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03


(※北視点)


 高三の夏。部活のない平日の放課後だった。
 クラスメイト達が後にした教室で一人残って日誌を書いていると、「あれ、信介?」と教室前方の入口から聞こえた耳心地の良い声。自然と手を止め、声の方へ視線を移すと、恐らく帰り際だったのだろう。学生鞄を持った名前がぱちりと目を瞬かせていた。
「帰らないの?」「これ書き終えたら帰るで」「これって……あ、日誌?」「おん、日直やってん」
 他愛のない会話の間に教室の中へ足を踏み入れた名前。失礼します、と律儀に挨拶をする“らしい”姿に目尻が下がる。物珍しげに教室内を見回しながらこっちに歩み寄って来た名前は、「七組の教室初めて入った」と楽しそうに笑ってみせた。


『信介、窓側の一番前なんだね』

「おん。黒板が見えやすいで」

『いいなあ。私今一番後ろの席だから、板書がしづらい時があるんだよね』

「確かに後ろの席やと、取りにくいことあるな。良ければノート貸そか?」

『あ、大丈夫。見えなかった時は、クラスの友達に見せて貰ってるから』


 ありがとう、と笑って窓の手すりに背中を預けた名前。半分だけ開いた窓から差し吹いた風が長い黒髪を優しく揺らす。乱れた髪を押さえて、横髪を耳に掛けた名前の右手。絵になる仕草をつい目で追っていると、伏せた瞼を持ち上げた名前とぱちりと視線が重なった。


『?なに??』

「………別になにも、」

『うそ。今見てたでしょ?』

「見てたけど、用があってみてたわけやない」

『……ふふ、見てたのは認めるんだ』


 「信介って素直だよね」とくすくす笑う名前に、胸の奥から滲み出る温かな気持ち。「そうでもないで、」と否定の声を返しつつ、溢れそうになる気持ちごとそっと瞼で覆い隠した時、徐に身体を翻した名前が窓の外へ目を向けた。


『部活がないと、手持ち無沙汰になっちゃうね』

「せやな」

『……引退したら、こっちが当たり前になるんだよね』


 寂しさの滲んだ名前の声に閉じた瞼が持ち上がる。ゆるりと動かした瞳で名前の背中を捉えると、校庭を見つめたまま名前は声を繋げ紡いだ。


『この前ね、友達に言われたの。“マネージャーって、ただ見てるだけだから飽きないの?”って。確かに、選手とは全然違う立ち位置だし、人によっては、ただ見てるだけなんてつまらないって思うのかもしれない。だけど、私は……バレー部入ってから、一度もそんなこと思ったことない。むしろ、飽きるどころか、何度だって見たいと思える。そのくらい、』


 背を向けていた身体がふわりと翻る。柔らかな風に吹かれて、長い髪が美しく舞った。



『みんなのバレーが、大好きだから』



 そう言って満面の笑みを見せる名前が愛おしかった。二人きりの教室に響く声が、愛おしくて堪らなかった。



 名前のことが、好きやった。



 けれど、同じ学び舎で過ごした三年間の中で、その気持ちを名前に伝えることは出来なかった。
 俺と名前は、同じ部活に所属する部員とマネージャーで、“友達”という言葉より“仲間”という言葉がしっくり関係だった。男子バレー部という限られた場所で築いた関係。そこに、恋愛感情なんて私情を持ち込む訳にはいかなかった。主将になってからは尚更だ。色恋に現(うつつ)を抜かす暇があるのなら、その時間を練習に費やすべきだと思った。主将として、部のためになることをするべきだと思った。
 なにより、今の自分では、名前を幸せに出来ないと思っていた。部の主将を努めながら、大事な人を幸せに出来る程自分が器用な質じゃないことは知っていた。高校生の時分で、誰かを幸せにしたいなんて、何を大袈裟に言うのかと思われるのかもしれない。けれど、あの頃から俺は、本気でそう望んでいた。名前に、幸せになって欲しかった。
 だから、自覚してから今日まで、気持ちを伝えようとは一度もしてこなかった。まだだ。まだダメだ。今の自分じゃ名前を幸せに出来ない。もっと“ちゃんと”しなければ。名前を幸せに出来るくらい、ちゃんとした男にならなければ。
 気持ちが溢れそうになる度、何度何度も自分に言い聞かせて、伝える機会を先延ばし続けた。でも、今思うと、俺はただ怖かっただけかもしれない。想いが届かないことはもちろん、“仲間”としての名前さえ失ってしまうことが、怖かっただけかもしれない。情けない自分を自嘲する。先延ばし先延ばしにした気持ちの末、結局俺は、一度も名前に想いを伝えなかった。伝えられないまま、名前から結婚の報告を聞かされることとなった。


 後悔はあった。


 けれどあの日。夫となる男の話をする名前があまりに綺麗で、情けない自分を悔いるくらいなら名前の門出を祝いたいと思った。名前の幸せを願いたいと思った。
 だからせめて、せめて最後に、積み重ねた想いの丈をほんの少しでも誰かに聞いて欲しくなった。そうして辿り着いたのは、後輩が営む店の前で。突然現れた俺を快く迎えてくれた治と二人、静かに晩酌をしていた矢先、アランから届いた悲報に気づいたら店を飛び出していた。


