夜が呼んでいる。不意にそんな気がして顔を上げたのは、時計の針が真上から少し進んだ頃のことだった。
 読みかけの文庫本にしおりを挟んで椅子の背もたれにかけていたカーディガンを羽織る。春の夜はまだ冷えるから、気休めにしかならないだろう。そんなことを考えながらも急ぎ足で玄関に向かうのは、小難しく美しい言葉たちを並べた物語があまりにも退屈だったからかもしれない。
 誰もいない家からこっそりと抜け出して、星空の下、静寂に包まれた街を息を殺して歩く。澄んだ夜の空気はやはりつんと刺すように冷たく、薄手のカーディガンではとても防ぎようがなかった。それでもしばらくは我慢していたが、いよいよ寒さに耐え切れなくなって引き返そうかと視線を落とした先で、パンプスのトゥが何かの影を踏んでいることに気付いた。歪な形をした影だった。

「危機感がなさすぎると言ったはずだ」

 細く伸びた影を目でなぞった先に一人の男が立っていた。月明かりを浴びたシアンのコートが鈍く光る。

「言葉で理解できないようなら、足を切り落とすしかないな」
「バージル!」

 彼なりの冗談なのかあるいは本気なのか、言葉こそ物騒だがとても穏やかな声だった。名前を呼び終わるのも待てずに地面を蹴って、ほとんど縺れるようにして広げられた二本の腕の間に飛び込む。乱れた呼吸を正すために大きく息を吸い込めば、懐かしい匂いが体の隅々まで行き渡って体温を上げる。何の根拠もないけれど、わたしは夜に呼ばれたのではなく彼に呼ばれてここに来たのだと思った。

「ごめんなさい。それと、おかえりなさい」

 厚い胸板に頬を寄せると、さっきとは打って変わって硬い声が降ってきた。

「近くまで来たついでに寄っただけだ。夜明けにはここを発つ」
「じゃあもう少し一緒にいられるね」

 素っ気なくなるのは悪いと思っている時に出る彼の癖だ。それを証明するように、頭の上に乗せられた手のひらは優しく髪を撫でていた。





 家までの道を二人並んで歩く。月明かりに照らされたアスファルトが所々きらきらと光るのはガラスが混ぜられているからだと聞いたことがある。バージルが隣にいれば砕かれたガラスでさえ宝石のように輝いて見える美しい夜になった。

「最近はどう? 怪我してない?」
「あいにく怪我とは無縁でな」
「その点ではあなたが半分悪魔でよかったと思う」

 バージルは少し変わっている。例え大きな怪我をしてもあっという間に治ってしまうし、簡単に命を落とすこともない。生涯を共にするパートナーを選ぶなら少しでも丈夫な方がいいだろう。これは彼の良い点だ。
 人間の母親と悪魔の父親から生まれた彼は、偉大な悪魔であった父の軌跡を辿って世界中のあちこちをまわっていた。あまり家族のことを話したがらないから詳しいことは分からないが、誰にだって自分のルーツを知る権利はあるだろう。そのせいで共に過ごす時間が減ったとしても、わたしには彼を止める権利がない。だから不満に思っていても、寂しくても、口には出さないようにしていた。

「半分悪魔では不満か」
「たとえバージルが人間だったとしても、それなりに不満はあると思うよ」
「……どういう意味だ」
「知らなぁい」

 静かな夜の空気に押し出されてしまいそうで、茶化すように駆けだした。帰る家はもうすぐそこだ。振り返らずに走るわたしに向かってバージルが声を上げる。

「待て、俺のどこが不満なのか言え。オイ、逃げるな!」

 鍵を開けて玄関をくぐり、月明かりの射し込むリビングを抜け、電気もつけないまま階段を駆け上がる。一人には広すぎるが二人で暮らすには少し手狭なこの家には、そこまでたくさんの部屋はない。やっとの思いで階段を上がった先、ドアが開きっぱなしの寝室へ飛び込んで振り返ると、真後ろにはバージルがいた。息を切らしてここまで逃げてきたのに、追ってきた彼は呼吸のひとつも乱れておらず、口元に余裕の笑みさえ浮かべているのだからおかしくなって笑ってしまう。――やっぱりわたしは人間で、彼は悪魔なのだ。降参の意思を示して挙げた両手が捕らえられた。

