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三年生春(13)

「失礼しました」と一礼し、放課後の職員室を後にする。先生に渡された大学の資料はやけに重くて、ついついため息を零してしまいそうになる。
教室に戻ると他のみんなは既におらず、自分の荷物だけがポツンと残された状態だった。貰った資料を学生鞄に押し込んで漸く教室を出て靴箱に向かうと、階段で赤いジャージを着た男子生徒とすれ違って思わず足が止まった。あの色のジャージ。確か、サッカー部のものだったような。
踊り場で振り返り、すれ違った男の子を目で追いかける。けれど、捉えたのは翻ったジャージの端っこだけで彼が何部なのかまでは確認出来なかった。バレー部のだったら一目で分かるのに。白地に黒と金のラインが入ったジャージを思い浮かべながらまた歩き出す。そういえばあの赤いジャージ、音駒バレー部のジャージに似ていたな。いつかの練習試合で見た真っ赤なジャージを思い出すと、自然とそれを着ていた人物の顔まで浮かんできて、階段をおりる足が少しだけ遅くなった。

バッティングセンターに行った日から二週間。
黒尾くんから連絡は来ていない。

そりゃそうだ。黒尾くんからしたら、優しさで掛けた言葉にあんな風に言い返されたのだから。もう顔も見たくないと思われているかもしれない。


『(……連絡先、消した方がいいかな……)』


履き替えた上履きを靴棚に入れ、ポケット越しに携帯を撫でる。どうせもうこちらから連絡を取ることはないだろうし、黒尾くんから連絡が来るとも思えない。だったら使わない連絡先を残してモヤモヤするよりは、消してスッキリした方がいいかもしれない。
運動部の声を聞きながら出た校門。そこから通い慣れた通学路を通って駅に向かい、改札口を通ろうとした時、


「待った………………!」

『っ、え………………?』


定期を握った右手が突然誰かに掴まれる。
驚きで固まる私を他所に、掴まれた手を勢いよく引いた相手は、そのまま改札口を通ろうとする人の流れから私を引き抜いて、切符売り場の傍まで連れて行かれる。見覚えのある後ろ姿に目を見張っていると、腕を掴んでいたその人がゆっくり、ゆっくりと振り返った。


『く、黒尾くん…………?なんでここに、

「ごめん」

『……え…………』

「ごめん、名前ちゃん。……ほんと……マジでごめんな……」


掴まれた腕をそのままに深く深く頭を下げてきた黒尾くん。どうして彼がここに。ごめんって、それってこの間のことだよね?ていうか黒尾くん、学校は?終わってから来たのだとして、音駒と梟谷は決して近くない。先生と話していた時間があったけれど、音駒生の彼とここで鉢合わせるには相当急いで来なければ間に合うはずがない。
見開いた目で頭を下げたままの黒尾くんを見つめる。よく見ると、捲りあげられたワイシャツから覗く腕には汗が滲んでいて、右手を掴む彼の手はかなり熱い。小さく上下している肩と荒い呼吸から察するに、多分、いや間違いなく、黒尾くんは走って来たのだ。会えるかどうかも分からない私を、こうして捕まえるために、全速力でここまで来たんだ。
「ごめん、」と更に繰り返された謝罪の言葉に目尻が下がる。あの時、バッティングセンターで黒尾くんの口から吐かれた言葉を許したわけじゃない。強く言い返した事は悪いと思っているけれど、それでもやっぱりああ言う台詞は、大切な時に大切な人にだけ使う言葉だと思う。

でも。


『……黒尾くん、顔、あげて、』

「…………」

『とりあえず移動しようよ。……ここ、目立つし』


右手を掴む黒尾くんの手に左手を添える。ね、と再度言い聞かせるように呼び掛けると、漸く黒尾くんは顔を上げ、周囲の人達の好奇の目から逃げるように二人で駅を後にした。






            * * *






カラン。とグラスの中に入った氷が溶けて滑り落ちる。何か頼まなければとドリンクバーを頼んで一杯だけ注いでみたものの、私も黒尾くんも手をつけることなくテーブルに置いたままのそれは、溶けた氷で味が薄くなってしまっている。

