漆拾壱
大切な友人との再会を願って植えられた桜の木。
死んだ人が生き返ることはないし、奪われた命が戻ってくることもない。それでももう一度。もう一度会って話したいと、そう願った及川達の気持ちは分かる気がした。あくまで気がしたとしか言えないのは、私にはそんな経験がないから。みんなのように、唐突で悲痛な別れを経験したことがないから。
閉じていた瞼を持ち上げる。胸の前で祈るように合わせていた手を下ろすと、小さな狐の姿をした国見くんが膝元に擦り寄ってきた。慰めるように仕草に眉を下げる。国見くんを抱き上げ、三つ並んだお墓から桜の木に視線を移すと、「……ほんと、綺麗な桜ですよね」と金田一くんが呟いた。
『うん、そうだね』
「……岩泉さんから聞きました。苗字さん、あれから毎日ここに来てるんですよね?」
『………及川がね、言ってたの。私が湯田さん達を想って泣いてくれたのが嬉しいって。……多分それって、自分たち以外の誰かの中に三人を想う気持ちがある事が嬉しいんじゃないかなって思ったの。だから……声も顔も知らない人達だけど、こうして手を合わせて偲ぶくらいは出来るかなって』
舞い落ちる薄紅色の花弁に目を細める。心配するように腕の中から見上げてくる国見くん。そんな彼に大丈夫と伝えるように小さな身体を撫でると、痛々しげに金田一くんが顔を俯かせた。
「……ここに眠る人達に、俺や国見は会ったことなくて……」
『じゃあ湯田さん達が亡くなったのは、二人が及川達に出会う前だったんだね』
「……はい……。だから、俺たち何も出来ないんです。湯田さん達を亡くした悲しみを分かり合うことも、どんな人達だったか懐かしむことすら出来ない。……それがすげえ悔しくて……」
握った拳を震わせた金田一くん。彼と国見くんは、私よりずっと長く及川達と過ごしている。ここに案内してくれた時、及川はとても辛そうな顔をしていた。悲しみの中にいる及川を、二人は幾度となく見てきたのだろう。だからこそ、皆のために何も出来ない自分を嘆いているのだ。
立ち上がり、金田一くんの隣に並ぶ。震えた拳にそっと手を添えると、金田一くんの肩が小さく揺れた。
『……私も、一緒』
「っ……苗字さん……」
『及川達が私に、“救われた”って言ってくれたのは凄く嬉しかったのに、私は………湯田さん達との別れに傷ついた及川に、結局何も言うことが出来なかった』
「…………何か言って欲しく、連れて来たわけじゃないと思います」
『そうかもね。……でも、一つくらい、気の利いた台詞を思いつけたらって思うのに………やっぱり何も、思い浮かばないの』
至極冷静な国見くんの言葉に苦く笑って答えれば、それ以上何か返されることはなく、国見くんの瞳はそっと悲しげに伏せられてしまった。
吹いた風に木々の葉が揺れる音がする。少し強い吹き付けに一度目を閉じ、次に目を開けた時、「そろそろ戻りましょうか」と金田一くんが言うので、彼の提案に従って屋敷の方へ歩き出すことに。腕の中で眠る国見くんを撫でつつ、金田一くんと並んで森を歩く。すると突然、がさっと枝が大きく揺れる音がして、視線が思わずそちらへ。
『………あれは………』
「?なんだあいつ?鳥か……??」
数メートル先の木の枝に止まった白い鳥。遠目からでは、いまいちどんな姿をしているのか分からないが、鳥の瞳がじっとこちらに向けられている事だけはよく分かる。
結界に入って来ていることから、妖気のない普通の鳥である事は分かるが、見定めるような視線が何だか少し不器用だ。不快そうに顔を顰めた金田一くんが一歩前へ歩み出ると、その鳥は逃げるように飛んで行ってしまった。
「なんだったすかね?」「さあ……?」と金田一くんと二人で首を傾げたのち、そのまま屋敷へ戻ることに。森を抜けた先の縁側には待ち構えていたように及川たちが居て、おかえりと微笑んでくれた四人にただいまと笑顔を返した。
*****
鳥がくる。澄んだ青空から美しい天色(あまいろ)の翼を広げ、長い尾羽を風に揺らめかせながれ此方へ飛んで来る。
ばさり。
鳥が目の前に降り立った。どこまでも広がる緑の草原。その上に向き合い立つ私と天色の鳥。真っ直ぐに向けられる黄金(こがね)色の瞳がどこか懐かしい。
鳥が一歩歩み寄る。逃げることはせず、むしろ応えるように自分の足も一歩前へ。縮んだ距離に鳥が嬉しそうに目を細める。さらにもう一歩近付いてきた鳥。ゆっくりと動き出した嘴が、心地いい声で言葉を綴った。
“名前は、”
“今のお前の、名前はなんだ?”
