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三年生春(3)

走って。
走って。
走って。
とにかく走った。


次から次に溢れてくる涙が渇くまで走り続けて、ようやく足が止まったのは、見覚えのない小さなバス停の前。小さな屋根と、時刻表が貼られた停留所のポール。屋根の下には少し古びた長椅子のベンチがあり、ベンチ裏には通路を挟んで一台の自販機が。自販機の隣には簡易的なバケツ型のゴミ箱が一つあって、空き缶やペットボトルだけでなく、新聞紙やプラスチックまでごちゃ混ぜに捨てられている。
じんわりと額に滲んだ汗が涙のあとを滑るように頬を伝う。丁度いい。渡せなかったレモンのはちみつ漬け、ここに捨ててしまおうかな。
トートバッグから少し乱暴に保冷バッグを取り出し、更にそこからレモンのはちみつ漬けが入った容器を取り出す。一緒に入れていた保冷剤は溶けてしまったようで、既に生温くなってしまったレモンのはちみつ漬け。馬鹿みたいに張り切って少し作りすぎてしまったそれを、ぐちゃぐちゃのゴミ箱の中に捨て入れようとした。

けれど。


『……やめよう。捨てるなんて……勿体ない、』


ゴミ箱に向かっていた腕を引っ込めて、容器をそっと抱え込む。せっかく、折角作ったのに、捨てるなんて勿体ない。大事に持っていたのに、捨てるなんて、出来るはずがない。
未練がましい自分に自嘲めいた笑みを零し、容器を抱えたままバス停のベンチへと腰を下ろす。誰もいないのをいい事に、そのまま容器の蓋を開けて、レモンを一切れ摘み食べると、口の中に蜂蜜の甘さが広がり、小さく息を吐く。


『あま………』


今朝味見した時はちゃんと美味しく思えたのに、今は何だか甘過ぎる。舌の上に残った甘さが無償に虚しくて、「…やっぱり捨てちゃおっかな」と蓋を閉めようとしたその時、


「じゃあ、俺にくれよ」

『え………』


ベンチ裏から伸びてきた手が、閉めようとした蓋の隙間からレモンを一つ攫っていく。目を見開いて後ろを振り返ると、摘みあげたレモンを頬張る木葉の姿が。
なんで、なんで木葉がここにいるの。
見開いた目をそのままに木葉を見つめていると、「なんだ、うめえじゃん」と拍子抜けしたように零した木葉は、ベンチ裏から右隣へ。持っていたエナメルバッグを地面に下ろし、人一人分の間を空けて隣へ座った木葉。「なんでここに、」と漸く驚きを言葉にすると、鞄から取り出したタオルで首筋を流れる汗を拭いながら「なんでもいいだろ」とぶっきらぼうな声が返ってくる。

木葉、汗かいてる。もしかして、いや、もしかしなくても、走って、来てくれたのかな。走って、探してくれたのかな。

キュッと唇を引き結ぶ。泣きながら走ったせいでぐちゃぐちゃになった顔を隠すように俯こうとすると、ん、と隣から差し出された手のひら。まるで何かを渡せと催促するようなその手と木葉の顔を見比べると、呆れたようにため息を零した木葉に「要らねえんなら貰うからな」と今度は容器ごとレモンが全て奪われる。あ、と止める間もなく二つ目のレモンを口の中に放り込んだ木葉。「やっぱ美味えじゃん」と独り言のように呟かれた声に、唇が震えるそうになる。


『……ありがとう……』

「……何が?」

『心配して、追いかけて来てくれたんでしょ?』


「だから、ありがとう、」ともう一度お礼を口にすると、照れ臭いのか、耳先を赤く染めた木葉は、返事の代わりに三つ目のレモンに手を伸ばした。


「俺はただ、レモンのはちみつ漬けが食いてえなって思って追いかけただけだっつーの」

『……持ってきた事知らなかったよね?』

「ぐっ……!い、いいから!そういうことにしとけ!!」


耳先だけではなく、頬っぺたまで真っ赤にした木葉が少し声を大きくする。そんな木葉がなんだか少し可愛くて、ふふっとつい笑ってしまうと、ほんの少し目を丸くさせた木葉が、どこか安心したようにそっと頬を緩めた。


「……部室で、赤葦の奴言ってたぜ。あの叶絵ちゃんって子は彼女とかじゃないって、」

『……うん……そうみたいだね……』

「………だったら、『でも、』っ、」

『でも、多分、赤葦くんは、……赤葦くんは、叶絵ちゃんが好きなんだと思う』


多分、と言いながら、確信したような言い方になってしまったのは仕方ない。だって、気づいてしまったから。叶絵ちゃんを前にした時の赤葦くんが、全然違うことを。叶絵、と呼ぶ声の優しさを。見つめる瞳の柔らかさを。なにより、

“叶絵がくれたものだしね”

優しく。柔らかく。愛おしさを詰め込んだように微笑んだ笑顔の意味を。
目頭がまた熱くなる。走って走って、泣くことを忘れるくらい走って、漸く止めた筈なのに、それなのに、どうしてこんなに簡単に涙ってでてきてしまうのだろうか。


