意識が浮上してすぐは真っ暗で何も見えなかった。それもそのはずで、俺の両目の上では幾重にも巻かれた包帯が瞼を押さえつけていた。――至近距離からの発砲。弾は避けたがマズルフラッシュにやられた。ほんの一瞬でも目を閉じるのが遅れていたら失明していたらしい。危うく職を失うところだった。

「おはよう、スクアーロ」

 斜め上の方から女の声がする。千鶴だ。あの任務にも同行していた。満身創痍で視界まで奪われ、それでもなんとか目の前の敵を始末した後にぶっ倒れた俺を引きずって、安全な場所まで運んだのはこいつだったと聞いた。

「今日はいい天気だよ。雲がひとつもなくて、空が広く見える」

 退屈な療養生活が始まってからというもの、千鶴は毎日決まった時間になるとここへやってきて、今の俺が知ることのできない空模様や部隊の様子を聞かせるようになっていた。庭に咲いた花やルッスーリアの爪の色にはまるで興味がなかったが、話し相手の存在はありがたい。何もできずただひたすらベッドで横になっていると気が狂いそうになるのだ。鮫と同じで、常に動いていないと死ぬように造られているのかもしれない。

「お昼ごはんは何が出たの?」
「相変わらず具のねえチキンスープだぁ。さすがに飽きてきたぜぇ…」
「ミルクに浸したパンとか、柔らかく煮たリゾットとか、まだ食べられないのかなぁ」

 千鶴とこうしてゆっくり話をするようになったのはつい最近のことだ。何度か言葉を交わしたことはあるが、それほど親しい間柄ではなく、容姿もぼんやりとしか思い出せない。しかし少しずつだが確実に、“同僚”という関係は変わりつつあった。その変化は俺だけではなく、千鶴にも訪れているように思う。お互い口には出さないだけで。
 午後の穏やかな空気の中でたわいもない会話はしばらくの間続いた。

「わたしそろそろ行かなきゃ」

 かたん、とベッドの横に置かれた丸椅子が音を立てる。

「ああ、もうそんな時間かぁ」
「明日はいいものを持ってくるから、楽しみにしててね」
「いいもの? 何だそりゃあ」
「ひみつ。ヒントはね、ピンク色だよ」

 楽しそうに弾む声がだんだんと遠ざかり、やがてドアの向こうへ消えた。一人になった部屋は再び静寂に包まれた。
 千鶴というフィルターを通して見る世界は、自分の目で見るよりも鮮やかに着色されている。ピンク、オレンジ、ミント。いつも明るく、華やかな色が目立った。俺の知っている灰色や濁った赤や黒といった暗い色ばかりの世界とは違う場所で生きているかのように。





 窓から射し込む陽射しがあたたかい。今日もよく晴れているのだろう。
 いつも通り昼食後にやってきた千鶴は、会話もそこそこに“ピンク色のいいもの”を手渡してきた。どうせ俺よりもひみつを仕掛けた本人が一番楽しみにしていたに違いない。案外かわいらしいところもあるもんだな、と、自分でも気が付かないうちに苦笑いを浮かべていた。
 千鶴によって手のひらに乗せられたそれは、丸く、ざらりとした表面は細かな産毛で覆われていた。あらかた見当はついていたが、顔に近付けて匂いを嗅いでみる。瑞々しく透きとおった夏の香りがした。

「桃かぁ?」
「正解。いいものだったでしょ? ナイフ持ってきたから剥くね」

 久しぶりの固形物への期待からか、ごくりと喉がなる。千鶴は桃を取り上げると、ごそごそ音を立てながら皮を剥く準備を始めたようだった。手持ち無沙汰になった俺は寝転んだ状態から起き上がることにした。少しは自力で動いた方が治りも良いだろう。
 桃に限らず、こんな風に他人に世話を焼かれるのはいつぶりだろうか。子どもの頃、それこそまだ親の元で暮らしていた頃かもしれない。遠い昔の話だ。思い出さずにいるうちにとうとう母親の顔も忘れてしまった。

「はい、どうぞ」

 まだ癒えきらない傷が開かないよう、ゆっくりと体を起こしている間にどうやら剥き終わっていたらしい。手際の良さは要領の良さから来るものなのか、単に慣れているだけなのか。
 もしかしたら食べさせようとしてくるのではないかと危ぶんでいたが、千鶴は左手に皿を、右手にフォークを持たせるだけだった。その適度な距離感が心地良い。職業病というものなのか、両目を塞がれた状態で他人に喉元をさらけ出すのにはどうしても抵抗があった。

