『もしもし、千鶴です。久しぶり。あれからしばらく会ってないけど、みんな元気にしてますか?………そうだ、あのね、コートのポケットからライターが出てきたよ。馬の絵が描いてあるやつ。いつも持ち歩いてたから、もしかしたら探してるんじゃないかと思って…… だから、またこっちに来るときは連絡ください。風邪ひかないように気をつけて。お仕事がんばってね。それじゃあ』


 あてもなくふらふらと歩きはじめてどれくらい経っただろう。長年住んでいるこの街にもまだ知らない道があったらしい。右を見ても左を見ても、今わたしが立っている場所がどの辺りなのか見当もつかない。吐きだした溜め息は白く濁って夜の空気に溶けた。
 電話も、財布も、置いてきてしまった。住み慣れたはずの部屋の空気がやたらと重苦しく感じて、すぐに逃げなければならないような気がした。昨日の夜からソファにかけたままだったトレンチコート――たっぷりとミルクを注いだ紅茶のような薄いベージュが気に入っていた――を掴み、普段履き用にしている黒いフラットパンプスをひっかけて飛び出したはいいものの、どちらも二月の凍てつく夜には少し頼りない。
 そのうち歩くのにも疲れてしまい、とうとう排気ガスで灰色に汚れたガードレールに腰掛けた。そこ以外に足を休める場所が見つけられなかったのだ。
 家を出てからずっとコートのポケットの中で握りしめていたライターはわたしから吸いとった体温でなまぬるくなっている。金色の枠にたてがみを靡かせた跳ね馬が描かれたそれは、まるでディーノのためにデザインされたかのように彼の手にしっくりと馴染んでいた。煙草といっしょに預かったままずいぶん長い間ポケットの中にしまいっぱなしだったのにも関わらず、うす暗い街灯に照らされた跳ね馬は上品な輝きを失わないでいる。
 思い返してみればあれが最後のデートだったのだ。
 距離が生んだすれ違いを尻尾のように引きずったまま行きつけのレストランで食事をとり、ホテルで一泊するはずだった予定をなかったことにして帰りのタクシーの中でふたりは別れを決めた。どちらから切り出したわけでもなく、最初から決まっていたかのように、あまりにも自然な流れで。
 きっと会いたい気持ちを押し殺して過ごす毎日にわたしもディーノも疲れ果てていた。限られた時間の中であと何回会えるのだろう。何回抱き合って何回笑いあえるのだろう。延々とそんなことを考えては、子どものように疲れて眠ってしまうまで泣いたりもした。
 とりあえずで就職した会社を辞めて彼の暮らす遠い海の向こうへ移住することも考えた。言葉や文化の違いはあってもディーノが隣にいてくれさえればどうにでもなるだろう。それでもいざ彼を前にすると言葉にすることはできなかった。
 胸の奥で固まった決意をどろどろに溶かすのは重荷を背負った背中に凭れかかることの罪の意識でも、慣れ親しんだこの国を去る寂しさでもない。わたしはわたしが傷付くのがいちばん怖かった。
――もしもディーノが困ったときに見せる、あの笑い顔を向けられたら?
 腕を組んで仲睦まじげに歩く恋人たちがわたしの前を通り過ぎて、曲がり角の向こうへ消える。
大人の仲間入りを果たしてから数年。煙草の味はまだ知らない。何度も吸い方を教えてとせがんだが、ディーノは まだダメだ といたずらに笑うばかりで結局教えてはくれなかった。その歳のわりに大人びた横顔と細く吐き出された煙の筋が芸術品のように美しかったのを覚えている。
 下半分を透明なビニールで覆われた長方形の紙箱から、ひとつを取り出して唇に挟んでみる。乾燥した芝生のような匂いが冷たい夜の空気と混ざり合って鼻の奥をツンと刺した。やはり火をつけなければ記憶の中の懐かしい匂いにはならないらしい。
 一度ポケットに戻したライターはかじかんだ指先よりも冷たくなってしまっていた。ディーノがしていたみたいにピンッと蓋を弾いて丸い車輪のようなパーツに親指をかける。吸うとも言っていないのに頑なに教えるのを拒んだディーノはきっといい顔をしないだろう。こんなわたしの姿を見たら整った眉をうんと寄せて珍しく不機嫌になるかもしれない。まだダメだって言っただろって。

「あっ――」

 後ろからいきなり突き飛ばされたみたいに、無意識に声が出でていた。唇から離れた煙草が重力にしたがって膝の上で一度跳ねてからアスファルトの上に転がる。どうして叱られることがあるのだろう。
 あの日、冬の始まったばかりのあの寒い夜からわかっていたつもりだったのに、別れの意味には今の今まで気付けなかった。
 わたしたちはとっくに終わってしまったのだ。好奇心で煙草に火をつけようがディーノが叱ってくれることはない。困った笑顔を向けられることも、きれいな横顔を眺めることも。もしディーノがあの留守電を聞いてライターを取りに来たとしても、それだけじゃ前のようには戻れない。自分から変わろうともしないで、いったい何に期待していたのだろう。
 溜めきれなかった涙が次から次へと頬を伝ってコートの上でぱたぱたと音を立てる。はじめてこの恋がうまくいかなかった本当の理由を知った瞬間だった。