名前。この鳥は私に、名前を聞いてきているのか。
答えるために開こうとした唇。答えを口にしようとした瞬間、頭に過ぎった小さな疑問。どうしてこの鳥は私の名前を知ろうとしているのだろう。
薄く開いた唇をそのままに鳥を見つめる。答えを口にしない私に、焦れたように翼を広げた鳥。促すように向けられる視線に、開きかけた唇で今度こそ自分の名前を紡ごうとした時、
「名前!!!!!」
『っ!!!』
はっ、と見開いた瞳に酷く焦った顔をした及川の顔が映る。両肩を掴む大きな手が微かに震えている。じんわり滲んだ汗が首筋を流れていくと、繰り返す浅い呼吸の合間に、及川、とほとんど音にならない声で目の前の彼の名前を呼んだ。
安心したような息を漏らした及川が、肩を掴む手で身体を起こしてくれる。布団の上に座る形で落ち着くと、険しい顔をした及川に大丈夫?と顔を覗き込まれた。
「中々起きてこないから、様子を見に来たんだけど……名前、すごい魘されてたよ」
『魘されてた……?』
「うん。左胸の辺りを押さえて苦しそうか顔をしてた」
『苦しい………そんな夢じゃなかったけど………』
「夢?」
怪訝さを露に眉根を寄せた及川に一つ頷き返す。「夢ってどんな?」と尋ねられた問に、夢の中に現れた美しい天色の鳥の姿を思い出した。
『すごく、すごく綺麗な鳥が飛んできて……その鳥が私の名前を聞いてきたの』
「っ!名前って……!まさか教えてないよね!?」
再び両肩を掴んできた及川の手。詰め寄るように顔を寄せてきた及川に、戸惑いながら頷いてみせた。
『お、教える前に、及川が起こしてくれたから……』
「……つまり、教えようとしてたってこと?」
『………………ご、ごめん………………』
肯定の代わりに謝罪で応えれば、呆れと安堵の混じったため息を零される。及川の様子から察するに、あの夢はただの“夢”ではなかったと言うことだろう。でもそうなると、夢の中で出会ったあの鳥は悪い妖ということなのか。でもあの鳥には、どこか懐かしさを感じた。
天色の羽根と黄金色の瞳を思い出したのと同時に、左胸に感じた奇妙な感覚。小さな熱が燻っているような違和感に左手で胸を押さえる。すると、何かに気づいた及川がその手を掴み捕らえてきた。
「……まさか……」
『……及川……?』
「……名前、もしかしてこの辺りに何か印が付いてない……?」
『え……?』
自分の左胸。つまり心臓の上を指し示した及川に、着物の合わせ目から自分の胸を確認してみる。
脈打つ心臓の上。下着に覆われていない胸の上部。見慣れた肌の色に刻まれているのは、
血で描かれたような真っ赤な印だ。
見覚えのない赤い印に目を見開く。
なにこれ。なんでこんな痕が付いてるの。胸元に向けていた視線を及川へ移す。「あるんだね?」と強張った表情で尋ねてくる及川に、酷く緩慢な動作で首を縦に動かした。
『これって…………』
「……目印だ」
『目印……?』
「俺たち妖が、自分の“縁”を辿ってつける印。名前、夢で見たって言う妖に見覚えはない?」
『見覚えはない、けど……』
「けど?」
『……夢で鳥を見た時、なんだか懐かしくて……』
「懐かしい……?」
繰り返しの問いかけに戸惑いながら頷く。
この世界で出会った沢山の妖たち。屋敷のみんなや、戸美の大将さん。稲荷崎の宮さん達や美羽さん達烏天狗の一族。けれどその中に、夢で見たような天色の羽根を持つ鳥の妖はいなかった。
それなのに感じた懐かしさ。会ったことも見たことすらない相手を“懐かしい”と思う事なんてあるのだろうか。
『……“縁”を辿って付ける印ってことは、これを付けた妖と私には何か“縁”があるってこと?』
「そのはずなんだけど…………もしその印を付けたのが名前が夢で見た妖だとしたら、名前の名前を知らない状態で付けられた印ってことになる。心臓の近く、魂を辿って付けたような印を、名前さえ知らない相手に付けるのは不可能だ」
『じゃあ、夢で見たあの鳥は関係ないってことなんじゃ、』
「いや、それはないかな。印が付いたタイミングと鳥の妖の夢を見たタイミングが偶然重なるなんて考えられない。何らかの方法で名前と縁を結んで、それを辿って印を付けたと考える方が正しいかな、」
不安を隠すように浴衣の上から印を押さえる。
この目印がなんの目的で付けられたのかは分からない。でも、あの妖が鬼蜘蛛や餓狼、女郎蜘蛛のように人を人として見ていない非道な妖だとしたら、私の血を狙って付けられたものである可能性は十分にある。
襟元を握る手に力が入る。顔を俯かせようとした時、及川の手が背中に添えられた。
「大丈夫」
『っ、おいかわ…………』
「目印を付けられたからと言って直ぐにどうこう出来るわけじゃない。この屋敷にいることは分かったかもしれないけど、ここには俺たちがいるんだ。わざわざ夢に潜って来た事も考えると、何か直接仕掛けて来ない理由があるんじゃないかな」