「悪ぃな。世話かけちまって」
「わたしが勝手にしてるだけだから、気にしないで。柔らかいけどちゃんと噛んで食べてね」

 とは言ったものの、手探りでの食事が容易ではないことはここ数日で身をもって知っている。相手が人間ならば呼吸や衣擦れ、特に敵は殺気である程度予想がつくのだが、桃が自発的に動いたり、ましてや殺気を放ってくることなどない。
 何度か刺しそこねて皿をつついていると、ひんやりとした何かが俺の手を包んでフォークを動かし、口元まで導いてまた離れていった。唇に触れた桃を一口噛めばよく熟れた柔らかな果肉がつるんと口の中に滑り込んでくる。たっぷりと含まれた果汁は乾き始めていた喉を潤して、気が付けば千鶴の存在も忘れるほどに夢中で食べていた。

「おいしい?」

 手に触れたものが千鶴の手だと気付いたのは何個目かの桃を飲み込んだ後だった。





 どんよりと重たい雲が空を覆い尽くし、今にも降り出しそうな匂いのする午後。こんな日は千鶴の住む世界も暗いグレーに染まるらしい。

「今日、包帯とるんだって。先生が言ってた」

 目が見える。そう聞いて真っ先に浮かんだものが、山のように溜まっているであろう仕事ではなく、未だにぼやけたままの千鶴の顔だった。思い出そうとすればするほどに分からなくなり、そのうち拝めるだろうと諦めていた。記憶に残らないということはさしずめ可もなく、そして不可もなしといったところか。目を引くような美人、或いはその逆だったならはっきりと覚えていただろう。

「やっとかぁ。随分時間がかかったな」
「まぶたの怪我、けっこう酷かったんだよ。倒れてるのを見つけた時は、もうダメかもしれないって思った。生きてて良かった」

 下世話な俺の考えなど知る由もなく、千鶴はか細く笑う。
 歳を重ねるごとにこなす任務の数は増え、死体の数だけ恨みを買った。周りを見ても、いつもぎりぎりのところでしぶとく生き残る俺に舌打ちをする捻くれた連中ばかり。薄情な世界で、俺や他の奴らと同じように殺しを生業にしている千鶴の口から聞いた「生きてて良かった」は驚くべきものだった。胸の底の方にあたたかい液体が溜まっていくような、妙なむず痒さを感じているのに、それを嬉しいとは表現できない。捻くれているのは俺も同じだった。

「そう簡単にくたばったりしねえぞぉ」
「うん、スクアーロは殺しても死なない気がする」
「なんだそりゃあ。バケモノじゃねえか」
「バケモノだって平気だよ。むしろその方がいいかも」
「……勘弁してくれ」

 くすくすと抑えられた笑い声につられて頬が緩む。今ここで包帯を外して、面白そうに笑う千鶴の顔を見てみようかと思ったが、なんとなく勿体無い気がしてやめた。どうせすぐに見れるのだから急くことはないだろう。

「残念だなあ。わたし、スクアーロを――」

 廊下から何やら物音が聞こえてきたのは千鶴が何かいいかけたその時だった。まだ回診の時間にはならないはずだが、目の件で早めに来たのかもしれない。こちらへ向かってだんだんと大きくなる複数の足音と話し声を聞いて、慌てたように千鶴が立ち上がった。椅子ががたんと大きな音を立てる。

「もういかなきゃ」

 やみくもに伸ばした手が冷えた指先を捉えていた。こんなところを誰かに見られでもしたらたちまち噂話の種にされるだろう。男の割合が圧倒的に高いここでは、女は存在するだけで目立つのだ。千鶴も好奇の目に晒されるのは避けたいはずなのに、俺もはやく離してやらなければと思うのに、指と指とは絡まりあって離れようとはしない。

「千鶴、次はいつ会える」

 いっそこのまま二人だけの世界に閉じ篭れたら。夢のような話は所詮夢でしかなく、人の気配は少しずつ近くなる。短い時間の中で何を伝えられるだろうか。そう考えている最中に浮かんだ言葉は「また会いたい」だった。ただし自分に都合よく出来ている口は想いを素直に伝えようとはしなかったが、千鶴も子どもではない。多少捻れていても意味はわかるだろう。

