日付も変わって間もない頃、逞しい腕とふかふかの枕に頭を預けて、ジゼルは自分よりも少し高い位置にある男の顔をぼうっと見つめていた。いつも編み込みと前髪を止めているヘアクリップがないからか、艶のある黒髪はさらさらと流れて耳まで露わになっている。ジゼルは今まで彼のことを中性的で美しい人だと思って見ていたけれど、そうではなかったのかもしれないと思い始めていた。髪をもう少し短く切ればずっと男らしい顔つきになるだろう。

「どうかしたか」

 彼の男性的な部分について考えてしまうのは、ついさっきまで身をもって教えられていたからだろう。乱れてかき上げられた黒髪と、力強い腕、女である自分にはないピースや、大きな体からぽたりぽたりと滴る汗、苦しそうな表情、荒い息。――中性的? とんでもない。彼はやはり男だったのだ。

「ジゼル、大丈夫か?」

 上の空な様子を心配するように上体を起こしたブチャラティがジゼルの顔を覗き込む。ティレニアの夜の海のように深い色をした瞳の中で、頬を染めながら恍惚とした表情を浮かべた女が溺れてゆく。もう後戻りはできないのだと彼女は思った。

「わたし、ブチャラティと、」
「うん?」
「ブチャラティと、シちゃった」

 ついさっき抱いたばかりの相手が他人事のようにそう呟いたので、ブチャラティには初めジゼルが何を言っているのかがわからなかった。
――俺と寝たことで何かまずいことでもあっただろうか。本当はこういう関係になりたくはなかったんじゃあないか。
 しかし彼女があまりにも幸せそうな顔をしているので、そんな考えは杞憂でしかなかったのだと安堵し、思わずぽかんと空いた口も少しずつ横に広がってその隙間からは次第に笑い声が漏れていた。

「なあ。それは、一体どういう意味なんだ?」
「なんだか信じられないの。嘘みたい。これは都合のいい夢かも。幸せすぎてどうしたらいいかわからない」

 ジゼルはこれまでのことを思い出しながら考えていた。ずっと好きだった人と想いが通じて、デートをして、世間の恋人たちと同じように体を重ねる。それがどんなに素晴らしいことなのかを。しかし、片思いの期間が長かったせいか、ある日一気にやってきたそれらに戸惑いも覚えていた。「突然ですがあなたに宝くじが当たりましたよ」と、そんな風に言われている気分だった。

「夢かどうか、もう一度確かめてみるか?」

 相変わらず思考の海に潜っていたジゼルの不意をつくように、ブチャラティがケットを纏ったまま彼女に覆いかぶさる。ぶかぶかのシャツの裾からゆっくりゆっくり侵入してきた掌は、肌の感触を確かめるように、何か探し物をしているかのように、いやらしい手つきで腰から胸元を目指して這ってゆく。先ほどの余韻とそのぞわぞわとする感覚に飲み込まれそうになっていたジゼルだったが、指の先がとうとう胸の輪郭に触れたことでハッと我に返った。ムードもへったくれもなしで、挑発的に下から覗き込むブチャラティの顔面を両手でぐいっと押し返す。もう少し先へ進んでいたのならきっと流されてしまっていただろう。

「い、いい! 大丈夫!」
「遠慮するな。この通り、俺は君のものだ」
「これ以上は心臓がもたないよ……」

 何もしないとでもいうように両手を挙げたブチャラティは、「冗談だ」と面白そうに笑って再びベッドに沈み込んだ。あわよくば、と思ってはいたのだが、何もここで焦ることはない。ジゼルとの関係はたった今、ついさっき始まったばかりなのだから。

「まあ、確かに夢みたいだな。君がこうして隣にいる。それだけで俺の心臓も煩くて仕方がないんだ。聞こえるか?」

 先ほどとは打って変わって柔らかな笑みを浮かべたブチャラティの厚い胸板にそっと頬を寄せれば、奥の方からドクドクと力強い生命の音が伝わってくる。心地いいと感じるには少しだけ速すぎるリズム。ジゼルはこのリズムをよく知っていた。彼を想って眠れなかった夜、不意に手が触れた夏の日、初めて誘われたディナーの待ち合わせ中、そして服を脱いで彼のベッドに潜り込んだ時。そんな時はいつだって彼女の心臓も同じように早鐘を打っていたからだ。

「恋をしてる音がする」

 まだ愛にはなりきれない未熟さが二人の心臓を速めているのだとジゼルは思った。それはまだ関係が当たり前になる前の、恋をしている間にしか聞こえない音だ。
 ブチャラティからジゼルへ噛みつくような情熱的なキスが降ってきたのはすぐのこと。彼はシャツと下着だけ身につけた彼女の体をぐいっと引き寄せて、逃げられないように腰をつかんだ。そんなことをしなくても彼女は逃げるつもりなんてなかったのだけど、痛いくらいに抱きしめられてみたくてわざと避けるようにもがいてみせた。二本の腕と長い脚が獲物を逃すまいと絡みつく。ブチャラティから与えられるものなら、息苦しささえ愛おしさに変わることをジゼルは知った。

「ん……っは、」
「……参ったな。君がかわいいことを言うから、眠れそうにない」
「わたしもドキドキして眠れないの」
「明日は二人揃って寝坊だな」

 そうは言うものの、疲れ切った二人の体はだんだんと睡魔に勝てなくなってきている。もうすぐ会話も途切れるだろう。
 大きくて骨張った手のひらが、彼女を愛した手が、優しく髪を撫でてくれるのを感じながら、ジゼルはそっと目を閉じた。少し穏やかになった彼の心音を子守唄がわりに聴きながら、どうかどうかこの先もずっと続きますように、と。

「おやすみ、ブチャラティ」
「おやすみ、ジゼル。また明日」


19/12/27

 

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