夢とうつつの間、まどろみの世界でふわりふわりと意識は揺れる。甘い匂いだ。ジゼルが花でもいけたのだろうか。
 あいつが出入りするようになってからというもの、この殺風景な四角い部屋の窓際にはいつも何かしら花が飾られていた。世辞にも似合うとは言い難いのだが、今ではすっかり受け容れてしまっている。慣れというのは恐ろしい。けれども、それもまた悪くないような気がしていた。

「ジゼル……?」

 そういえばどこへ行ったのだろう。昨日の夜は一緒に眠ったはずなのに隣に気配はない。
 重たい瞼を持ち上げて枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。十一時四十分。遮光カーテンのお陰で室内は眠るのにちょうどいい暗さで保たれているから、日が昇ったことにも気付かなかった。
 肘をついて瞼よりもずっと重たい体を起こすと胸元からぱらぱらと何かが落ちていった。完全に上半身を起こして座ってみると頭の上からもふたつみっつ落ちてくる。不思議に思いつつ手にとったそれは真っ白な花だった。

「ゔお゙っ、なんだこれ」

 視線を滑らせればベッドの上に敷き詰められた花、花、花。色は白で統一されているが種類は様々だ。どうやら俺を夢の世界から引き戻した甘い匂いの正体はこれだったらしい。

「あれ、もう起きちゃったの?」

 何が起こったのかわからないままぼうっとしていると、隣の部屋からひょっこりとジゼルが顔を覗かせた。真っ黒なアフタヌーンドレスにグローブ姿で、裾を広く縁取ったベールが美しい顔を隠している。どこからどう見ても喪服だ。葬儀があるなんて言っていただろうか。あったところでそれとこの状況が瞬時に結びつくはずもなく、寝起きのぼやけた頭はさらなる混乱の渦へと陥ってしまった。

「おはよう」
「おはようじゃねーよ。一体何のつもりだぁ」
「願掛け、かな。そういうの好きでしょ」

 ジゼルは少し離れたテーブルの前に跪き、手に持っていたキャンドルに火を灯している。すぐ横には見たことのない写真立てが置いてあったがここからでは写真を見ることはできなかった。それから猫を思わせるしなやかな動きで近付いてきて、ゆっくりとベッドに腰かける。たった少しの空気の動きにも花たちはいっそう強く香り立ち、あまりの匂いに俺は眩暈を起こしそうだった。
 いつだったか夏場の死臭で失神したこいつを介抱したことがあったが、あの時に鼻をやったのかもしれない。そうでもなければ平気な顔をしていられるものか。
 肌触りのいいグローブの甲が慈しむように頬を撫でるのを黙って受けていた。ベール越しの瞳は僅かに潤んでいて、目尻に引かれたアイラインがわずかに滲んでいるようにも見える。

「誰か死んだのかぁ」
「恋人が、死んだの」

 そう言われたが、すぐには何のことか理解できずにいた。俺はこうして生きている。昨日一日を振り返ってみても思い当たる節はない。ハードルの低いランクの任務に出て、怪我ひとつなく帰ってきて、ジゼルを抱いて、そのまま眠りについた。それだけだ。
 こいつの言う恋人が俺以外の別の誰かであるという答えにたどり着いたときには、ぼやけていた頭もすっかり覚醒していた。何も羽織っていない背中がすうっと冷えてゆく。
 恋人。誰だ、そいつは。俺よりも上にいるのか。おまえのような女が死を憂いで泣くほどの相手なのか。
 まくし立てる代わりに引っ掴んだ細い腕を握る手に力が入った。ベールに覆われた顔を伏せているためジゼルの表情は伺えない。このまま力を加え続けたら折れてしまうかもしれないと思ったが、折れてしまえばいいとも思った。

「なんてね! エイプリルフールだよ」
「……は?」
「だから、エイプリルフール。ほら見て、もう終わったの。さっきのはウソでした」
「ウソ?」

 パッと顔を上げたジゼルが楽しそうに笑っていることに驚いて、またさっきと同じように何を言われたのか理解するまでに時間がかかってしまった。腕に食い込んでいた指を一本ずつ引き剥がして、自由になった手がデジタル表示の目覚まし時計を指差す。――エイプリルフール?
 四月一日、金曜日、時刻は十二時一分。ああそうか、確か嘘をついていいのは午前中だけで午後からは種明かしだったな。ここのところ地味に仕事が忙しかったせいで曜日感覚もなくなっていたし、イベント事の類にも興味がないせいですっかり頭から抜け落ちていた。
 そういえば最初に顔を覗かせたときからこいつは大して悲しそうな素振りを見せていなかったような気がする。泣くほどの相手が死んだのにのんきにおはようだなんて言えるわけがなかった。いや、そもそも泣いてるように見えたのも俺の勘違いかもしれない。まんまと騙されたのは思い込みと寝起きの頭のせいだ。
 やっともぎ取った休日の朝になぜこんな目に遭わされなければならないのか。嘘だとわかってほっとしたのと同時に、腹が立ってきた。ジゼルは花の散らばるベッドに寝転がって俺を見上げながらニヤついている。

「おまえなぁ……笑えねえ嘘ついてんじゃねえ! 焦っただろうが!」
「ねえねえ、エイプリルフールについた嘘は一年間現実にならないんだって。知ってた?」
「あ゙あ゙!? んなもん知るかぁ! だいたい俺がおまえの浮気を見抜けないわけがねえだろーかぁ。何年一緒にいると思ってんだ、まったく」

 いきなり笑うのをやめてきょとんとしたジゼルの頭からトークハットが外れ落ちて、ベールごとベッドの下に転がっていった。やはりアイラインは滲んではおらず、目尻に向かって細くなだらかに続いていた。
 再び静かになった部屋の中はまた甘い匂いに支配される。気まぐれに指先にふれた花をひとつ拾い上げて柔らかな髪の間に挿してやると、ジゼルは花がほころぶようにふわりと微笑んで目を閉じた。

「それで、この花はなんなんだぁ。こいつもエイプリルフールか?」
「教えてあげない」

 花で飾られるのは俺よりもこの部屋よりも、ジゼルの方がずっと似合う。普段のやかましさに白は清純すぎるかもしれないが、こうして喪服姿で黙っていると驚くほどに様になっていた。わざわざ口に出して言おうとは思わない。何だかんだで俺はこいつが運んでくる厄介事や喧騒を楽しんでしまっているのだ。今みたいに。
 目を閉じたジゼルにそっと口づけを落とす。もしも俺よりも先に死ぬことがあったなら、今と同じ黒いドレスを着せて、棺桶いっぱいに白い花を敷き詰めてやろうと思った。


16/04/01

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