」

『あ、ちょ、』


腕を掴まれたかと思えば、そのままグイグイ引っ張って行こうとする木兎。慌てて「ま、待って木兎、」と呼び止めると、なんだよ?と不満そうに唇を咎らせた木兎が動きを止めてくれる。
木葉と黒尾くん。二人がぶつかっているのは、私のせいだ。元はもっと仲が良かったかもしれない二人。そんな二人が、さっきみたいに喧嘩してしまうのは、やっぱり見たくない。木兎の登場に、毒気を抜かれてぽかんとしている二人へ向き直る。さっきは二人の空気が怖くて、口を開くことさえ億劫だったけれど、今ならちゃんと伝えられるはずだ。


『こ、木葉、黒尾くん、』


呼ばれた二人がはっとしたように私を見る。腕を掴む木兎も不思議そうに私を見つめていて、「なに?どしたの?」と首を傾げてきた。


『な、仲良く、してくださいっ……!』

「「………………は???」」

『ふ、二人が、喧嘩するとっ、その……こ、怖いからっ…!いつもと違って、怖くなるからっ!……それに……今まで、一緒に合宿とかして来たんでしょ?その中で、築いてきたものだって、あるんでしょ……?それを、私のせいで、なかったことにして欲しくないし……』

「??なに??お前らケンカしてたの??」

「木兎くんはちょっと黙っててください」


意外そうに目を見開く木兎に黒尾くんが釘を刺す。
本心。を、伝えた気ではいるけれど、なんだかスゴく偉そうなことを言ったような気もする。要約すると、怒ると怖いしケンカは嫌だから、私のために争わないで!そんな感じじゃないだろうか。居た堪れなさについ俯いてしまう。集まってくる三人分の視線に身を縮めていると、くすりと聞こえてきた小さな笑い声に視線がそちらへ。


「っ、ごめん、名前ちゃんっ……笑っちゃ駄目だって思ってんだけど……ふっ……怖いから喧嘩しないでって、なんか、可愛くてっ……っ……」

「笑い過ぎだろ。……けどまあ、なんつーか……悪かったよ。お前に、怖い思いさせて、」

『……改めて言い直されると、なんかすごく子どもみたいな理由で止めてる気が……』

「けど、嫌だったのは本音だろ?俺らが喧嘩してんのが。……だからこれからは、気をつけるようにするよ」

「俺も。名前ちゃんに怖がられんのは勘弁だし」


二人の纏う空気が柔らかくなる。よかった。これなら大丈夫そうだ。ほっと安心して息を吐くと、状況が掴めない木兎の視線が私たちの間をきょろきょろ動き回っている。
「なになに??なんだったの??」「なんでもねえよ」「ほら、戻って勉強すっぞ」「????」クエスションマークを浮かべたままの木兎に、二人が声を掛けて先に歩き出す。「行こう木兎」と声を掛ければ、首を捻りつつ木兎も二人の後に続き、腕を掴まれ続けていた私も自然と木兎を追いかけることに。
木葉は私のことを心配して黒尾くんに強く当たり、逆に黒尾くんはそんな木葉が気に入らなくて煽ったり言い返したりしてしまう。多分、そんな感じだ。相性とか関係性とかもあるだろうけど、でも、出来るなら。出来るなら今まで同じように、良きライバルであって欲しい。バレーを通して深めた絆を壊さないでいて欲しい。

そう望むのは、私のわがままなのかな。

前を歩く二人の背中を見上げる。一定の距離を開けて歩く二人は、今、何を考えているのだろうか。
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