駅を出て向かったのは、以前黒尾くんと二人で来たファミレスだった。あの時と同じ店員さんに案内され、窓際の席に向かい合わせに座ってみたものの、やはりどこか気まずくて視線がウロウロと彷徨いてしまう。
そんな私を見兼ねてか、「名前ちゃん、」と先に黒尾くんが口を開いた。返事の代わりにさ迷わせていた視線を彼へと定めると、申し訳なさそうに眉を下げた黒尾くんは、今日何度目かも分からない「ごめん」という台詞をまた口にした。


「……本当はもっと早く謝りたかった。けど、電話とかメールとかじゃなくて、直接謝りに来たかったんだ。でも部活があって中々来れなくてさ。漸くオフ日になったもんだから、勢いで突っ走ってここまで来たんだけど…………会えてよかった」


緩やかに弧を描いた黒尾くんの唇。安心したように柔らかく微笑む彼にまた目を逸らしそうになってしまう。
どうしてそんな風に笑うのだろう。どうしてそんな風に言えるのだろう。あまりに優しい黒尾くんの瞳に居心地が悪くなる。なんで、と疑問をそのまま口にすると、ん?と更に優しく目元を和らげる黒尾くん。そんな彼に、言葉を綴る口の動きが少しだけ遅くなった。


『……なんでそんな風に、謝りに来て、くれたの……?バッティングセンターで、黒尾くんがあんな風に言ってくれたのは……私を気遣ってくれたから、だよね?それなのに私……強く言い返して……なのになんで……』

「……チャンスだって思ったんだ」

『……チャンス……?』


意外な答えに聞こえてきた単語をそのまま聞き返す。
そ、と少し眉を下げて頷いた黒尾くん。チャンスって、何がチャンスなんだろう?と困惑した顔で彼を見ると、仕方なさそうに小さく笑んだ黒尾くんは、少し億劫そうに唇を動かした。


「……弱ってる所につけ込んだら、その場の雰囲気とか言葉に流されて、頷いてくれっかなって。……そんな風に、思ってた」

『……赤葦くんにフラれて弱ってる私なら、簡単に落とせるかもって思ったってこと……?』

「そうじゃなくて…………いや、もしかしたら自分では気づいてないだけで、そう考える気持ちもあったのかもしれないけど… ………でも、あの時オレが“付き合おう”って言った一番の理由は、単純に……下心からだよ」

『……した、ごころ……?』

「優しさだけで言った言葉だとしたら、こんなふうに謝りに来てない」


言葉の意味に瞠目する。下心って。それってまるで、黒尾くんが本当に私と付き合いたかったみたいに聞こえるけど。
何も言わない私に、困ったように眉を下げた黒尾くん。「ちゃんと伝わってる?」と首を傾げてくる彼に、思わず下を向いてしまう。


『……あ、あの、えっと……』

「……もう一つ言わせてもらうとさ、下心で付き合おうって言ったけど、軽い気持ちなんかじゃねえから。……まああんな言い方したせいで、名前ちゃんには嫌な思いさせちゃったかもしれないけど……でも、軽い気持ちで言ったつもりは一切ない。赤葦を忘れるための切っ掛けでも、俺の言葉に流されてでもいいから、名前ちゃんが頷いてくれたらなって。彼女になってくれたらなって思ったんだ。…………けどまあ、下手にその下心を隠そうとしたせいで、名前ちゃんを怒らせちゃったけどな」


苦く笑った黒尾くんが嘘を言っているように思えない。
小さく息を飲んで膝の上で手を握る。カラン、とまた氷の音がして、グラスに挿したストローが心許なくゆらりと揺れた。


『……私と黒尾くん、まだ……会って間もないよね……?今日を入れても、まだ四回しか会ったことないのに、』

「……五回目だよ」

『っえ……?』

「最初の一回目は、覚えてなくても仕方ねえけど」


どういうこと?とグラスに向けていた視線を持ち上げる。
何かを思い出すように優しく目を細めた黒尾くん。ゆっくりと一つ瞬きをした彼は、懐かしむように話し出した。


「名前ちゃんさ。一年の時、具合悪そうにしてる他校の奴に飲み物奢ったって言ってただろ?」

『え?う、うん……言ったけど…………』

「それ、俺ね」

『…………………………え?』

「名前ちゃんがジュース奢ったの、俺だから」


そう言って自分のことを指さす黒尾くんに目を見開く。
「スポーツドリンク、買って渡してくれたっしょ?」と楽しげに笑う黒尾くんに、確かにあの時奢ったのはスポーツドリンクだったと体育館裏にある人気の少ない自動販売機を思い浮かべた。