「今度はスクアーロが会いに来てよ。遅くなってもいい。ずっと待ってるから」

 絡んでいた指先がするすると解けて遠ざかる。千鶴と入れ違いで入ってきたであろう医者に声をかけられるまで、柔らかく滑らかな、絹のような肌の余韻に浸っていた。







 あれから二週間。なんとか自力で歩けるまでに回復し、食事もしっかりとした固形物が出るようになった。久しぶりに見えた景色には灰色の靄がかかっていて、どこか薄暗い。千鶴越しに見た鮮やかな世界が恋しかった。
 毎日続いていた千鶴の来訪はあの日を境にピタリと止み、両目を塞いでいた包帯を取り払ってからは一度も会っていない。どうやらこちらから会いに行くまでは姿を見せないつもりらしかった。

「ゔお゙ぉい、ベル、千鶴見なかったかぁ?」

 見慣れたブロンドが談話室のソファでひとり、暇そうに転がっていた。さっきまで誰かがベルの相手をしていたのだろう。テーブルの上には三人分のポーカーの手札が並べてある。最後のゲームはストレートでベルが勝利したようだ。
 ソファの主は腹の上にスナック菓子の袋を乗せたままピクリとも動かない。都合の悪い時や面倒な時はいつもこの調子だ。狸寝入りを決め込むつもりなら無理に起こすのにも手間がかかる。それならルッスーリアにでも聞くか、と踵を返した時、独り言のような小さな声がぽつりと溢れた。

「死んだけど」

 ぬちゃ、と靴の下で嫌な音がした。足を上げてみると不恰好に潰れたチョコレートが靴底の型を残して床にへばりついている。息を殺した部屋の中はしんと静まりかえり、凍りついた背中に嫌な汗が一筋の道をつくって流れた。
千鶴が死んだ。

「アイツあの任務中に撃たれててかなりヤバい状態だったらしくてさ、隊長のこと運んですぐに死んだって」

 一体いつ、どこで。すぐに浮かんだ疑問はベルの口から淡々と語られたが、そんなことが信じられるわけがなかった。千鶴は任務後から毎日、俺の部屋に通っていたのだ。夢や幻にしては声も感触も、あの瑞々しい桃の味だってはっきりと覚えている。ということはどうせまたベルの奴が人をからかって遊んでいるのだろう。相変わらず趣味が悪い。

「くだらねえ嘘吐いてると卸すぞぉ」

 そう思ってソファを覗き込むと、珍しく前髪の隙間から露わになった目がぼうっと天井を見据えていた。腹の立つ笑みを浮かべているに違いないと決めつけていた表情は予想に反して“無”だ。拳のひとつでも落としてやろうかと握りしめていた手から力が抜けていく。確信はないが、悟ってしまった。千鶴の死は嘘でも遊びでもないのだ、と。

「本当に、死んだのか」
「だからそうだって言ってんだろ」

 仮にあの任務で千鶴が死んでいたならばあれは何だったのか。俺は誰と会話を重ね、誰の手に触れ、誰に惹かれたというのか。いくら視界が塞がれていたとはいえ、それ以外の五感は生きていて、千鶴を認識していたはずだ。
 考えてみたところで正しい答えが出るわけもない。しかし、無駄だと分かっていても、混乱した頭を落ち着かせるために考えずにはいられなかった。

「スクアーロはさ、アイツの顔、覚えてる?」
「いや………何となく、だが」

 どうしようもない虚無感に襲われた体を何とか引きずって、やっとの思いで一人掛けのソファに沈む。全身が鉛のように重い。ベルは視線だけを動かしてちらりとこちらを見た後、大きな欠伸をしながら起き上がった。腹の上に乗っていたコーンスナックがばらばらと落ちて散らばる。無表情に天井を見つめていた両目はもう、前髪の向こうへと隠されていた。

「俺、見たんだよね。隊長の部屋に顔のない女が入ってくとこ。なんとなく千鶴に似てた」

 思い出すのは最後の日の会話だ。俺がバケモノでも平気だと笑っていた千鶴は何を言いかけたのか。もしもあの時に包帯を外していたら、何が見えたのか。会う度に知りたい確かめたいと焦がれていた女の顔はどこにもなかったのかもしれない。それでも千鶴は確かに存在していた。
 大きく欠伸をしたベルが再び退屈そうにソファへ転がった。今日はこのまま無駄な時間を過ごすらしい。俺もしばらくはここから動けそうにはなかった。
 いずれにせよもう二度と千鶴が俺の前に姿を現わすことはないのだろう。あんなに夢中になっていたのが嘘のように、まるで憑き物が落ちたかのように、今はただただゆっくりと休みたかった。
 目を閉じれば曖昧になりゆく記憶の中で、灰色の桃だけが静かに香っている。


16/07/01

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