二年生冬(8)
バレンタイン当日。学校全体がそわそわと落ち着かない空気に包まれているのは気のせいじゃないだろう。かく言う私だって、朝からずっと緊張しっぱなしで、カバン入れたチョコレートがずっと気になってしょうがない。
「何作ってきたの?」と楽しそうに尋ねてきたトモちゃんに「ガトーショコラ」と答えると、「いいなあ、美味しそ〜」と雪絵が羨ましそうにカバンを見つめる。「雪絵達にも作ってきてるよ」と友チョコ用のタッパーを出して三人に渡せば、やったー!と少し大袈裟に喜んだ雪絵が早速タッパーに手を伸ばした。
「ところで、本命の方は?いつ渡すの??」
『一応昼休み、かな……。図書委員の当番になってるって伝えたら、取りに来てくれるって言ってくれたから』
「ほうほう。じゃあ昼休みが本番ってことね!」
「いくら赤葦でもバレンタインのチョコの意味くらい分かってるだろうし……貰ってくれるって事は、脈ナシではないかもよ??」
『そ、そうかな………?』
このこの!と肘で小突いてくるかおりに頬をかく。告白、とまでは行かないけれど、少しでも意識して欲しいと言う下心はあるので、かおりの言う通りバレンタインのチョコの意味に気づいてくれたら、私としては万々歳だ。
午前中最後の授業を終え、委員のために図書室へ向かおうとすると、「いってら!」「報告よろしくー!」「頑張れ!」と三人分のエールが送られる。心強いけれど、ちょっと恥ずかしいな、と苦く笑って頷き返した時、視界の端に映った木葉の姿。頬杖をつき、窓の外を見ている為、木葉の顔を見えない。一応木葉や木兎にも友チョコを用意してきたのだけれど、渡すのは後になりそうだ。少し後ろ髪を引かれつつ、遅れる訳にも行かないので教室を後にすると、いつの間にか振り返っていた木葉がこっちを見た事には全く気づけなかった。
「あ、こんにちは、苗字先輩」
『!?あ、赤葦くんっ……!こ、こんにちは……!!』
足早に書庫に辿り着いた私を迎えたのは、なんと赤葦くんだった。どうやら本の返却に来たようで、彼の手には分厚い小説が抱えられている。「待たせてごめんね!」と謝り、慌ててカウンターへ向かうと、いえ、と小さく首を振った赤葦くんが本を差し出してきた。
「また何か借りたいんですが…少し見ていいですか?」
『う、うん!それはもちろん!どうぞどうぞ、』
「ありがとうございます」
奥の方へと消えていった赤葦くんを確認し、本命チョコが入った小さな紙袋を膝の上へと置く。
赤葦くんが本を持ってきたら、渡そう。
そう決めて、よし、と一人意気込んでいると、ガラリと書庫の扉が開き、「あ、あの、」と可愛らしい声が。
『?はい??』
「……一年生の、赤葦くんって来てますか??」
『え……』
入って来たのは、ほんのり頬を赤く染めて控えめな声で尋ねてきたのは可愛らしい女の子だった。「来てます、けど、」と歯切れ悪く返して、赤葦くんがいる書庫の奥へ視線を向けると、きゅっと唇を噛み締めたその子は、パタパタと奥へ走っていく。カウンターの横を通り過ぎていくその子の手には、綺麗にラッピングされた小さな箱が握られていて、それが何か気づいた瞬間、背中にひんやりと冷たいものが走る。
チョコだ。あの子も、赤葦くんに、チョコを渡すんだ。
思わず立ち上がって、カウンターから飛び出そうとする。けれどすぐ様思い直し、委員用の小さな椅子へと座り直す。バレンタインにチョコを渡す。それがどういう意味か痛いほど知っている。気にならないと言えば嘘になるけれど、でも、だからと言って盗み聞きしていい事じゃない。不安と焦りに胸を覆われながら、ただじっと二人が出てくるのを待っていると、またパタパタと小さな足音がして、先程の女子生徒がカウンターの横を通り過ぎる。
『(あっ………)』
ガラッ!と入ってきたよりも少し乱暴に扉を開けた彼女は、閉めることも忘れてそのまま廊下を走り去る。
泣いていた。彼女の目には確かに涙が浮かんでいて、手にはチョコを抱えたままだった。
他人事とは思えない様にギューッと胸が苦しくなる。もしかすると私も、彼女と同じような結果になるかもしれない。と目を伏せていると、「あの、先輩、」と声が掛かり、いつの間にか目の前には赤葦くんの姿が。
『あ……ご、ごめん。借りる本決まった??』
「はい。これお願いします」
『了解ですっ』
渡された本のバーコードを通して、はい、と赤葦くんに差し戻す。ありがとうございます、と本を受け取った赤葦くんの手には、やっぱりチョコは握られていない。
断ったんだ。あの子、結構可愛かったけど、赤葦くんのタイプじゃなかったのかな。
ズキズキと胸の奥が痛み出す。ああもう。なんでこんなタイミングで、誰かの失恋を目撃してしまったんだろう。膝の上に乗せた本命チョコを隠すように俯く。やっぱり辞めて置こうかな。渡さなければ、赤葦くんに振られることはない。振られなければ、口にさえしなければ、ずっと赤葦くんを想っていられるのだから。
