その日はいつものリストランテとは違い、賑やかな雰囲気と家庭的な味の料理、そして店主の人情味が売りのオステリアで食事をしていた。集まった客はみな楽しそうに料理を囲んで、ああだこうだと会話に花を咲かせている。ここに来たいと言いだしたのはナランチャだった。その場にいたブチャラティが「たまには悪くないな」と頷き、なんとなく気分の良かったミスタも加わって三人でやって来たのだ。
 食事もあらかた終えて、あとは食後のケーキを待っている時だった。店の奥からコツコツと小気味良いヒールの音を響かせながら一人の女が、こちらのテーブルの先にある出口へと向かって歩いてくる。いつかどこかで会ったような気がして、ミスタは遠慮もせずに彼女の顔をじろじろと見つめていた。ふわりとはねる栗色の巻毛、影を落とす長い睫毛、分厚い下唇の横の小さなホクロ。あっ――と気付いて立ち上がったその瞬間、彼女もまたミスタの姿を見つめていた。気まずさとはこういう空気のことを云うのだろう。彼女は少し戸惑ったような声で、小さく彼の名を口にした。

「ミスタ」

 昔、それこそブチャラティたちと出会う前の話だが、一人の女と一緒に暮らしていたことがある。いつもどこか適当で、楽観的で、でも真っ直ぐで、お互いの持っている奇妙な形をしたパズルのピースがぴったりとくっついたように理想的な相手だった。転がり込む形で彼女の家に引っ越してからは、毎日くだらないことで喧嘩をしては毎日くだならいことで笑い転げた。ミスタに青春と呼べるものがあるとしたなら、間違いなく彼女と過ごしたあの数年間だろう。

「久しぶり」
「ああ、本当に。その、元気だったか?」
「この通り、元気よ」

 彼女はカウンター席に腰を掛けてミスタが隣に座るのを待っていた。ちらりと後ろを振り返れば、ブチャラティがひらひらと手を振っている。俺たちのことは気にするな、そういう合図だ。ほっと息をついてスツールに腰を下ろすと、彼女が無言でメニュー表を手渡してくる。ふわりと懐かしい匂いがして目眩を感じるが、気付かないふりをしてミスタは食べ損ねてしまったケーキをもう一度注文することにした。

「親父、グラスの白と苺のショートケーキ。おまえは?」
「キールと、そうね……わたしにもショートケーキを」

 華奢なグラスを指先で弄りながら、彼女はカウンターに無造作に置かれたミスタの指先を見つめている。とても綺麗だとは言えないが、男らしく手入れもされていない彼の横爪が好きだった。この手を離したら世界が終わってしまうと信じてやまないほどに。
 人は薄情な生き物だと彼女は思った。ミスタと別れても世界が終わることもなければ息ができなくなることもなく、しばらくしてからは新しい職場で出会った男と恋に落ちて、気付けば神の前で永遠の愛を誓っていた。その名残が左手の薬指に日焼けとなって染みついている。人は薄情な生き物だ。恋を失ったって、永遠の誓いを破ったって死にはしないのだから。

「なぁ、覚えてるか? 大喧嘩した時のこと」

 カウンター越しに出されたショートケーキの苺をつつきながらミスタは女の指を見つめていた。なんでもない風を装って昔話に目を向けさせるほど、薬指の日焼けに動揺している自分がいた。――ダセェ。そうは思うものの、他に話題は見つからない。かといってこのまま『ありがとう、さようなら』では納得がいかない。彼女と別れた原因はいったい何だっただろうか。記憶を深く辿ってはみるが、あの後いろいろな転機が訪れたせいですっぽりと記憶が抜け落ちてしまっているように思い出せない。

「忘れるわけないじゃない。掃除中にあなたが隠してたポルノを見つけた時よ」
「おまえが家中の皿を割っちまってよぉ、しばらく鍋でメシ食ったんだよなぁ」

 小指の外側についた生クリームを唇で舐め取りながら、彼女はおかしそうに笑った。ソファとカバーの隙間、少しでも厚みが出ないようになのかご丁寧に開かれた状態で挟まっていたポルノ雑誌を見つけた時のことを思い出しているのだろう。その雑誌をかたくかたくきっちりと丸めて、イビキをかいて寝ていたミスタの頭に思いきり叩き込んだことも。彼女の怒りはミスタの頭にできたたんこぶだけでは収まらず、彼に向かってありったけの食器を投げつけたのだ。ミスタにとっては痛い記憶のはずが、それさえも楽しかった思い出に変わっている。歳を重ねるというのはこういうことの繰り返しなのだろうか。

「冬の初めにあなたがわたしのウールのセーターを洗濯機で回して、全部キッズサイズにしたこともあったわ」
「俺の持ってるセーターを半分こにして、」
「足りない分をディスカウントストアに買いに行った」

 あれは今日のように寒い冬の日のことだった。服も足りなければ財布の中身も大してなかった二人はディスカウントストアへ行き、ナターレの売れ残りのセーターをお揃いで買った。イベントに浮かれた若者たちが着るような、はたまた大昔の老婦人が手編みしたような服に大笑いし、やがてそれは二人のお気に入りになった。

