うたプリ | ナノ






僕らは生まれた頃から一つの存在だった。

いや、僕が彼を生み出した時から同じ音を抱え背中合わせに生きて来た。彼は僕を守るためだけに現れ、自分を救い出してくれる光がないとわかっていながら手を引いて長い長いレールを歩いて来てくれたのだ。

時には人に手を挙げ、罵声を浴びさせ、自分よりも僕という哀れな人間を優先させる。なんて彼にとって損ばかりの世界なんだろうか。きっと彼だって口には出さないものの、こころのどこかで願っていたはずだ。そうじゃなければ、こんな風にはならないはず。

「あ、那月!」

ドタドタと忙しく廊下を走る小さなものが此方に近づいている。お洒落な帽子を被り、太陽の光を吸収してキラキラと輝く金髪の髪が特徴的な可愛い翔ちゃんだとわったのはすぐで、自然と口元が緩くなってしまう。

「砂月を見なかったか?アイツ、昼休みにパートナーと練習をする予定だったらしいんだけど、授業が終わった瞬間に何も言わずに教室から出てってさ…」

楽譜を手にしていた指に自然と力が入る。本当に自然と。それは可愛いものを目にした途端に抱き締めたくて堪らなくなるような衝動のように。

「多分、さっちゃんは今頃、日向せんせぇに分からない部分を聞きに行ったんじゃないかなぁ?」

「あの砂月が日向先生に?」

信じられないとばかりに綺麗なコバルトブルーの瞳を見開く翔ちゃんに苦笑をしてしまった。

四ノ宮那月を守る、そんな拘束から解放されたさっちゃんを待っていたのは、希望という輝かしい、自分の人生を謳歌することだった。それは今まで体験したことがなかった喜怒哀楽が全て満ちあふれた、毎日が楽しい音色で埋め尽くされた世界。さっちゃん自身、きっと望んでいたレール。そうして僕もそれを喜んでいる。

周囲は驚いているけど、あれが本来の四ノ宮砂月なのだ。彼は魅力的な人間。今はまだ作曲家になるにはまだまだ足りないけれど、彼が持つ才能が開花されてしまえば、いつか音楽界を震わせるような存在になるだろう。

「さっちゃんはね、毎日が楽しいんです。今まで自分の欲望を抑えて来てしまったから、ひとつひとつが新鮮でさっちゃんの探求心や好奇心を刺激される。だから以前のような高いプライドを気にしないまま、今はただ作曲家になりたくて専門分野であるせんせぇ達に尋ねてます」

だから、翔ちゃんも応援してあげてください。

そう告げれば翔ちゃんは納得とばかりに数回頷くと眩しいばかりの素敵な笑顔を向けてきてくれた。本当に早乙女学園に入学してから、いい人たちに恵まれていると実感してしまう。これからさっちゃんも環境的に苦労はしないだろう。安堵の息を短く吐けば、翔ちゃんが「そう言えば…」と呟いたために目を向ける。そして酷く後悔が襲った。

「前みたいに砂月は那月に執着しなくなったよな。なんだか少しだけ雰囲気も柔らかくなった気もするし…」

ドクリ、心臓が強く跳ねた。

さっちゃんは変わってしまった。
いや、性格はあまり変わってもいないし容姿も変わっていない。少し変わったと言えば先ほど翔ちゃんがいっていたように雰囲気が柔らかくなったことだ。だけど一番変わった部分は、僕に執着しなくなったこと。ずっと僕を守ることしかしなかった彼に僕が言ったんです。

「もう一人で歩いて行けるよ、だからさっちゃんの…自分の人生を歩んでください。これからはさっちゃんの人生はさっちゃんだけのもの。自分の好きなようにしてもいいんだ」

最初は酷く取り乱し縋りつくようなものだったけど、日が経つにつれてさっちゃんは僕の隣に、傍に来なくなった。会ったとしても前みたいに心配をされることも必要以上に絡まれなくなった。

これはとても喜ばしいこと。大袈裟かもしれないけど、例えるならイエス・キリストが十字架の刑をされた三日後に復活し、人々が希望を見出だした時のようだ。

だけど、心の奥底でそれを面白くないと呟く僕がいるのも事実。興味がなかった作曲を毎日楽譜に向かって書き上げる姿が、僕に触れたり愛を捧げてくれることもなくなったことが、夢に走りだしたその後ろ姿が、とても不愉快だ。

どうして僕を見てくれないのだろう。どうして他人ばかりを見るのだろう。この状況を作ってしまったのは他の誰でもない、四ノ宮那月という僕一人だというのに、やはり認めていないのだ。たった一人の人間が人生を謳歌しようとすることを。なんて醜く汚い人間なのだろうか。いくら聖水を浴びたって、いくら神の声に耳を傾けたって浄化されることもない。

そうして気づくのだ。ぽっかりと大きな空洞が空いてしまったことを。そしてその空洞を埋めてくれていたのが誰でもない、さっちゃんだったということを。

結局、依存していたのは僕で彼の全てを欲していたのもこの僕なんだ。さっちゃんに言ったって、もう二度とこの手を握ることも、隣に立つこともないだろう。さっちゃんはそれを酷く望んで今を生きているのだから。

「那月?どうしたんだよ、突然ボーッとし始めて。また星から電波が来たのか?」

からかってくる翔ちゃんの言葉に笑みひとつ。素敵な言葉が降り注いでくれたらよかったのに、お星さまは時に意地悪だ。

「…月に手を差し伸べることさえ、できなくなっちゃいました」

グシャリ、手の中にあった楽譜を潰すと翔ちゃんが止めようと腕を掴んできた。鬱陶しくて楽譜をビリビリと破るとフワリ、柔らかい風がそれらを飛ばしてくれる。

「ばか!なにしてんだ!!」

目の前で声を荒げる翔ちゃんを横目に空に舞い上がって行く楽譜に振り向くことさえしないまま、僕は長い長い廊下を再び歩き始めた。

「あんなもの、不必要だ。何処にでも飛んで行けばいい」

さっちゃんが僕に向けてくれていた感情のように消えてしまえ。