パラパラと本の中身を確認した赤葦くんが、「あの、じゃあ俺はこれで、」と会釈をして振り返ろうとする。またね、とそう声をかけようと口を開いたその時、ふと思い出したのはあの日の自分の言葉だ。
“やっぱり私は、赤葦くんの、彼女になりたい”
『っ、ま、待って!赤葦くん!』
見送りの台詞に変わって、引き止める言葉を紡ぎ出す。ピタリと足を止めた赤葦くんが、ゆっくりと振り返ったのを確認し、チョコを持ってカウンターから飛び出すと、赤葦くんの前に立って持っていたチョコを勢いよく差し出した。
『これ……!前に言った、チョコレートです……!』
差し出す手が震えている。赤葦くんにもバレているだろうか。じっとチョコを見つめていた赤葦くんが、そっと息を吐き出す。ビクッと肩を揺らして、恐る恐る赤葦くんの顔を見上げると、どこか気恥しそうに頬をかいた赤葦くんが、「なんだ、」と眉を下げて照れたように微笑んだ。
「俺、あの時勘違いしたのかと思いました」
『………勘違い………?』
「苗字先輩がチョコを作ってくるって言ってたことです」
『え!?』
どういうこと??と目を丸くして赤葦くんを見つめると、「聞き間違えとかだったのかなって」と付け加えられた声に慌ててブンブン首を振った。
『聞き間違えじゃないよ!私、赤葦くんに作ってくるって言ったから……!』
「みたいですね。だから良かったです。今日ここに来て、」
『え……』
差し出したままだったチョコが赤葦くんの手に渡る。あ、と小さな声を漏らして赤葦くんからチョコに視線を向けると、目元を和らげた赤葦くんも受け取ったチョコを見つめていて、「ありがとうございます、」とどこか安心したようにお礼を言ってくれた。
「食べますね、これ」
『う、うん!一応味見はしたから、食べられる程度にはなってるよ!!』
「食べられる程度って……苗字先輩のクッキー美味しかったので、今日のチョコも美味しいと思いますけど…」
『で、でも、人に食べてもらうって思うと不安が大きいって言うか……』
「ああ、なるほど。けど、先輩のお力になれるように、食べたらちゃんと感想を伝えるので、」
『……………………………かんそう…………………………?』
え?どういう意味??
キョトンと目を丸くして赤葦くんを見ると、じっとチョコを見つめたまま赤葦くんは微笑ましそうに口元を弛めた。
「食べてもらいたい人がいるって言ってましたよね?」
『え……あ、う、うん。言ったけど……?』
「その人のために練習しとるとも」
『………言ったけど……』
「お菓子に詳しいわけではないですが……先輩が“その人”に渡せるくらい自信がつくように、ちゃんと感想をお伝えしますね」
『………………』
ちょっと待って。もしかして、いや、もしかしなくても。
これは、まさか。
『(全然伝わってない!!!!!!!)』
あまりの衝撃にグラりと身体が揺れる。え、と驚く赤葦くんを前に、何とか意識を保つために、後ろへ引いた右足に力を込める。バレンタインにチョコを渡す。それがどういう意味なのか、どんなに恋愛ごとに疎い人でも、知っていると思っていた。そう、思って“いた“のだ。でも。
まさか、赤葦くんがここまで鈍かったとは。
頭の中でかおりや雪絵の声がする。「赤葦って色恋沙汰にはてんでダメだからねー」「疎いって言うか鈍いって言うか、もはやある種の病気レベルー」と話していた二人を思い出し、本当だったんだなあ、なんてははっと渇いた笑みを浮かべていると、「あの……大丈夫ですか?」と心配そうに顔を覗き込まれて、慌てて体勢を整える。
『あ、う、うん……ちょっと、衝撃のあまり立ちくらみが……?』
「え?体調が悪いなら保健室に行きますか??」
『う、ううん!そういうのじゃないから!!』
「そうですか……?けど、無理はなさらないで下さいね」
『…うん、ありがとう、赤葦くん』
優しいなあ。今の優しさだけで、なんか色々復活出来たかも。私って現金なヤツ。
「チョコ、ありがとうございました」ともう一度お礼を言った赤葦くんが再度扉へと向かう。今度は引き止めずにしっかりと見送ると、赤葦くんが居なくなったことを確認してから大きな大きなため息を吐き出す。
鈍いとか、疎いとか。
かおりや雪絵からも聞いていたし、最近じゃ自分でも気づいていたけれど、でも、まさか、ここまで鈍感だったとは思いもしなかった。
苦く笑ってカウンターへ腰を落ち着かせる。かおり達に報告したら「だから言ったでしょ!」「もっと直球じゃないと!!」と怒られそうだ。はあ、とまた一つ大きなため息を零すと、なんとなく目についた赤葦くんが返却した本に手を伸ばし、意味もなくその本をペラペラと捲り始めた。