『……夢に現れたのも、目印の力?』
「おそらくね。通常は相手の居場所を探るためやマーキングの意味合いで使う場合が多いけど……目印を付けた縁を辿れば夢に潜ることも出来ると思う」
ということは、やはり及川の言う通り目印を付けたのは夢に出てきてあの美しい鳥の妖なのだろう。
途端にあの妖に感じた懐かしさが不気味なものへと変わっていく。緊張と恐怖で早くなる心臓の音がやけに耳につく。背中に触れた及川の手が落ち着かせるように背を撫で始めると、劈くような鼓動の音が少しずつ和らいでいった。
『ねえ及川。この印はどうしたら消すことが出来るの?』
「……印自体を消せるのは付けた妖本人だけだけど……目印の効力を弱めることは出来ると思う」
『ほんと??どうしたらいいの?』
「……それは、その……」
急に口ごもり始めた及川に首を傾げる。もしや難しい方法なのだろうか。「むずかしいの?」と眉を下げて尋ねれば、いや、とどこか複雑な表情で首を振った及川は気まずそうに口を動かした。
「……難しい方法ではないんだけど……」
『?及川はしたくないってこと?だったら他の誰かに、
「違うから!したくないわけじゃないから!!!…………ただその、ちょっと許可を貰いたいというか何というか……」
『許可??』
随分と歯切れの悪い返事をする及川にまた首を傾げる。消すことは出来ないのだとしても、効果を弱めることが出来るのなら是非ともそうして欲しい。
どんな方法かは分からないが、して貰う側の私が許可出すというのもおかしな話だ。「許可なんて要らないよ」と首を振ってみせれば、少しの沈黙ののち、「……分かった、」と覚悟を決めたような面持ちで頷いた及川。
お願いします、と小さく頭を下げようとした時、
及川の大きな右手が、浴衣の合わせ目を掴み開いた。
『!?!?え!?!?ちょ、お、おい、おいかわ……!?』
「ごめん。恥ずかしいかもしれないけど、ちょっとだけ我慢して、」
『いや、でも、っ、んっ……!やっ、ちょっ……!』
少し強引に肌蹴させられた浴衣。下着ごと露になった胸元に及川の唇が寄せられる。ちゅっ、と軽く吸い付いた柔らかな唇に鼻から抜けるような声が漏れる。
びりびりと痺れるような感覚に体を反らせば、逃がさないとばかりに二の腕を掴まれ、そのまま布団に押し倒された。
『っ……おいかわっ……!やっ……!んっ……あっ……!』
印をなぞるように胸元を這う熱い舌。ざらざらとした感触は彼が人ではないからだろうか。身体中に走る甘やかな痺れに身を捩ろうとする。けれど、両手首を掴む及川の手がそれを許す筈もなく、大きく肌蹴た浴衣の間から薄っぺらな身体が及川の目に晒されている。
ぢゅっ、と噛み付く勢いで印の上に再び吸い付いた唇。ぴりぴりとした囁かな痛みに生理的な涙が目尻から零れる。おいかわ、と殆ど音にならない声で目の前の彼を呼べば、顔を上げた及川の頭には白い耳が生えていて、重なった瞳には甘やかな熱が孕んでいた。
「……泣かないでよ、」
『っ、だっ、だって……!きゅうに、こんなっ……!』
「目印の力を弱めるために、俺の印で上書きしたんだ」
『う……うわ、がき…………?』
「そう。どんな方法か言わなかったのはごめん。でも、言ったらしなくていいって言われると思って、」
「ごめんね」と眉を下げた及川は、目尻から流れる涙をべろりと舐めとってしまう。ざらついた舌の感覚に小さく身体を震わすと、困ったように笑った及川と視線がかち合った。
「……やっぱり“小さい子ども”には見えないね」
『っ、え??』
「岩ちゃんが言ってたでしょ。何百年生きてようが俺たちは“男”で、名前は“女”なんだよって」
及川の言葉に思い出したのは四万の泉に行くことを決めた時のやり取りだ。
手首を掴む手に力が入る。熱のこもった瞳がそうっと細められると、「あと少しだから、」と言い聞かせるように言った及川が再び胸元に顔を寄せたその時、
「おせえぞ!!!クソか………………あ゛??」
『!?』
「げっ!い、岩ちゃんっ!?」
苛立った声と共に勢いよく開けられた襖。その向こうから現れた岩泉の姿に及川と二人で目を丸くさせる。
岩泉の後ろには花巻と松川の姿もあって、私と及川の状態を目にした途端、三人の頭にぴょこんっ!と耳が現れた。
「クソ川てめえ………!!!!!」
「ち、ちがうっ!ちがうからっ!!!」
「へえ??何が違うって??ん???」
「この状況で弁解しようなんて潔悪いことしねえよなあ?及川くんよお??」
「ちょっ……!まっつんとまっきーまで!話をきい、っ!うっ、ぎゃああああああああああああ!!!」
屋敷中に響いた及川の悲鳴。何か誤解している岩泉達に諸々の説明をする前に、乱れた浴衣をいそいそと直すことにした。
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