『……私、ずっと舞い上がってた。初めて赤葦くんに会った時から、少しずつでも彼に近づけてるような気がして、赤葦くんの事を知る度に、勝手にどんどん好きになって……もっともっと仲良くなりたくて、近づきたくて、っ、好きに、なってもらいたくてっ………でも、』


“ありがとうございます、苗字先輩、”


あの時、赤葦くんが見せてくれた笑顔は、私が、好きになった笑顔は、叶絵ちゃんを想って、好きな子を想って見せてくれた笑顔だった。だから、私の恋は、


『っ初めからっ……叶うはずなんてなかったんだっ……!』


ポロポロと瞳から零れる涙が膝の上で握った手の上に落ちていく。泣いてるところなんて見せたくないのに、こんなかっこ悪い所を見られたくなんてないのに、それなのに、止め方を忘れたように次から次に涙は零れ落ちてくる。
ひっくひっくと嗚咽を漏らし、頬を流れる涙を少しでも隠そうと手の甲で拭っていく。こんな自分が情けなくて、かっこ悪くて、恥ずかしくて。そう思うと更に涙が溢れてきて、悪循環の繰り返しだ。
隣に座る木葉を見るのが怖い。きっと呆れているに違いない。せっかく“凄い”と言ってくれたのに、赤葦くんの事を好きになって少しでも変わることが出来た私を、木葉は凄いと言ってくれたのに、それなのに、こんなかっこ悪い姿を晒してしまうなんて。ごめんね、と涙混じりの声で謝ろうとした時、ふわりと頭に掛けられた白いタオル。一瞬驚きで涙が止まる。きょとりと目を瞬かせ、涙で濡れた瞳で恐る恐る木葉を見ると、いくつ目かのレモンを頬張った木葉はたった一言呟いた。


「…うまいよ」

『っ、』

「ちゃんと、うまいよ」


そう言って、またレモンを摘みあげる木葉。そんな一気に食べて大丈夫なの、とか。美味しいって言ってくれてありがとう、とか。言いたいことは沢山ある。沢山あるのに、震えた唇では上手く言葉にすることが出来なくて、結局そのまま、生ぬるいレモンのはちみつ漬けを食べる木葉の隣で、泣き続けることしか出来なかった。






            * * *






『……タオル、洗って返すね』


からりと笑ってみせたけれど、腫れた瞼のせいか上手く笑えている気がしない。
バス停で泣きじゃくっていたのはどのくらいの時間だろうか。子どものように泣きじゃくる私と無言でレモンを食べてくれる木葉。二人並んで長椅子のベンチに座っていると、一台のバスが来て、停留所で停車する。慌てて木葉が乗らない事を伝えると、扉が閉まって発車したバス。「さすがに移動するか」とエナメルを肩に掛けた木葉は、右手にレモンのはちみつ漬けが入った容器を持って立ち上がり、くるりとこちらを振り返る。きっと私が立つのを待っているのだと、慌てて涙を拭いて立ち上がろうとしたけれど、ポロポロ落ちてくる涙が中々止まらず、ぐすぐすと鼻をすするばかり。そんな私に伸びてきた大きな左手。迷うことなく私の震えた右手を掴んだ木葉は、「ほら、行くぞ、」と力強く、でも、とても優しく手を引いて、そのまま歩き出してくれた。
ゆっくりと歩く木葉に手を引かれたまま、後ろを付いて歩く私。まるで兄と小さな妹のような光景だったと思う。やっと落ち着いて来た時、涙で濡れたタオルに漸く気づいて、そうして発した第一声がさっきのものだった。


「別にそのまんまでもいいけど、」

『自分の涙で濡れたままのタオルをそのまま返したり出来ないよ。……それと、レモンも、その………食べてくれて、ありがとう』

「……俺が食いたいから食っただけだよ」

『でもそれ、もう冷たくなくて……そんなに美味しくなかったのに沢山食べてくれたから、』

「うまいって言ってんじゃん」

『でも、』

「これも……最初に貰ったクッキーも、バレンタインの時のチョコクッキーも。……全部、美味かったよ」


足が、止まりそうになった。
けれど、手を引く木葉が歩き続けるので、自然と私もその後を追いかけるように歩いて行く。


「赤葦に食べてもらいたくて、菓子作る練習してんのも知ってる。朝早く起きて、弁当作ってきたりしてんのも知ってる。いつアイツと会ってもいいように、髪型変えたり、メイクしたりしてんのも知ってる。全部知ってる。俺は、知ってる」

『っ、……このは……』

「そんな風に頑張って来てんだ。泣いたって仕方ねえよ。……泣きたくなるくらい、赤葦を好きってことなんだから」

『ふっ………もうっ………せっかく、っ、止まって、来たのにっ……』

「いいじゃん。今は好きなだけ泣けば。したらきっと…………明日にはいつも通り、笑えんだろ」


前を向いたまま、掛けられる声の優しさに止まっていた涙が再び溢れてくる。涙混じりの籠った声で「このは、」と前を歩く木葉を呼ぶと、「……なんだよ?」と少しぶっきらぼうに返ってきた声。


木葉は足を止めない。振り返ることもない。けれど、


『ありがとうっ………』

「………ん、」


右手を引く大きな左手から、確かな優しさが伝わった。
春休み。夕暮れ前。木葉に手を引かれて歩いた帰り道は、切なさと恋しさと、優しさが詰まった、そんな時間だった。
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