「北さん、」

「………治か」


 病院独特の匂いがする待合室。首を振る看護師に小さな会釈をしてカウンターから離れると、正面から掛けられた声に伏せた瞳が持ち上がる。歩み寄って来たのは私服姿の治で、「どうでした?」と眉を下げた治に首を横へと振ってみせた。


「“会いたくない”て」

「………またか………」

「赤木や大耳も来とるみたいやけど、家族以外は面会謝絶にしとるらしい」

「………目え覚ましてから、もうすぐ二ヶ月経ちます。せやのに、俺らに顔一つ見せんなんて……。……名前さん、大丈夫やろか、」


 心配を露に目を伏せた治。
 大丈夫、なはずがない。あの日、店を飛び出した俺と治は、駆け付けた病院で愕然とした。手術室の前には、涙を流して祈る名前の両親がいて、俺たちに気づいた名前の父親は、震えた声で状況を伝えてくれた。


 名前と名前の婚約者が事故にあったこと。

 事故の原因は対向車線を走るトラックの居眠り運転であること。

 名前は今手術中であること。

 そして、名前の婚約者が、既に息を引き取ったということ。


 あまりの事実に絶句した。顔も名前も知らない名前の婚約者の訃報に、何と言えばいいのかも分からなかった。
 手術開始から数時間後。無事一命を取り留めた名前は、手術から二日後に目を覚ました。けれど、婚約者の死を知った名前は酷く取り乱し、酷く消沈し続けているという。面会可能になってからというもの、俺や治を含めた元バレー部の面々は度々見舞いに訪れているが、まだ誰も名前の顔を見れていない。
 無機質な自動扉を通り抜け、肩越しに見上げた大学病院。白い外壁に包まれて聳えるその姿に、そっと目を細めた。


「……少し前、名前のお母さんと会うてんけど、あと二週間もすれば退院出来るらしい。退院後は実家で暮らすて言うてたから、そっちに移れば会わせて貰えるかもしれん」

「……ほな、一先ずは名前さんが退院すんのを待ちます」


 「ツム達にも連絡しときますね」と言ってポケットからスマホを取り出した治に、「頼むわ」と一言告げて駐車場へ向かう。晴れない心に思わず零しそうになったため息は、ぐっ、と喉の奥で押し殺した。





           * * *





 名前の退院から約一週間後。一人訪れた名前の実家。そこで出迎えてくれたのは、窶れた様子の名前のおかんだった。


「あの子、全然部屋から出てこようとしないの……。食事も取ろうとしないし………」


 不安と心配に満ちた言葉を落とす名前のおかん。「声だけでも掛けさせて貰えませんか?」と頼み出た俺に、少しの間ののち、「お願い出来る?」と弱々しく微笑んだ名前のおかんに通されて、名前の実家に足を踏み入れた。
 十二歳まで関東に住んでいたという名前。父親の仕事の関係で、中学入学と同時に兵庫へ。高校卒業後も県内の大学に入学した名前は、就職と同時に実家を出たため、名前がこの家で過ごしたのは約十年の間だという。
 新し過ぎず古過ぎない階段をゆっくりと上って行く。上り着いた二階には三つ扉があり、そのうち、真ん中の扉の前に歩み寄った名前の母親は、扉越しにそっと声を掛けた。


「名前、北くんがお見舞いに来てくれたわよ」


 返事は無い。けれど、間違いなくこの向こうに名前はいるらしい。名前の母親と代わるように扉の前に立つ。木目調の扉に手を添えると、扉の向こうにいる彼女へ言葉を紡ぎ始めた。


「名前、聞こえとるか?」

「実家にまで押し掛けてすまん。けど、どうしても心配やってん、」

「会いたないなら出てこんでもええから、せめて声だけでも聞かせて『帰って』


『帰ってよ、信介』


 扉の向こうから聞こえた馴染み深い声。いつもよりずっと破棄のないその声に、指先が小さく震えてしまった。


『話すことなんて何もないから、もう私のことなんて忘れてくれていいから、だから………だから帰って、信介』

「名前、俺らは、『もう嫌なのっ!!』っ、」


『もう、嫌やのっ……なにもかも嫌なのっ……』


 扉越しに聞こえる声が震えている。涙に濡れて震えている。
 今、名前が背負っている傷は、俺たちには分かり得ない。結婚まで誓った大事な人を、なんの前触れもなく失ってしまうなんて。名前は今、想像を絶する程の悲しみと痛みのなかにいる筈だ。“分かってる”なんて共感も、“大丈夫だ”なんて慰めも出来ない。それでも此処へ来たのは、ただ心配だったからだ。名前のことが、心配だったから。
 たかが扉一枚。その一枚に隔たれた距離がとても長い物に感じる。何も出来ない歯がゆさに拳を握った直後、哀惜に満ちた声が己を呪うように言葉を繋げる。


『なにも見たくない、なにも聞きたくない………もうなにも………なにも考えたくないっ……。いっそのこと、私も、








 一緒に死ねば良かったっ………』


 愛しい声で紡がれた残酷な言葉に、息を飲まずにいられなかった。
 「なんてこというの!!!」と激昂した母の声に応えることはせず、沈黙を貫き続けた名前。その後は、なにも話すことは出来ず、名前の母親に見送られる形で家を出ることに。「わざわざ来てくれたのにごめんなさい」と青い顔で謝る名前の母親に、いえ、と小さく首を振る。地面に落とした視線を二階部分へ動かすと、カーテンに覆われた窓を見つめながら口を動かした。


「……あの、お願いがあるんですけど、」



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