伍拾陸
妖を惑わす強い香り。それがどんなものなのか私には見当も付かない。でも、さっきの女中さんの様子から、それがどれほど“危ない”ものなのか、少しは分かる。
「国見ちゃんと金田一も、香りが落ち着くまで部屋には入れない方がいいね」
『うん…分かった…』
「今、花巻と松川が茂庭を呼びに行ってる。この屋敷の奴が犯人なら、ここの医者に看てもらう訳には行かねえからな」
「他に何か症状があったら怖いしね」
「気分が悪いとかねえか?」と心配してくれる岩泉に首を振ってはみたものの、まだ落ち着かない心臓の音と緊張から渇いた喉で息が詰まったままだ。「何か飲む?」と気を利かせてくれた及川に、さすがに今は甘えさせて貰おうと頷けば、一度岩泉とアイコンタクトを取った及川が部屋の外へ。
扉から出ていく背中に、途端に申し訳なさに襲われる。もし私が面倒な“血”を持ってなければこんな事にはなってなかったのかな。なんて自分では分からない“匂い”を恨んでしまう。
『……岩泉、』
「なんだ?」
『……ごめんね』
「あ?」
『その、私がこんな“体質”じゃなきゃこんな事にならなかったのかなって』
「…あのなあ」
呆れたとばかりに吐き出された声。顔を俯かせて身を縮めると、はあっとため息をついた岩泉が、座っている私と目線を合わせる為か目の前に膝を折る。
「今回のことも、これまでの事も、悪いのはおまえじゃねえだろうが」
『そう……なのかな………でも、私が変な血を持ってたから、狙われたりするわけだし……』
「アホか。狙う方が悪いに決まってんだろうが。大体、その血のおかげで孤爪を助けることが出来た。……それに、お前がこの世界に来たおかげで、宮治も今生きてる。他にもお前のおかげで救われた奴らがいる。だから“ごめん”なんて言わなくていいんだよ。俺たちは謝って欲しいなんて思ってねえんだから」
「今は自分の心配してろ」と言ってくしゃくしゃと頭をかき撫ぜる手が温かい。「……ありがとう」と零れた言葉と共に、なぜか涙も浮かんできて、「なんで泣くんだよ」と困ったように眉を下げて笑った岩泉の手が後頭部に添えられ、肩口に顔を埋めるように抱き締められる。ポン、ポン、とリズム良く背を叩いてくれる大きな手が気持ちいい。「っありがと」と涙混じりの声でもう一度お礼を言えば、「もう一回言うのかよ」と笑われてしまった。
心地のいい手と肩口から伝わる体温に目を閉じてしまいそうになった時、「もし、少し宜しいですか?」と部屋の外から掛けられた声。確か、この声は。
「…あんたは、宮の…」
「先程、お連れの方が来られまして。お飲み物をご用意させて頂きました」
「…及川は?」
「若様たちにお話があるらしく、そちらへ」
「…待て、今開ける」
立ち上がった岩泉が扉に向かっていく。扉の向こうにいるのは、おそらくさっきのお爺さんだ。わざわざ飲み物を持ってきてくれたなんて本当に親切な人だ。そう、だって、彼はさっきも。
“早速湯浴みの準備を致しました”
停止した思考の脳裏に過ぎったのは、お風呂場へ案内してくれるお爺さんの姿。そうだ、そうだった。私をあそこに連れて行ったのは、紛れもなく彼だ。そして。
“あら?そうでしたん?爺様に持っていくように……たの…………まれ……………”
あの時、彼女は言っていた。タオルを持ってきたのは、“爺様”に頼まれたからだと。つまり。
『っ、待って!岩泉!!』
「あ?っ…………!!うっ、がっっっ…………!!!」
『!!岩泉っ!!!!!』
投げ掛けた声は一歩遅く。扉を突き刺して現れた大きな尻尾が岩泉の身体を吹き飛ばしたのだ。酷い衝撃音と共に、反対側の壁へと叩き付けられた姿に全身の血の気が引いていく。崩れた壁から立ち上る砂埃から聞こえたゲホッという苦しそうな嗚咽。慌てて岩泉の元へ駆け寄れば、なんとか身体を起こした岩泉の腹部が赤く染っている。…いや、赤く染っているなんてものじゃない。穴が、ある。お腹に、穴が、あいている。
「まったく……あの娘、失敗しおって…」
「っくそっ……まさかっ……てめえが……!!!」
「ただの人間の分際で、若様を誑かそうなど身の程知らずにも程があるわ。若様たちにはその血を正しく引き継ぐ義務がある。それには、その女は邪魔や」
「っ、は、いいのかよ?こんな派手に暴れりゃ宮たちが来るぜ…?そうなりゃてめえもタダじゃすまねえ」
