04
(※夢主視点)
大好きな人を失った。結婚さえ決めたこの世で唯一の特別な人。
笑った顔が好きだった。時折見せてくれる、くしゃっとした笑顔が大好きだった。低い声が好きだった。落ち着いた声で名前を呼ばれるのが大好きだった。優しいところが好きだった。不器用で、だけどとても温かい彼の優しさが大好きだった。
愛しい日々に思いを馳せながら、車窓に流れる景色を意味もなく見つめる。
退院から一ヶ月、そして、あの事故の日から三ヶ月が過ぎた。事故の後遺症で麻痺した下半身。入院中のリハビリをわざと怠ったため、車椅子がなければ動くこともままらない身体となった。
退院後もリハビリに赴くことはせず、実家に篭るだけの澆薄な時間を過ごしている私に、どうか定期検診にだけは行って欲しいと懇願してきた母。頭を下げて懇願する母を無下に出来ず、こうして病院へ向かうこととなった。
『(検診なんてしてもなんの意味もないのに……)』
彼の死を聞かされてからというもの、何度も、何度も何度も思った。死にたいって。いっそ私も、一緒に死にたかったって。けれど、命を捨てようと思う度、両親や友人達の顔が思い浮かんで来て、今もなお私は、彼のいない世界で生き続けている。
数ヶ月前まで美しくカラフルだった世界が今はモノクロに映る。赤なのか青なのかも分からない信号から目を背けるように俯くと、モノクロの世界を隠すように瞳を瞼で覆い隠した。
* * *
「名前、着いたわよ」
車の停車と同時に掛けられた声。随分と早い。体感的にはもう少し掛かると思っていたのに。
閉じた瞼をゆっくりと持ち上げる。緩慢な動作で顔を上げると、濁った視界に映ったのは、
『…………稲荷崎…………?』
青く懐かしい時間を過ごした母校だった。
どうして稲荷崎に。病院に行くはずじゃなかったのか。驚きに変わって込み上げて来た苛立ちと恐怖。震える指先を手のひらで握り込む。揺れる瞳を右隣へ移すと、何処か申し訳なさな顔を見せた母に、ぐっ、と奥歯を噛み締めた。
『なんのつもり………?なんで、なんで此処に連れて来たのよ!?!?』
「……あのね名前、これは、」
『今すぐ出して!!早く、早くここから離れてよ!!!』
張り上げた声が狭い車内に響く。ここは、この場所は、今の私がくるような場所じゃない。青くて、熱くて、愛しい日々を過ごした此処は、今の私が居ていい場所じゃない。痛々しさを露に眉尻を下げた母。早くしてくれと震える唇を動かそうとした。その時、
「出さんでください」
『っ、』
突然開いた助手席の扉。吹き込んだ風と共に現れたのは、
『………しんすけ………?』
陽の光を浴びて立つ、信介だった。
どうして信介が此処にいるのだろう。此処はもう、私たちがいるべき場所じゃないのに。とうの昔に過去となった場所なのに。
驚きで言葉を失う私に、「行くで、」と掛けられた信介の声。行くって、一体どこに。問いかけよりも先に伸びて来た信介の手。背中と膝裏に差し込まれたその手に、ふわりと身体を抱き上げられた。
『っ、いやっ!下ろして!!下ろしてよ信介!!』
「下ろさへん」
『っ、』
「絶対、下ろさへん」
身体を支える手に力が入ったのが分かる。車に背を向け、校門の方へ歩き出した信介。迷いのない足取りで校門を潜り抜けた信介は、青くて熱い、懐かしい日々を過ごした体育館に足を運んで行く。
やだ。やだよ。やめてよ信介。此処はもう、私たちの居場所じゃないんだよ。思い出の中にある過去の場所なんだよ。キラキラ輝く思い出が詰まったこの場所に、今の私を連れて行かないで。汚く壊れた私を、連れて行かないで。
目前に迫る体育館に、信介の身体を突き放そうとする。けれど、離すまいとでも言うように更に強く、強く抱きかかえられた身体。思い出への入口が近付いて来る。開け放たれた扉から注ぐ照明の光。揺れる瞳に映ったのは、
輝くコートに立つみんなの姿だった。
「お!来たな苗字!」
「ちょお見てや名前さん!サムの鈍り具合半端ないで!?」
「黙れや現役Vリーガー。こちとら毎日米握っとんねん。周りにいるバケモン達と比べんなや」
「確かに、侑んとこはバケモンの巣窟みたいなチームやな」
「間違いない」