「……あん時の俺さ、一年で唯一レギュラー入りして。でも、二三年の先輩たちからしたらそれが面白くないみたいで、“身長だけで使って貰ってんだろ”って結構嫌味とか言われてて。まだ海や夜久……同級生ともあんま馴染めてない時で、カッコつけて我慢して、でもやっぱりキツくて。合宿中、逃げるみたいにあそこに居たんだ」


一つ一つ。思い出しながら話してくれる黒尾くんの表情はとても穏やかだ。緊張から握りしめていた手から力が抜ける。目の前の彼に釣られるように、自分の表情が和らいで行くのが分かった。


「慣れない合宿について行くのも精一杯で、なのに先輩たちは容赦なく色々言ってきて、弱音を吐けるような相手もいない。……正直、ちょっと泣きそうだった。だから、誰にも見られないように頭からタオル被って、泣きそうな顔を隠してた」

『……あ……』


そうだ。覚えてる。あの時、体育館裏で見つけた彼は、確かにタオルで顔を隠していた。
黒尾くんの声に懐かしい記憶が蘇ってくる。夏休み中。委員会の仕事で登校していた私は、飲み物を買おうとあの自販機まで行った。人気が少なく涼むのにも丁度いい場所だと先輩が教えてくれたその自販機は、その時私が気に入っていた紅茶が唯一置いてある場所で、少し不便な場所だったけれど、紅茶欲しさによく足を運んでいた。
その日もそう。いつも通り紅茶を買おうと体育館裏へ赴くと、自販機のそば。体育館裏の日陰に、陽射しから逃れるように、小さな段差に腰掛けて座る男の子がいた。


「人目を避けて休んでたのに、人が来たのが少し嫌で。余計に顔を隠そうって俯いたら、飲み物を買いに来たその子が急に話しかけてきたんだ」


“お、……おつかれ、さま……ですっ…………”


「ちょっと震えた上擦った声で恐る恐る声掛けられて、なんだよって煩わしく思って返事もせずにいたのに、その子は懲りずにまた話しかけてきた」


“あの……大丈夫、ですか?”

“……こんなに暑いと、参っちゃいますよね、”

“本当にキツくなった時は、誰かにちゃんと、伝えてくださいね”


「そう言ってその子は、俺の隣に買ったばっかの飲み物置いて歩いて行っちまったんだ。渡されたペットボルトに気づいて、慌てて顔上げたんだけどもう居なくて。無駄にすんのも勿体ねえなって貰ったスポドリ飲んでたら、さっきのその子の言葉を思い出して。…………気づいたら、いつの間にか泣いてたよ。自分でも訳わかんなくて、泣きながらスポドリ飲み干した」

『…………』

「したらさ、なんかすげえスッキリして……体育館に戻ってすぐ、どこ行ってたんだって声掛けてきた夜久と海に全部ぶちまけた。先輩のイヤミがうぜえ、とか。俺がレギュラーなのは実力だ、とか。この暑さの中で合宿とかマジでシンドい、とか。とにかく全部話して、そしたらアイツら呆れた顔で言ったんだ。“やっとかよ”って」


懐かしそうに、でもどこか擽ったそうに笑う黒尾くん。
きっと彼のチームメイトは待っていたのだろう。黒尾くんが自分から、愚痴や弱音を吐いてくれるのを待っていたのだ。「いいチームメイトだね」と穏やかな声をかけると、「まあね」と答えた黒尾くんは嬉しそうに破顔した。


「溜め込んでいたもんを吐き出すことや、夜久や海と打ち解ける切っ掛けをくれたのは、間違いなく飲み物奢ってくれたその子だった。だから、顔も名前も知らないその子がどんな子なのか気になって仕方なかった。けど、分かってるのは多分梟谷生だろうってことくらいで、それ以上の情報はない。向こうも俺の顔は見てないし、多分もう会えねえだろうなって思いつつも、やっぱ心のどっかで気になってる自分がいて。……そんな時、名前ちゃんと出会った」


“お……つかれ、さま……ですっ……”