「元々残り少ない余生よ。若様の怒りに触れ殺されたとて構わぬ。
……この女を殺せるんやったらな!!!!」
人型の姿をしていたお爺さんの姿が大きな狐へと変わる。でかい。女中さんとは比べ物にならない。「クソっ」と苦々しそうに吐き出した岩泉は流れ続ける血をそのままに立ち上がろうとする。
立ち上がって、迎え撃とうとしているのだ。
私を、守るために。
『っだめ!岩泉!!その傷で戦わないで!!』
「馬鹿!言ってる場合か!!!あんな野郎にお前を殺らせるわけにはいかねえだろ!!」
『でもっ……!』
でも、でも、そんな傷で、そんなふらふらな状態で、戦えるの…?口から発せられる事無く喉の奥で消えた言葉。言えるわけが無い。自分を守るために戦おうとしてくれている人に、そんな台詞言えるわけが無い。なら、せめて。
『…岩泉、飲んで』
「っは…………?」
『私の、血を、飲んで、』
一言一言はっきりと告げた言葉。
岩泉の目が徐々に見開かれていく。驚きと怒りと戸惑いが混じったような、そんな顔。おそらく怒鳴ろうとしたのであろう開かれた唇。けれど、再び襲いかかってきた五本の尻尾に言葉の代わりに舌打ちを零した岩泉は自らの尻尾で相手の尻尾をいなしていく。
「くっそ………!!!」
『岩泉、お願い…!!』
「っダメだ!!お前の“血”を、んな物みてえ“使える”か!」
「ごちゃごちゃと……!!五月蝿いわ!!童がっ!!!!!」
「っあぶねえ!!!!!」
岩泉に向かっていた筈の尻尾が、突然動きを変える。此方に狙いを定めてきた事に気づいた岩泉が庇うように私を抱き込んで壊れた壁から外へと飛び出す。
ゴオオンと轟く音。半壊した部屋がガラガラと更に崩れていく。土と砂埃の中、岩泉の腕の中から顔を上げると、じわりと地面に染み込んで行く血の量に気づき、何も出来ない自分の無力さに涙が溢れてくる。
『…物だなんて……物だなんて思ってないっ………私は、私は、ただ、』
“お前のおかげで救われた奴らがいる”
そう言ってくれた貴方に、ただ、
『このまま、死んで欲しくないのっ………!!』
絞り出した言葉と共に瞳に張っていた膜が壊れる。ポロリとこぼれ落ちた涙が岩泉の腕に落ちた時、くしゃりと顔を歪めた岩泉の頭に黒い耳が現れた。
「………ばかやろう」
子供を叱るような、そんな、声。
多分、いま、凄く情けない顔をしている。涙で濡れた顔で無理やり笑って見せれば、少し泣きそうな岩泉の顔が首元へと近づいてくる。
グサリと、鋭い牙が肌に突き刺さる。
肩口から走る痛み。肌を滑る真っ赤な血。
熱い。岩泉の身体が、燃えているみたいに熱を帯びている。
はっと短い息を吐き出すと、肌に突き刺さっていた牙が離れ、唇を赤く染めた岩泉がゆらり立ち上がる。
「そろそろ悪足掻きは終わりにしてもらうで」
「……ああ、そろそろ終わりにしようぜ」
外に飛び出してきた狐の声に、岩泉が乱暴に口元を手の甲で拭う。さっきまでフラフラだった事が嘘のよう。鋭い視線で真っ直ぐに相手を睨みつける岩泉に、何かを感じ取った狐の目が見開かれる。
「っ貴様っ…………!なんや、その妖気はっ………!!!」
跳ね上がった妖気に五尾の狐から焦った声が張り上がる。「悪いな、爺さん、」とやけに冷静に応えた岩泉の姿が徐々に“人”ではなくなって行く。いつかに見た真っ黒な狐の姿に変わった岩泉は、キッと相手を睨みあげると、目にも止まらぬ速さで敵に向かって飛びかかる。
「てめえなんかに、名前を殺されるわけにゃいかねえんだよ!!!!」
「く、クソガキがああああああああぁぁぁ!!!!」
避けることなく岩泉の身体を迎えた狐。けれど、のしかかってきた力に耐えることが出来ず、地面に身体を打ち付けられる。衝撃にキャンっと犬のような悲鳴をあげた狐。その隙を見逃すことなく再び向かっていった岩泉は、相手の手足を抑えるように狐にのしかかった。
「くそ!クソオオオオオオオオ!!!なぜ儂が貴様なんぞにっ!貴様のような半端者にっ!!!!!」
「…てめえの言う通り、俺は、俺たちは半端者だよ。けど、その半端者ものもな、てめえの言う“ただの人間”のおかげで救われてんだよ……!」
ジタバタと暴れる狐に岩泉の牙が相手の肩口に突き刺さる。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」と痛みからあがった悲鳴に思わず目を背ければ、「名前!岩ちゃん!!!」と聞きなれた声が。