赤木が声を上げ、侑が不満を漏らし、治がそれに突っ込んで、アランや角名、大耳や銀が小さな笑い声をあげている。まるで、まるであの頃に戻ったような光景だった。青くて熱くて目映い、あの頃に戻ってきたみたいだった。
震える唇を噛み締める。なんで、とか細い声で零した疑問の声に、緩く弧を描いた信介の唇がゆっくりと動き出した。
「昔、言うたよな。俺らのバレーやったら、何度でも見たいと思うって。……せやから、見せよう思うてん。何も見たない、何も聞きたない言う名前に、もっぺん見せようと思うてん」
淀みのない真っ直ぐな声が耳に届く。
靴を脱ぎ、フロアに上がった信介。そのまま中へと足を進めた信介はコート脇に置かれたパイプ椅子の前で立ち止まったかと思うと、ゆっくりと離された身体が椅子の上に優しく下ろされる。
戸惑う私に背を向け、コートの中へ足を踏み入れた来た。元稲荷メンバーが揃う此方側のコートに対し、ネットを挟んだ向こう側には、馴染み深い練習着を着た少年たちが集っている。多分この子達は、“今の”稲荷崎バレー部の子達なのだろう。
展開についていけず白黒する瞳。そこへ、名前、と懐かしい声がして。振り向くと、穏やかな笑みと共に歩み寄って来る黒須監督の姿が。目が合った瞬間、眉尻を下げた監督。「久しぶりやな、」と優しく掛けられた声に、情けない顔を隠すように顔を俯かせた。
『……どういうことですか……?なんで、なんでこんな、』
「信介に頼まれてん」
『信介に………?』
「どうしても名前に、自分らのバレーを見せたいんやて。ブランクもあるし、練習相手にもならんかもしれへんけど、それでもどうにか、機会を作って欲しいて頼まれてん」
「頭まで下げて来た教え子の頼みを、跳ね除ける程薄情やないで」と軽やかに笑う黒須監督。揺れる瞳を監督からコートへ移すと、コートの中心に集まって円陣を組む皆の姿が目に映り、堪らない何かが胸の奥に滲んで行く。
どうして。入院中、皆がお見舞いに来てくれているのは知っていた。けれど私は、何度も足を運んでくれた皆と絶対に会おうとはしなかった。わざわざ実家にまで来てくれた信介にだって、酷いことを言って突き放した。帰ってと。私のことは忘れていいからと。信介の優しさをわざと突き放した。
なのにどうして。どうして信介は、みんなは、此処に集まっているのだろう。私たちはもう、仲間でもチームメイトでも。そうであったのは過去の話で、今の私たちにはあの頃のような繋がりはない。
だから、突き放せばきっと、断ち切れると思っていた。差し伸べられる優しさや気遣いを拒み続ければ、断ち切ることが出来ると思ってた。それなのに。
ホイッスルの直後、コートに構えたみんな。次のホイッスル放たれたサーブを治がキャッチする。乱れたボールの下にすかさず潜り込んだ侑。ふわりとなだらかに上げられたトスに、ステップを踏んだアランが高く高く飛び上がる。
「っしゃあ!!!」
「ナイスキーアラン!!」
「さすが現役!衰えるどころか破壊力増し増しやな!」
「それに比べて……今のレシーブはなんやねん銀!一発目から走らせんなや!!」
「たった一ヶ月の準備期間で、Aキャッチ出来るレシーブ力が戻るわけあるかい!」
青くて熱い、懐かしい光景を前に、モノクロだった世界が色付いて行く。
もう何も、何も見たくないと、聞きたくないと、考えたくないと、そう思っていた。最愛のいない世界で、これ以上生きている意味なんてないと、そう思ってた。そう思ってたはずだった。なのに、なんで、なんでこんなに、
みんなのバレーが、愛おしいんだろう。
打球音やスキール音。ホイッスルの音が響く館内。黄色と青の鮮やかなボールが飛び交うコートを只管に見つめていると、セット中盤、銀島に代わってコートに入ったのは信介だった。
ビブスに描かれた“1”の文字を背負う姿が堪らなく懐かしい。笛の音の直後に打たされたサーブをレシーブで上げた信介。僅かに短くなったボールを侑がセットすると、スパイクを決めた治が信介の元へ。
「ナイスレシーブ」「そんなにナイスでもないやろ」「ブランク明けでアレなら十分ナイスですやん」