「もう逃げられんぞ」
「捕まっちゃった」

 じわりじわりと追い詰められて、行き止まりのベッドに腰をかける。後頭部を支えられながらゆっくりとリネンに沈んでゆけば、そこはもう天井と彼だけの世界だった。二人の間に流れる空気がしっとりと重みを帯びていくこの感覚はいつまで経っても気恥ずかしいものだ。一度飲み込まれてしまえばなんてことはないのだけど。

「バージル」

 呼びかけに応えるようにして唇が触れる。優しく啄ばむようなキスは離れていた時間の埋め合わせでもあり、同時にお互いの所有権の更新でもあった。まだ待っていてくれるのだろうか、また帰ってきてくれるのだろうか――。そんな恐ろしく勇気のいる確認を、不器用なわたしたちは愛情という名の包装紙できれいにラッピングして渡し合っている。

「どうした、不満か?」
「ううん」

 体を起こして身につけているものを取り払い始めたバージルに倣って、ワンピースのボタンを外してゆく。さらけ出された肌にひやりとした空気が纏わり付いて、思わず自分の体を抱いた。薄闇の中でぼんやり浮かぶバージルの姿は、腕も、肩も、腰も、男女の違いこそあるものの、逞しい筋肉に覆われている以外はわたしとさして変わらない。もっと目に見えた違いがあったならうまく諦めれたかもしれないのに。

「あなたになりたい」

 もしも彼と同じ血が流れていたら、同じ角度から世界を見ることができたかもしれない。彼の中に巣食う苦しみや悲しみを分かち合えたかもしれない。悪魔でも半人半魔でもなくただの人間に生まれたわたしの役割といえば、彼が安心して羽を休められる場所を守るくらいだ。けれども、一人で待つ時間が長くなればなるほどに、そんな夢を見られずにはいられなかった。

「悪魔になりたいなんて言い出すんじゃないだろうな」
「わたしもなれる?」
「オマエはそのままでいい」

 あらかた着ていたものを取っ払ってしまったバージルは、少しも驚いた素振りを見せずに笑って覆いかぶさってくる。悪魔には人の心を見透かす力もあるのだろうか。
 首元に寄せられた唇の感触を確かめながら、彼の柔らかなプラチナに指を通す。きっと悪魔になったところで所詮はわたしだし、無理矢理彼の隣に並んでできることなど何一つありはしないのだ。だとしたら彼の言う通り、わたしはわたしのままでいよう。このほんの少しの小さな幸せが続くように守っていよう。
 そんな決意を胸に抱きながら、これから与えられる全てを受け入れるために目を閉じる。触れた肌と肌の隙間から生まれた暖かな空気に、冷えた四肢が解されていくのを感じていた。





 翌朝目が覚めた頃にはすでに日が高くのぼっていて、当然そこにバージルの姿はなかった。

――できるだけ早く帰る。

 読みかけの文庫本の上に置かれていたメモを手にとる。文字のひとつひとつを指でなぞれば彼の姿が浮かんでくるようだった。――深い眠りの中にいるわたしを起こさないようにそっと身支度を整え、額にキスをして、そのまま出て行こうとしたところで立ち止まる。紙とペンが目に入っても、彼のことだから少し躊躇ったかもしれない。それでも最後にはまた一人になるわたしのことを想って言葉を残したのだ。
 ヒリヒリとしみる目尻を冷たい水で洗い流し、キッチンに立ってポットに湯を沸かしながら一人分の食事を用意すれば、少し遅いけれどいつもと変わらない朝が始まる。ガラスの向こう側では穏やかな日差しの中で芽吹き始めた木々が気持ちよさそうに風に揺られている。思わず手を止めて窓を開ければ部屋中に春の匂いが広がった。この世界のどこかで、彼も同じ風に吹かれているだろうか。そうであればわたしは幸せだ。


19/04/04

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