『あ…………おい……かわっ………』
「名前、怪我は!?」
『っわ、私より、岩泉が………!!!』
壊れた部屋の壁から現れた及川は、地面に座り込んだ私に気づくと焦った様子で駆け寄ってきた。その後に続くように侑さんたち稲荷山の人々も現れ、岩泉と大狐となったお爺さんの姿を捉えると、「はよソイツ押さえるんや!!」と侑さんが声を上げた。
「すまんな!名前ちゃん!爺の手下に足止めくらってしもうて…!!」
『い、いえ……あの、それより岩泉を、はやく、』
…そうだ、はやく、はやく岩泉を。首元を抑えながらゆっくりと立ち上がれば、「ちょ、名前!?」とふらついた身体を及川が支えてくれる。そんな彼にお礼を言う事も忘れ、人の姿に戻った岩泉の元へ駆け寄る。
『岩泉っ…!!!』
「ばっ…!おまっ…走るな!ばか!!」
駆け寄ってきた私に気づいた岩泉は、額に青筋を浮かべて怒鳴り声をあげる。岩泉こそ、そんなに叫んで大丈夫なのか。「はやく、怪我の治療を!」と土で汚れた着物を掴んで引っ張ろうとすると、「んな、焦んなくても大丈夫だっての」と小さく息を吐いた岩泉は怪我をしていた腹部を見せるように上半身の着物の襟を崩してみせる。すると、そこにあった筈の傷が、お腹にあいていた穴が、
『…な、い……?』
「お前の血のおかげだよ」
大量の血を流していた大きな傷が、完全に塞がっているではないか。目を見開き、確かめるようにペタペタと岩泉のお腹を触れば、「何してんの?」と不思議そうな顔をした及川が隣へ。
『岩泉、ひどい怪我をしてたのに……』
「え、ちょ、そうなの!?岩ちゃん!?」
「大丈夫!?」と私と同じように岩泉の身体をペタペタと触りだした及川。そんな彼にピクリと眉を引き攣らせた岩泉は「うぜえ!!!」とその手を叩き落とした。
「名前の血を飲んだんだ。んな怪我一瞬で塞がったわ」
「な、るほど……けど、安静して茂庭くんに看てもらったほうがいい。名前の様子からすると、そんなに飲まなかったんでしょ?なら、あくまで“塞がった”だけで、“身体の中”は治ったわけではないだろうし」
「わあってるよ」
ハイハイと言うように及川をあしらう岩泉はいつも通りで、ほっと胸を撫で下ろしたその時、
「なぜじゃ!!なぜじゃああああああああぁぁぁ!!!儂は、若様たちを、この稲荷山の未来を思って動いただかや……!!それなのに、なぜ、何故です若様!!!!貴方様がなぜ、そんなただの人間の娘をっ…!!!!」
夜の静かな闇を切り裂く叫び声。侑さんの仲間に取り押さえられたお爺さんは、いつの間にか人型へと戻っている。
彼の言っている事は、もしかすると、この世界では正しいことなのかもしれない。妖の“血”を絶やさないように努めるこの人を、妖の世界のことをよく知らない私が間違ってるなんて簡単には言えない。でも、一つだけ分かることはある。
一歩、また一歩と、ゆっくりとお爺さんに向けて進み始めた足。「名前、」と心配そうに声をかけてくる及川に、大丈夫だと言うように頷いてみせ、そのまま真っ直ぐに地面に伏して押さえられている彼の前へ。
『…あなたが、私の事を殺そうとした事は本当に稲荷山の一族の為で、あなたの言う通り、私は本来なら侑さんや治さんと関わるのに相応しくないのかもしれない』
「は、ちょ、名前ちゃん、なにを…」
『でも、…………それでも……!誰と、どんな風に生きていくのか……それを決めるのは侑さん達本人。どんなに崇高な理由があろうと、2人が誰かと繋がろうとする意志を否定する権利が、あなたにある筈ない……!』
ギロりと睨み上げてくる瞳を見つめ返す。驚いたように目を丸くしていた治さん達が、どこか嬉しそうに相好を崩したかと思うと、「…ホンマに人が良過ぎるなあ」と侑さんに目尻を下げて微笑まれた。
その後、松川たちが連れてきた茂庭くん達と合流し、香りが治まった事を確認した私は、そのまま屋敷への戻ることに。「この詫びは必ず」と侑さんや治さんを含め、稲荷山の人達の深々としたお辞儀に見送られて稲荷山を後にしたけれど、あのお爺さんがどうなったのかは誰にも聞くことが出来なかった。
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