「あれだろ、ユニコーン柄のイカれたセーター」
「お揃いで着て馬鹿みたいだったわね。でもあなたは意外と似合ってた」

 どう話を切り出そうか、もしも彼女が心に傷を負っていたならどうやって慰めようか。思い出話に花を咲かせつつも考えを巡らせていたミスタだったが、楽しそうに話をする彼女を見てその必要はないのかもしれないと思い始めていた。彼女は俺の知らないところで俺の知らない相手と愛を誓い、そしてその誓いを破り、きっと今はもう立ち直っているのだろう。いつもどこか適当で楽観的。たとえ離れていても、彼女は彼女のまま、ミスタが恋に落ちた時のままだ。

「ごめんなさい、楽しくてつい話しすぎちゃったみたい。そろそろ帰らないと」
「そうだな、帰るところだったんだよな。悪い」

 カウンターに二人分の紙幣を置いた彼女がコートを抱えて立ち上がる。ミスタも慌てて自分のジャケットを手に取り、後を追って寒空の下へ出ていく。
 恋というのは巡り合わせとタイミングだとミスタは思っていた。偶然ナランチャがここに来たいと言わなければ再び彼女と会うこともなかったかもしれない。出会っていたとしても彼女の薬指にプラチナの指輪がはめられていたのなら、あるいは別れた後だったとしてもまだ立ち直れずにいたのなら、ミスタにこんなチャンスが巡ってくることもなかっただろう。

「なんつーかその……会えてよかった」
「わたしもよ」

 再会の時よりかは幾分マシだが、再び訪れた気まずい空気に、困ったように彼女が笑う。

「ミスタ、離してくれなきゃ帰れないわ」

 別れの挨拶に交わされた握手を繋いだまま、ミスタは少し緊張した面持ちでごくりと唾を飲み込んだ。今まで連絡のひとつだってしなかったくせに、軟派な男だと思われるかもしれない。しかしここで彼女を見送って終わりにはしたくなかった。偶然なんてものはそう何度も起こることではない。二人の再会にきっと次の機会はないのだ。

「ただの偶然だと思うか?」
「……それってどういう意味?」
「俺は運命ってやつを信じてる。それで、こっちは不幸にも運命じゃあなかった」

 不格好な指先が捕まえたままの左手の薬指を撫でる。あの時彼女と別れなければ、というのは違う気がした。別々の道を歩んだ二人が数年越しにまた出会ったことに意味があるのだとミスタは信じていた。もうすぐ別れて四年のはずだ。今ならまだ縁起も悪くはない。
 堪えきれないとでもいうようにクスクスと笑い始めた彼女がミスタの指先を見て言う。

「あなたがわたしの運命の相手だっていうの?」
「笑うなよ。俺はけっこう本気なんだぜ」

 ミスタがわしわしと襟足をかくのは照れくさい時に見せる仕草だった。本気の時に見せる少し照れ屋な一面も、不格好な指先も、人を気遣える優しさも、あの頃から変わったことはたくさんあるけれど、好きだったところは何ひとつ変わっていないのだと彼女は思った。
 彼女は優しく指を撫でる大きな手をほどき、しゅんとした顔をする彼の頬を両手でそっととらえて背伸びをする。

「違うの。わたし、あなたがこうやって引き止めてくれるのを期待してた」

 一瞬、ミスタの唇に柔らかな唇が触れて、ショートケーキの甘さを残したまますぐに離れていった。下から見上げる二つの瞳はうるうると水を溜め、あの頃より少し痩せた頬はイチゴのように赤く染まっている。――欲しい。その感情だけがどうしようもなく頭を支配し、体を動かしている。
 今度はミスタの方から深く口付けた。腰を抱き寄せ、いささか乱暴に太ももを引き上げれば、彼女の腕も蛇のようにミスタの首に絡み付いた。ここがオステリアの大きな窓の前だということも忘れて二人は夢中でキスをしていた。ベルの音を響かせながらドアが開くまでは。

「おまえら、見世物になってるぞ」
「俺とブチャラティは先に帰るから、ごゆっくりー」

 ぱっと唇を離して、ひらひらと手を振りながらさってゆくブチャラティとナランチャの後ろ姿を見送ってから振り返れば、店内の客たちが指笛を鳴らしながらグラスを掲げて二人を祝福している。ミスタは彼女の腰をもう一度抱き寄せながらオーディエンスの祝福に手を振ると、そのままブチャラティ達が去った方向とは逆方向に歩き始めた。

「もう恥ずかしくてあのお店には行けないわ」
「そうかぁ? 俺はけっこう気に入ったけどなぁ」

 暗い夜道を並んで歩く。熱くなった頬を撫でる冷たい空気が心地良い。三年と九ヶ月ぶりのはずなのに、つい昨日までもこんな風に歩いていたように感じていた。


20/02/02

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