パンッ、と響いたハイタッチの音。酷く響いたその音に、心に熱が集まって行くのが分かる。震えた唇を噛み締める。懐かしさと愛おしさに何かが溢れてしまいそうになった時、セット終了を告げる笛の音が響いて、信介たちの足先がくるりと此方へ向けられた。
一歩。また一歩。信介との距離が縮まって行く。目の前に立う信介から注がれる優しい視線に、俯き気味だった顔を緩慢に持ち上げる。重なった瞳を柔らかく細めた信介は、その場にゆっくりと跪いた。
「……あの頃より、数段下手くそで、拙いバレーやったけど……どうやったやろ?名前の目には、どんな風映ったん?どんな風に見えたん?」
穏やかで優しい北の声に、胸の奥から溢れた何かで目頭が熱くなる。
何も見たくない。何も聞きたく。もう何も、何も考えたくもない。そう思ってた。そう思ってたはずだった。
けれど。
『………下手だった。あの頃よりずっと拙くて、下手くそで。………だけど、だけど私には、私にとっては、あの頃と変わらない、
大好きなバレーだったっ………』
溢れた気持ちが涙に変わった。
繋がらないレシーブに、決まらないスパイク。サーブミスだって多かったし、あの頃だったら監督の雷が落ちるような、下手くそで拙いバレーボール。
でも、だけど、私には、私の目には、変わらなく見えた。ボールを追う真っ直ぐな瞳が。コートに響く力強い声が。淀んだ瞳に映る全部が、あの頃と同じように、青くて、熱くて、何度だって見たいと思えるキラキラしたバレーだった。
決壊した涙が次から次に零れ落ちて行く。拭っても拭っても止まらない涙と嗚咽。ぐしゃぐしゃの顔を両手で覆い隠そうとした時、咎めるように伸びて来た信介の手。右手を左手に、左手を右手に伸ばした信介は、小さく震える指先をそうっと優しく包み込んだ。
「あの頃とは比べ物にならん、下手くそで拙いバレーやけど………そんなバレーでええなら幾らでも見せたる。名前が見たいと思うてくれるなら、何遍だって見せたる。………せやから、」
途切れた言葉と同時に優しく持ち上げられた両手。まるで祈るように、額を手の甲に添えた信介に濡れた瞳を微かに見開かせた。
「死ねばよかったなんて、言わんでや、」
『っ』
「頼むから、俺らために………生きててくれ、名前」
信介の声が、視線が、想いが、胸の奥まで浸透していく。
死ねばよかったと、本気でそう思った。あの人が居なくなったあの日からずっと、一人残った自分を恨み続けて来た。だけど、だけどそれは、ただ弱いだけだったのかもしれない。彼がいない世界と向き合うことが怖くて、自分で自分を責めることで楽になろうとしていた。
でも、そんな弱い私に、信介たちは手を差し伸べてくれている。弱くて脆い私の心を掬い上げようとしてくれている。
凍った心が溶けるのと同時に一層溢れた涙。止めなく流れる涙をそのまま、目の前に立つ信介に向けて、固く引き結んだ唇をゆっくりと解き開いた。
『………ありがとう、みんなっ………』
頬を滑った温かな滴が膝にこぼれ落ちる。紡ぎ出した感謝の言葉に目尻を下げた信介は、両手を包む手に力を込めた。
張り詰めた空気が融解する。嬉しそうに目尻を下げた角名と治が目を合わせるなか、おっしゃ!と声を上げた侑がグルグル肩を回し始めた。
「ほな、二セット目いこか」
「は???」
「は???やないやろ!高校生相手にギリギリ勝ちなんて、このままじゃチームに戻られへんわ!」
「いやいやいや!勝っただけでも奇跡やん!こっちは、お前ら三人以外全員ブランクあんねんで!?」
「ほな、そのブランクがなくなるまでやったろうやないか」
「現役Vリーガーの体力と一緒にすなアホ!!!」
騒いだ始めた侑と銀に、仕方なさそうに眉を下げた信介。繋いだ手を解いた信介が侑達の元へ向かおうとした瞬間、「名前さんかて見たいよなあ!?」とこっちに話を振ってきた侑。急な問いかけに一瞬目を丸くしながらも、くすりと緩んだ唇をそうっと動かしてみせた。
『……うん、見たい。皆のバレーなら、いくらでも見たい、』
濡れた顔に浮かべた笑顔に目尻を下げた皆。「名前さんの頼みならしゃあないな」「明日は筋肉痛間違いなしや」と笑いながらコートに入る皆の姿に思わず綻んだ顔。再びコートに構えた皆は、青くて熱くてあの頃と同じように、ボールを追い掛けたのだった。