窓という窓を全て開け放った部屋の中は、海から吹く潮風の匂いと、コーヒー豆の香ばしい香り、ときどきアーモンドが焼ける匂いで溢れている。ハードカバーに落としていた視線をあげれば、ティレニア海の水面が午後の日差しを受けてきらきらと輝いていた。もうすぐそこまで夏が来ている。目の奥にツンとした痛みを感じたブチャラティは、開いていたページに写真を挟んで少し休むことにした。
 そのポートレートは何年か前に彼女が生まれ故郷のトスカーナから送ってきたものだ。東の辺りに両親が所有しているというぶどう畑と、どこまでも広がる澄んだ青空。大きな麦わら帽子と紅白の装束に身を包んだ彼女が、化粧っ気のない顔で素朴な笑みを浮かべている。ブチャラティはこの写真がお気に入りだった。――誰にも見せたくない、独り占めにしたい。そんな独占欲から栞としての役割を与えられている写真は、長年の使用で角が丸くなってしまっている。

「そろそろおやつの時間ね、本の虫さん」

 ハードカバーの隣に二人分のカップを並べた彼女が、綺麗に化粧を施した顔で微笑む。二人がメレンダで飲むのは決まってカフェラテだった。

「ああ、ちょうど良かった。そろそろ休むつもりだったんだ」
「もうすぐカントゥッチも焼けるよ」
「あとは俺が用意しよう。君は座っていてくれ」
「ありがとう。鍋つかみは上の棚にあるから」

 キッチンの戸棚を開けながら、もったいない、とブチャラティは思った。そばかすを隠すファンデーションも、繊維で伸ばした長い睫毛も、瞼を彩るアイシャドウも、濃すぎる口紅も。この街では何の違和感もなく溶け込む美しい仮面が、郊外の港町で生まれ育った彼にはどうもしっくり来ないのだ。綺麗に着飾った姿よりも、日曜日の朝のぼうっとした顔や海で泳いだ後の赤く焼けた肌、真っ白なシーツの上で眠る姿の方が彼にとってはよっぽど魅力的だった。
 チン!――と焼き上がりを知らせたオーブンの音で意識を現実に戻されたブチャラティは、慌ててニワトリ型の鍋つかみに手を突っ込む。

「しまった。焼きすぎたようだ」


20/01/30

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