「すれ違いざまに掛けられた、緊張して少し上擦ったその声があの時と重なって……気づいたら引き止めてた。どっかで会ったことない?なんて、今思うとナンパもいいとこだよな」

『…それであの時……』

「最初はさ、やっぱ勘違いかって思ったんだ。声が似てたってだけで、確証はなかったし。……けど、雀田から名前ちゃんの一年の時の話聞いて、やっぱりって思ったんだ。んで、レモンのハチミツ漬けの礼だって理由つけて連れ出して、改めて名前ちゃんと直接話して確信した。この子があの時、俺に声を掛けてくれた子だって」


真剣な瞳に私が映る。あまりに真っ直ぐなその目に、目を逸らすことさえできなくて、ただじっと、黒尾くんの言葉を聞くことしか出来なかった。


「探してた目的は、礼が言いたかったからなんだけど……名前ちゃんは俺だって気づいてなかったし、わざわざ話して、あんなかっこ悪いとこ思い出されるのもなって黙ってた。けど、それでこれ以上誤解とかされんのは困るし、この前みたいなことになりたくないから、話すことにしたわけ」

『……黒尾くんが声をかけてきた理由は分かったよ?でも、やっぱり……その…………会って間もない事には変わらないし、お互い知らないことの方が多いよね?だから、その……なんていうか……まだちょっと………』

「……信じられない?」

『………えっと、その………ご、……ごめんなさい…………』

「いいや。むしろ正直に言ってくれてさんきゅ。……あー……まあ確かに、名前ちゃんの言う通り、俺は名前ちゃんについて知らないことの方が多いよ。……でもさ、いいなって思っちゃったんだよね、」

『いいなって……私が??』


目を丸くして尋ねた私に、黒尾くんは柔らかく目尻を下げ、そのまま、愛おしむように唇を動かした。


「ほっときゃいいのに、オレや研磨にわざわざ声掛ける優しいところ。こっそり持ってきたレモンのはちみつ漬けを、迷惑にならないようにって、黙って隠してた気遣い屋なところ。友達になって欲しいって言った時、少し照れながら笑って頷いてくれたところ。それから……赤葦のことを一途に思って、フラれても好きになった気持ちを大事にしてるところも。そういうとこ全部、すげえいいなって思ったんだ。すげえいいなって思って、こんな子が傍に居てくれたら幸せだろうなって…………………ごめん、また回りくどい言い方してんね、俺」


言葉の先を躊躇するようにガシガシと後頭部をかいた黒尾くん。あー……と少し言い淀むように言葉を詰まらせた後、真面目な顔を見せた彼は「つまりさ、」と意を決したように口を動かした。



「俺は、会って間もない名前ちゃんを、すげえ好きになっちゃったんだよね」

『っ!!!!』


ぶわりと顔に熱が集まる。今までずっとオブラートに包まれて伝えられていた想いを、今度はハッキリと告げられたことに、動揺せずにいられない。好きって、こんなに破壊力のある言葉だったんだ。
緊張と羞恥から大きくなる心臓の音。黒尾くんにも聞こえるんじゃないかというくらい響くその音を隠すように俯くと、「まあでも、」とわざとらしいくらい明るい声が聞こえ、下げていた視線を恐る恐る彼へと向け直した。


「さっきも言ったけど、名前ちゃんの言う通り、俺ら会って間もないし。知らないことが多いのも本当だ。だから今のは……告白とかそういんじゃなくて、決意表明みたいなもんってことにしてくんね?」

『けつい、ひょうめい……?』

「今の俺が名前ちゃんをどう思ってるのか知ってて欲しい。……そのうえで、これから名前ちゃんに俺の事を知ってもらって、俺も名前ちゃんのことが知りたいんだ」


「いいかな?」と少し緊張した声で尋ねてくる黒尾くん。
断るべき、だろうか。今私は、黒尾くんの事をそういう意味で好きではない。はっきり断れば、黒尾くんに変な期待をさせることはないだろうし、彼のことで悩む必要もなくなる。

けれど。

誰かのことを知りたい、知って欲しいという気持ちを、私は、痛いくらいよく知っている。
答えを待つ黒尾くんは目をそらさずじっと私を見つめてくる。また木葉に怒られちゃうかな。呆れた顔をする友人を思い出して苦く笑うと、控えめに、小さく小さく頷き返してしまったのだった。
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