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「どうしたんですか?私が何かしました?そろそろご機嫌治してくださいよ。」

店の猫騒動の後、クロロさんは私の仕事が終わるまでずっと待っていてくれた。
そのおかげでお猫様と無事、家に帰ってくることができたのだ……が、彼はクロロさんと別れた後からいつも以上の不機嫌を貫き通している。

ご機嫌とりのために様々なことを試してみたがあえなく撃沈。
何がそんなに気に入らないのか。言葉の通じない私にはさっぱりである。

「ごはん、いらないんですか?」

寝転んで彼よりも低い位置から覗き込むように目を見つめる。しばらく黒曜石のような大きくて黒い瞳と見つめあった後、プイとそっぽを向かれた。うーん、今日のごはんは自信作だったんだけど……。

「気が向いたら、食べてくださいね。仕事が終わるまで待たせたお詫びに、デザートも用意してますから。」

ゆっくりお猫さまから離れ、テーブルの上に置いていた出来合いのお弁当をレンジで温める。その間に冷蔵庫で冷やしていたお酒を開け、一口飲んだ。冷たい液体が喉を潤し、胃がじんわりと暖かくなっていく。

調理台に背を預け、ふぅと一息つきながら天井を仰ぎ見た。
今更だが、彼はどこの子なのだろう。思い返せばお猫さまは謎に包まれている気がする。

出会い当初、その小さな身体には浅いが範囲大きめの切り傷が所々にあった。しかしその傷は1日も経てば殆ど塞がり、1週間経つ頃には何事もなかったかのようになくなっていた。虐待を受けた捨て猫かと思いきや、異様に艶のいい毛と何処か品のある風貌を見れば、かなり大切にされていた猫だということはなんとなく分かる。極め付けはごはんだ。野良猫なら余程のことがない限り何でも喜んで食べるだろう。しかしお猫さまは高級キャットフードを前にしても飛びつこうとはしなかった。寧ろこちらが凍えそうになるほど冷たい目で見られたことは今でも鮮明に覚えている。軽くトラウマだ。

「……お猫さま」

ごはんを前に動かない小さな背に語りかける。

「帰りたい、ですか?元の家へ。」
「……。」

返事はない。なんだろう。なんか、こう……寂しい。彼氏や親友と喧嘩して、無視されているようなときの虚しさがどっと押し寄せてくる感じ。
随分と長く彼氏もいないし、社会人になってから友人とも遊んでないからこんな感情忘れてたけどね。あれ、なんだか本格的に寂しくなってきたぞ。

そんなナーバスになりかけつつある心にとどめを刺すようにピーッと電子レンジの音が響く。いつも聞いているはずの音がなんだか虚しい。中には湯気を立てて、ほかほかと温まった弁当……弁当だけじゃなく私の心も温めてくれないかしら。

「アー」意味をなさない言葉を発しながらズルズルとお酒片手に膝を抱えて蹲る。やだ、もう。酔いが早い。情処不安定だ。

「……ナァ」
「……おねこさま?」

いつの間にこんなに近くまできていたのか。お猫さまは私の足に尻尾を巻きつけ、膝を抱える手に顔をすり寄せてくる。
こんな気持ちになっているときに他者(ただし猫)から優しく接されるのは荒んだ心によく効くもので、ぼろりと涙が溢れた。
傍らにはポカンと口を開いてこちらを凝視するお猫さまの珍しい顔ある。

「……ンナーゥ?(オレが冷たくしたから泣いてるの?)」
「っ、すみません。みっともないところを」

気まずそうに俯くお猫さまに申し訳ないと思いつつも、涙は止まらない。……あれ、涙ってどうやって止めるんだっけ。えーやだもう、困った。

「ゥニャア(これくらいで泣かないでよ。面倒くさい)」
「っ、うっ……く」

無理に止めようとすればするほど溢れてきて、どうしようもない。構ってくれるようになったのは嬉しいのに、今はちょっとそっとしておいてほしい。
お酒を床に置いて顔を膝に埋めようとすれば、ひょいとお猫さまが膝に乗っかってきて重みがかかる。驚いて上半身を仰け反らせれば、美形な黒猫の顔がずいっと迫ってきた。
え、顔噛まれる?鬱陶しいんだよてめぇ、みたいな感じでガブリと。痛みに備えてぎゅっと目を瞑る。しかし暫く待っても痛みはなく、かわりに顔には温かいザラザラしたものが当たった。

「……ぇ」

噛まれていない。引っ掻かれてもいない。……お猫さまが、涙で濡れた頬を舐めている。ここにきて突然のデレ。目を見開いていると宝石のような瞳と至近距離で目が合った。

「ニャーァ、ウニャ(暫くは出て行くつもりもないから、安心しなよ)」
「……慰めてくれてるんですか?」
「ンナァ(仕方なくね)」
「元の家に、帰らなくていいんですか?」
「ンニャ(今はまだ、おまえのそばにいてあげる)」

きゅーん。高鳴る心臓。涙はいつの間にか止まっていた。三角座りをしている膝の上。危なげなく器用に佇むお猫さまを堪らず抱きしめる。

「だいっすきです、お猫さま!」
「ニャー(当然。クロロなんかに目移りしたらその首掻っ切ってあげる)」

テンションは一気に最高潮へ。お猫さまを高く掲げて、うへへと緩む頬を隠さずにいると、お猫さまの表情もほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

(まさかこれくらいで喜ぶなんて、ほんと、なんていうか……チョロいね)