わたしたち、もうダメかもしれない。空っぽの植木鉢を見下ろしながらそんなことを考えていた。
 金曜の夕方は特売日だ。どれだけ仕事でくたびれていようと、その日は一週間分の食材や日用品をまとめて買って帰ることにしている。ぱんぱんになった買い物袋がギリギリと両手の指に食い込む痛みを感じながらも、わたしは玄関先から動くことができずにいた。小さな鉢の中で茶色くしおれていたあの花は一体どこへ行ってしまったのだろう。

「おかえり、ハニーちゃん」

 ハニー、シュガー、パンプキンそしてプディング。ダンテはたくさんの名前でわたしを呼ぶ。そのどれもが甘ったるくて、くすぐったくて、もっとしょっぱい呼び名があってもいいのにと思う。声の主を探してぐるりと一周まわってみるが、前にも横にも後ろにも彼の姿は見えなかった。

「探し物は上だぜ」

 どうやらダンテは屋上にいるらしかった。視線を上にやると、趣味の悪いネオンサインの向こう側で身を乗り出して手を振る彼がいた。キョロキョロとあたりを見回すのを見ていたのだろう。すぐにでも沈んでしまいそうなほど傾いた太陽がふわふわと揺れる白い頭をコーラルに染めている。

「そんなところで何してるの?」
「悪りぃけどちょっと来てくれ」
「買ってきたものをしまわなきゃいけないんだけど」
「いいから早く」

 楽しそうな彼の声色とは反対にドアへと向かう足取りは重たい。
 やっとのことで事務所を通った先のキッチンにたどり着き、買ってきたものを冷蔵庫や戸棚にしまってゆく。スライスチーズ、ベーコンブロック、トマト缶、フレッシュバジル。チョコ味のシリアルとイチゴジャムはダンテとの生活に欠かせないものだ。
 はじめはただただ一緒にいるだけで幸せだったはずだ。好きな食べ物や音楽、子どもの頃の話、彼のことを知るたびに胸の奥が満たされていった。楽しいときも悲しいときも、ダンテが隣にいるだけで何もかもが特別だった。
 ところがそんな生活が当たり前になってきた頃に、ずっと身を潜めていた理想が姿を現しはじめた。ひと昔前でいう適齢期を迎えた焦りもあったのかもしれない。学生時代からの友人たちが愛する夫と庭付きの家で暮らしはじめる中、わたしに与えられたのは怪しいネオンサインを掲げた事務所兼住居と、玄関先の小さな植木鉢だった。わたしはついどうしようもない期待からプレッシャーを与え、彼は不機嫌に黙る。そんな重苦しい関係がしばらくの間続いていた。

「おーい、まだかー」
「ごめんね、今行く」

 ダンテと一緒は楽しい。でも普通の幸せは望めない。全部最初からわかっていたはずなのに。





 一度外へ出て裏の螺旋階段を上った先が屋上だ。それなりの高さではあるのだが、ベランダのないこの家で思いっきり洗濯物を干せるのはその屋上だけなので、ほとんど毎日上っているうちにすっかり慣れてしまっていた。
 燃えるような夕陽の中で人影がこちらに近付いてくる。この世界で彼以上に赤が似合う男がいるだろうか。

「やっと来た」
「たくさん買い物したから、しまうのに時間が……」

 あっ、と声が出て思わず眩しさに俯いていた顔をあげる。ダンテの影に入った瞬間、辺りの景色ががらりと変わった。いや、わたしがここへ上ってきたときにはすでに変わっていたのだけど、真っ正面にいた太陽の光があまりにも強くてよく見えていなかったのだ。
 一体どこから運んで来たのだろう。昨日までは殺風景だったコンクリートの屋上には低くレンガが積まれ、ドア二枚分ほどの広さの花壇が出来上がっている。さらにはパラソルのついたウッドテーブルと折りたたみの椅子まで用意してあって、まるで小さな庭のようだった。

「なんで……」
「立派な庭……とはいかないが、上出来だな」
「これ、ダンテが?」
「礼ならキスでいいぜ。特別に、恋人割だ」

 戸惑いながら戯けてウインクをする彼から目をそらす。とてもじゃないがその冗談に付き合えるほどの余裕なんてないし、ダンテが本気でキスを望んでいるとも思えなかった。
 なんとか平常心を保とうとゆっくりあたりを眺めていると、何かが視界の端にちらりと写り込んだ。眩しさに目を細めつつよくよく見ると、それは花壇の隅っこで白く輝いている。間違いない。玄関先の植木鉢の中で萎れていたクチナシの花だった。
 ほとんど転がり込むようにしてここへ越してきてすぐに、足りない家具を買いに行った時のことだ。店先でひときわ輝く白い花がどうしても欲しくて、子どものように駄々をこねてねだって、根負けしたダンテが財布の紐をほどいたのだ。水をあげて肥料を撒いて大切にしていたのに、いつのまにか弱ってしまった。
 不思議なことにあれだけ茶色く小さくなっていたにも関わらず、きらきらと水滴をまといながらしゃんと背を伸ばしている。目の奥がツンとして、目尻に浮かんだ涙に気づかれないように慌ててテーブルに振り返った。彼は、ダンテは救ってくれたのだ。一度は諦めかけた小さな二人の思い出を。

「なあ、」

 ぽたりぽたりと溢れ出た涙がテーブルの木目を濡らしてゆく。ダンテは呼びかけたきり話すことをやめてしまったが、言葉の代わりに大きな手のひらでわたしの頭を撫でていた。
 目に見えるものはわかりやすく、見えないものをより一層眩ませる。きっとわたしのアンテナがうまく拾えなかっただけで、いつだって彼からの愛情はこんなふうに降り注いでいたはずだ。完璧ではないけれど愛おしいこの庭がそれを証明している。
 ダンテのことが好きだ。きっと誰よりも、どんな理想よりもずっと。

「明日はここで朝ごはんにしよっか」
「俺、フレンチトーストがいい。チーズ入りの、とろとろのやつ。ポテトサラダも食いてぇ。それから……」

 嬉しそうに次々とお気に入りのメニューをリクエストする横顔を見上げて、まだお礼を伝えられていなかったことを思い出した。手間のかかるポテトサラダは夜のうちに仕込んでおこう。デザートは簡単にヨーグルトにイチゴジャムを乗せてしまえばいい。明日の朝はきっと、あたたかい腕の中から抜け出すのに苦労するはずだから。
 そんなことを考えながら、わたしは彼の頬をめがけて思い切り背伸びをした。


19/06/29

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