「千鶴!」

 誰かに名前を呼ばれたような気がした。誰かではく、それがディーノの声であると気付くまでに時間はかからなかったが、そんなはずはないと頭の中で否定する。
――千鶴。焦ったような怒っているような声でもう一度呼ばれる。今度ばかりは自分の耳を信用せざるを得なかった。さっきよりも近くで、ティンバーランドのブーツが立てる重たい足音を聞いたのだ。

「……ディーノ?」

 弾かれるように立ち上がって辺りを見回す。振り返った先、広い車道を挟んだ向かいの歩道で、わたしをまっすぐ見据えるディーノを見つけた。この場所を中心にして世界中の時間が止まってしまったようだった。心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。
 さっきまで一台も通らなかったというのに、こんなときに限って近付いてきた車のヘッドライトが向かい合うふたりを照らした。通り過ぎるのを待ってからガードレールを飛び越えたディーノが車道を横切って走ってくる。近付くとすぐにその表情から彼が怒っていることがわかった。
 筋の通った鼻は可哀想なくらいに真っ赤になって、触り心地のいい柔らかなブロンドはぐしゃぐしゃに乱れていた。

「おまえ……こんなところで何やってんだ! 電話も出ねえし、電気ついてんのに家にいねえし、鍵も開けっぱなしで、こんな夜中に出歩いて何かあったらどうするんだよ!」

 静寂と暗闇が支配する街にディーノの声が響く。怒っているようで泣きそうな、またほっとしたような。こんなにも複雑に感情が入り混じった顔をするなんて知らなかった。

「泣いてたのか……?」

 どうやらいつの間にか涙は止まっていたらしい。自分のことなのに彼に言われるまで気が付かないなんておかしな話だ。ガードレールに手をついて頭ひとつ分小さいわたしの顔を覗き込むディーノはどうしてここにいるのだろう。
 ぎゅうっと力を込めた指先が冷たい金属に触れた。そうだ――あの留守電を聞いて、ライターを取りに来たんだ。
 今までただただ驚くだけで精一杯だったわたしの中にじわりと焦りが生まれる。これを返してしまったら今度こそおしまいなのだ。起こるかどうかもわからない奇跡や偶然などという不確かなものに頼らなければもう二度と会うこともないのかもしれない。世界は広い。イタリアと日本は、遠い。
 再びぼろぼろと溢れはじめた涙に優しい彼が動揺したことがわかったが構ってなどいられなかった。

「ディーノ、ごめん、わたしまだディーノのことが好き。離れてる間、すごく苦しかった。ライターだって黙っておくこともできたのに、ディーノに会いたくて、口実にしたの。そうしてまた前のように戻れたらって。でもそれだけじゃダメだったんだね」

 胸の内から溢れ出た言葉はどろどろのまま、うまく形を保てずに足元へ沈んでゆく。もしも言葉に色があるのならパンプスよりもうんと底なしの黒だっただろう。たくさんの色を混ぜ合わせたせいで色の鮮やかさは失われてしまったが、傷付くことも厭わずににさらけ出した本当の気持ちだった。
 恐る恐るといった風にディーノの二本の腕がわたしを抱き寄せて包み込む。鼻先に当たった鎖骨からは煙草ではなく、冷えた汗のどこまでも青く澄んだ匂いがした。

「ずっと後悔してた。どうして別れちまったんだろう、どうしてついて来てほしいって言えなかったんだろう、って。……馬鹿だよな。千鶴に断られるのが怖かったんだ。でも、留守電聞いて、次に会うときが最後かもしれないって思ったら居ても立っても居られなくてさ」

――仕事も何もかも放り出してきちまったから、帰ったら大目玉食らうだろうな。
 冗談まじりにそう言ったディーノの腕の中で、わたしはただ泣きながら何度も何度も頷くことしかできなかった。
この恋が最初からうまくいかないと決まっていたわけではなかった。嬉しかった。わたしもディーノも臆病だっただけで、お互いにもう一歩ずつ踏み出す勇気があればこんなまわり道をする必要はなかったのかもしれないけれど。

「なあ、まだ間に合うかな」

 小さく鼻をすすったディーノが震えた声で呟く。

「間に合うよ。きっと。お互いこんなに傷付いたんだから、今度はきっとうまくいく」





 すっかり寝静まった街をディーノと手を繋いで歩く。全然知らない場所に思えたあの通りも、ふたつほど角を曲がれば見慣れた賑やかな大通りだった。なんだか長い夢から覚めたような不思議な気分のまま、部屋へと帰る道のりをゆく。
 開けっ放しだった玄関の鍵はディーノが迷いに迷った末に施錠してくれていたらしい。行き違いで帰ってきたときのために走り書きのメモをドアに貼り付けて。
 ふとポケットの中の存在を思い出して立ち止まる。いけない、すっかり忘れるところだった。心細い夜を共に過ごしたそれを手放すのは少し寂しいような気もしたが、この金の馬はディーノの手にあるときがいちばん美しく輝いて見えるのだ。
 ディーノは急に手を離したわたしを不思議そうに見ていたが、ポケットから取り出したライターと煙草の箱を見て、ああ、と頷いて笑った。どうやら彼も忘れていたようだ。

「もしかして、吸った?」
「ううん。火をつけようとしてみたけどダメだった」
「ならよかった。俺、千鶴が 煙草教えて って目をきらきらさせながら聞いてくるときの顔、すげぇ好きなんだ。吸い方覚えちまったらもう聞いてもらえないだろ?」


16/02/06

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